毎日のできごとの反省

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書評・新世代の国家群像・明治における欧化と国粋

2018-08-11 15:36:26 | 維新

書評・新世代の国家群像・明治における欧化と国粋

 ケネス・B・パイル著・松本三之介監訳・五十嵐暁郎訳

 俯瞰的に、維新後の明治の日本思想史をこれほどコンパクトにまとめたのには感心する。この手の日本の思想の著書は概ね個人史によるものだから、欧米人がこれほど日本の事を研究していることは恐れ入る。

 大雑把に言えば、維新から三〇年位は、儒教などによる国の伝統的教育による立場と、西欧の文化文明の摂取の必要性のふたつのニーズに対して、このふたつをいかにミックスするか、という観点から様々な立場が派生して互いに論争していた、ということである。一つの極論は伝統的立場にだけたち、欧化を排斥する考え方、その対極が西欧一辺倒である。意外であったのは、かの徳富蘇峰がかなり長い間は後者の典型であったと言うことである。現在では、蘇峰は国粋主義の権化のように言われているから、現代の日本人は思想が軽薄である。

 漱石などの漢籍による教育と西欧を受けた、明治育ちの文学者がこのふたつの極に対して苦悩した、ということについては、個々の文学者についての評論により書かれている。しかし本書の方が、明治思想家の流れを説明している中で、文学者が例示されるので、日本で言われる鴎外漱石などの文学者の「苦悩」なるものが明快かつ論理的に理解できる

 蘇峰を中心に書かれているにもかかわらず、明治も三十年を経て蘇峰が急速に国粋主義化したことについて、変化した内容の説明が極めて少ないばかりでなく、変化の理由や経緯についての説明がほとんどなされていないきらいがある。しかも維新三〇年を経て、日本全体が国粋主義化していった、という論調は単調かつ陳腐であるし、国粋主義化の理由の説明がほとんどなされていないように思われる。

 大正、昭和から敗戦まで、日本には議会制民主主義の根幹は崩れていなかったし、現在の中共等の残忍な独裁体制に比べれば、遥かに自由で民主的でもあり続けた。もちろん日本流ではあるが。それは欧米諸国の自由と民主主義がそれぞれの民族なり国家なりの伝統に基づくのと同じことである。そう考えるとパイル氏が、日本における伝統と欧化の相克は、現代の発展途上国のものと同じである、と断ずるのは見当違いに思われる。日本が未開文明から、突如欧化したという欧米人流の先入観であろう。

 日本の伝統の崩壊に関しては、「日本の古い価値観が、その情緒的な力を二十世紀まで保持し得たのは、ひとつには日本社会が持っている二重の性質のゆえである。産業の発達は都市部において伝統破壊的な態度を助長したにもかかわらず、日本の農業形態の並外れた継続性に助けられて、地方においては古い価値観が持続したのである。(P173)」と書いているがその通りである。

 しかし、戦後日本では急速に「日本の農業形態」は崩壊し、その受け皿となったのは小室直樹氏のいうように、会社社会であろう。だが会社社会は、農村コミュニティーの代替となっても、「日本の古い価値観」の継承には多くは寄与し得ていないように思われる。これは個人的感想で論をなしていないが、東京のような大都会の真ん中でも、古い価値観の受け皿たるコミュニティーは存在しているように思われる。

 以前、三社祭の日に浅草界隈を自転車で走っていた時である。裏町の角々に、老若男女がはっぴを着て車座になって雑談している光景があった。これは都会ですらコミュニティーが存在している証拠のように思われた。小生の近隣でもそうだが、このコミュニティーの中心となっている人たちの多くは自営業であろう。

 自営業であれば、地元に根をおろし生活をともにする、という意味ではかつての農業形態と同じであろう。我家の近所の町内会では、その中の裕福な自営業の経費持ちで、毎年豪華な旅行に行くそうである。これは農村社会の相互扶助と変わりはない。これなどはパイル氏の言う「古い価値観」の維持にどの程度役立っているか分からないにしても、日本の精神的継続性に寄与していることは間違いない。

 ちなみに小生は、古い農村コミュニティーにどっぷりつかりながら、たまたま憎悪を内包した同族コミュニティーに育った体験から、地域コミュニティーに本能的嫌悪を抱いているので溶け込めない。自慢しているのではない。僻んでいるのである。


合法な生麦事件

2017-07-24 16:21:09 | 維新

 生麦事件は、現在横浜となっている生麦村で起きた事件である。島津久光らの一行に、英国人の商人らが騎馬で大名行列に正対して、通過しようとして殺傷された事件である。結局、日本は賠償金を取られたが、果たして国際的に見て違法な事件だったのだろうか。

 アメリカ大統領が自動車に乗ってパレードをしていたとする。ケネディー大統領の暗殺時のパレードのシーンを思い出せばよい。大統領と警護の車の列に、正面から数台の自動車が正対して走行し、パレードの車の間をすり抜けて行ったとする。この時何が起こるか。警護の車や周辺の警察官が、これらの車の乗員を、警告もなしに全員射殺してしまうだろうことは、火を見るより明らかである。

 これを米国では、正当な警護と看做す。他の西欧諸国やロシアで類似な事件が、現在起きたとしても同じことである。生麦事件では、警護の侍たちは、英国商人たちに馬から降り、立ち去るよう、身振りで警告すらしたのである。それを無視した英国商人で、殺害されたのは、たった一人に過ぎない。

 当時の日本の警護というのは、現在の世界的常識と比較してすら、かくも微温的だったのである。日本では今でも生麦事件は、侍の横暴であった、と言うのが普通の意見であろう。だが、かく言うように、当時の一藩の幹部の列に突っ込む人たちを成敗するのは、警護の義務ですらある。

 御定法に照らすまでもなく、緊急措置として合法である。当時、他にも類似の事件が発生しているが、同様である。西欧の横暴がまかり通ったのは、当時の日欧の力関係に過ぎない。

 


書評・経済で読み解く明治維新・上念司

2017-03-04 15:18:07 | 維新

 この本は話題になった原田伊織氏の「明治維新という過ち」のシリーズに対する回答のように思われる。原田氏のシリーズに対する小生の疑問をかなり解いてくれているからである。副題は「江戸の発展と維新成功の謎を『経済の掟』で解明する」である。この副題は反面でかのシリーズの真逆になる。

 江戸時代は通説と従来の評価とは異なり、案外明るい良い時代であった、というのは定説になりつつあるように思われるが、それを経済学の立場からきちんと説明しているのが面白い。原田氏の著作では不明瞭だった、こうすれば江戸幕府が改革を達成して日本政府に脱皮して、列強に伍していく可能性があった、という点を説明している。

 江戸幕府が変革に失敗したのは、成長していった日本の身体(経済)に、幕府という衣服が合わなくなったので、脱ぎ捨てて新しい衣服(明治新政府)に着替えた(P101)というたとえは絶妙である。実質的に貨幣経済に移行しているのに、税は年貢米という金本位制ならぬ米本位制を維持し、徴税権もほとんどが各藩が持ち、幕府はわずかしか持たないために、政府としての事業を行おうとする時に、各藩に強制せざるを得ない、という歪が拡大していったのである。

 田沼意次のように、これらの改革を行おうとする幕閣は失脚させられる、という始末で、討幕と言う大変革なしには、江戸幕府の政治的欠陥を修正することはできなかったのである。この本は「経済で読み解く大東亜戦争」の続編であるが、繰り返すが原田氏の維新否定説に対する回答でもあるように思われる。

 それは「・・・公武合体では、結局揺り戻しのリスクは排除できない。長州は直観的にそれに気づき『気合(狂気)』で国を変えようとし、薩摩は持ち前の『リアリズム』によって途中でそれに気づき、一桑会から寝返ったと私は推測します。(P273)」と書いているからである。原田氏は維新政府を薩摩と長州の藩閥に過ぎないと批判し、特に長州のテロの狂気を問題にしているのである。

 

 


書評・大西郷という虚像・原田伊織

2016-12-11 16:09:27 | 維新

 本論に入る前に、本書が奇妙なのは前著「明治維新という過ち」では、西郷について、比較的遠慮しながら批判していたのに、忽然と西郷の全否定のような書物を出したことである。それはさておき内容に入ろう。

 まず結論から言うと、本書はその目的であろうと思われる、西郷伝説が間違いであり、狡猾で人望のない人物に過ぎない、ということを読者に納得させることに成功していないように思われる。西郷が鷹揚さの反面で、陰謀などをめぐらす二面性のある人物である、ということは西郷を称賛するほとんどの人もが指摘するところであり、今更言われるまでもない、というのがひとつの理由である。

 もうひとつは、「もともと粗暴である点を以て全く人望がなかった西郷が・・・(P103)」等の粗暴で人望がない、と一方的な指摘をしているのに、「『田原坂』とは、中央政府という大人社会に怒った若衆たちの宿の『稚児』たちの蜂起を『二才頭』として放っておくわけにいかなかった西郷の仕上げの舞台・・・(P302)」というように何回か「二才頭」であった経験から人の上に立つことができた、と具体的論証では人望があった、ということを証明している。このように西郷の批判に関しては、具体的証明のない決めつけに近いのに、具体的な指摘となると、西郷を持ち上げる、結果しか生んでいないように思われる。

 小生は西郷などのように、世に立派な人物として称賛される人たちが、他の人たちと異なる特異な性格を持った、神のごとく立派な人物である、とは考えていない。称賛される人たちにも欠点もあり、人としての悩みを抱えた普通の人間であって、ただ、結果として大きな事績の代表者として、その人物にスポットライトが当てられたのであろうと思う。

 太田道灌が江戸城を作った、というような言い方は、太田道灌が江戸城建築と言う大事業の象徴である、という意味である。太田道灌が設計から建設作業の全てを行ったわけではもちろんない。道灌という象徴的名前の下に、無数の人たちの功績や努力が隠れているのである。西郷も明治維新という大事業の象徴の一人であると小生は考える。

 西郷を有名にしているひとつの本に内村鑑三の「代表的日本人」がある。そのドイツ語訳版後記に面白い記述がある(ワイド版岩波文庫P181)。「何人もの藤樹が私どもの教師であり、・・・中略・・・何人もの西郷が私どもの政治家でありました。」というのである。内村は著書に書かれた人たちを特殊な人物ではなく、日本人の中に西郷などに比すべき人物は多数いる、と言っているのである。正に代表的日本人あるいは典型的日本人なのである。こう考えれば「大西郷」などは虚像である、などといきり立つ必要はあるまい、と思うのである。

 故意としか思われないエピソードの無視がある。西郷の記録として重要な資料に「南洲翁遺訓」がある。これは、敗戦にもかかわらず、西郷によって寛大に扱われた、庄内藩の人たちが書いたものである。このことを著者が知らぬはずはない。それはこのエピソードを書いたら、それは「大西郷」は虚像である、という説明と対比して、都合が悪いからとしか思われない。

 

 本書は「明治維新という過ち」の完結編であると著者自身が言っている。そのシリーズに共通して、繰り返し述べられている維新の過ちというのを大ざっぱに三つ挙げると

①明治維新を行った尊皇の志士とは狂暴なテロリストに過ぎず、新政府の構想などの展望を持ってはいなかった。

②幕府には有能な外交経験者と政策能力のある有能な人材がいて、明治政府を支えたのはこれらの人物である。これに反して薩長には、新政府を支える人材はいなかった。

③薩長が討幕したのは、尊皇攘夷などのためではなく、関ヶ原の戦いなどで敗れた藩の復仇に過ぎない。

というものであろう。統治する側の内部での政権交代なのだから、著者の言うように、明治維新とは革命ではなくクーデターである、というのはその通りである。この観点も含めて、上記三点を考える。

①について:クーデターにせよ、革命にせよ、暴力によって実行される。平和的革命などと言うものは比喩に過ぎない。だから、現政権側からいえば、暴力は違法なのだから、単にテロとしか言えない行為も含まれている。それを全くなしにクーデターができるはずがない。問題は他のクーデターや革命と比べ、暴力や非道な行為の程度が不必要に多いか否か、である。

 クーデターを行う側の人物にも色々いるから、全く非道な行為はあってはならない、とうのは現実的には無理な注文である。日本は治安がよい、といっても犯罪が全くない、というのはあり得ないのであって、他の国と比較しての相対的なものである。この点著者は、薩長の非道なテロ行為を挙げるが、世界史的にどうか、という視点が全くない。これでは論証にならない。ロシア革命後のボリシェビキによるクーデターの悲惨非道と比べればよい。権力闘争としての文化大革命と比較するがよい。明治維新が世界史的に見て、犠牲が少ない大変革であった、というのは事実である。

 また新政府の構想の展望については「五箇条の御誓文」をあげればよいであろう。幕府が行おうとしていた、公武合体その他の構想も、そのような政治体制で、当時の西欧諸国と伍していくことができたであろうか、という疑問は消えない。そして著者もその論証をできているようには思えない。

②について:他の国の革命やクーデターと異なり、榎本武揚のように、幕府側の有能な人材が明治政府では活用されていた。これはむしろ誇るべきことであろうと思う。ルーツは同じでも、日本の将棋だけが、相手から取った駒を味方にすることができる。これは日本人の性格の長所であると言われているのである。

 著者が指摘するように、伊藤博文は女癖が悪かった。だが時代背景を考えると異常とは言えまい。また、伊藤の帝国憲法作成については、素晴らしい功績である。これだけをもってしても、薩長には人材がいなかったとは言えまい

③について:尊皇攘夷がいつのまにか、開国になっているということの不可解さについては、多くの識者が分析を試みて納得できる答えを出しているので省略する。なるほど中西輝政氏も書いているが、薩長は関ヶ原の敗者である。それは討幕のエネルギーのひとつが敗者による復仇だった、ということであるが、それが全てではない。それが全てであったなら、明治政府はあのような体制とはせずに、薩長の支配が永続できる体制としたであろう。

 現に藩閥政府打倒の運動があり、それは徐々成果をあげて政府や陸海軍における薩長閥のカラーは払拭されている。大東亜戦争当時の代表的人物で言えば、東條首相も米内海軍大臣も山本五十六連合艦隊司令長官も薩長閥ではない

 著者はひとつ奇妙なことを言っている。「・・・学校教育で受けた印象として、徳川幕藩体制とは、幕府が強力な軍事力=力で統御していた中央集権政権体制であったように受け取られているようだが、それは明白な誤りである。中央集権体制とは、幕府を倒した薩長新政権が目指した体制である。」(P247)

 小生は子供の頃どういう歴史教育を受けたか記憶はないが、幕藩体制は藩の独立性が比較的強い封建体制で、明治政府はこれに対して中央集権政府を目指した、というのは小生を含め通説である、と思っている。ちなみに、学術的に正しいか別に置くとして、通説の代表格である、Wikipediaで中央集権を調べると、日本については明治政府を代表格としている。著者の認識は不可解としかいいようがない。

 

 著者は出自に依拠してものごとを判断する傾向が強い。例えば「・・・薩摩の田舎郷士であった西郷という男の・・・」「もし、西郷という男が上級の士分の者であったなら、こういう手を打っただろうか。」という繰り返される出自を根拠に人物の良し悪しを評価する記述がある。このシリーズに共通するが、西郷のみならず、薩長の維新に参加した人物に対して、品性の悪さを出自の悪さに起因しているとしていることが多い。小生は建前で出自の悪さと品性の悪さの相関を否定しているのではない。

出自が悪いために、品性の悪い人各となった人物もいる。逆に出自が悪いために、高潔な人格となった人物もいる。ケースバイケースである。ある人が出自が悪いために品性が悪いと言いたければ、それを証明しなければならないが、本書にはその論証は薄弱のように思われる。出自は変えられないのだから、著者のような単純な論理なら、出自の悪い者に救いはないのである。

 これに類似した記述がある。「・・・私のような浅学の徒が『子分』と表現してもさほど重みもないが、博士号を持つ学究の徒である先の毛利氏でさえ『子分』という表現を用いている。(P263)」という。「博士号を持つ学究の徒」であれば言説の信頼性は高まるものなのだろうか。

著者のように「博士号を持つ学究の徒」ではなくても、きちんと知識を重ねて論証をしていれば、小生は納得するし、西尾幹二氏のように専門がドイツ文学であっても、その歴史など専門外の論考には小生は信を置くことができる。逆に、専門家としての博士号を持つ大学教授に専門の範囲の論考で、全く信頼のおけない人物は山といる。繰り返すが、著者には出自と肩書きで人を評価していると言われても仕方のない記述が目立つ。

 

 「・・・西欧近代というものを金で買いまくった(P252)」というが、例えば技術にしても金で買いまくれるものではない。これは技術の深みを知らない言説である。清朝末に軍艦などを買っただけで使いこなせなかった清国艦隊と、日本海軍が国産化の努力と運用をしたのと比較すればよい。技術は金で買いまくれるものではない。受け入れる側の組織や教育などの努力と素地が必要なのである。

 その素地は多くの識者が指摘するように、江戸時代に準備されていたものである。著者が幕藩体制の人材の豊富さを強調するように、幕藩体制と明治政府は全く異なる外見をしていても、日本と言う国は江戸時代やそれ以前から連続して断絶がないのである。

 「戦後、オランダがヨーロッパの中でも有力な反日国家となった(p138)」原因として、大東亜戦争時の捕虜の扱いばかりではなく、文久三年のオランダ船砲撃が根にある、という。永年の友好国であったにもかかわらず、突如砲撃されて四人が死亡したからだ、というのだ。

 だが戦後、というのは大東亜戦争後のことであろう。日本兵捕虜の虐待については、オランダ人が連合国で最も残虐非道だったことが書かれていない。オランダ兵の日本人捕虜虐待は、虐待などと言う程度ではない恐ろしいものであった。このような反日は、幕末の事件より大東亜戦争の緒戦で敗北し、欧米人が人間扱いしていなかったかつての植民地の民の前で恥をかかされた上に植民地大国から三流国に転落した、という説の方が妥当であろう。小生はこの説の方がよほど腑に落ちる。

 白人が有色人種に惨めに負ける、という驚天動地のできごとがあったのである。第二次大戦初頭に政府は亡命したうえに、蘭印の植民地まで奪われたのである。

著者は明治維新の日本の行動を、誤った海外膨張としている。それ以上の言及がないので判然としないが、日清日露戦争、大東亜戦争をそのような観点だけから見ているのであろうか。だとすれば、結局著者も維新以後の戦争を侵略戦争と考え、維新以後の戦争は対外膨張と言う国内的要請から発生した、と考えているのであろうか。

 

 「明治維新という変革が創り出したものは国民であったのか、そうではなく皇民であったのかという問題は明治維新解釈の前に現れた二つの道である。今日の市民社会を構成する市民に通じる道を歩むと・・・(P11)」としている。明治維新は大日本帝国と言う国民国家を作り出し、その国民が同時に皇民であっても矛盾はしない。日本は天皇を基底に持つ国家である。吉田茂は臣茂と称した。自分は皇民である、という意味である。

 気になるのは市民と言う言葉である。これは左翼の使う「国家」を消去した、地球市民と言う言葉につながる。国民国家であればいいのであって、ここに市民と言う抽象的な言葉が登場するのは不可解である。A町に住めばA町民であり、B市に住めばB市民であって、固有名詞をなくした抽象的な「市民」と言うのは考えにくいのである。それに対して国民国家における国民、という抽象概念は存在するから、市民と国民と言う言葉を対等に並べるのは変である。

 氏は左翼どころか昔は右翼と呼ばれた、と何度か言う。しかしこういう言説は左翼の影響から逃れていないように思われる。

 

 イギリスに利用されて明治政府は成立し、有能なパーストマンが急死しなければ、日本は英国に支配される属国となっていた可能性が大である、という。(P153)これには中西輝政氏の説を以て答える(国民の文明史P442)。英国の国際戦略研究所を務めた大学教授は、アジアで日本とタイと中国だけは完全には植民地化できなかった、とソウルで講演したという。

タイは外交手腕によって独立を保ちえた。中国は広大すぎて部分的な支配にしかならなかった。日本はタフだったから、というのである。「日本列島のこの南の島(九州)のその先端を攻めるだけでも、こんなに手こずったのだから、この国を占領するのはまったく容易なことではなく、ほとんど不可能に近い、とそのとき多くのイギリス人は感じたという。そこでイギリスの対日政策として植民地化することを諦めて、『文明開化』させ、イギリスと親密な関係を持つ国として近代化に協力し利用する、という方向に持ってゆく、と決めたといわれる」のである。こちちらの方が事実に近いのではあるまいか。

パーストマンは英国にとって有能な政治家であったことは認める。ただ著者はパーストマンの存否と日本の植民地化の可能性という重大な指摘について、何の論証もしていない。

 

 最後にこのシリーズの全般的な印象を言う。以上に繰り返し述べたように、肝心の論点における論証が少ない。意外なことだが、日本人らしいことを強調しているにもかかわらず、氏は郷土に対する強いシンパシーを持つ反面、「日本」に対するシンパシーが何かしら薄いように小生には感じられる。これらの矛盾がある以上、氏の説が発展性を持つことあり得ないように思われる。

 

 


書評・官賊と幕臣たち~列強の侵略を防いだ徳川テクノクラート・原田伊織

2016-04-14 16:25:47 | 維新

書評・官賊と幕臣たち~列強の侵略を防いだ徳川テクノクラート・原田伊織

 意外な着眼点で反響が大きかった「明治維新という過ち」の続編であろう。氏の人物評価の癖などについて気になる点があるのと、マクロに見た結論に疑問があるので書いてみるが、本書の本質には触れていないのはご容赦願いたい。。

 筆者は人物の出自と人物評価を関係づける傾向が強いように思われる。出自と人物評価の因果関係を説明しないから、納得しがたいのである。例えば「土佐の坂本龍馬という、郷士ともいえない浪士がどういう人物であったかについては、幕末史を語る上でさほど意味のあることとは考えられない・・・(P250)」という。郷士とも言えない浪士、と身分が低いことを明らかに侮蔑的に述べるのはいただけない。

 井伊直弼暗殺を批判するのは、筆者が井伊が彦根育ちだからだけだ、といわれたそうである(P201)。これに対して、彦根の歴史的経緯を詳しく述べ、その結果として筆者の少年時代は、もともと浅井領内の者であるという意識があり、井伊は「憎っくき敵であった」のであって、彦根育ちだから、というのは屁理屈だという。確かにその通りだが、井伊が彦根を治めたことを口実に批判するのと、氏が浅井領内の者意識があったことだけを以て反論するのは、屁理屈を言った者と同列の屁理屈で反論しているのに過ぎない。

 出自によって思想が影響されている、ということはあるのに違いない。しかし、それを指摘するには、因果関係を説明しなければならない。説明できなければ、仮説に留めておくべきであろう。

 「日米戦争を起こしたのは誰か」と言う本には、「アメリカ人を論ずる場合、そのエスパニック・バックグラウンドを正確に見ておく事が必要である。」と述べ米軍のウェデマイヤー将軍が父はドイツ系、母はアイルランド系であるとして、将軍の主張が単純に血脈か生じたのではなく、「・・・このような背景から生まれ育っていなかったならば、イギリスやドイツを冷静かつ客観的に評価することはできなかったであろう。」と述べ更に出自と将軍の主張との因果関係を検証している。本書にはこのような観点が欠けている、と小生は言うのである。

 氏は薩長のテロの凄まじさをことあるごとに強調し、単なるテロリスト集団だと断言する。しかし、それは日本史の上から見た比較であって、欧米の変革期に行われたテロや粛清、といったものに比べればものの数ではない。米英仏はもちろん、スターリンや毛沢東が権力奪取や権力維持のために行った、テロや粛清は質、量ともにもの凄いものである。氏は、現代日本人の倫理観で当時を見、諸外国との相対的比較というものも忘れている。現にロシアや中国では、政権によるテロが、今も行われている。

 目明しの猿の文吉を殺した残忍な手口を描写しているが、日本では例外である。現に西欧の書物には、処刑の手段として同じ手口が図版で描かれている。つまり例外ではなく、標準的処刑の手段のひとつだったのである。同じことをしたにしても、この差異は大きい

 大東亜戦争の評価について、「・・・薩長政権は、たかだか数十年を経て国家を滅ぼすという大罪を犯してしまった。(P184)」とか「・・・大東亜戦争という無謀な戦争であった。(P8)」というから大東亜戦争の全否定である。父祖の苦闘を無視して、断罪する姿勢には大いに違和感がある。それに、明治以降藩閥打倒が呼号され、薩長政権色は消えていった。昭和初期の大物政治家にどの程度薩長閥があったというのか。

維新政府は薩長閥であるにしても、その後大きく変質していき、裏で薩長が糸を引いていた、という痕跡もないのである。大東亜戦争の頃の人材を見よ。東條英機、米内光政、山本五十六といった著名人は、全て薩長出身ではない。

 垂加神道を持ち出して「・・・後のテロリズムや対外膨張主義が示した通り・・・(P195)」と言って、日本は明治以降、対外膨張路線を走って、結局は大東亜戦争で破綻した、というのである。日本が清国、ロシア等による侵略の危機に対して戦ったとは考えない。これは姿を変えた東京裁判史観である。

 また、オランダが昭和になってヨーロッパの中でも有力な反日国家になったのは、大東亜戦争時の捕虜の扱いばかりが原因ではなく、文久三年にオランダ軍艦を砲撃して、4名を殺したこともきっかけになっている、というのだ(P229)。だがこの時同じく砲撃されたアメリカやフランスは報復攻撃を行い、オランダが参加しなかったのは永年の友好国だったからではないか、と言うのである。

 これは、全くの間違いではないにしても、長州のテロ行為を際立たせる手法であるように思われる。なぜなら、オランダが戦後日本の捕虜を最も過酷に扱ったのは有名で、その原因は蘭印(インドネシア)に侵攻する日本軍に簡単に敗れ、インドネシア人の前で恥じをかかされたことが大きい、という面が忘れられている。

 またオランダは旧植民地の再植民地化に欧米諸国では最も熱心で、長い独立戦争で80万人のインドネシア人を殺した上に、独立の代償に賠償金まで取った。独立に大きく寄与したのが、日本の支援で成立したPETA(郷土防衛義勇軍)や残留日本兵、日本軍の兵器であった。反日の最大の原因はこれらの敗戦やインドネシア独立への二本の貢献であろうと思う。また、オランダ軍の捕虜の扱いは日本軍の誇張されたそれより、遥かにひどいものであったことには言及しない。これらのことは、やはり氏が東京裁判史観に囚われている面があるとしか思われない。

 以上閲したように、本人は全くそんな意識はないのだろうが、マクロに見るといわゆる東京史観、すなわちGHQが日本を断罪して、あらゆる手段で日本人の歴史観を洗脳した目標に合致した思想を、結果的にであるが筆者が持っていると言う結論になる。それどころか、GHQは満洲事変の以降の日本の対外政策を断罪しているのに対して、氏は維新以来日本は一貫して対外膨張を企図し、そのあげく大東亜戦争の敗戦になったと言う、より徹底している考え方である。

 司馬遼太郎が、日露戦争までの日本を称揚しているのは、せめて日本の歴史の全否定から免れ、日本人に勇気を与えているのは間違いない。なるほど昭和史を罵ってはいるものの、それを具体的に書いた小説は残してはいない。司馬氏が称揚した維新以後の部分は、読む者に、司馬氏が罵った時期の日本を肯定する結論に至らせる余地は大いにある。

 なるほど坂本龍馬は実像より大きく評価され過ぎているのであろう。そしてグラバーなど英国に使われたのも事実であろう。しかし、幕府がフランスの傀儡にならなかったごとく、維新政府は英国の傀儡ともならなかった。薄氷を踏むが如くにして、政治の変革は成功した。

 維新政府が英国の力で作られ、英国は利用しようとしていた、というならば、一旦は日英同盟を結びながら、日本が反英に急旋回したことはどう説明するのだろうか。氏によれば幕末から敗戦まで、薩長政権は一貫した対外政策を持っていたごとく言うから、こう批判するのである。

 維新政府は徳川幕府のテクノクラートを多く採用しているのは、薩長政府に人材がいなかったため、使わざるを得なかった、と言う。しかし、戦争が終わって敵方の人材を活用するのは、一種の日本の伝統であり知恵である。それは、将棋の駒が相手に寝返るという世界的に例外的なルールを持っていることに、よく喩えられるではないか。

大きく見れば日本は総力を挙げて闘ったのであり、人材の有効活用は良いことではないか。現に徳川幕府のテクノクラートを活用したのは薩長政権であり、維新後30数年にして、日露戦争に勝利する力をつけている。

 また、氏は英国の対日侵略意図に言及するが、倉山満氏によれば、英本国にとって清朝は征服の対象だが、日本などは視界にも入らない存在だった(嘘だらけの日英近現代史P167)のである。パークスやグラバーなどの出先が勝手にやったのであって、本国の意図ではない。薩長に武器を輸出したのも商売に過ぎない。もちろん隙あらば英仏の餌食になった危険もあるが、それは英仏の企図したことではなく、チャンスがあれば、ということである。

欧米の侵略は相手が対応を間違えたき、機会があれば実行した、という計画的ではない機会便乗の面も多い。その意味で日本はうまく立ちまわったのである。不完全であるにしても、ともかくタイも、そのバランスの上で一応の独立を継続した。日本はそれ以上に経済力軍事力を充実させ、単に欧米に伍してうまくやる以上に、欧米植民地の解放と言う世界史上の奇跡を起こした。それが大日本帝国の滅亡と言う途方もない犠牲を払ったにしても、である。

戦争は勝たねばならない。しかし、大東亜戦争に突入した日本には、戦争回避という選択肢はなかった。大東亜戦争の戦略の失敗を反省する必要はあるにしても、戦争したこと自体を現代日本人に批判する資格はないと思うのである。

小生は原田氏の著書の欠点を指摘しただけで、全否定する意図は毛頭ない。それどころか、氏により指摘された多くの新しい視点は、維新史の見直しに大いに役に立つとさえ思っている。


明治の元勲はどうやって誇りを維持していた

2016-01-21 16:04:04 | 維新

 伊藤博文などの明治の元勲と言われる人たちの多くは下級武士の出身である。ふと下級武士上がりの明治の元勲は、どうやって誇りを維持していたのか、という疑問を抱いた。そう思っていたら、たまたま読んでいた会田雄次氏の「勝者の条件」(中公文庫)にひとつの答えがあった。

 「優越感こそ成功者の倫理」というのである。人間は幼児の時から、自分で変えられない出自などの環境に優越感がないと成功者にはなれない、というのである(P212)。「むかしから成功した人間-これは立身出世という狭い意味でなく、革命家でも宗教家でも何でもよい、とにかく人々の真の指導者になった人という意味だが-の出身は、伝説的に下層とはいわれていても、そのほとんどが、実はそうでなかったことが明らかにされる傾向にある。」

 ヨーロッパやアメリカは日本より遥かに階層社会である、と言われているが、最下層の人間でも成功者は、その階層における指導的地位にあったというのである。要するに何らかの優越感が必要で、劣等感だけの人間は成功できない、というのである。その例は豊臣秀吉で、出身は最下層の百姓であっても、名主百姓の出身で、百姓仲間でなら村の支配層であった、ということである。

 そのプライドを持っていたことが秀吉の幸運である。そして秀吉が真に天才的なのは、与えられた階層のトップに安住せずに、さらに上の武士の世界に飛び込む挑戦をしたことである。そう考えると、明治の元勲は下級武士と言われても、百姓より上の武士である、という優越感が彼等を支えていた、という結論になる。単に劣等感だけでは、成功者になれない、というのは本当であろう。成功者になると言わずとも、そもそも人間がまともに生きるには、劣等感だけではだめだ、というのも本当であろう、と思うのである。


書評・明治維新という過ち・原田伊織

2015-10-21 21:38:51 | 維新

 タイトルが刺激的で、図書館で何か月も待って借りた。ただ、興味があったので、結局読後に書店で買ったのだった。本を買う場合には、引用するため辞書的に使うため手持ちにしておきたい場合が多いが、本書はチェックして確かめたいところが多かったからである。意見は異なるが、ともかく面白い本だった。

 確かに巻末に参考文献等があるが、結論が断定的で、どういう検討を加えたかが不分明で、正しいかどうか俄かには分からない。その点西尾幹二氏のGHQ焚書図書開封シリーズは、焚書されたものを紹介するのが目的なので当然であろうが、論拠が明確である。そして幸い、シリーズの11で「維新の源流としての水戸学」、というのが刊行され、色々な文献から水戸学について述べている。結論から言うと本書の対極にある。

 ところで吉田松陰がロシア軍艦に乗り込もうとしたのは、プチャーチン暗殺説があり、アメリカ軍艦に乗り込んだ件もペリー暗殺説が根強い(P120)と述べるのだが、論拠が不明で、真偽を閲した様子がなく、言いっぱなしである。これが、吉田松陰がテロ思想が強かったと言うひとつの論拠になっているから、軽々に扱うのはおかしい。読者への印象操作と言われても仕方ない。ただ、ロシア軍艦乗り込み失敗と、米艦密航失敗を幕府に自首した経緯を推測しているだけなのである。

 水戸学批判は強烈なのだが、水戸学の歴史改竄の例として、神功皇后を実在の皇妃として扱ったこと、壬申の乱で敗れて死んだ大友皇子を天皇として扱って「弘文天皇」という諡号を作ったことを例に挙げている(P186)。しかし神功皇后が実在ではない、という説は、朝鮮出兵で活躍したために、戦後の歴史学会が韓国などに遠慮して、実在ではないと変更したものである。

 それなのに実在ではないと言う証明は一言もしていない。光圀が実子を兄弟同士で交換したことが、史記列伝の故事を真似したことが、支那かぶれであり、かぶれ体質が諡号を勝手に作ったことに繋がるかのような印象操作をしていて、大友皇子が即位していない、という証明もない。西尾氏の焚書シリーズ11にはこのあたりの経緯がきちんと書かれている(P90)のに比べお粗末である。同書によれば諡号を賜ったのは明治天皇だそうである。

 同書によれば、大日本史の三大特徴は、先の2件と、南朝正統説だそうである。もし、水戸学が明治維新のため薩長に利用されたとすれば、明治天皇も含め、北朝の系統であるから、矛盾している、と言わざるを得ない。ちなみに大日本史を献上された「北朝」の天皇はお褒めの言葉を賜ったそうである。

 水戸の浪士による井伊直弼暗殺を狂気のテロだと断言し、司馬遼太郎は一切のテロには反対するが、桜田門外の変だけは歴史を進展させた珍しい例外、とするのを「驚くべき稚拙な詭弁(P186)」とする。薩長による暗殺事件も同様に狂気のテロリスト、として断固として非難する。それもこれも全て吉田松陰のテロ教育や水戸学の影響だとする。

 これはテロの定義と維新の意義次第であろう。著者によれば維新政府はだめで、幕府には有能な官僚がいたから、幕府改革で立派な国が作れたはずだと主張する。つまり維新自体を否定することが、テロと断定する根拠になっているように思われる。だが、現代国際法では、ゲリラによる戦争を認めている。もちろんゲリラが単なる民間人を殺害すればテロである。

 井伊直弼は政治家であると同時に武士、すなわち軍人である。しかも警護の武士を排除して暗殺したのである。これはゲリラによる戦闘行為であり、単なるテロではないと言えまいか。現代の国際法のゲリラが戦闘を認められる条件のひとつは、公然と武器を携行していることである。井伊大老を殺害した武士たちは公然と切り込んだのである。また明治維新を革命と考えればよいのである。著者のいうごとく、維新政府はだめで、幕政改革が正解であったと仮定しても、薩長が幕藩体制はもうだめで、討幕しかないと判断して行動したのなら革命である。革命は成功すれば正統となるのである。

 単なるクーデター説も、西尾氏は下級武士が上級武士の体制を覆したから革命と言える、というがその通りである。維新の志士と呼ばれる者たちの多くは、元々武士ではなかったり、辛うじて武士の末端にいたのである。その点、著者は下級武士や成り上がり武士の、残忍な行動を非難し、そのようなことをするのは、正統な武士ではないからと断ずる。

 残忍な行動は絶対に肯定すべきではないが、正統な武士なら品性のある行動をするとは言えないのである。現に武士の頂点にいるはずの、水戸光圀の女癖の悪さや殺人癖を、著者は口を極めて非難しているではないか。

著者自身が昭和30年代の子供のころ、母から切腹の作法を教わって、恐怖に慄いた、という体験(P240)を記している。武士の躾は、常に死を前提としたところから始まる、というのだが、前述のように著者は武士の身分の高低を、人間の品性の上下に関連づけている。P264には、会津における。政府軍の酸鼻極まる行為を述べている。それを「奇兵隊や人足たちのならず者集団」も行ったという。奇兵隊にも武士上がりでは無い者がいるというのだ。他の著書でも切腹の作法の話が出てくるが、自分は下賤な者ではないと言いたいのだろうとしかとれない。小生の家にも昔の名残の大刀があった。しかし、祖父が鉈代わりに使うため、ごく短く折られて研いであったという無残な始末であった。今は農家でもかつては武士であったという気概はとうに失われていたのである。

 そしてはっきりと「明治維新とは、下層階級の者が成し遂げた革命であると、美しく語られてきた。表面は確かにその通りであるが、下級の士分の者であったからこそ、下劣な手段に抵抗を感じなかったといえるのではないか。平成日本人は、この種のリアリズムを極端に蔑視するが、これは否定し難い『本性』の問題である。(P60)」と断ずる。

 下層階級の本性は下劣な手段を平気でする、とまで言っているのだ。ところが、これに続けて「動乱とは概してそういうものであろう」と述べているのは、かえって奇異に感じる。下賤のものの本性はともかく、動乱は綺麗ごとばかりではないのは当然で、綺麗ごと以外は絶対にするな、というなら動乱はあり得ない。いかな結果が正しい変革であっても、醜いものは潜んでいる。政治は綺麗事だけではないのは当然である。著者は会津の人間は完全無欠であるかのごとく言うが、そうではあるまい。確率は低くても会津武士にもろくでなしはいたのである。

 西郷隆盛は赤報隊を結成した。その赤報隊は江戸で蛮行を行った。ところが西郷に関しては、福澤諭吉は「・・・武力による抵抗は自分の主義とは違うとしながらも、西郷の『抵抗の精神』を評価している。・・・西郷の『抵抗』については、一度御一新と言う形で成功したものであり、その際は最大の功労者としてもち上げながら、新政府に反旗を翻すや一転『賊』として非難するとは、何を根拠にしているのかと怒る。・・・西郷という"天下の人物"を生かす対処の仕方があっただろうが、と嘆く。」

 赤報隊の件のように、西郷も権謀術策を用いる人物であったことはよく知られている。赤報隊の蛮行を口を極めて非難しながら、西郷を称揚しているのは矛盾も甚だしい。久坂玄瑞や高杉晋作などは、「・・・松陰の「遺志」を継いだ”跳ね上がり”(P123)」と断ずるのと大きな違いである。薩長同盟して維新をしたのに、薩摩、特に西郷については格段の配慮をしているとしか思えない。

 確かに、最初の方のP60には西郷が「上級士分の者であったなら、こういう手を打っただろうか。」とか「西郷隆盛という人物は、本来正義感の強い男であるとみられている。但し、それは一定以上の安定がもたらされた場合に発揮される、ごく普通の良心程度のものであったということになる。」とけっこうこき下ろしている。ところが、その後で福澤諭吉を引用して評価を変えているように思われるのである。いずれにしても著者には、下層階級は品性が卑しいと言う持論がある、としか思えない。

 維新以後の日本を侵略国呼ばわりしているのも理解不能である。何故侵略国呼ばわりするのか、説明がないので何とも言いようがない。この本の範囲内では、侵略国呼ばわりしているのは、維新が「過ち」であると言いたいがために使われているのである。「私たちは、明治から昭和にかけての軍国主義の侵略史(P125)」と断言している。

その淵源を松陰が「北海道を開拓し、カムチャッカからオホーツク一帯を占拠し、琉球を日本領とし、朝鮮を属国とし、満州、台湾、フィリピンを領有すべき」と主張していたことに求めている。「松陰が主張した通り・・・軍事進出して国家を滅ぼした(P124)」というのである。

この北海道以下の進出説は著者が書くのとは異なり「余り語られていない」ものではなく、後述のように松陰侵略主義説は余り語られていないものではない。ともかく、松陰の主張によって維新以降の政治軍事外交が決定された訳ではない、というのは事実を閲すれば分かる。どう考えても日本は主体的に動いたのではなく、世界史の中の駒として動いたのである。

この点については、桐原健真氏が「吉田松陰」で論じている。氏は原田氏が引用した部分について、松陰の侵略主義と一般には非難されることに反論している。「・・・カムチャツカからルソンにいたるこれらアジア地域の多くが、当時、主権国家の境界がいまだ明確に確定されていない、いわゆる辺境の地あったという点である。」(同書P94)

無主の地とはいえ、先住民がいて、その地に「進取の勢を示す」ことは侵略である、と留保するのだが、紹介した部分は同氏が敷衍しているように重要な指摘であって、日本が近代国家の仲間に入らざるを得ないとすれば、周辺の国境を画定していかなければならないのである。何も欧米諸国がしたように、経済的利益を目的に地球の反対側まで侵略に行ったのではない

「・・・慶喜が想定したようなイギリス型公議体制を創り上げ、・・・これらの優秀な官僚群がそれぞれの分を果していけば・・・長州・薩摩の創った軍国主義国家ではなく、スイスや北欧諸国に類似した独自の立憲国家に変貌した可能性は十分に(P180)」あるというのだ。倉山満氏らの言う通り、日本は軍国主義国家ですらなかった。軍部独裁、というがドイツと異なり憲法は最後まで機能していた。

なるほど幕府の根本的改革による国造りの可能性はあったのかも知れない。しかし、その理想がスイスや北欧である、というのはいただけない。著者も国際関係とは関係なく、日本の意思次第で、日本の政治外交がどうにでもなつていった、という考えを無意識に持っていると思われる。スイスや北欧は共通点のある、ヨーロッパ諸国の中に位置している。そのことを無視して、日本がスイスや北欧のような国を目指すのは無理なのである。

日本の今日があるのは、悪戦苦闘の結果、欧米の植民地がほとんど解放された、という結果による。日本だけがアジアの諸地域を無視して、理想の国を創ろうとしても、そうは欧米やロシアはさせてくれない、という地政学的条件がある。維新から大東亜戦争の敗戦と、その後のアジアの独立運動への参加など、日本人の苦衷と努力と成果にあまりにも、同情がなさすぎる、と言わざるを得ない。同情とはお可哀そうにということではない。厳しい境遇に共感する、ということである。長谷川三千子氏が林房雄の「大東亜戦争肯定論」を後世の日本人に勇気を与える、というようなことを言ったのとは、大違いである。

そもそも、大日本史を中心とした水戸学がテロを正当化したものであり「『大日本史』が如何にナンセンスであるか、如何にテロリズムを助長したものであった(P147)」という断定の根拠が分からないのである。根拠と言えば大日本史の発案者の水戸光圀が女狂いであり、人殺しを趣味としていたとか、水戸藩の人間がテロを行ったとか、水戸藩の財政が苦しく藩政は苛斂誅求であった言うことが、延々と書かれているだけであろう。水戸学の内容について検討した形跡がなく、山内氏や中村氏、その他の学者や識者が、水戸学を批判している結論だけ引用しているのである。

本書では藩主斉昭について、横井小楠や竹越三叉が「道理を見極めない」「無責任な扇動家」その他色々な言葉で口を極めて非難している(P159)という。ところが、西尾氏の前掲書によれば、「小楠の如きは、『当時諸藩中にて虎之助(藤田東湖)程の男はなかるべし』と感嘆している。」と絶賛に近いことを言っている(P207)という。

東湖はある時期水戸学の中心人物で、斉昭はその上司であり、一時は讒言により斉昭から疎まれたが、最終的には信頼されているから、斉昭と東湖の評価がこれほど違うのはおかしいのである。なお、西尾氏は水戸学を手放しで称揚しているわけではなく、テロの問題も、水戸学の狭量で貧しい面があることも指摘している。評価が単純ではなく、重層的なのである。

前述のように、慶喜が想定したようなイギリス型公議体制を称揚していながら、P145などで「武家の棟梁としての低劣さ」と言って慶喜批判をしているのがよく分からない。確かに政治家と武家の棟梁としての資質と言うのは、イコールではないが、「低劣」とまで断言される部分が多いと言う人間の政治的資質を理想化するのは、奇異である。面白い本ではあり、得るところも多いが、ともかくも根拠の薄い、一方的断定の多すぎるのも事実だと思う。

当たり前だが、人間というものは善悪で一刀両断できない。時代背景というものもあろう。後年人格者と称揚された乃木希典も若い頃は飲んだくれて、女遊びに明け暮れるろくでなしの毎日であった。鬼平こと長谷川平蔵も、若い頃は似たようなもので、多分泥棒やそれ以上の犯罪に手を染めていた。

この本を読まれた方は、紹介した西尾幹二氏のGHQ焚書図書開封11と桐原健真氏の「吉田松陰」をあわせて読んで、自ら考えることをお勧めする。