毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

父たちの大東亜戦争・戦地シンガポール・スマトラの意外な日々

2022-10-30 13:28:00 | 大東亜戦争

父たちの大東亜戦争・戦地シンガポール・スマトラの意外な日々・堤寛・幻冬舎ルネッサンス

  この本には戦闘の話は出てこない。しかし、副題の通り意外なことが多く書かれている。著者の父の戦地での話の聞き語りなのだが、戦後趣味の山登りやスキーには戦友と行き、家族とはほとんど一緒にいかない位、家族より戦友を大切にしたというのは理解できる。小生の父もそんなところがあったからだ。

 行軍の後宿営地で日本兵が酔って暴れて現地人に通報されて憲兵に捕まった。上官が謝っても許されず、将校が謝ってようやく許された。その後中隊長が訓示したと言うが、訓示は兵を非難するのではなく、中隊長の不徳であると結んだ(P79)。観測班で上官のいじめで自殺者が出ると、憲兵が厳しく追及した(P203)。憲兵の厳しさと軍律がきちんとしていること、将校たちのやさしさが溢れている。同様に、現地の放し飼いの水牛を食べたいと言って泥棒したら、現地人に損害賠償を追及されて往生し、部隊にも大いに迷惑をかけた、とあるのも、無法な軍隊ではないことを示している。

輸送用の駆逐艦について2000tで30ノット出るが、大砲は15cm砲が二門しかなく、大砲は人力で動かしているが、アメリカの軍艦の大砲は蒸気で動かしているからかなわない(P115)と書いてあるのは何かの聞き違いだろう。詮索すべき間違いではない。

 インドネシア独立戦争への日本兵の参加について意外な事が書かれている。スカルノが女と金に苦労させないと言ってリクルートしにきたというのだ。憲兵は威張っていてワルが多かったと言うのだが、独立戦争に参加したのは憲兵が多かったという。戦犯になるのを避けるためだった(P200)というが彼らの名誉を傷つけることではあるまい。オランダの戦犯に対する拷問虐待は凄惨なものがあったからだ。

 英軍の捕虜虐待もあった。捕虜を10キロ歩かせテントに10日もろくな給養もせず放置し、さらに50キロも歩かせた(P198)。いわゆる「パターン死の行進」と同じである。強制労働させていながら、1日の食事がビスケット9枚とイワシの缶詰1個である。それでも英軍兵士と同じだとでたらめを言うのだ。筆者の父は戦争中に50キロから70キロに太ったのに抑留中に57,8キロに痩せたと言うから、ジャングルで暮らしていた日本兵よりひどい食事なのだ。一年後に雑炊が出るようになったと言うが日本軍の倉庫の米を配給したからだ(P209)。

 連合国兵士の検問による略奪もある。時計を取っていくのだ(P199)。米軍も検査をするたびに日本兵の所持品を取っていく。逆に英軍将校の身の回りの世話をさせられていた筆者の父は、彼女にあげろというので色々な女ものの下着をくれたというのだが、結局段々米兵に取られてしまった(233)。小生の父も内地に帰還した時に米兵に時計を取られた。彼らは日本兵から取った腕時計をじゃらじゃらたくさん腕に着けていたのだと言う。まともな話は、英軍は作業日誌をつけさせて日本に帰ったら銀行で働いた分の賃金を払ってもらえ、と言われたが実際にもらえたと言う(P228)が、実際には日本政府が払わされていたのだろう。戦記ものだが、悲惨な話はない。副題の「意外な日々」というのは本当である。


書評・我ら降伏せず 

2022-10-20 14:08:45 | 大東亜戦争

サイパン玉砕戦の狂気と真実 田中徳祐復刊ドットコム

 この本の書評を書くのは気が重い。米軍の残虐行為を書くのが主だからだ。同胞がかつて非道なことをされたことは辛い事実だからだ。

 米軍はサイパンでも日本人の若い女性をスパイに使った(P67)。同じことを沖縄でも行った記録がある。米軍は捕獲した現地にいる民間の若い女性を洗脳してスパイとして使うと言うから非道いことをするものである。サイパンではこのスパイたちが隙を見て、指揮官を射殺すると言う。日本人同士が疑心暗鬼になって殺し合いをしてもやむを得ない恐ろしい計略である。また島の水源地に毒薬を入れ住民や兵士が多数犠牲になった(P67)。

 戦車を先頭にした歩兵がジャングルを機銃掃射すると「子供、兵士、動けない重傷者が見る見る射殺されて行く」。また野戦病院が戦車に蹂躙された(P70)。米軍が日本軍野戦病院に入り込み、負傷者を殺していくということは他の戦線でも知られている。

 多数の日本兵や民間人の屍が転がっていると「敵兵が、その屍を銃剣で串ざしにしてあざけり笑っている。そして所持品まであさりだした。」(P113)全部確実に死に絶えているとは限らない。とどめをさしているのだ。米軍特に海兵隊は徹底的に負傷者を殺していったのは自ら認めている。だから玉砕とは米軍により負傷者を殺して生存者がいなくなった結果である。機銃掃射を受けても死者の3倍程度は負傷者が残るものであって全員が死亡するはずがない。米軍が死体から所持品をあさって土産物にするというのもどこでも見られた光景である。生死にかかわらず日本兵から金歯を抜きとっていったというもよくあることである。

 ここからは筆にし難い残虐行為が書かれている。数百人の民間人を捉えた米軍は婦女子全員を全裸にしてトラックに積み込んで「殺して」と泣き叫ぶ女性を無理やり運んで行った(P138)。以前にもこのようなエピソードを読んだとき違和感を感じた。なぜわざわざ裸にするのだろうと。謎は解けた。島を逃走して復は汚れきってボロボロだし、着衣では性別が分かりにくい。特に西洋人には小柄な日本人の性別は分かりにくい。米兵は女性であることを確認したのだ。もちろん彼女らは生きて帰らない。証拠を隠滅するから人道的な米軍という与太話が残るのだ。

 米兵は性欲が強い。しかしこのような離島では歓楽街もない。だから米兵は日本女性を集めたのである。トラックを公然と使った所を見ると上官は兵士の行為を黙認したのである。ロシア兵と米兵の違いは集団強姦行為を推奨するか黙認するかの違いである。民間人がいた多くの島嶼戦では必ずこのような行為が行われたはずである。もちろん沖縄でも。そして「米軍は虐待しません。命が大切です。早く出てきて下さい」と呼びかけながら、追い立てられて集められた数百人の子供と老人を滑走路に集めて、ガソリンをまいて焼き殺した。火から逃げる人たちを蹴ったり銃で突き返して火の海に投げ込む。隠れて見ていた日本兵がたまらず一発撃ってもおかまいなし。二人の兵士が泣いている赤ん坊を股裂きにして火の中に投げ込んだ(P139)。多数の人間を集めて、ガソリンをかけて焼き殺すなどという事は通常では困難である。だがサイパンの民間人は逃亡で飢えて疲れきって、ほとんどが地べたに寝転がっているしかない状態だったのに違いない。

 さらに米軍には日本の民間人を殺す理由がある。兵士たちは欲望のために日本女性を集めた。だからそれを目撃した民間人に生き残っていてくれては困るのだ。これらの行為が上官の命令で行われたていたのかは明瞭ではない。しかし、兵士たちに不満をためさせないために、強姦を黙認せざるを得なかったとすれば、目撃者の殺害も黙認したとしか考えられない。日本軍に比べ情報管理は徹底していたのである。

 ジョン・ダワーの人種偏見という本だったと記憶している。日本兵が投降しなくなったのは初めに米兵が捕虜をひどい殺し方を虐殺していったのでそれを知ったからだというのだ。特に海兵隊の多くの司令官が「捕虜は取らない」と公言している。つまり殺すのだ。このような残虐行為を聞くとさもありなんと思う。日本では島嶼戦の住民の集団自決が問題にされる。好んで島民が自決するはずがない。米軍の残虐行為は死よりまさるのだ。強姦された挙句に殺されたり焼き殺されるよりは、ひと思いに死にたいと思うだろう。

 意外であったのは、米軍が洞窟攻撃に毒ガス弾を使った(P146)ということである。それもくしゃみ性などというものではなく、致死性の高い物で老人や子供、重傷兵などの体力のないものから次々と苦悶して死んでいったという。あまりの苦しさに手りゅう弾で自決する兵士が出ると言うものすごいものだ。中国兵も対日戦に毒ガスを使ったと言う記録がある。インターネットでは、日本で生産保存された毒ガス弾の話題が書かれているが、これらは実戦では使われなかったものと思われる。毒ガスによる報復攻撃を恐れたからである。まして戦況が不利になったら尚更使えない。米軍は報復の心配がないから使ったのであろうが、大規模なものではなかったとは思われる。

 洞窟から逃げた著者が意識を失って気付くと、青竹で婦人を串刺しにした死体があったと言う。また同じ洞窟にいた兵士や住民が五体バラバラに刻まれていた、というのだが筆者自身がやられなかったことを不思議に思っている。(P147)恐らく米兵は生きて苦しんでいる日本人にとどめをさしたのであって、筆者はピクリともせず死体に見えたのだろうと考えると合点がいく。

 米兵が穴を掘ってブルドーザで落としこんで日本人の死体を埋めているのを見て筆者は死体の残酷な扱いを憤っているが(P158)、これが普通の日本人の死生観であると思う。谷間には追い詰められて火炎放射機で焼き殺された、民間人や兵士の大量の焼死体を目撃している(P158)記録映画でも米軍が火炎放射機で日本人を掃討する光景があるが、見かけは近代的な兵器だが、考えてみれば、人を焼き殺すと言う残忍な兵器である。許し難いのは戦闘が落ち着くと米軍の残虐な遊びが増えることである。最初のうちは殺した日本人は放置していたが、後には死体を切り刻んでいた(P173)というのだ。ジャングルの掃討は最後になると困難になって米兵は憎しみからか、耳を切り取り手を切断し、戦果の証拠とするために首を切って持ち去った(P191)というから日本人にはできない行為である。耳を切り取るというのはベトナム戦争の米軍が行っているし、イギリス人は植民地のインド人の手首を切り取っているからあり得る話である。

 母子の虐殺遺体は、母は腹を銃剣でそこらじゅう刺され、陰部は切り取られ、子供は原型をとどめないほど顔面を殴打されて殺されていた(P178)。筆者たちは砲弾跡に埋葬して線香代わりに煙草を備えたが、これも遺体に対する平均的日本人の行為である。米兵が頭蓋骨で遊ぶ光景何箇所かに見られる。頭蓋骨頭皮を剥いで射撃の的にしたり(P173)骸骨を集めてジープの前に飾ったり、小刀で加工して土産にしたり(P181)である。米兵が日本兵の頭蓋骨を土産にして、それで遊んでいる婦人の写真が米国の新聞にすら平然と載ったのは事実である。だから著者の記述には信憑性がある。米兵のこのような行為は前線の日本兵が知るよしもなく、戦後はそんな話は日本人には隠されたから、筆者は噂で嘘を書いたのではなく事実を目撃したのに違いないのである。支那人の言う嘘の日本兵の残虐行為は、日本人ではなく支那人ならではの行為なのでばれる。筆者の証言は米国人ならあり得る話だから信憑性がある。

 ともかくも、米軍の残虐行為を本書から抽出したのは、人道的な米軍というのが戦後日本人に植えつけられた虚偽であることを言いたかったのである。ふたつだけ付言する。かつて米軍がこのようなことをしたということと、日米同盟の是非論とは別に切り離して考えなければならない。また支那軍は米軍より遥かに残虐非道な人たちである。物事は相対的なものである。だから日本軍は世界で最も規律正しい軍隊であったのである。


書評・世界が語る大東亜戦争と東京裁判・吉本貞昭・ハート出版

2021-11-20 20:14:10 | 大東亜戦争

 大東亜戦争と東京裁判について、まず筆者の考えを述べて、その後各種の文献等から日本に対して肯定的な世界各国の著名人等の意見を簡単に紹介する体裁である。

 元中共軍将校の葛西純一氏が盧溝橋事件の中共謀略説の根拠とした人民解放軍の「戦士政治課本」について紹介している(P57)が小生は公刊されている葛西氏の著書は全て読んだつもりだが、まだこの本の記述を見つけていないのが残念である。ところで秦郁彦氏はこの本の存在を否定して、中共謀略説も否定するのだが、本書によると人民出版社の刊行する「毛沢東年譜」によって存在が確認されたと言うのだが、秦氏は保守の論客だと思っていた時期もある小生が愚かであった。

 「戦うも亡国、戦わざるも亡国、戦わずして滅びるのは、民族の魂まで失う、真の亡国である」という例の永野軍令部総長の言葉を紹介しているが本書によればこの発言は昭和十六年九月六日の対米英蘭開戦の決断の時期を決めた御前会議での発言(P77)とのことである。この言葉を他のコラムでも繰り返し引用するのは、全ての日本政府関係者は対米戦に楽観的どころか悲観的であり、軍人たちは必死の覚悟で開戦を決意していたこと、侵略戦争を行うのにこのような決意で臨む国はないことが明瞭に示されているからである。

 通説では近衛内閣が総辞職したのは日米交渉が失敗したからとされているが、本書では、ゾルゲ事件を摘発した吉河検事が、戦後の米下院の公聴会で、ゾルゲ事件との関係が発覚したために責任を問われて総辞職せざるを得なかった(P78)とあるのは納得できる。

 戦後の米戦略爆撃調査団の報告書は特攻の命中率を全期間で18.6%とし、昭和十九年十月から翌三月までに限れば、39%に上り、至近弾として艦艇に損傷を与えたものを入れれば56%となるとしている。さらに昭和二十年四月の統計はそれぞれ、61%と71%となると報告されている。ハルゼーは特攻の戦果は1%であると嘘をついているのだが(P120)それだけ脅威であったのである。別の数字の統計も見たことはあるがいずれにしても命中率は10%は超えているから、通常の雷爆撃より高い数字である。このように被害を数値で算定する冷徹さが米国の特徴であろう。沖縄戦でニミッツが本土の統帥部に特攻機の被害が大きいので上陸を中止し、他方面に向かいたいと打電して拒否された(P121)というのも初めて聞く。

 日本の敗戦で急遽行われたインドネシア独立の式典で、独立宣言文の最後に〇五年八月十七日と書かれていたのは(P123)比較的知られたエピソードであるが、反日の日本人は皇紀二千六百五年を意味する元号を敢えて使用したインドネシアの人たちの想いに心をいたすべきであろう。欧米諸国は現在でも東ティモールをインドネシアから分離したり、アウンサン・スー・チー女史を利用して英国の植民地支配の過酷さを主張した、ミャンマー政府に軍事政権の悪名を冠して経済制裁するなどの悪辣な陰謀を行っているのである。欧米の間接的世界支配はまだ終わっていない。それに比べると中国の恫喝外交は稚拙の極みである。

蛇足だが、ビルマという英語表記の名称は植民地時代に使われていたからだとして、ミャンマーに改めたのは、西欧から軍事政権のレッテルを張られて批難されていた政府である。つまり、英国に逆らったから「軍事政権」というレッテルを貼られたのである。民主化運動と称して反政府運動を起こさせて、それを鎮圧させて「軍事政権」と言ったのである。早い話が英国のマッチポンプである。マッチポンプに使われたのが、アウンサン・スー・チー女史というわけである。女子の主張を注意して聞くがよい。民主化、以外の政策はない。彼女には政治家としての政策も能力もないのである。彼女が大統領になってミャンマーが混乱しようと英国には関係ない。英国に逆らう旧植民地政権はどうなるか、ミャンマー人は知ったのである。彼女の役割は終わった

 次は大東亜戦争に関する世界の人々のコメントである。インド国民軍の少佐が、もし日本が戦争に勝っていたら、アジアの全ての国々が栄えていたと私は思います(P171)と述べている。日本がアジアの植民地を独立させたのは事実であったと認める人ですら、戦争に勝っていたらアジアを独立させたかどうか疑わしいと述べているのだ。戦争に負けた卑しい根性というべきである。どうしてそこまで自身を信じられない悲しい民族になってしまったのだろう。

 台湾の許東方工商専科大学学長は東條を天皇陛下に最も忠実で、私心なく清廉潔白であり、立派な人物だから日本は東條神社を創建すべきだ、と言っているが、なるほどである。今の日本人には考えられない発想である。東條を現代史の最高の偉人と認める小生は感激する発想である。東條神社が創建される日こそ日本が本来の姿に立ち戻る日であるが、それはいつになるだろう。

 米国のジョージ・フリードマンは1920年代後半にアメリカが保護貿易主義になったのが戦争の原因であるとし、日本の選択肢は①大陸から撤退して中国パイのおこぼれを貰うことに甘んじ、絶望的経済破局を迎える②日本が必要とする市場を確保するために軍事的選択をすることである(P187)。その通りどころか、おこぼれにあずかれるかさえ保証がなかった。米英の軍門に下ったアジア諸国の運命をみれば明白である。おこぼれで満足するような民族には容赦なかったのが欧米のやり方である。日本は徹底的に闘ったから相手として認められたのである。

米国政府は日露戦争で意外にも日本が勝った時から対日戦争で日本を滅ぼすことを考えていた。これはルーズベルト個人の問題ではない。ただルーズベルトは最悪だった。何せ、女性スキャンダルは大統領にとって致命傷であると言われた(過去の話である)アメリカで、ルーズベルトは永年連れ添った愛人の元で臨終を迎えたからアメリカ人にとっては最低の大統領であった。対独戦に参戦するために、対日戦を欲したなどというのは、対日戦の動機の一部に過ぎない、と言うのが現在の小生の結論である。

 ハミルトン・フィッシュ共和党上院議員は、第二次大戦が始まるとすぐに、ルースベルトは参戦することを決めた、と断じ、その原因を、失敗したニューディール政策の失業者をなくすこと、戦争を指導した大統領になりたいと言う欲望があること、国際連合を作ってスターリンと共に世界の支配者になりたかったことをあげている(P190)。実際ルーズベルトに限らず、米国の指導者は世界制覇の野望を抱いていた。国際連合は日本人の夢見るような理想への一歩ではなく、世界制覇の道具だったのが事実である。パットン将軍を描いた映画だったと思うが、将軍が、アメリカが世界制覇をする、と言う意味のことを述べていた場面を記憶している。ウィキペディアで調べたらパットンは普段から乱暴なことを平気で言うので、映画化する際にはそれを削除した、と書かれている。当時の米国人には米国の世界制覇とは乱暴な言葉ではなかったのである。世界制覇とは当時の米国人にとっては常識的な現実だったのである。

 英国人では、ホプスパウロンドン大学教授は、インド独立はガンジーやネルーの国民会議によるものではなく、日本軍とインド国民軍が起こしたインパール作戦よるものである(P193)と言った。そう言えば、英国が作った「ガンジー」という映画では、インド独立をガンジーの非暴力抵抗運動というお決まりの説で描いていて、インパール作戦はおろかインド国民軍も登場しない。これは明らかな作為である。ルイス・アレンビルマ戦線情報将校は日本陸海軍には理想主義者がおり、日本にもアジアにも植民地解放をしたのは日本だと信じている人々がいて、日本帝国が滅びてもその業績は消えない、と述べている(P193)。かつての敵国ながら米英には信念に忠実な人物がいる懐の広さには感心する。このことは米英が日本を敵視したこととは矛盾しない。

 次は東京裁判である。マッカーサーは回想記で事後法で戦争裁判を行うことに反対し、国際法で言う戦争犯罪人の裁判だけにすべきだと言う信念を吐露している。それは、アメリカでも南北戦争終了後数十年経っても南部が北部に深い怨恨を抱いているためであった。その原因をマッカーサーは記していないが著者は、南軍の捕虜収容所長が偽証を承知の上の裁判長により捕虜虐待の冤罪で絞首刑になった事実などを知っていたためであろうと推測している(P204)。東京裁判もそのようなものになると考えたと言うのである。日本が戦争を始めたのは安全保障のためだと戦後証言をしたということといい、マッカーサーも案外まともなことをいうものだと思った次第である。だがマッカーサーの言葉は全て後の祭りである。

 次は証言である。チャーチル自身が東京裁判を批判して、日本の指導者を死刑にするならば、もし連合国が敗れれば、同じ理屈でルーズベルトも自分も処刑されていただろう(P253)、と言ったのは、自身の考えを日本に投影していたのに過ぎず、敵国の指導者を処刑するほどの野蛮人ではない。東京裁判の裁判長だったオーストラリアの当のウェッブ自身が、日本の証人たちの皇室に対する気遣いと尊敬の念と自己の立場を主張する際の真面目さと誠実感に心を打たれ、日本が戦争を始めたことに対して日本を断罪するどんな権利があるのか、と自問したという(P260)。開いた口がふさがらないとはこのことである。

だが、ウェッブが考えを変えたのは、被告や証人の態度の立派さに尊敬の念を抱いて、日本の指導者に対する見方が変わったのが原因であるように思われる。このことは、有色人種の差別の激しいオーストラリアにおいて、シドニー軍港を攻撃して戦死した日本海軍の兵士を丁重に海軍葬にしたことと共通している。彼らは人種に拘わらず勇気や誠実さを見せた人間に対して自分たちと対等に扱うと言う精神をなくしてはいないのだ。この点は汪兆銘を漢奸として、わざわざ辱めるための像を作り唾を吐きかける支那人とは異なる。逆に言えば外国に媚を売る者は支那人に心の底では軽蔑されるのだ。反日日本人は中共にゴマをするから、彼らにしてみれば国を売る漢奸なのである。漢奸は彼らの最も忌み嫌うものである。支那人は日本の「漢奸」を利用するために褒めるが腹の底では軽蔑しきっているのである。


パール博士「平和の宣言」ラダビノード・パール、田中正明編著

2021-11-12 14:36:41 | 大東亜戦争

○パール博士「平和の宣言」ラダビノード・パール、田中正明編著・亀戸

 パール博士らしく論理的かつ難解。特にインド哲学を語るのは難解。西洋人がいかに非白人を人間扱いしていないか、植民地での非道な行為を論じた部分は日本人は是非読むべし。読書によるものばかりではなく、インドにおける体験だからである。

 小林よしのりの復刊にあたっての序には、パールの原著が絶版になったのをいいことに、一部をつまみ食いしてパールが日本を強く批判したかのように書いた者がいると批判している。自国を悪く言いたくてたまらない異常な日本人は一方では大嘘つきであって、少しも誠実でも良心的な人たちではない。それでいて日本をより悪く言う事が良心の証しだなどと本気で考えているからまともではない。

 第一部のアジアの良心は田中正明氏の筆である。パール氏の日本に対する心情が書かれている。西洋が自己防衛のために、西洋の武器と技術をとりいれたのはよい。しかし日本は、決して西洋を模倣して、その国家主義の私欲を自己の宗教として受け入れてはならない。そして隣国の弱者にたいして無法な行動に出てはならない(P37)、と言うがこれは必ずしも戦前戦中の日本の批判ではない。

パール博士は中国を日本やインドと同じくアジア共通の哲学と宗教の持ち主と誤解しているのは残念である。だがパール氏の思い描く中国とは孔子孟子の時代の中国であってその後の中国とは、蛮人に繰り返し乗っ取られて入れ替わった異人種であって秦漢時代の漢民族は事実上絶滅している。長江、黄河の古代文明を起こした人々と現代中国人とは文化もDNAも何のつながりもないのである。隣国のインドとすら貪欲な紛争を起こしている、現代の中国を見たらパール氏も考えを改めるであろう。

本書には哲学者や歴史家としてのパール博士と法律家としてのパールが登場するが、興味深いのは歴史観と法律家としての見方である。また朝鮮戦争の米軍捕虜を東京裁判のように国際法で裁く、と言った途端にニュルンベルグ裁判や東京裁判はドイツと日本の国内法で裁いたのであって連合国は主権のない日本を代行したのに過ぎない、と詭弁を弄したというのだ。それならば、戦犯は講和条約が締結されて主権が日本に移ると釈放されるものであるのに、それを予測した狡猾な米国はサンフランシスコ条約で戦犯の釈放を制限した。それなのに日本政府は講和条約が史上希に見る寛大で公正なものだと言っているのを批判している(P45)。

奉天の会戦と日本海海戦で日本が勝利して初めて有色人種が白人を負かしたからインドやアジアの独立運動が始まった(P64)と書かれるのは当然で、そのことを日本人は再認識し自信を持つべきである。ただガンジーの不服従の抵抗運動の独立への貢献を強調する半面、日本の侵攻がインド国民軍の成立を促し、それが直接の独立のきっかけになったことに触れていないのは残念である。ただボース亡命に貢献した頭山満翁の寸暇をさいて墓前に花をたむけた、というのはその当時の頭山の不当な悪評を考えるとさすがである。

全般に原爆による世界絶滅への恐怖から、反戦非武装の思想が強調され過ぎている。武器による独立と平和を否定するが、今の世界を見れば考えが変わるであろう。そして益々日本の戦争へのアジア独立への貢献を強く理解するようになると思うのである。ただパール博士らインド人の非武装の思想の淵源はインドが英国の武力で支配されたからではないからである。巧妙な分断と策略によって結局あれだけの広大な地域が少数の英国人に奪われて、暴力によってしか独立できない状態に呻吟したのである。その英国の手法については本書でも抽象的に書かれている。パール博士もガンジーもそのために非暴力の団結に思い至ったものであろう。それゆえにかえってパール氏ですら、英国の卑劣な手段を具体的に語れず抽象的にしか語らないほど辛いことだったのだろう。私には本書で新たに認識した最も重要な点は、ここにあるように思われる。

私は二冊の分厚い文庫本でパール博士の東京裁判の判決を難渋しながら辛うじて読み通した。そこには冷静な論理が徹底している。しかし、判決の最後に有名な「時が偏狭和らげたとき」と云々という文言を書いたとき、明らかにパール氏は興奮していたのである。英国や欧米諸国に対する憤怒に興奮していたのである。あの文言はどう考えても博士の言う純粋な法律に基づく結論ではないからである。だからこそ私はパール氏に親近感と尊敬を抱けるものである。博士が単に冷徹な学者ではなく、情熱の人であることは、パール博士の日本における行動が証明している。この本でもパール博士の判決書でも不思議な共通点がある。翻訳のせいもあり、読解に難渋するが読んでいるうちは冷徹な論理に徹底していながら、読んでしばらくすると、パール氏の情熱を含んだ心情に触れられる思いがすることである。

本書にしはしば登場するトインビーの白人が有色人種を動物以下にしか見ないことへの指摘は傾聴に値する。第二部の世界に注ぐ、では・・・アジアの諸問題を指導し、処理しつつある指導的欧米政治家たちの、そのやり口から判断してみて、少なくともこれらの政治家たちのいう「世界」は、彼らのみの世界であり、「人道主義」は、ある特定の人種に対する主義にすぎないのではないかということを疑ってみる理由がある(P196)、と言って欧米人の欧米中心のエゴを批判している。

第三部の真理と平和では、欧米人の有色人種に対するすさまじい人種偏見を列記している。

遠い過去から遠い将来へかけての人類の進化に関する英語を話す人種の考え方は、世界は将来当然自分たちのものだということである。そして他民族は英語を話す人種に奉仕することによって、神の約束した人類進歩に貢献するとともに、歴史上の宿命的役割を果たすのだと信じている(P221)。

アジアを植民地支配したのは英国以外にも多いのに「英語を話す」と言っているのは、英国のインド支配がつい口についたものだろう。またトインビーの言葉を引用する。「われわれは彼らを歩いている樹木ぐらいにしか考えず、たまたま出あった地方に棲息する野獣としか考えていない・・・西欧人の先駆者が切り倒した森の木々あるいは彼が射落とした大きな獲物のように、彼らの命は一時的であり、もろいものである」「・・・これら゛土着民゛を、放逐さるき有毒動物として、とり扱うであろう。『黒人は魂を持っていない』とすればほかに考えてやる必要はない」(P225)つまり有色人種とは白人にとって動物以下の存在である、ということである。我々が欧米人と付き合う時は、潜在的には、このような意識が彼らには厳として存在することを脳裏に描いておかなければならない。そして博士は、原爆が日本に投下されたのは日本人への人種偏見であるとして・・・彼らの日本人観によれば、これらの人間は根絶さるべき゛有毒動物゛にすぎない、すなわち有罪の、有毒動物である(P226)という米国指導者の言葉を引用している。最近では日本人史家にも原爆投下は人種偏見による、という言説があるが、時期からしてパール博士が初めてこの見解を示したのであろう。

朝鮮戦争における米軍の残虐行為にも言及する。米軍の爆撃は、まず高度の破壊力をもつ爆弾の投下で始まり、次に焼夷弾を投下し、最後には焼夷弾による火災を消火している男女や子供たちに機銃掃射をした(198)、という英国人の目撃者の証言を紹介している。これは日本本土空襲でも行った米軍の常套手段に過ぎない。また朝鮮人の夫人の証言を米国人の調査員が聞きとったとして、米兵は夫を殺し子供を踏みつけて殺し、母は二人の米兵によって強姦された(p200)、と書く。しかし間接証言であるから全くの真実とは断言できない、としているのは法律家らしい。東京裁判の判決書にもこのような態度が貫かれている。

パール博士が最も憤っているのは西洋人による過酷な植民地支配であろう。オランダはインドネシアで現地のあらゆる産業を破壊し、それに代わりコーヒーとインディゴ染料の強制栽培を行った結果飢饉が起こり、ジャワのある地方では人口が半分以下になってしまった(p209)。また一九三六年のオランダ領インドネシアではヨーロッパの人口は全体の0.5%しかないのに、収入の65%を奪い、97.5%もいるインドネシア人は僅か20%しか受け取れず残りは他のアジア人が受け取った(p209)、という恐るべき収奪を紹介している。

日本人は記憶すべきである。この凄まじい収奪が欧米植民地の本質であって、日本による朝鮮と台湾の支配はこれに比べれば植民地とは言えない。しかも欧米人は過酷な支配に少しでも抵抗した者たちを、平然と殺害したり飢餓に追い込んでいる。これらの犠牲者には女性や老人子供がいるのは当たり前であった。彼らの抵抗とは武器で反乱を起こしたのではない。食糧を持っていくと飢えるから止めてくれ、と懇願する程度の話なのだ。

パール博士が処刑されたA級戦犯の家族や獄につながれたBC級戦犯にしばしば会いに行き、彼らが無罪であると慰めている事実がある。博士の言動まで利用して日本の侵略戦争批判をする人たちは、良心があるならそんな卑劣な行為はやめるべきである。

第二部の世界に注ぐ、では、国際裁判と称して、ニュルンベルグと東京で裁いた彼らの二つの裁判、これに適用した二つの法律が「実は二つの裁判所に限った法律であった」ということを、いまになっていいだすのは、法律を侮辱するもはなはだしいといわなければならない。法律という名に価しない法律である。いいかえれば、一部のものにたいする法律は、法律ではなくして、リンチ(私刑)に過ぎない(P154)。

リンチと断言しているのはパール博士だけではない、というのだ。二つの軍事裁判なるものを実施した国々自身が、二つの裁判所に限った法律であった、と認めることによって間接的にリンチであったと認めているというのだ。パール博士が日本を無罪と言っているわけではない、と主張する人たちはこの言をよく読むがよい。日本は無罪であるばかりではない、東京裁判は欧米によるリンチであったとさえ言っているのだ。リンチを行うものは犯罪者である。本書を再刊されたことに感謝する次第である。


書評・インパール作戦の真実

2021-10-07 16:34:03 | 大東亜戦争

 私としては、やっと納得できる本に出会った、という気持ちである。著者は医師を本業とする、市井の研究者である。私はその事に必然を感じる。日本の大学の専門の研究者の近代史観は歪んでいる。米軍の占領による公職追放で、左翼の学者以外は大学などから放逐された。米国などの連合軍に都合がいい歴史観を日本に押し付けるためである。その結果日本の歴史学界には、日本の近代史を否定的に見る学者しか育たなくなった。徒弟制度のような日本の大学では、師の意見に反する意見を発表する事は、職業を失う事を意味する。仕方なくそのような研究をする学者の弟子は、本気で日本の近代史を否定する考え方を持つようになる。こうして日本の歴史家は日本の近代史を邪悪なものとしてしか捉える意見しか残らない、という傾向が助長された。従って歴史でまともな意見は私にとって門外漢あるいは、市井の人しか期待できない事が多いのである。

 本書のテーマである、インパール作戦、と言うのは戦闘での死者より多数の餓死者を出して敗退した、何の軍事的合理性もない、意味無き戦いであった、と言うのが定説である。私には長い間、いくらなんでもわざわざそんな作戦を好んで行うはずはない、と言う疑問があった。ところが多くの歴史書はこんな素朴な疑問も持たずに、平気で日本の軍人は愚かだったから、という理由でインパール作戦の動機を解説している。あるとき、この作戦の発端には、チャンドラ・ボース、というインド独立運動家の熱意があった、という事を読んだ。そこで私は、なぜインパール作戦がインド方面に向かったか、と言う理由を納得したのである。

 日本はインドの独立を助けるためにインド国民軍と共にインドに攻め込もうとしたのだと理解したのである。この本でこの解釈は見当違いではなかったという事がようやく分かった。この本の構想は大きい。日本がインドに侵攻してインド独立を支援する事によって、英国が戦力を割かれる。さらにエジプトに侵攻しているドイツと連絡する事によって、連合国を分断する事が出来る、というものである。同様な事は「太平洋戦争は無謀な戦争だったのか」と言う翻訳書で訳者が「私は、インド洋作戦こそが、第二段作戦の中心であり、それによって英本国への豪・印からの原料・食料などの補給遮断、スエズ英軍への米からの武器補給遮断、カルカッタ-アッサムからの重慶への米補給路の遮断などの莫大な効果をあげることができる、と結論付けていた。」と語っている。

このインドへの侵攻の基本構想は開戦直前の「対米英蘭蒋戦争終末に関する腹案」に明記されている、と言う。すなわち海軍のハワイ作戦、ミッドウェー攻略などはこの基本構想に全く反するものであり、インパール作戦こそが基本構想にかなうものであった。この本ではインパール作戦発動が遅れた事、補給がない事を理由に三十一師団長の佐藤中将が侵攻を躊躇し最後は撤退してしまった事による、と言う。英国公刊戦史では佐藤中将の行動を非難し、あとひと押しで日本の勝利はあったのであって、英国は窮地に陥っていたとさえ言っているのだ。

ちなみにインパール作戦の中止に最後まで反対したのは、インド独立派のインド国民軍(INA)であった。インド国民軍を支援したのは独立への善意ではなく、日本の勝手な都合だと批判するむきもあろう。それは当然である。日本の作戦のため、と言う事と、インド独立と言うインド人の目的が一致したから提携したのである。軍事同盟の本質がとはそうしたものなのだと理解しない方がまちがいなのである。一方的な善意で他国のために自国の兵士を犠牲にする事は国際関係ではあり得ない。その事が理解できないから、日米安保の意味も理解できないのである。

 指揮した参謀の牟田口中将の評価も意外なものがある。戦史の常識では無謀な作戦から逃亡した佐藤中将の行動を、多くの部下を飢餓から救った人道的指揮官とし、牟田口を無謀な作戦を強引に発動した軍人として非難している。ところが佐藤師団の撤退によって佐藤師団は救われたものの、置き去りにされた他の師団は多数の被害を出している。あまつさえ、勝利さえ失ったのである。インパール作戦はむしろ大本営の望んだものであり、牟田口は上官に逆らう事を最も忌み嫌った軍人であったと言う事を記録で証明している。第十五軍の河邊方面軍司令官が、当初は作戦に積極的であったので牟田口を督励し、不利になって変心してもそれを明言せず、牟田口の指揮に一任したのである。

 従って牟田口自身には、勝手に作戦を強行したのではなく、上官の意図をくんで作戦を行っている、としか考えられなかったのである。しかも英軍は牟田口の指揮を高く評価しているのである。結局陸軍悪玉説のために、故意に英国の評価は隠され、佐藤師団長は人道的指揮官に持ち上げられてしまった。

佐藤中将の行動を知った他の師団の将兵は、佐藤師団によって置き去りにされたために、多くの仲間を失ったと恨んでいるのだが、この怨嗟の声は故意に隠されている。これらの事実を閲するに、つくづく日本海軍による艦隊決戦思想による博打的作戦行動と、戦略眼のある陸軍との相違が分かる。故に米軍の占領による情報統制は、陸軍を貶め海軍を持ち上げると言う評価を逆転する行動をとったのである。米軍が日本海軍善玉説を応援したのは都合が良かったからであり、陸軍の作戦は米軍の勝利にとって都合が悪かったから悪玉に仕立て上げたのである。

私は陸軍大学の教育の一部を解説した本を読んだ事がある。もちろん門外漢なので充分理解するには至らないが、地形を利用した作戦や部隊の配置などの教育は、マクロに見れば必然的に地政学的な考えを養い、ひいては戦略眼を養ったのであろう。これに引き換え武器の強弱だけに頼った海軍の艦隊決戦思想教育は、戦闘の仕方だけ教え、戦略眼は養わなかったのは当然である。特に日本海軍は、艦隊決戦だけに特化し、第一次大戦で得られた、補給の遮断や船団護衛という戦訓を全く無視したのだった。艦隊決戦に特化すれば、燃料や食料の補給ということは、艦隊内に搭載されたもので賄うという考え方になってしまうのである。

陸軍が戦略思想家と言われる、石原莞爾を生んだのは当然である。海軍で有名なのは山本五十六などであるが、優秀な戦略家であったという事ではなく、反戦であったとして持ち上げられる始末である。本来そんな事は軍人にとって褒め言葉ではあるまい。大東亜戦争の作戦や軍人の評価は全面的に見直すべきである。


戦艦大和は世界一強い軍艦だったのか( ^^;)

2021-09-24 18:16:49 | 大東亜戦争

 その答えは是本信義氏が「海軍の失敗」に明確に書いている。多くの評論では、この議論に難渋しているのと対照的である。是本氏は大和より装甲や主砲の口径も一回り劣る米海軍のアイオワ級戦艦に完敗すると即断している。理由は明確で射撃指揮装置が大和が圧倒的に劣るから、武器の強さや装甲などのカタログ値は大和の方がずっと優れていても、アイオワはずっと前に大和に多数の命中弾を与えるというのである。

 さすがに海上自衛隊のプロだっただけある。是本氏はアイオワは大和にないレーダー射撃ができた事も強調しているが、それがなくても射撃指揮装置の性能の差だけでも充分であったのは明白である。このように日本海軍の装備や戦闘手段はカタログデータだけ高くて、実質的能力は低い。この点は日露戦争当時には外国の軍艦の装備と大差なかったのと大きく異なる。

 そういう目で見ると日本海軍はずいぶんちぐはぐな戦いをしている。例えば第三次ソロモン海戦で戦艦霧島は、戦艦サウスダコタに三式弾を多数命中させて艦橋などの構造物を大破しているが沈没させることはできずに、夜戦で戦艦ワシントンのレーダーで見つけられ、自らの探照灯照射の明かりを照準され沈没した。

 三式弾というのは対空射撃用の砲弾なので、いくら命中させても戦艦の装甲には跳ね返されてしまって沈没させることはできない。戦艦に対しては装甲を貫く徹甲弾を使用しなければならないのである。馬鹿な戦いをした、と思っていたら、最近ある本で、霧島は三式弾を打ち尽くさなければ、徹甲弾を発射できなかったという。つまり打ちたくても打てなくて負けたのである。

 サマール沖海戦では戦艦大和は、装甲のない護衛空母や駆逐艦に徹甲弾をあびせている。正規空母にしても装甲はぺらぺらで徹甲弾では貫通するだけで、艦内では爆発しないからだめである。大和の世界一大きい砲弾は、敵艦に大きな穴をあけて爆発もせずに海に飛び込んだ。この時日本艦隊は駆逐艦二隻と護衛空母を撃沈したが、これは戦艦金剛と巡洋艦などの射撃である。

 つまり日本海軍は徹甲弾を使うべき時に使わず、使うべきではない時に使うという、ど素人のような戦闘をしていたのにはあきれる。戦艦大和が図体ばかり大きくて、実質的戦闘力が少ないのと同じ事である。


 


我敵艦ニ突入ス

2021-09-03 21:05:52 | 大東亜戦争

我敵艦ニ突入ス 駆逐艦キッドとある特攻、57年目の真実 平義克己 扶桑社

 在米の日本人弁護士が駆逐艦キッドに体当たりしたパイロットの氏名を根気よく特定する話である。軍事知識のない著者が調査しているうちに特攻に関する色々なことを感じるようになってくる過程が興味あるところである。この点は是非読んでいただきたい。ただいくつか気になることがある。

 米軍兵士が日本兵の遺体から頭蓋骨を取り出して土産にする、というのはまれなできごとではない、ということである。日本では信長が敵将の頭蓋骨で酒を飲んだという話があるが、これは日本人にとって例外的で残忍なものとして扱われているし、そもそも時代が何百年も全く違う戦国乱世の時代である。仲間が日本兵の頭蓋骨を取りだしたことを怒る米兵も書かれているが、これは米国人にも平均的米国人よりかなり良心的な人がいる、という当り前な事の証明に過ぎない。

 さらに、日本にも秀吉の朝鮮出兵の際に、戦果を数えるのに敵兵の鼻や耳を削ぎ取ったというエピソードがある。ところが、米軍はついこの前のベトナム戦争で同じことをやったのである。戦果を誇示するためにベトナム人の耳を切り取って、ジープの無線アンテナの支柱に刺して得意げに走りまわっていたのである。秀吉の配下はさすがに切り取った鼻や耳を弔って鼻塚を作った。しかし江戸時代に林羅山は鼻塚はむごいというので名称を耳塚にした。それにしてもそれから400年も経って同じことをして、むごいとも思わずはしゃいでジープを乗り回していた米国人の民度が知れる話である。しかし、日本は現在その米国人よりもはるかに野蛮な支那人と対峙しているのである。

 米海軍水兵がパラシュート降下した日本人パイロットを射殺した、というエピソードも当たり前で、日米双方にこのようなとき助けたケースと殺したケースがあって、どちらが人道的であったと一概には言えない、というのは筆者のいうとおりである。パラシュートで降りようが戦闘中には違いなく、助けたのが美談で、殺したのは国際法上は普通の戦闘行為である。ただ日本軍は日本本土爆撃のように計画的にしかも大規模に米民間人を殺すことはしなかった。

パールハーバーでも日本は民間人を避けて攻撃している。米国の真珠湾攻撃の映画で、病院を日本機が爆撃したシーンがあるが、史実に反する悪意のあるものである。米兵が日本軍の野戦病院に残された負傷者を皆殺しにしたことは珍しくないのは事実である。玉砕とは米軍が生き残った負傷兵にとどめを刺したのである。いくら銃撃されたとて、死者の倍以上は負傷して行動不能になって生き残っている。それを丹念に殺してまわったのである。現に海兵隊の将校は捕虜は獲らないと公言している。

 逆に特攻隊員の遺体を水葬にしたのも例外ではないようであるのが、やはり複雑なところである。シドニー湾攻撃の特殊潜航艇の乗員を海軍葬にしたのと同じで米国人にもオーストラリア人にも、勇気ある行為に敬意を払う、という精神があるのが支那人との違いで日本人には共感できる。 蛇足ながらノットの表現で間違っている箇所がいくつかある。P89の注にあるように、1ノットは速度の単位で時速一浬のことである。従って「時速1ノット」とは言わない。単に1ノットというのである。

気になる間違いもある。著者は攻撃隊の突入し時間を算定するための飛行距離を計器速度で計算している。しかしピトー管で測られた計器速度は対地速度ではなく対気速度である。正確に言えば空気の密度が小さくなると、つまり高空にいくと同じ速度で飛んでも計器速度は地上付近での対気速度より遅く表示される。海面上を巡航すると燃費が悪いので大部分は高空を飛ぶから計器速度は真の対気速度よりかなり遅く表示されていて飛行距離の計算はあてにならない。

著者は計器速度を元パイロットに聞いて推定しているのだから、そのことを元パイロットが注意しなかったというのは合点がいかない。むろん正確には計器速度は標準大気圧における対気速度に換算しなければ実際の速度は出ない。当時の計器にはそのような補正はされていない。さらに速度から位置を計算するために対地速度にするには風速と風向を知らなければならないが、これは不可能に等しいから言うまい。そして対地速度と計器速度による距離計算の誤差によって、筆者の推定が間違いであったとは断言できないことも付言する。


ミッドウェー海戦・運命の5分の嘘

2021-08-27 15:29:14 | 大東亜戦争

書評・ミッドウェー海戦・その時、艦隊はどう動いたか・「運命の5分間」の真実

 左近允尚敏・新人物往来社

 正直なところ、「運命の5分間の真実」という副題に惹かれて買った。しかし著者が元自衛官ではあるが、海軍兵学校の卒業者と知って一瞬後悔した。海兵出身者には旧海軍を擁護5するために嘘までつく人物さえいるからである。これは杞憂だった。大東亜戦史を考える日本人にとって、ミッドウェー海戦は誰にとっても痛恨の一戦である。そこで有名なのが「運命の5分間」である。私が「運命の5分間の嘘」説を初めて目にしたのは、澤地久枝氏によってだったが、その論拠を読み損ねていた。

 ミッドウェー海戦の「運命の5分間」とは何かを復習して見よう。著者は「運命の5分間」説の元となった当事者である草鹿参謀長と淵田「赤城」飛行隊長の証言を紹介しているのでこれを見るのが早道である。二人とも明快に「攻撃を受けたのは戦闘機の1機目が発艦しあと5分あれば攻撃隊は全機発艦する時だった」と言う趣旨の事を述べている。

 つまり「運命の5分間」とは、あと急降下爆撃による被弾がわずか5分後なら、攻撃隊は全機発艦を終えていたから、あれほどの被害はなく、攻撃隊は米空母群を全滅させて南雲艦隊は勝利した、というのである。たった五分の差が天国と地獄の差を生んだ。つまり南雲艦隊は運が悪かっただけであった、というのである。

結論から言うと「運命の5分間」が嘘であるのは、本書のP282~283に単純明快に書かれている。すなわち次のふたつの資料による。

①米国人による日本側の海戦参加者からのヒヤリングでは、攻撃された時点では雷撃機は兵装の再転換は終わっていたが格納庫にあった、と整備員やパイロットなどが証言している。つまり攻撃隊の艦上機はまだ飛行甲板には1機も上がっておらず発艦寸前どころではなかった。

②防衛庁の「戦史叢書」によれば、当時は攻撃準備中で兵装復旧もできていなかった。直前に南雲長官が上空警戒の零戦を発艦させるよう命じ、被弾直前に赤城の1機だけが発艦した。

 若干の相違はあるが、共通しているのは攻撃隊の機体はまだ飛行甲板には上がっておらず、発艦の準備は終わっていなかった、ということである。従って攻撃隊が発艦寸前だったというのは嘘で、せいぜい発艦できたのは3空母のうちのただ1機の上空警戒機であったのである。草鹿も淵田も上空直掩の零戦の発艦を攻撃隊の発艦と誤魔化したのである。だから前述のように小生は、海兵出身者は嘘をつく、と言ったのである。戦史叢書と言うのは戦史研究者なら一般的に知られている一種の定本であり、これが明快に運命の5分間を否定しているのである。

 だがよくよく二人の証言を読めば、嘘だという事はばれる。資料(*)によれば、大戦中の米空母の場合、カタパルト発艦で1分に2機、直接発艦で1分に3機で、60機を発艦するのに単純計算で20分とある。いくら日本機の搭乗員の技量が優れていても各々数十機ある3空母の攻撃隊が一斉に5分で全機発艦できるはずはないのである。よくテレビで放映される日本空母から乗組員に手を振って見送られて、零戦が次々と発艦する実写フイルムがある。素人目にも5分で攻撃隊が全機発艦できようはずがないのは分かる。馬脚は既に現れていたのである。艦上機運用のプロがよくこれだけの見え透いた嘘をついたものである。

もうひとつ、残った飛龍の第一次攻撃隊が発進したのは10時50分から58分の間である。(P194)この時既に3空母の被弾を知り山口多聞少将は拙速で取り敢えず飛行甲板上の24機の攻撃隊を発艦させた。従って被弾した3空母の攻撃隊発艦もこれ以上早いことはあり得ない。しかし米軍機は10時2分に最初の急降下爆撃を開始している。日本の最初の攻撃隊が発進する1時間近く前である。最初の命中弾は10時20分頃であるが、それでも30分以上前である。それどころか、零戦によってバタバタ撃墜されたTBD雷撃機は9時20分に3空母攻撃を開始していた。米機動部隊の攻撃は飛龍攻撃隊発進の1時間半前に既に攻撃を開始していたのである。あらゆる証拠が運命の5分間を否定している。ちなみに飛龍の攻撃隊の発艦は24機で8分と、さきにあげた1分に3機というデータとぴったり一致する。

 私はもうひとつのイフを考えた。著者が言うように、もしも山本長官が南雲艦隊に空母の存在の可能性を知らせ、無事攻撃隊を全機発艦させることができた場合である。珊瑚海海戦の戦訓が示すように、米艦隊の上空直掩機と対空火器の総合的防空能力は相当なものである。しかも空母対空母の戦闘は激しい殴り合いになる。双方応分の被害は出る。しかも艦上機数の比率は日本278機対米234機で空母の数の比のような格段の差があるわけではない。本書でアメリカの戦史家が言明している通り、南雲艦隊も2隻程度の喪失はあったはずである。

しかも防空能力の差から搭乗員の損失は日本側の方が多いはずである。実際には搭乗員の喪失は米艦上機の方が多かったが、これは米海軍の方が攻撃隊の艦上機をはるかに多く出撃させたために直掩の零戦に多数撃墜されたことによる。対空砲火は米艦隊の方がはるかに優れているから双方が等しく攻撃隊を出せば、この比率は逆転する。米機動部隊を撃滅しえたとしても、南雲艦隊も艦艇、機材、搭乗員に甚大な損害を受けたのである。

米空母は被弾しても飛行甲板が使える事が多いのに反して、日本空母は致命的損傷が無くても被弾すると飛行甲板は使えない。帰投した攻撃隊は飛龍に収容しきれずにほとんどが海没する。そこに基地航空隊が襲いかかったら空母の被害は拡大しただろう。前述のように艦上機の兵力で日本艦隊は僅かに優勢なだけであって、基地航空隊も含めたら(278:359機) 兵力は逆転する。南雲艦隊の惨敗はないにしても、この兵力差ではよほどの幸運が無い限り圧勝は考えられないのである。引き分けと言うのが妥当なところであろう。それならば珊瑚海海戦同様にミッドウェー島攻略はできなかった。結局攻撃の目標達成に失敗したであろうから損失の比率にかかわらず日本の敗北である。ミッドウェーの教訓は巷間言われる情報や索敵の軽視以外にも多くある。それにしても大東亜戦争から教訓を得るのに、旧海軍の幹部の虚言癖、とでも言うべき嘘の証言ほど障害になるものはない。

*歴史群像・太平洋戦史シリーズVol.22空母大鳳・信濃P158


書評・海戦からみた太平洋戦争 戸高一成・角川書店

2021-05-16 15:43:15 | 大東亜戦争

 大東亜戦争の海軍の戦いについてコンパクトで適切に書かれているものである。ただ海軍の米内光政、山本五十六、井上成美らが反戦の立場から三国同盟に反対したという常識論を書いている(P35)。その後三人が海軍政策から外れると対米強硬派が三国同盟に賛成した、というのだ。相澤淳氏の「海軍の選択」によれば事はそう単純ではないし、そうであろうはずがない。英米協調派と目される山本ですらロンドン条約の随員であった時、財政が厳しいことを言う大蔵省の賀屋興宣を「黙れ、なお言うと鉄拳が飛ぶぞ」と恫喝したのであった。この本には山本がむしろ対米強硬派であり、海軍が三国同盟に反対したのも賛成したのも、建艦予算獲得のためであったことが書かれている。海軍幹部は戦後も嘘をついてまで海軍を護ろうとしている人士がいる。陸軍の行動は満洲利権保護による国家安泰と言う明瞭な目的があったが、海軍には国家なく海軍あるのみであった。前掲書は興味ある一冊である。

 閑話休題。昭和十六年七月下旬には海軍中央の対米強硬派の主導によって南部仏印への進駐が行われ、その報復措置として対日石油輸出を全面禁止した(P43)。しかし前傾書によれば米内光政は親ソ反米であり、山本五十六が航空整備に狂奔したのは反米の考え方からである。しかも「大東亜戦争への道」、によれば既に昭和十五年の夏には英米指導者が対日屈伏のために対日石油供給停止について立法まで含めて協議していた(P547)のであり、南部仏印進駐はその口実に過ぎなかった。米国は日本を追い詰める既定の路線を走ったのである。

 同書によれば、米国は欧州大戦の推移を見て、日本の南部仏印進駐より前にアイスランドを占領していてグリーンランドに空軍基地を設けていて、日本の南部仏印進駐を非難する資格はなかった(P570)。アメリカも日本も同様に資源確保や軍事的合理性からこれらの行動をとった。本書も結局は全てが日本の行動だけに原因して英米の対日圧力を正当化する、という愚を犯している。外交上の二国間の争いも、一方の国の行動に目を瞑れば他方の国の行動は理由も無い理不尽なものに見えるのである。

 山本の真珠湾攻撃の意図について、犠牲を顧みず真珠湾を徹底的に破壊し、敵の闘志を根本から萎えさせるという自らの真意を、南雲機動部隊にも軍令部にも知らせていなかった(P52)という。それを半藤一利氏の証言から、越後人の人見知りで口が重い性格に帰している。しかしこれは指揮官としては見当違いの話であろう。そして山本が、第二撃がやれれば満点だが、泥棒だって帰りは怖いんだ、南雲はやらんだろう(P54)、と言った、というがこれは前述の山本の意図に反した無責任な言動であろう。ここに記されたことが事実ならば山本は指揮官としての能力が欠如している。半藤氏も戸高氏も贔屓の引き倒しをしているのに気付かないのであろうか。

 山本五十六は知米派と言われている割に、アメリカの友人に宛てた書簡が全く見当たらない、という秦郁彦氏の指摘を紹介している。他の本でも指摘されているが、山本は何回もアメリカに行っているのにアメリカ人とは付き合わなかったのである。そして攻撃されれば猛烈に反発する米国人気質を知らないから見当違いに士気を阻喪するなどという意図を持ったのである。メイン号を忘れるな、とかアラモ砦を忘れるな、と言ったアメリカの戦史する勉強していなかったのである。だから自ら真珠湾を忘れるな、という標語をアメリカに追加させたのである。

もし日本が一時間前に宣戦布告をしていたところで、アメリカ国民は激高したのは疑いが無い。アラモ砦は奇襲されたので怒ったのではなく、守備隊が全滅したから怒ったのである。しかも守備隊は勝手にメキシコ領に侵入して砦を築いたのである。他国の領土に作った砦を全滅させられても怒る国民が、どうして自国の軍港の艦艇が全滅させられて怒らないと言えるのだろう。宣戦布告の遅れについて重箱の隅をつつく人たちの料簡が知れない。

真珠湾攻撃でもミッドウェー海戦でも事前の特別図演では日本側空母は全滅する、という結果が出たのに、それを抑え込んで作戦を強行したのは山本自身であった(P80)。戸高氏は反戦の人として山本を描こうとしているが、本書が並べた事実をつなぎ合わせれば、山本の重大な欠陥が浮かび上がる。

 ブーゲンビル島沖航空戦で、高性能レーダーと戦闘情報センターによる防空戦闘機隊の支援システム、近接信管を備えた高角砲弾を持つようになったため、従来に比べ隔絶した防空能力を持つようになった(P99)、と書く。実際にはそれ以前に射撃指揮装置の能力の差から昭和十七年の珊瑚海海戦でも南太平洋海戦でも日本の攻撃隊は大きな損害を受けている。防空システムにしてもレーダーにしてもこの時突然登場したのではなく、逐次進歩したのである。艦隊の防空能力に大きな差があったのは大戦以前からで、差が広がったのに過ぎない。近接信管の登場はマリアナ沖海戦からで、それも少しが使われたのに過ぎない。

 後半では艦隊航空を使えなくなった海軍が陸上機による攻撃を実施したが、それも次々と失敗に終わったことが書かれているが、この戦訓を考慮しない単調な攻撃はもっと批判されてしかるべきである。酸素魚雷の高性能が日本海軍から突撃精神を奪い、実戦での戦果が僅かであった(P128)と書くがその通りである。酸素魚雷も航続距離を短くすれば高速になる。従来の攻撃砲と同じ距離から発射すれば命中率は上がる。酸素魚雷が恐ろしく遠距離で命中した戦果の自慢が戦記にが散見されるが、そんな戦果は期待するものではない。

 武蔵の主砲の方位盤が魚雷一本の命中で使えなくなった(P165)と言って、大和型のメカニズムは複雑繊細でわずかな被弾で戦闘能力を失う、と書くが、繊細で脆弱ではあったが複雑だとは思われない。システムの全てが米海軍に比べ改良がはるかに遅れシンプルだったにもも拘わらず脆弱だったのである。である。大和型の欠陥は船体防御にも砲弾にも、いくらでもある。猪口艦長は武蔵が被害に強いことと、射撃に自信があったので射撃精度を高めるため雷爆撃に対する回避行動を行わなかった(P163)、とあるがこれは何かの間違いであろう。

 栗田長官は海軍を輸送船と刺し違えて終わらせることに躊躇してレイテ湾突入を放棄した(P174)と同情するが、戦後黙して語らなかった栗田が「疲れていた」とだけ語ったことが象徴するように、そんな立派なものとは思われない。米軍にすらあった、見敵必殺、肉を切らせて骨を切る、の敢闘精神が大戦前から日本海軍では少数派になっていた。被害を恐れるあまりアウトレンジで戦う指揮官が多過ぎたのである。

 最後は特攻の話で終わるが、人間魚雷を発案進言したのが中尉、少尉クラスであったように(P181)桜花などの特攻専用の兵器の多くが、下からの必死の提案でなされたのである。形式的にはともかく、根本的には上意下達の精神が少ない日本では兵士たちに、やむなしの気持ちがなければ特攻は実施できない。

 総評だが、これだけの大きく幅広いテーマなので、この倍以上の紙幅を費やして書きつくしてほしかった。これだけのページにまとめるならテーマを絞った方が良かったのではないか。


山本長官の真意

2021-05-07 14:03:11 | 大東亜戦争

この記事に興味のある方は、ここをクリックして小生のホームページ「近代戦争論」もご覧あれ。

 真珠湾攻撃の図上演習で日本空母は全滅に近くなる、という結果が出たのに平然と無視して強行したのは、誰あろう山本長官である。これは、自分の都合がいいように解釈する日本海軍の悪癖に帰されているが、不利な対米戦に反対した合理主義者として持ち上げられている山本長官にしてこのていたらくである。しかしそれだけだろうか。そして山本長官は真珠湾で米艦隊を全滅させて早期講和に持ち込むつもりだったとされている。しかし早期講和論者であるにしても真珠湾攻撃だけで講和に持ち込めると考えるほど単純だったのだろうか。

 山本長官は条約派と言われているが、実際には主力艦の制限の軍縮条約に賛成する大蔵省の官僚を怒声で恫喝するほどの艦隊決戦派であった。航空機の威力は認めても最後の決戦は戦艦同士で決すると考えていた、こう考えると謎が解けるのではないか。もし真珠湾で徹底的に太平洋艦隊を殲滅するつもりなら、空母を使うにしても最後は戦艦の主砲でとどめを刺すはずであるが、戦艦は遥か後方において海戦に参加させなかった。

 つまり真珠湾攻撃は日露戦争開戦直後の旅順港攻撃と同じで、敵主力の勢力を減殺するつもりだったのではないか。旅順港攻撃には主力艦を使わず、水雷艇の魚雷攻撃を行ったのと同様に空母を使ったのである。旅順港攻撃はほとんど戦果を上げることはできなかった。真珠湾では航空機を使えば空母は全滅するにしても、旅順港よりはるかに大きな戦果を上げることができる、と考えたのではなかろうか。図上演習で空母が全滅すると出ても、主力艦たる戦艦は残るから強行したのである。

 そうすれば来るべき戦艦同士の艦隊決戦で有利に戦え、本当の勝利を上げることができ講和ができると考えたのである。旅順港の体験からは、どのみち真珠湾内では徹底した戦果は得られず、洋上での艦隊決戦によって勝利は得られると考えた。だから真珠湾攻撃では空母を犠牲にして戦艦を温存しようとしたのである。山本長官は図上演習の結果を無視したのではなかった。真珠湾攻撃で日本側の艦艇の損失は零に等しく、航空機だけで大戦果を上げるという予想外の結果に、山本長官は舞い上がってしまった。ミッドウェー攻略でも山本長官は空母の全滅のシュミレーションを無視したが、これは真珠湾攻撃の成功のために、今度こそ自信過剰のために図上演習を信頼しなくなったのである。

 山本長官に躁鬱の気質があったというのが正しければ舞い上がり方は激しい。そのためそれ以後航空機を重用するようになった。だが珊瑚海海戦でもミッドウェー海戦でも戦艦を活用しなかったのは、基本的にはそれが艦隊決戦だと考えなかったためではなかろうか。両海戦ともに、島嶼の攻略作戦であり艦隊決戦ではないと考えたのである。日本海海戦で勝利した日本海軍の首脳は、山本も含め艦隊決戦とは上陸作戦等の具体的な作戦が決行される際に、それを阻止しようとする敵艦隊との衝突のために起こるという、現実的な考え方はなかったのである。

日本海海戦の勝利に酔った日本海軍にとっての艦隊決戦とは、競技場のスポーツのように、互いに艦隊を並べてヨーイドンで戦闘が始まるものであった。だからガダルカナルの攻防で山本長官は艦隊決戦に主力艦を温存するために、艦上機を陸上に上げたり陸攻を使ったりして艦船攻撃をさせて敵兵力の損耗を図った。来るべき艦隊決戦のために。ところが1000kmにもなる途方もない長距離攻撃を漫然と繰り返して大量の航空機を消耗した。戦艦を使って飛行場砲撃を行うにしても、艦齢が最も古い旧式な金剛型を使用した。万一損失しても艦隊決戦への影響は少ないからだ。海戦に空母を活用するのなら、むしろ最も高速の金剛型は温存すべきで、同じく旧式でも主砲の数が金剛型の五割増しの扶桑型の方が陸上砲撃に適しているが、やはり金剛型より砲力と防御力に優れた扶桑型は艦隊決戦に残したかったのであろう。

山本長官はやはり艦隊決戦の勝利による講和に固執したというのが本項の仮説である。航空戦力さえ整えれば対米戦には自信がある、と山本長官は考えていたとされるが、それは根本的に戦艦より航空を戦力として重視したのではなく、航空機による敵主力艦の減耗によって米艦隊との主力艦による艦隊決戦に勝利する自信があると考えていたのではなかろうか。艦隊決戦に勝つことが対米戦争に勝つための唯一の戦略である、というのが日本海軍の戦略なき「戦略」だったのである。 

小生の疑問を付記すれば、何故海軍がそうなったか、である。闘将として知られる山口多聞中将ですら艦隊決戦主義以上の戦略を持っていたようには思われない。こうなった原因のスタートは、日本海海戦の勝利とそれによる講和の成立である。当時の国際法上の戦争は、戦況の有利不利によって最終的に停戦して講和する。日本海海戦が圧倒的勝利に終わり、そのことが講和をもたらしたのである。

だから艦隊決戦に勝利することが講和と言う戦争の決着に直結する、と言う発想が生まれ兵学校や海大などで教育され海軍中枢に引き継がれていったのである。しかも海軍にとって都合がいいことに、艦隊決戦が講和をもたらしたのは海軍が陸戦のサポートや補給の保護と言った、陸軍の支え役であるという補助的本質が否定されたのである。だから海軍は艦隊決戦こそ国軍の最大任務であると、陸軍と張り合ったのである。このことから艦隊兵力の予算獲得だけが海軍政策の最大任務となった。海軍の戦略は艦隊充実のための予算獲得である。

石原莞爾も自覚していたように、日露戦争の陸戦は辛勝であった。建前はともかく、このことは士官学校や陸大に行って真面目に資料を研究すれば分かったはずである。だから陸軍は、日本海海戦は、グロッキー寸前の日本が最後にラッキーパンチを当ててロシアをノックアウトしたのに過ぎなかったことを知っていたのである。奉天の会戦の勝利も、まともに戦えば勝てるロシア陸軍が、ナポレオン戦争と同じく、退却して日本軍を奥地に引っ張り込んで、補給線が伸びきったところを叩くつもりだつたのである。その上大陸に進出した陸軍は満洲鉄道とともにロシアや支那と対峙して統治の一環として軍事を位置づけざるを得なかったのである。だから陸軍には石原莞爾のような戦略家はいても、海軍に戦略家はいなかった。これが本項の仮説である。