毎日のできごとの反省

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書評・沖縄の不都合な真実 大久保潤・篠原章 新潮新書

2016-03-29 16:06:22 | 歴史

 あとがきで書いているように、既得権益を守る公務員を中心とした「沖縄の支配階級批判」だそうである。沖縄の支配階級とは、保守革新を問わず政治家、マスコミ、大手建設業者などの大企業、公務員及び公務員の労働組合、などと言ったところである。この顔ぶれを見てみると、一見不可解である。

 確かに沖縄の政治家は皆同じ、というのは辺野古移設に反対して、自民党政府と対立している、翁長知事が自民党県連の重鎮だ、という珍現象を説明できる。ところが労働組合も支配階級に入る、という認識は本土ではあり得ない。そして沖縄基地撤去一色の沖縄マスコミも、沖縄自民党も含めた政治家全部と組んでいる、というのだ。

本書を手にしたときに、基地反対を訴えて実は撤去よりも、政府からの振興資金や借地料を増やす魂胆の矛盾を単純に言うのかと思った。もちろん、その側面もある。だが一方で、「閉鎖的な支配階級が県内権力と一体化しているため、沖縄には県内権力を批判するマスコミや労組、学識者などの左翼勢力が育ちませんでした。(P90)」と書いてあるのには驚いた。

筆者は左翼が健全な思想の持ち主だ、というのである。この点に違和感を感じる以外には、筆者の姿勢は客観的であろうとしていることが、良く分かる。何せ、現実の沖縄の労組は支配者側だと言うのであるから。ただ一点、日本の安全保障の観点がほとんどないが、筆者のえぐり出したい、沖縄の実相と言うテーマから離れるからであろう。

沖縄の最大の問題は、基地があることによって、沖縄が一体となって反対運動をし、それにより振興資金が投入され、減税が行われるが、潤うのは支配階級だけだから、格差が広がるだけである、ということである。実は日本一危険なのは普天間ではなく、厚木基地である(P72)。その上、普天間で危険な、普天間第二小学校は、基地が出来て24年後に、危険を承知でわざわざ建てた(P75)というのだから、たちが悪いとしかいいようがない。

筆者らが他の「左翼」と一線を画している点がいくつかある。そのひとつは「いつのまにか、沖縄人は大江健三郎と筑紫哲也が言う被害者沖縄のイメージ通りにふる舞うクセがついてしまった」「沖縄が自立できないのは筑紫哲也のせいだ」(P142)という、沖縄県民の言説を紹介していることだ。

常識では左翼は、大江や筑紫をこのように批判するどころか、二人の言辞を持ち上げるのが普通である。また沖縄在住の作家、上原稔氏が、連載物に慶良間諸島の集団自決について「軍命」はなかったことを実証した文章を載せようとすると、掲載を拒否されたことを批判している。(P176)

同様に、渡嘉敷、座間味における集団自決について、大江が「軍命による集団自決」と書いているのは嘘だ、という訴訟が起こされ、原告は曾野綾子氏の文章を根拠として、実は、戦傷病者戦没者遺族等援護法の適用申請(年金受給)のために、「軍命による強制」という虚偽が必要だった、と主張した裁判の件を紹介している。(P179)

本土であれば大江や筑紫の応援団になるのは左翼であり、沖縄の集団自決は軍命によった、と主張するのは、左翼である。典型的な左翼を日本共産党や社民党とするならば、両党は、沖縄の集団自決は軍命によると、主張している。ところが、筆者たちによれば、沖縄ではこれらの主張をするのは、沖縄の支配層であり、エリートたちである、というのだ。

本土に住んでいる人々は、これらの主張は沖縄において、左翼的言論界が主張しているものだと考えている。ところが、筆者の言うように、そうでないとするならば、沖縄の状況が外部から分からないのも当然であり、沖縄自民党の幹部であるはずの、翁長知事が、辺野古移設に強硬に反対するのも分かる。

沖縄の知念氏が中学生たちとの対談で、結果的に沖縄独立を示唆しながら、独立について明言しないことを批判している。(P209)だが、筆者自身は沖縄独立論は、単に自発的なものばかりではなく、中共による工作の影もある、ということには言及しない。これは片手落ちだと思う。沖縄の事態は相当に複雑なのである。


「東京裁判」は大量殺人事件

2016-03-19 15:20:20 | 大東亜戦争

東京裁判は大量殺人事件

東京裁判は現在では、内外の多くの識者や国際法の専門家などから、当時の国際法にも国内法にも基づかない違法なものであることが立証されており、批判の論理は明快である。近代法で禁止されている事後法など、欠陥だらけどころではない、裁判と言えるものではない。

 すなわち、多くの観点から裁判とは言えない、インチキなものであったことは明白である。とすれば東京裁判とは何であったか。たとえれば、ある集団と別の集団が喧嘩をして争ったとする。

その結果、勝った集団は、警察を呼ばずに勝手に、自分の集団のなかから裁判官や検察官なる名前をつけて任命したことにし、裁判の形式をとって判決なるものを宣言し、負けた集団の代表を何人も殺した。処刑した、といえば合法に聞こえそうだから、あえて、殺した、と言っておく。

 たとえれば、東京裁判はこのようなものであった。もとより裁判ではないのである。ある裁判で誤審があったとか、手続きに瑕疵があったから間違っている、ということとは全く異なる。争いの相手を殺す口実として、内輪で裁判もどきを行ったのである。従って東京裁判とはリンチ同然の、歴史的大量殺人事件であった。それをれっきとした政府が行ったのである。

政府が行うことができる「合法的殺人」は基本的に戦争における敵戦闘員と、死刑の執行だけである。「東京裁判」ではそのどちらにも該当しない。政府機関の職員たちが、他国に行って、7人の大量殺人を行ったという恐ろしい事件なのである。

 


台湾の親日にはフィリピンの犠牲があった

2016-03-13 14:13:39 | 大東亜戦争

 米軍は、対日反攻作戦で、陸海軍ともに、フィリピン攻略の必要性を認めていなかったのが大勢であった。一気に台湾を攻略して、次に沖縄侵攻、というのが米軍並びに、政府の考え方であった。ところが絶対にフィリピンを攻略すべきだと主張したのが、かのダグラス・マッカーサーである。

 マッカーサーは日本のフィリピン攻略で、負けが確実となると、多くの部下をバターン半島やコレヒドール島に残したまま、家族と幕僚たちだけを連れて、魚雷艇で逃げ出した。その時言ったのが有名な、I shall return.である。俺は逃げたのではない、と虚勢をはったのだが、トラウマになったのである。

 この一言のために、マッカーサーは軍事的合理性を無視して、フィリピン攻略を強硬に主張した。フィリピン戦の敗北にもかかわらず、日本の勝利に対する怨嗟からマッカーサーは、国民的英雄に成り上がった。そのマッカーサーは個人的復讐感情から、フィリピン経由での対日反攻作戦を強行に主張した。英雄となったマッカーサーの意見を大統領はいれた。そこでフィリピンでは激しい戦いとなり、多くのフィリピン民衆が犠牲となった。その大部分は米軍による無差別攻撃によるものであった。

 とはいえ、山下将軍がマニラを無防備都市宣言して、戦火を免れさせようとしたのに、マニラ戦を強行させた大本営にも、その責任の一端はある。アメリカに怨嗟の声を上げることのできないフィリピン人が、日本を恨むしかないのは当然である。

 いくら日本が台湾で善政をしいたとしても、フィリピンを通り越し、台湾に米軍が上陸して、多数の台湾人が犠牲になっていたとしたら、現在のような親日国になってはいなかっただろう。ちなみに小生はフィリピンが一度米軍の駐留を拒否したのは、苛酷な植民地統治や、大東亜戦争での米軍による民衆攻撃に対する怨嗟が根底にあるのだろうと思っている。

 しかし、米軍の撤退をきっかけとして、フィリピンなどが領有を主張する、スプラトリー諸島に、中共が本格的に侵略をはじめてきたのは、皮肉なことである。同盟において、過去の経緯にこだわることは、必ずしも現在の国益にとって有益になるとは限らない、ということの見本であろう。

 


シャッター通り商店街考

2016-03-05 14:44:19 | 社会

 地方に行くと、確かに、俗に言うシャッター通り商店街が多い。その点だけ見れば地方の商店街は疲弊しているように見える。東京でも同じ景色が見えるが、都心などの地価がべらぼうに高そうなところを見るとそうではない。これは地方でも同じで、博多などの大都会の駅前周辺に行けばシャッターが下りている店は少ない。これは、大都会の地価の高い所では、うまくいけば儲かる可能性はあるが、失敗して利潤をあげられなければ撤退せざるを得ず、その後に成功をもくろんだ新規参入者に入れ替わるからである。

ところが駅から少し離れて地価が低そうな所に行くと、やはり商店街は活気がない。数年前に見た、阿波池田駅前の目抜き通りの商店街は典型的なシャッター通りであった。ところが、商店街の住民やその周辺を見ると、貧しくて困っているようには見えない。都会でようやく一戸建てに住んでいる住民の方が、よほど窮屈で貧相な住生活をしているとしか思われない。地方のシャッター通り商店街の住人の方が実態としては、よほど豊かではなかろうか。

 総武線のある駅から100m余りの、商店街の入り口の一等地に八百屋があって、お年寄りが老猫と一緒に店番をしていた。不思議なことに、この店に客がいたのを見たことがなかった。これはシャッターを下ろしているのと同じだが、このお年寄りは裕福そうであった。こんなところにシャッター通りの秘密があるように思える。

 シャッターを下ろしてしまった店は、後継者がいないとか、儲からないとかの理由で確かに、商店の営業を維持することが不可能になったのであろう。その場所で商店という業形態を維持できなくなったのである。大規模店舗法が改正されて大規模店舗が出店しやすくなったために、小規模店が維持できなくなったから、というのが定説であるが、果たしてそうだったのだろうか。

 小地方都市に住んでいる消費者の立場になって考えてみよう。大規模店舗が制限された小地方都市では、小規模店でしか買い物ができないとすれば、極めて限定された商品しか手に入らない、魅力のない街になってしまう。マスコミの発達した現在では、大都市の消費生活の華やかさが、全国津々浦々でも見えてしまうのである。

 商品の選択肢が狭い上に、都会なら高い者から安いものまであるのに、価格の選択肢まで狭くなる。都会にいれば必ず物価が高いと言うわけではない。その上に何とかモール、というのは単なるスーパーではなく、買い物ばかりではなく、飲食や映画、ゲーム施設などのレジャー施設もある。

要するに街の商店街に代わって新しい商店街が、それも都会に準じた商店街が登場したのである。消費ばかりではない。雇用も創出している。このような商店街の形態がベストだと言っているのではない。ただ旧来の駅前個人商店街形式にだけこだわるのは、消費者にとっても働く者にとっても、現代の日本では得策ではなかろうと思うのである。

変化の波に倒されたのは小規模店舗だけではない。日本のスーパーのはしりであった、ダイエーすらイオンに子会社化された。世の中は変化する。変化こそ、社会のエネルギーのひとつの源泉なのである。もちろん一方で変化しないものが価値のある場合もあるのだが。シャッター通り商店街、というものをいろいろ見た小生の、とりとめのない雑感である。