毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

何故日本の景観は雑多になったのか

2022-12-25 15:32:24 | 文化

 書評でも論じるから重複するが、東郷和彦氏は「戦後日本が失ったもの」と言う著書で、ヨーロッパの街並みに比べ日本の風景は特に戦後醜く雑多になった事を長々と論じている。そして雑多な町並みは全国同じような風景でかつてのような地域による個性が無いとも言う。同書でも紹介しているように、幕末に日本を訪れた欧米人は日本の街並みの美しさに感動したというのは複数の文献から証明できる。東郷氏は今日の雑多で醜くなった日本の街並みを作ったのは昔と同じDNAを持った日本人とは思われないと言う。ここまでは反論の余地が無いように思われるし、このことは定説と化している。

 私は「同じ日本人が」と言うところに実は疑問を持った。同じ日本人が違う事をしているのではなく、同じ事をしているのではないか。それはメンタリティーが変化する原因が見当たらないからである。だから江戸期の日本の街並みが綺麗にそろっていて整然としていたのは、メンタリティーに起因しているのではないのではないか、と考えるしかない。考えられる一つの原因は、テクノロジーが低かったからである。似たような材料で似たような低い技術でしか作ることができなかったのである。メンタリティーの問題でも現代ヨーロッパのように法律などで景観を統一したのでもなく、似たようなものしか作れなかったと考えるのが最も自然である。

 人々は皆が等しく、地元産の素材を使い受け継いだ同じ技術で営々と街並みを作っていった。だから質素で統一的な景観が出来るのである。その上幕末明治の欧米人の紀行文に書かれているように、不潔できたない支那や朝鮮と異なり、日本人は清潔好きで清掃も行きとどいていて綺麗である。もうひとつは、各藩が独立していて交流が少ないから自然とその地域の材料を使った独特の技術を養ったから、地方ごとに統一された独自の景観が養われて行った。地域ごとに個性的な建築ができるよう地域の景観の個性がはぐくまれていったのは、実に藩の間の交流が禁止されていたという、現代ではありえない条件に支えられていたのである。さらに寺社と違い木造の、安価で居住を条件とする家屋が技術的に高層にできようはずがないから高さも統一される。高層建築は寺社が稀に作るものだから一種のランドマークになる。こうして西洋人が感動する街並みが出来た。

 ところが貧しかった戦前と異なり豊かになって行った日本は欧米の技術を用いた建築を庶民まで安価に作ることが出来るようになっていったのである。元々景観を守ると言う発想で景観を統一したのではなかったから、西欧の技術で安価に多種の建築ができるようになってくるとそれを積極的に導入した。元々日本人は外国のテクノロジーに対する好奇心が強い。そして戦後はとみに建築業者の大手が全国で大量に安価な建物を供給すると、雑多ではあるが、どこの地域の街並みも同じような地域の個性がない建物ができると、地域の景観の個性がなくなった。東郷氏が言うように「公」としての日本が何かということが、我々のDNAから欠落してしまった(P128)という事ではなかろうと思う。江戸時代の日本人が「公」の意識から景観を統一したという証明は東郷氏もしていない。

 景観無視のコンクリートの護岸も同様である。戦後治水や下水道のために町中の河川がコンクリートで安価に整備することができるようになった。景観よりも機能の充実が喫緊の課題であった。それらが充実して満たされると、必然的に景観の重視を求めることができるゆとりができると、醜いが安価で当座の機能を満たしたコンクリートの護岸が果たした役割が忘れられて、非難の的になっていったのである。正に衣食足りて礼節を知る、であった。醜い電柱と電線も同様である。電線を地中に埋めるよりも電柱を使う方が安価であり、急速に増える戦後の電化需要を満たすには電柱も仕方なかったのである。電化の普及が終わると、張り巡らされた電線の醜さに気付くゆとりが生まれ、電線の地中化の事業が始まったのだがタイミングが遅すぎた。公共事業削減のあおりを受けて、機能上問題が少なく景観にも良い電線地中化の事業は細々と続けるしかなくなって現在に至っているのである。

 一方で東郷氏が言うように、確かに欧米の建築は長持ちして家主が変わっても建物は変わらない。日本の木造建築は法隆寺などのように歴史的建造物はともかく、木造では庶民レベルで長持ちするものを作るものは無理だったのである。庶民とはかけ離れているが伊勢神宮がわずか20年で立て替えるのに象徴されるように古来建物は立て替えるものだ、と言うのが今も続く日本人の意識なのであろう。現に住居を頻繁に立て替える、というのは東郷氏が景観を称賛する江戸時代もそうであった。江戸市中は火事が多いため、焼けて立て替えることを前提としている。個人住宅で白河郷のように長期間持つ建築というのは例外なのであろう。小生には検証するすべがないが、江戸時代の白川郷の茅葺屋根の木造住宅が何百年ももつとは考えられない。近年になってあのような木造建築は、現代ではコストから立て替えが困難になって、立て替えのインターバルが長くなったのではなかろうか。白河郷の人たちにしても、観光のために我慢しているのであって、当座の生活を重視すれば安普請の現代建築に住みたいのであろう。

 私は醜く雑多で地域の個性のない現代日本の街並みを改善すべきである、という主張に反対しているのではない。その原因が日本人の考え方が変わったことにあるのではない、と言いたいだけである。その改善には法律で強制するのではなく、人々が受け入れることができる適切な動機付けが必要であろう、と言うことである。現に東郷氏が小樽の例を挙げて、小樽のレトロには生活の香りがなく観光のための努力の跡だと述べている(P111)のは私の言わんとすることと同じだと言うことは理解していただけると思う。さらに小樽の運河がオランダの運河に比べてなにかしっくりこなかったのは、運河が街全体の生活の中に溶け込んでいなかったからだろう、と述べているのも私の意見と同様である。観光のために無理やり過去の景観を保全しても、運河が現実に使われると言う必要性で存在しているオランダの自然さにはかなわないのである。


日本人の性に関する意識について

2020-05-01 16:25:16 | 文化

日本人の性に関する意識について

 古来、日本では現在に言われるほどに、性についての貞操観念と言うものは、厳格ではなかったと言うのが、小生の調べる限りでの常識です。貞操観念が厳しくなったのは、明治以降に大挙して入ったキリスト教の影響によるものが大であろうと考えます。大衆浴場と言えば、長い間男女混浴当たり前の世界でした。それが西洋人に野蛮と思われる、というので政府が禁止したのです。今では日本人自身が混浴なんて野蛮な、と自然に思うようになっています。常識も人為的に変わる場合もあるのです。大著なのでまともに読み通したわけではありませんが、概要を聞く限り、源氏物語は、今日の目から見ても奔放な自由恋愛物語ではありませんか。

 明治期においては、軍人の恋愛結婚と言えば、大抵は売春婦(芸者)との結婚であったと言うのです。女性と親しくなるのは芸者遊びしかなかったからでもありますが。ところが奥さんが売春婦上がりであったということによって、出世に差別は全くありませんでした。何も見ずに書いているので名前は忘れましたが、奥さんが売春婦上がりで将官にまでなった人はいくらもいるはずです。政治家なども似たようなものです。

 一方で鴎外・森林太郎は、外国人と結婚すると、軍人としての出世の妨になるとのことで、母や上司に妨害されて、軍人を辞める覚悟でのドイツ女性との結婚を放擲させられて生涯悔いています。母の軍人として出世してくれと言う願いが絶大だったようです。相手が日本人なら売春婦でも結婚できたのです。

 たとえキリスト教の影響が明治に入ってきたと言っても、過去の風習はそう簡単に消えるものではありません。これは仮説ですが、大衆に売春は悲惨なものと言う意識を決定的に植え付けたのは、大恐慌だったのではないでしょうか。大恐慌によって食うや食わずになった東北の農民が、借金のかたに娘を売春宿に売り込まざるを得ない羽目になったのです。

 五一五事件や二二六事件などで、不況にあえぐ農民を救わんとして唱えられた昭和維新なるものがあります。これは共産主義者にそそのかれた面が大きいにしても、下級将校たちには、娘を売春宿に売り込まざるを得ない、東北の貧困は政治の貧困として、怨嗟打倒の対象となったのです。

 こうして、未曾有の不況から起きた、娘を売春宿に売る、という行為は許されざる悪として日本の社会に定着していったのではないでしょうか。兵士の姉、妹が売られていったのです。それによって、戦後には、売春防止法制定と言う運動に発展したものと推量します。それまでは、江戸時代よりはるか以前から、単なる職業のひとつに過ぎなかった売春と言う行為が、賤業として卑しめられていったのです。

 今でも時代劇に出てくる、花魁の行列は華々しくはあれ、賎しいものではありません。しかし、他方で売春は賎業だと言うテレビの脚本家たちは、同時に性病でだめになっていく、哀れな売春婦をも描くことを忘れません。現代に作られる時代劇では、娼婦たちは哀れなだけの存在でなければならないのです。キリスト教の布教などの西洋文化の流入に伴う、それまでになかった貞操観念と、大恐慌によって売られていく哀れな娘たち、そしてそれを弄ぶ大財閥というような観念が、売春というものを賎業と言う意識を生み出したものと想像します。

 小生は売春を論じてきましたが、必ずしも性風俗イコール売春ではないとは思いますが、イコールの場合もあるはずです。その場合は売春防止法が戦後成立した以上は、現在の性風俗産業即違法となります。違法であるにも拘わらずニーズがある以上存在する、ということです。その問題点は論点をはずれるので、これ以上は言いません。ただ性風俗を賎しく辛いだけのものである、というのは日本の古来より続くものではなく、明治維新を契機として始まり、戦後になって常識となった観念である、と言っているまでです。


書評・鴎外の恋人・今野勉・NHK出版

2020-04-23 15:35:43 | 文化

 隅田川神社のすぐ近くにある、「医学士須田君之碑」の写真から書き取った漢文をおおまかに訳してみた。この碑に注目したのは、「撰」が鴎外との確執で有名な上司の、石黒軍医総監だったからである。この碑の漢文の要約については「医学士須田君之碑」という以前のブログを見ていただきたい。確執の原因の大きなもののひとつは、鴎外のドイツでの恋人を別れさせたことだったと記憶して居て、それをブログに書こうと思ったが、鴎外のドイツでの恋愛については、石黒軍医総監はもちろん、親類縁者も無視するがごとくで、詳細が不明なので、鴎外の本を図書館に探しに行った。

 そこでズバリこの本を見つけたのである。「舞姫」はドイツ留学中の恋を題材にした物語であることは有名である。ところが、本書の内容はそればかりではなかった。本書の意図は鴎外の恋人の名前などの特定で、推理ものの一面があったが、結果的に鴎外の一部の伝記ともなっていた。読み進むと小生が、二葉亭や漱石に比べ、鴎外の心の遍歴の肝心の部分をほとんど知らないことを実感した。鴎外は留学先で、哲学の議論をして相手のドイツ人を公衆の面前でやりこめたなど、外では傲慢に振舞いながら、家庭では母と二番目の妻茂子の間に立っておろおろして生活していた、と言う程度の知識である。

 女性に対してやさしかったはずの鴎外が、わずか一年で離婚したのは、恋人(以下アンナという)が忘れられなかったからであった。「普請中」などに淡々と書かれている、日本でのアンナとの再会は、単にアンナが勝手にドイツから押しかけてきたのではなく、軍を辞めてでもアンナと日本で結婚することを固く決意した鴎外・森林太郎が、アンナと示し合わせて、鴎外の一便後の日本行きの船にアンナが乗っていたのだということ。そのことを知らされた石黒は、帰国の船で鴎外と漢詩のやりとりを繰り返しており、石黒は、軍人は外国人と結婚してはならぬ、と説いたのだった。

 鴎外は、日本に戻るや、家族にアンナとの結婚を許すよう説いて回り、一度は陸軍の大物が進める縁談を断るが、結局は母・峰子の強い意思に挫けてしまった。鴎外にとって母は絶対的存在だったのである。一度断った女性と結婚させられたのだから、この結婚は互いに不幸の元だったのは当然であろう。

 特定された鴎外の恋人の名はアンナ・ベルタ・ルイーゼ・ヴィーゲルトだった。ところが鴎外は関係を隠すため、アンナをドイツにいた当時普段からエリーゼと呼びならし、「舞姫」の主人公の名に、似た響きのエリスとつけたのもそのためであった。鴎外は子どもに全て、洋風の命名をしているが、後妻茂子との間に生まれた子供の名を杏奴と類と名付けたのは、アンナとルイーゼの名を刻みたかったのだというが、その心情は小生には解せぬ。

 名をつけられた子供たちは、名前が実の母ではなく、かつての深い思いの恋人の名前に由来する、と知ったらどんな気がするだろうと思うからである。ちなみに鴎外の子供たちは、私の知る限りアンナのことについて多くは語ってはいない。

                  ◇

鴎外の有名な遺言

前略・・・死は一切を打ち切る重大事なり。奈何なる官憲威力と雖、此に反抗することを得ずと信ず。余は石見人、森林太郎として死せんと欲す。・・・以下略

という激越な遺書は単なる反骨ではなかった。アンナとの結婚を邪魔した軍関係者に対する反感と、自身の無力に対する激しい悔恨であったろうと小生はようやく理解した。鴎外とアンナとの関係を軽く見ようとする通説は、妹喜美子などの親類縁者や石黒ら陸軍関係者の、ためにする言説によるものであろう。生涯アンナを深切に思うことができた鴎外は、大きな不幸の中にも一縷の幸せを見いだしていたのだと、小生は思いたい。


西洋文明も模倣である

2020-04-18 00:37:54 | 文化

 現在の西洋文明も模倣から始まった。それは当然である。文明は過去あるいは同時代の先進の文明の模倣から始まる。現代ヨーロッパ文明は古代ギリシア、ローマ時代、あるいはアラビア文明の模倣から始まった。分かりやすいのが絵画である。キリスト教絵画である。ダビンチなどのような立体的写実的がギリシア時代からヨーロッパで連綿として続いてきたかのように考えるのは、単純明白な誤りである。

 中世のヨーロッパなどは世界の文明の片田舎であった。文明の中心はペルシア帝国などのイスラム国家であった。ヨーロッパは神聖ローマ帝国などと言っているが、それは古代ローマ帝国などの古代文明の地域をゲルマンなどの蛮族が侵入して蹂躙した後の残骸である。西洋史の歴史書にもローマ帝国の復興などと言っているが、かつてローマ帝国の中心があった地域に、この地域に侵入した別のいくつかの民族が新しい帝国を建てただけのことである。

 ローマ帝国の復興を呼号したのは、ローマ帝国こそヨーロッパ地域の正当な支配者であると考えられていたからに過ぎない。つまりローマ帝国の再現と称することによって自らの支配の正統を主張していたのである。ヨーロッパ地域におけるかつての最大の帝国であったローマ帝国とは、この地域の正当な支配者を意味していた。このことは支那大陸で、王朝を倒した異民族が、漢民族王朝皇帝を名乗ったことと酷似している。清朝崩壊は、滅満興漢、すなわち満洲族王朝を倒して漢民族王朝を再建することを呼号して行われた。そして一瞬だが、袁世凱は皇帝を称した。

 いにしえのヨーロッパのキリスト教絵画は、東洋風の平面的な描写であった。これには、偶像崇拝が嫌われていたため、故意に写実的な表現をしなかった、という説があるが、小生にはそうは思われない。ルネッサンスの時期を経て、現在のような立体的写実的な絵画に生まれ変わったのだが、西洋絵画の立体的な表現は、ギリシア・ローマの写術的な彫刻の模写から始まったのである。ルネッサンスとは文明復興とも訳される。つまり古代ギリシア・ローマ文明を我らヨーロッパ人は取り戻すのだ、という宣言である。

 ここに巧妙な嘘がある。これではあたかも連綿として続いてきたギリシア・ローマ文明の末裔であるヨーロッパ人自身が、かつての古代ヨーロッパ文明を取り戻す、という嘘である。古代ギリシア・ローマのヨーロッパ人と現代ヨーロッパ人にはほとんど民族のDNAは繋がっていない、異民族に等しい。現代ヨーロッパ人は古代ギリシア・ローマ人の文明を模倣して、あたかもその末裔であるように振舞っているだけである。ルーマニア、というのはローメニアンすなわちローマ人の末裔を呼号する名称だそうだが、実態は不明であろう。

 だからルネッサンスとは文明の遅れたヨーロッパ人が古代文明の成果を取り入れて、イスラム世界のくびきから脱しようとして立ち上がった運動である。例えば文学の方面では、古代ギリシア・ローマの古典はアラビア語に翻訳されていて、それをドイツ語、フランス語などのヨーロッパの言語に翻訳することからルネッサンスは始まった。

 ギリシア・ローマの古代文明はアラビア語圏のイスラム世界に継承されていたのである。だから当時のヨーロッパ人はアラビア語を理解しなければ、先端技術を取り入れることはできなかった。現代のアジア諸国の多くでは、自らの言語で書かれた科学技術書がなく、多くの場合英文の書物を読まなければならない。煎じ詰めて簡単にいえば、当時のヨーロッパはそうした文明後進地域だったのである。

 ヨーロッパはアラビア語を通してそれを模倣したのである。現代数学に使われている数字はアラビア数字であることなどは、その象徴である。皆様、何故「アラビア」数字が「ヨーロッパ」人に使われているのかこれで理解いただけたでしょう。その後アラビア語からの翻訳ではなく、ギリシア・ローマの公用語たるラテン語やギリシア語から直接ヨーロッパの言語に翻訳されるようになった。その残影は、既に生きた言語ではなくなったラテン語を、今でもヨーロッパ人は教養の素地として大切にすることに表れている。西欧系の言語では、今でも新語を造語する際に、ラテン語をベースとしていることが多い。

 繰り返すが、西洋文明はギリシア・ローマ文明の模倣である。それは恥ずべきことではない。文明の継承は模倣から始まるからである。そして私は、ルネッサンス以後現代に至るまで、ヨーロッパの文明の発展は、ギリシア・ローマ文明の創造に匹敵する恐るべきものがある、ということを認めるのにやぶさかではない。

 日本でも江戸時代に関孝和が微分積分を発見していた、ということを称揚する説があるが、関孝和の計算は数値計算手法であって、微分積分に必要な零や無限大と言った極限値の概念がなかったから、正確には微分積分に限りなく近づいていたとまでしか言えないそうである。それでも日本人の知的興味とその成果は、非ヨーロッパ民族としては秀でたものがあったことは自負してよかろう。明治維新で、西欧文明を奇跡的に早く吸収したのは、そのベースがあったからである。その意味でも模倣は文明の継承と創造であって、僻目で見るべきではなかろうと思う。


チップは不合理である

2019-09-08 14:50:25 | 文化

 以前パキスタンに仕事で行ったとき、ホテルの風呂が故障して水が出なくなった。そこで電話したら、メードらしき女性が来て手際よく直してくれた。それで、帰っていいと言うと、下を向いてもじもじしてなかなか帰らない。貧相だが、良く見ると別嬪さんなのがいじらしかったが、強引に帰らせしまって後で気付いた。メードは修理したら当然チップをもらえると思っていたのだ。

 こちとらは、そんなことは分からない。日本人なら仕事をするのは当然と言う感覚である。外国のチップとはかくも日本人にはなじまない。日本人は外国に行ったらチップは払うものと慣らされていて、その不合理について批判しない。だが規定料金以外に明示されていないものを払わなければならないのは不合理である。


 チップはサービスにたいする心づけだと言うが、心づけなら払わなくてもいいはずだが、そうはいかないからおかしい。しかも料金の何%程度と相場は決まってはいるものの、明確ではない。請求された額だけしか払う必要のない日本の料理店の方がはるかに合理的である。かのメイドさんはまだいい。本給がもらえるからである。チップは余禄だからである。ラスベガスのカジノではそうではないそうである。ゲームの合間にドリンクを持ってくるバニーガールの収入はもらったチップだけだそうである。

 ここまでくれば不合理どころではない、インチキである。小生は純然たる田舎者である。バニーガールが持ってくる、リキュールやソフトドリンクを散々飲みながら、全然チップを払わなかった。しかし何も言われなかったのは、ラッキーだったのかもしれない。もしかするとこわもてのガタイのでかい兄ちゃんにしょっ引かれてぼこぼこにされていたかもしれない。田舎者はカジノなどに行くものではない。


漱石の名言

2019-07-06 17:57:06 | 文化

漱石の名言

 漱石の名言と言えば、いわゆる名言集に数多く収められている。「草枕」の次の一句もその一つである。

 「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角この世は住みにくい。」

 このような漱石の名言は世に溢れているから、まず世間に知られていない、小生推薦の名言を紹介する。

 最後ノ権威ハ自己ニアリ

 という一言である。これは漱石全集・昭和五十四年刊行の第二十五巻「日記及断片」P105の断片の一行である。前後に脈絡も説明もなく、突然書かれているだけの素っ気ないものである。短編どころか、日記でもない、単なるメモである。だから誰も気付かないのだろうと思う。この一言は漱石の面目躍如たるものであると考える。

 「最後の」という言葉は英語を専門とした漱石だから、混乱して聞こえるかもしれない。He is the last man 云々・・・。

 と書いたら、彼は何々をする最後の人である、と直訳してはならず、彼は絶対に何々しない、と訳すのは受験英語でも基本である。英語の苦手な小生でもご存じである。ところが漱石の言葉はこのような英語風にとってはならないのである。

 文字通り、最終的にものごとを判断するのは自分自身である、ということを警句風に表現したものである。つまり、物事の判断基準は自分自身にしかない、ということだから判断基準は自分にあるのだ、という傲慢な言葉にも聞こえよう。

 そうではないのである。たとえ権威者が言ったことでも、それを理解せずに鵜呑みにするな、ということでもある。結局は自分自身が判断しなければならない、ということである。これはとてつもなく自分に厳しい言葉ではなかろうか。判断基準が自分自身にある、ということは自分の知性なりを磨かなければならないことを意味する。

 人は万能ではない。知識にも判断力にも限界があるから、間違った論理判断を展開することは稀ではない。それでも最後の権威は自己にしかあり得ないのである。自分自身の行いについて判断を有識者に仰ごうと、結局それを理解して決定するのは自分しかいないのである。出来事の解釈とても同様である。世間に事件があった時、それをどのように解釈するのは、結局自分自身でしかない。

これは政治家にも大いに言える。政治家は多くの専門家からアドバイスを受けるが、結局判断するのは政治家自身なのである。それ故政治家は、自己を研鑽しなければならないのである。単に専門家の判断だから従う、ということであってはならないのである。かといって、研鑽をできていない政治家が、とんでもない誤判断することがあるのは、過去の事例が示すところである。小生のような市井の人にとっても同様である。座右の銘というよりは自戒の言葉としたい所以である。


書評・江戸のダイナミズム・西尾幹二

2019-06-18 00:49:21 | 文化

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本居宣長などの江戸の思想家を高く評価して論考している。特色は、西洋の思想と時代的にパラレルのものがある、としながらも、西洋の思想との類似性があるから日本の思想も優れているという西洋を基準とした評価の方法を徹底的に排除していることにある。また万葉の時代には日本語の音は88位あり、平仮名が奈良時代に生まれたら、仮名は88個位になったであろうと、という面白いこともかかれている。(P446)とにかく大著であり、小生が批評するには到底手に余るので止める。ただ、一点だけ疑問を呈したい

 それは漢文を中国語の文字表記と捉えている節があることである。他の評論でも繰り返し述べたが、岡田英弘氏によれば漢文は中国語の文字表記ではなく、もちろん古代中国語の文字表記でもなく、表意文字による情報の伝達手段である。文字表記の方法としては原始的なものである。荻生徂徠が支那の古典を返り点を打たずに、文字の順に白文として中国語の音として読んだ、という。そのために徂徠は中国人から漢字の音を学んだという。

 だがこれは二重の意味で奇妙である。西尾氏は中国は漢唐の時代以前とそれより後では断絶しているという。従って、呉音、唐音などというように漢字の読みも変わっている。徂徠の時代の清朝の音と支那の古典の音とは異なる。徂徠は古典当時の読みではなく、現代の音で読むという奇妙な事をしていたのである。また白文とは言っても、古典の漢文は古典の時代の支那人が話していた言語の文字表記でもないのである。恐らく徂徠は白文を声を出して読むことで、古代の支那の言語を語っていたつもりなのである。

 同じような間違いは、現代日本人でもやりかねない。以前NHKの漢詩のコーナーだったかと思うが、漢文書き下し、つまり日本語表記式ばかりではなく、中国語で読む、と称して、漢字の並び通りで、「中国語」読みしていた講師がいた。しかし、これが北京語読みならば、李白、杜甫が詠んだ漢詩の発音とは全く異なる、奇妙奇天烈なものである、ということはご理解いただけるだろうか。

 清朝においても、支那本土でも漢文は読まれ、文字表記として使われていた。漢文は支那古典に記された漢文が基準とされていた。だから科挙では漢文の作文などがされたのである。ところが清朝でも既に支那本土では、広東語、福建語、北京語などのいくつかの言語を話す地域に分かれていた。これらの言語の差異は方言などという程度の差ではなく、フランス語、ドイツ語、スペイン語と言った程度の異言語である。これらの異言語を話す人々が漢文という共通した文字表記を使っていたというのも奇妙な話なのである。

 清朝ではまだ、広東語、北京語などの漢字による表記法がなく、漢字による文字表記法と言えば漢文しかなかった。例えばフランス人、ドイツ人、スペイン人が各々の言語をアルファベット表記する方法がなく、これらの3国人が共通して読めるアルファベット表記法があったら、と例えたらこの奇妙さが良く分かるであろう。だが、これらの漢文に対する西尾氏の誤解は、この本の論考に根本的な間違いを生じるものではないことを付言する。さらに言えば岡田英弘氏が言う、漢文には文法がない、ということは西尾氏は薄々承知している節がある。「中国語のシンタックス」と言っていて決してグラマーとは言わないからである。その意味では、漢文の性格について西尾氏は明瞭ではないと思われる。しかし、これだけの博識の西尾氏が、岡田英弘氏の、漢文は古代中国語ですらないという説を知らないとは思われないのが不思議である。


伝統継承のふたつの意味

2016-08-14 15:19:38 | 文化

 日本画の大御所の伊東深水は、鏑木清方らに続く、浮世絵の歌川派の系統の美人画の正統な後継だと言われる。一方で歌舞伎は日本の伝統芸能の正統な伝承である。果たしてこの二つの正統な後継や伝承の意味は全く異なる

 まず、歌舞伎である。絵画や映画と違い歌舞伎は、音楽と同様に今再現しなければ、かつて演じられていた歌舞伎の演目を見ることはできない。これは絵画が完成してニ百年前の作品であろうと、眼前に常に同じものが存在することが出来るのと全く状況が異なる。

 歌舞伎の伝統の正統な伝承とは、江戸時代に演じられていた歌舞伎の忠実な再現である。極論を言えば、生きた人間を使って江戸時代に演じられていた演目を極力忠実に再現する人間テープレコーダである。実際には役者の個性や伝承の間に微妙な変化が生まれて、当時のものとは実際には異なるのも当然である。

 歌舞伎の新作が作られて同じ役者が演じていた時代ですら、役者の技量や解釈の微妙な変化で、全く同じように演じること自体があり得ない。これは現代の舞台劇でも同様であろう。しかし、歌舞伎が昔演じられていた当時のものの、極力忠実な再現が基本的目的である、ということに変わりはない。

 まれに新作の歌舞伎として、現代の世相を歌舞伎の手法で演ずるものもある。それは例外であって、おそらく永遠に主流とはならない。歌舞伎は江戸時代のある時期までの世相を反映することが出来たが、その後の変化に歌舞伎と言う演劇形式が追従するのに限界が生じた。歌舞伎は古典芸能として固定化したものの再現が常態となったのである。

 絵画の世界はそうではない。保存状態の良し悪しで、完璧とは言えないにしても、広重でも写楽でも彼らの作品を当時の彼らの作品そのものを見ることができる。では、伊東深水が歌川の美人画の正統な後継と言われるのは何か。歌川国芳などの浮世絵の技法の基本を使って、新作を作り出したことである。歌舞伎のように基本が古典のコピーなのではなく、あくまでも現代に新作を描いていることに本質がある。

 だがここには大いなる落とし穴がある。歌川国芳らの当時の浮世絵師は、自らの生きている時代を活写したのである。伊東は明治の中期以降に生まれ、大東亜戦争から30年近く生きている。なるほど初期には伊藤の描く和服美人と風景もあったろう。しかし実際には、それを活写したのではなく、美人にしても風景にしても浮世絵の全盛期を想起させるものを描いている。

 これは浮世絵師が同時代を描いていたのとは異なる、一種の懐古趣味である。伊東の時代はまだ、市井には、和服美人が多くいた。だから単なる懐古趣味には見えなかったが、伊東の作品が好まれたのは、あくまでも現代の描写ではなく懐古趣味の部分であった。だから伊東が歌川派から伝承したのは肉筆浮世絵の画材と技法の部分であって、同時代を活写する、という根本の精神ではない。

 それは伊東の責任ではない。伝統的日本画という技法が、既に伊東の生きた時代を活写するのには限界に達してしまったのである。まして技法を忠実に継承しようとすればするほど限界がある。日本画に近いと言う意味では、現代日本で可能性を秘めているのは、恐ろしく未熟と言われようとアニメとコミックであろう。だがこれらは、歌川派が存在した絵画と言う分野からは外れている、新しい分野である。そもそも現代日本どころか、世界中にも古典的な意味での絵画と言う分野の存在価値は極めて少なくなっている。

 伊東は辛うじて存在意義が認められる最後の時代に生きていただけ、幸せだったといえよう。伝統芸能としての歌舞伎は、現代と言う時代に適合することはできなくなっているものの、芸術の再現、つまり保存の必要性からの存在価値は充分にある。しかし、伝統的日本画は、同時代を表現することができない以上存在価値はない。ただし、日本画の応用で時代を表現することが可能となり、社会のニーズを見つければ再び存在価値が出る。最大の難関は後者である。社会的ニーズとは展覧会に出品することでは絶対にない。


日本人に「宗教」は要らない・ネルケ無方・ベスト新書

2014-05-17 13:05:11 | 文化

 日本人には「宗教心」がないのではなくて、キリスト教のような教義がなくても、自然に宗教心を体現しているのだと自然に語っている。キリスト教をよく知っている元プロテスタントの言うことだから、真実味がある。そしてキリスト教やイスラム教は他の宗教や神を否定し、争うが日本人は寛容であるという。

 平易に説明しており一読の価値はあり、具体的な説明は必要はない。日本人よりも日本の宗教心を理解している、とは言えるが、ドイツ人らしい残滓はある。ヒトラーを徹底して否定して、ドイツ民族を擁護する。ドイツの移民問題も、極めて軽く扱っているのは故意が感じられる。

 人生の苦しみを受け入れよ、とか独善を否定しているが、この手の立派んな人格の宗教人に共通する疑問がある。道徳心や正義感に基づく怒りをどうしたらいいのか、ということである。例えば「『大心』とは、海のような深い心、山のような大きな心のこと。海が、『綺麗な川だけ流れてきてほしい。汚い川はこないで!』と選り好みしたら、大きな海にはならない。海は、すべての川を自分の中に受け入れている。」(P208)と書くが、これを実践できるのだろうか。

 ここには汚れの原因は書いていない。従ってネルケ氏は違法な廃液を工場が垂れ流しても受け入れろ、といっているに等しい。そんなことは寛容な日本ですらしてこなかったし、対策をしたのは正しい。もし、違法でないにしても健康上の限度というものがあるから、法律で規制するように運動するであろう。それには、正義感による怒りも後押ししているであろう。そうでなければ、昭和40年代の公害はなくならずに健康被害はなくならない。人間にはこうした最低限の正義感というものは必要なのである。

しかし、確かに正義というものは相対的なものである。ある人には正しく、あるものには正しくない、ということはある。相対的なものだから諦めよ、というわけにはいかない。現実には怒りもある。それを貫徹したことが日本の公害を減らし、暮らしやすい日本を作ったのも事実である。

例に挙げたメルケ氏の言葉では、これにどう対処したら分からないのである。実は多くの仏教関係の本を読んでも、この点に言及しないので役に立たない。むしろ過激かも知れないが、キリスト教の方が神の名のもとにおける正義を認めるから、行動規範となれると言えないこともないのである。


カタカナ英語よりろくでもないもの

2014-01-18 15:14:19 | 文化

 昔から、国語の文章中に、カタカナ英語が増えていることを憂うる声は多いし、正論なのであろう。だが小生には、それ以上気になる傾向がある。会社などの名前を本来の漢字や仮名ではなく、わざわざローマ字表記することである。

一番驚いたのは「MAMOR」という雑誌である。本屋にはミリタリーのコーナーにあったし、表紙を見れば軍事関係の雑誌であることは一見して分かる。よく見ると「防衛省編集協力」とあり、自衛隊の紹介をしている雑誌である。本のタイトルは「守る」なのである。

にもかかわらず編集関係者は、日本語表記ではだめでアルファベット表記にしなければ読者を惹きつけない、と考えたのであろう。日本の国防を考える本が、ローマ字表記風のタイトルになっている。これほどの皮肉はないと思うのである。この感覚は、アメリカ人が漢字をデザインした服をファッショナブルだとして着ているのとは、異なる。服に描かれた漢字は文字表記ではなく、模様に近いのである。これに対して「MAMOR」は「守る」の文字表記なのである。

対欧米戦争に負けた傷はこれほどに深く心に浸透しているとしか思われない。明治期に後に文部大臣となった森有礼が日本語を配して英語を国語化しようと提案していたのとも次元が違う。森は西欧との文明のギャップに驚き、追いつくために動転して錯乱した提案をしたのであるし、これに追従するものもいなかった。これに対し、日本語標記のローマ字化は、カッコイイものとして一般化していて反発する話は聞かない、根が深いものである。