毎日のできごとの反省

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書評・小室直樹の中国原論・小室直樹・徳間書店

2018-02-27 16:28:45 | 支那大陸論

 中国人の行動が矛盾していて理解できない、と言う人のために忠後軍の行動を分析したと言う。比較的単純な構成である。まず中国の共同体の特殊性について、宗族について、中国人の法律意識について、中国は歴史で分かるということが大きく分けて書かれている。付録のように中国市場経済本質について、書かれている。

 この本で基本となっているのは、著者の「中国」と言う言葉だが注意を要する。小生の知るのは、中国とは古来からの歴史的用語ではなく、中華人民共和国、ないし中華民国の略称である。歴史的用語としては、支那であると考える。すると現在の中華人民共和国と支那とは正確には異なる。中華人民共和国とは、ほぼ清朝の支配地域を引き継いだもので、ウィグルやチベット、内モンゴルなどを含むのに対して、支那とはこれらを除いた、いわゆる「漢民族」の生活圏である。

 小室氏の言う中国とは、読んでいる限り支那の範囲であると考えて差し支えない。チベットなどは古来異なる風俗であり、幇などという共同体はなかったからである。少なくとも本書ではこのことに言及していない、小室氏の態度には不満が残る。将来はいざ知らず、現在ではこの本の記述は全てチベットなどに適用されようとは思えないからである。だから本項で言う中国とは支那のことだと解釈する。

 中国における共同体とは結論から言うと、連帯が強い順に、幇、情誼、関係、知り合いであると言う。最も強い幇では、刺客のように、無報酬で命を捨てて、幇の内の人のために行動するというのである。この点で西欧の殺し屋のように契約で、殺人を行い多額の報酬を得ることを目的とするものとは、性格が全く異なるのだと言う。

 そして共同体の中にいる者と外にいる者とは規範が全く異なるのだと言う。日本人が中国人に対して、絶対に信用ができると言っている人もいれば、嘘つきばかりだと、正反対の意見が異なるのは、この二重規範のためで、話している日本人が、交渉相手と先の共同体のどこに属しているかによるかによるためである、と言う。これは明快である。

 ちなみに日本は戦前まで、村落共同体であったが、戦後高度成長等や天皇に対する絶対意識の喪失による急性アノミーで、村落共同体が崩壊したため、代替として、会社が共同体の受け皿となったというのだが、小生には実感できる。

小生は今は東京の下町に住んでいるが、代々地元に住んでいる人々には共同体の残滓がけっこう残っているように思われる。小生のようなおのぼりさんには、職場に行けば気楽になれるのに、連帯が強い地元の集会などには到底入っていけないのである。

 次は宗族である。宗族も共同体同様、内と外とでは規範が異なる。中国の宗族とは当初は母系集団だったのが早くに父系集団になったという。中国の宗族とは特定の地域にいる血縁集団ではなく、中国中に散らばっていて、兄弟意識、同租意識が強くある、ということである。

 同じ宗族の者なら、苦楽をともにし、借金に証文さえいらないという。同じ姓でも必ずしも同一宗族とは限らないというから分かりにくい。例えば海外で同一宗族の男女が知らずに知りあって、恋愛関係におちいることがあるのではないか、という質問には、そもそも同一宗族の男女には恋愛感情が発生することはあり得ない、という答えだから日本人や西洋人には理解不可解である。

 日本や欧米は父系社会でも母系社会でもないのだという。日本では家、という枠組みがあって血縁社会ではないから、婿養子という制度ができる。小生の田舎では親戚同士が極めて仲が悪かったから、血縁社会というのは理解できる。田舎の近隣は恐らく戦国時代以前からの落人の住処であったから、親戚同士の表面上は連帯していたが、その実、実力社会であって、分家が本家をいびるなどということが公然と行われていたから、やはり血縁社会ではないのであろう。

 自分を見てもそのことは分かる。小生のように、本家から直接分家した世代は、本家のに対する憧れのような忠誠心がある。しかし、次の世代から意識が反転して本家に対する敵対心さえ生ずる。たくましくなって、本家を見下すようになる。祖父の弟は戦前に東京に出て出世した。それでも戦後も毎年墓参に訪れ、最後には本家の跡地に「〇〇家先祖代々の居住の地」という碑を寄贈設立した。しかし、その長女は成人した後、母の通夜で初めて来たが、夜の通夜に参加することなく、昼間に焼香しただけで帰った。本家を嫌う態度に満ちていた。二度と本家には来ないのであろう。

 この長女の場合は離れた東京にいるからいい。本家の隣近所には、このような憎しみに満ちた分家の末裔が住んでいて、本家に嫌がらせをする。理由は分からないが、実態としてはそうである。やはり血縁社会ではないのだろう。個人の事情を書きすぎた。

 次は中国人の法律意識である。外国人には中国人は法律をやたら振り回すという意見と、法治ではなく人治である、という正反対の意見がある(P176)というが、普通は後者の意見であり両者は矛盾するものではない。都合のいい時にだけ法律に固執し、都合が変わると法律を曲げて解釈するというだけであろう。

 中国人の法律意識は韓非子の法家に淵源があり、世界にさきがけて、法律はあるものではなく、作るものである、という考え方を発明したのも韓非子である、というのだが、中国人の法律意識の説明は込み入っているので単純化しにくいので、本書を読まれたい。

 強いて要約すれば、法律とは、役人が勝手に解釈していいものであり、それを指示するのは支配者の都合である、というところであろう。だから前述のように一見矛盾したようなことになるのであろう。

 中国は歴史で分かる、ということである。中国人は良いことでも悪いことでも、歴史に名を残したいと言うのであり、それ故歴史は中国の聖典(バイブル)である(P150)。外国人が個人的体験で中国人について判断をするには、事例が少な過ぎて、豊富な事例がある歴史を学ぶのが最も良い、というのである。前述の共同体についても、法家思想についても、歴史より抽出した、ということであろう。

 中国経済では、そもそも資本主義の考え方がないから、今の社会主義市場経済はうまくいかない、というのが結論であろう。中国では一物一価すなわち定価の考え方がなく、外国参入企業に破産を許さない、資本金の概念もない、実質的な貨幣の流通がない、契約遵守の概念もないので途中で勝手に契約を変更する、など資本主義に当然あり得べきものがない、などの資本主義の要件が欠けているからうまくいくはずがない、というのだが、まだ中国経済は外見上破綻していない。

本書が書かれたのが1996年すなわち平成8年だが、これだけ経っていて、中国経済破綻を予測する論者は多いが、未だに破綻してはいない。小生にとっても不可解なことである。毎年政府が経済成長予測をすると、それに合わせて地方政府が辻褄を合わせてインチキ報告をするので、政府発表に全く信頼が置けない。

現にエネルギー消費量は減っているので、実質的にはマイナス成長ではないか、という論者も少なくない。それでも経済破綻しないのは、何故であろうか。韓国は一度経済破綻を起こしている。小生は、未だに中国政府の宣伝で、安い労働力と巨大市場と言う幻想に騙されて、撤退した外国企業に替わって、新規に資本投資する外国企業が後を絶たないからであると考える。すなわち自転車操業状態である。

いずれにしても、本書は小室氏らしい、論旨明快な書で小室氏が亡くなり、書かれて相当な年月が経っているが、読むに値する書であると考える。

 


文学は広義のエンターティンメントである

2018-02-19 14:57:02 | 芸術

 文学は広義のエンターティンメントである。つまり娯楽である。娯楽と言っても、ただ面白、おかしいだけ、という意味ではない。文学を鑑賞することで、何らかの精神的な楽しみを享受することができる、という意味である。それ以外に何の目的が文学にあるというのだろう。文学がエンターティンメントであることは、その価値を少しも減ずるものではないことは、言うまでもない。

 二葉亭四迷は、文藝は男子一生の仕事にあらず、と断言しながら、最後には生活費としての給料をもらうために、其面影というエンターティンメントとしての傑作である、恋愛小説を書いた。それは二葉亭が文学とはエンターティンメントである、ということを理解してしまったからであると思う。

元々二葉亭が、将来の敵性国家のロシア語を学ぶうちに、ロシア文学に傾倒したのは、ロシア文学が革命運動とリンクして、政治的価値を持つものだと誤解したためだということは、本人が吐露している。

 それならばロシアにおいてなら文学はエンターティンメントではないのだろうか。そうではない。ロシア文学に傾倒したロシア人が、エンターティンメントである文学から、革命思想を引き出したのである。ロシアにおいても、文学における革命思想とは、エンターティンメントの題材のひとつに過ぎなかったのである。いくら書いた小説家自身が、本気で革命思想を書こうとしていたとしても、である。

 このことは、多くの日本人が漱石の作品を読んで、明治の思想を理解しようとしているのに似ている。もし、エンターティンメントではなく、思想を論ずることが漱石文学の真の目的ならば、漱石文学に書かれた思想が間違っていれば、漱石文学は価値がない、という奇妙なことになる。亡くなられた渡部昇一氏は、漱石は若くして死んだ、と喝破した。確かに漱石が死んだのは49歳という若さである。

80歳を超えた渡部氏には、漱石文学に書かれた思想の未熟さを言ったのである。後年、小宮豊隆らの高弟が、漱石を聖人のように持ち上げることの方が尋常ではない。だからといってエンターティンメントとしての漱石文学の価値は少しも減ずることはない。文豪、と呼ばれる人たちの言葉を、思想の論理として真に受けるのが間違っているのだ。だから思想を語っても正しいとは限らないし、情感に訴えるエンターティンメントなのだから、論理的に正しいか、否かは関係ないのである。

 鴎外は、小説がエンターティンメントに過ぎないことを理解し、北條霞亭のような史伝に逃避したように思われる。大塩平八郎の乱などの歴史小説といわれるものを描いた結果、思想を小説で表現することの無駄を理解したのである。伊澤蘭軒などの史伝は、エンターティンメントたることを放棄し、単に鴎外自身の知的興味を満足させるために書いたものとしか考えられない。鴎外の史伝を高く評価する専門家は多い。

しかし、エンターティンメントたることを放棄した以上、小説の形式をとってはいても、文学の範疇には入らないとはいわないが、文学としての価値は低い、と言わざるを得ない。鴎外自身もそのことは充分承知していたはずである。小生も伊澤蘭軒を無理して読もうとした。何日に一度、2~3ページずつでも読んで、何年かかけて読破しようとした。

しかし、読むことから精神的楽しみを得られない自分自身に素直になって、読破を放棄したのである。だから小生は伊澤蘭軒を四分の一も読んではいない。史伝の類でも、初期の渋江抽齋は読み終えた。一見淡々と文学的装飾をした文章の中に、時々色気らしきものを感じ、それを充分に楽しむことができたのである。

鴎外が伊澤蘭軒その他を書くことができたのは、悪く言えば自身の文学者としての名声を悪用したのである。鴎外はこれらの史伝を文学として楽しむことが出来るのは、例外的な人物であることを知っていたとしか考えられない。

鴎外の名声がなかったら、これらの史伝に類するものは出版することもできず、購入する読者もいるはずがなかったのである。そのことは、芥川賞を取ったから、その作品を買う者がいるのと、同様である。だから芥川賞を取った作家の作品でも受賞直後だけ売れて、その後の作品が面白くないから売れず、廃業せざるを得なくなる場合があるのである。

 芸術には目的があるといった。文学の目的はエンターティンメントである。つまり精神的な娯楽である。文学はコミックなどと違い、文系の学術書と同様に、主として文字によって表現をする。そこで人は、文学に思想を求めてしまうのである。特に純文学と呼ばれる作品には、そのように扱われる傾向が強い

 推理小説だとか、SFだとか、歴史小説は、単に特定の題材に特化しているのに過ぎない。刑事や探偵などによる推理を主題としているから、推理小説と呼ばれるのである。エンターティンメントの題材を、特定の分野に絞っているのに過ぎない。文学に思想を求めること自体は間違ってはいない。ある時代に書かれた以上、その時代を背景とした思想がある可能性があるからである。

ただそれは文学を楽しむのではなく、文章を解剖する作業である。思想を考える上でのネタにしているのである。かと言って文学評論の中にそのようなものが含まれていても間違ってはいない。ただし、文学から思想を抽出しようとする作業だけしているのは、文学評論とは言えない。繰り返すが、文学に書かれた思想が正しいか否かは、文学の価値の評価とは別の話である。