タイトルが刺激的で、図書館で何か月も待って借りた。ただ、興味があったので、結局読後に書店で買ったのだった。本を買う場合には、引用するため辞書的に使うため手持ちにしておきたい場合が多いが、本書はチェックして確かめたいところが多かったからである。意見は異なるが、ともかく面白い本だった。
確かに巻末に参考文献等があるが、結論が断定的で、どういう検討を加えたかが不分明で、正しいかどうか俄かには分からない。その点西尾幹二氏のGHQ焚書図書開封シリーズは、焚書されたものを紹介するのが目的なので当然であろうが、論拠が明確である。そして幸い、シリーズの11で「維新の源流としての水戸学」、というのが刊行され、色々な文献から水戸学について述べている。結論から言うと本書の対極にある。
ところで吉田松陰がロシア軍艦に乗り込もうとしたのは、プチャーチン暗殺説があり、アメリカ軍艦に乗り込んだ件もペリー暗殺説が根強い(P120)と述べるのだが、論拠が不明で、真偽を閲した様子がなく、言いっぱなしである。これが、吉田松陰がテロ思想が強かったと言うひとつの論拠になっているから、軽々に扱うのはおかしい。読者への印象操作と言われても仕方ない。ただ、ロシア軍艦乗り込み失敗と、米艦密航失敗を幕府に自首した経緯を推測しているだけなのである。
水戸学批判は強烈なのだが、水戸学の歴史改竄の例として、神功皇后を実在の皇妃として扱ったこと、壬申の乱で敗れて死んだ大友皇子を天皇として扱って「弘文天皇」という諡号を作ったことを例に挙げている(P186)。しかし神功皇后が実在ではない、という説は、朝鮮出兵で活躍したために、戦後の歴史学会が韓国などに遠慮して、実在ではないと変更したものである。
それなのに実在ではないと言う証明は一言もしていない。光圀が実子を兄弟同士で交換したことが、史記列伝の故事を真似したことが、支那かぶれであり、かぶれ体質が諡号を勝手に作ったことに繋がるかのような印象操作をしていて、大友皇子が即位していない、という証明もない。西尾氏の焚書シリーズ11にはこのあたりの経緯がきちんと書かれている(P90)のに比べお粗末である。同書によれば諡号を賜ったのは明治天皇だそうである。
同書によれば、大日本史の三大特徴は、先の2件と、南朝正統説だそうである。もし、水戸学が明治維新のため薩長に利用されたとすれば、明治天皇も含め、北朝の系統であるから、矛盾している、と言わざるを得ない。ちなみに大日本史を献上された「北朝」の天皇はお褒めの言葉を賜ったそうである。
水戸の浪士による井伊直弼暗殺を狂気のテロだと断言し、司馬遼太郎は一切のテロには反対するが、桜田門外の変だけは歴史を進展させた珍しい例外、とするのを「驚くべき稚拙な詭弁(P186)」とする。薩長による暗殺事件も同様に狂気のテロリスト、として断固として非難する。それもこれも全て吉田松陰のテロ教育や水戸学の影響だとする。
これはテロの定義と維新の意義次第であろう。著者によれば維新政府はだめで、幕府には有能な官僚がいたから、幕府改革で立派な国が作れたはずだと主張する。つまり維新自体を否定することが、テロと断定する根拠になっているように思われる。だが、現代国際法では、ゲリラによる戦争を認めている。もちろんゲリラが単なる民間人を殺害すればテロである。
井伊直弼は政治家であると同時に武士、すなわち軍人である。しかも警護の武士を排除して暗殺したのである。これはゲリラによる戦闘行為であり、単なるテロではないと言えまいか。現代の国際法のゲリラが戦闘を認められる条件のひとつは、公然と武器を携行していることである。井伊大老を殺害した武士たちは公然と切り込んだのである。また明治維新を革命と考えればよいのである。著者のいうごとく、維新政府はだめで、幕政改革が正解であったと仮定しても、薩長が幕藩体制はもうだめで、討幕しかないと判断して行動したのなら革命である。革命は成功すれば正統となるのである。
単なるクーデター説も、西尾氏は下級武士が上級武士の体制を覆したから革命と言える、というがその通りである。維新の志士と呼ばれる者たちの多くは、元々武士ではなかったり、辛うじて武士の末端にいたのである。その点、著者は下級武士や成り上がり武士の、残忍な行動を非難し、そのようなことをするのは、正統な武士ではないからと断ずる。
残忍な行動は絶対に肯定すべきではないが、正統な武士なら品性のある行動をするとは言えないのである。現に武士の頂点にいるはずの、水戸光圀の女癖の悪さや殺人癖を、著者は口を極めて非難しているではないか。
著者自身が昭和30年代の子供のころ、母から切腹の作法を教わって、恐怖に慄いた、という体験(P240)を記している。武士の躾は、常に死を前提としたところから始まる、というのだが、前述のように著者は武士の身分の高低を、人間の品性の上下に関連づけている。P264には、会津における。政府軍の酸鼻極まる行為を述べている。それを「奇兵隊や人足たちのならず者集団」も行ったという。奇兵隊にも武士上がりでは無い者がいるというのだ。他の著書でも切腹の作法の話が出てくるが、自分は下賤な者ではないと言いたいのだろうとしかとれない。小生の家にも昔の名残の大刀があった。しかし、祖父が鉈代わりに使うため、ごく短く折られて研いであったという無残な始末であった。今は農家でもかつては武士であったという気概はとうに失われていたのである。
そしてはっきりと「明治維新とは、下層階級の者が成し遂げた革命であると、美しく語られてきた。表面は確かにその通りであるが、下級の士分の者であったからこそ、下劣な手段に抵抗を感じなかったといえるのではないか。平成日本人は、この種のリアリズムを極端に蔑視するが、これは否定し難い『本性』の問題である。(P60)」と断ずる。
下層階級の本性は下劣な手段を平気でする、とまで言っているのだ。ところが、これに続けて「動乱とは概してそういうものであろう」と述べているのは、かえって奇異に感じる。下賤のものの本性はともかく、動乱は綺麗ごとばかりではないのは当然で、綺麗ごと以外は絶対にするな、というなら動乱はあり得ない。いかな結果が正しい変革であっても、醜いものは潜んでいる。政治は綺麗事だけではないのは当然である。著者は会津の人間は完全無欠であるかのごとく言うが、そうではあるまい。確率は低くても会津武士にもろくでなしはいたのである。
西郷隆盛は赤報隊を結成した。その赤報隊は江戸で蛮行を行った。ところが西郷に関しては、福澤諭吉は「・・・武力による抵抗は自分の主義とは違うとしながらも、西郷の『抵抗の精神』を評価している。・・・西郷の『抵抗』については、一度御一新と言う形で成功したものであり、その際は最大の功労者としてもち上げながら、新政府に反旗を翻すや一転『賊』として非難するとは、何を根拠にしているのかと怒る。・・・西郷という"天下の人物"を生かす対処の仕方があっただろうが、と嘆く。」
赤報隊の件のように、西郷も権謀術策を用いる人物であったことはよく知られている。赤報隊の蛮行を口を極めて非難しながら、西郷を称揚しているのは矛盾も甚だしい。久坂玄瑞や高杉晋作などは、「・・・松陰の「遺志」を継いだ”跳ね上がり”(P123)」と断ずるのと大きな違いである。薩長同盟して維新をしたのに、薩摩、特に西郷については格段の配慮をしているとしか思えない。
確かに、最初の方のP60には西郷が「上級士分の者であったなら、こういう手を打っただろうか。」とか「西郷隆盛という人物は、本来正義感の強い男であるとみられている。但し、それは一定以上の安定がもたらされた場合に発揮される、ごく普通の良心程度のものであったということになる。」とけっこうこき下ろしている。ところが、その後で福澤諭吉を引用して評価を変えているように思われるのである。いずれにしても著者には、下層階級は品性が卑しいと言う持論がある、としか思えない。
維新以後の日本を侵略国呼ばわりしているのも理解不能である。何故侵略国呼ばわりするのか、説明がないので何とも言いようがない。この本の範囲内では、侵略国呼ばわりしているのは、維新が「過ち」であると言いたいがために使われているのである。「私たちは、明治から昭和にかけての軍国主義の侵略史(P125)」と断言している。
その淵源を松陰が「北海道を開拓し、カムチャッカからオホーツク一帯を占拠し、琉球を日本領とし、朝鮮を属国とし、満州、台湾、フィリピンを領有すべき」と主張していたことに求めている。「松陰が主張した通り・・・軍事進出して国家を滅ぼした(P124)」というのである。
この北海道以下の進出説は著者が書くのとは異なり「余り語られていない」ものではなく、後述のように松陰侵略主義説は余り語られていないものではない。ともかく、松陰の主張によって維新以降の政治軍事外交が決定された訳ではない、というのは事実を閲すれば分かる。どう考えても日本は主体的に動いたのではなく、世界史の中の駒として動いたのである。
この点については、桐原健真氏が「吉田松陰」で論じている。氏は原田氏が引用した部分について、松陰の侵略主義と一般には非難されることに反論している。「・・・カムチャツカからルソンにいたるこれらアジア地域の多くが、当時、主権国家の境界がいまだ明確に確定されていない、いわゆる辺境の地あったという点である。」(同書P94)
無主の地とはいえ、先住民がいて、その地に「進取の勢を示す」ことは侵略である、と留保するのだが、紹介した部分は同氏が敷衍しているように重要な指摘であって、日本が近代国家の仲間に入らざるを得ないとすれば、周辺の国境を画定していかなければならないのである。何も欧米諸国がしたように、経済的利益を目的に地球の反対側まで侵略に行ったのではない。
「・・・慶喜が想定したようなイギリス型公議体制を創り上げ、・・・これらの優秀な官僚群がそれぞれの分を果していけば・・・長州・薩摩の創った軍国主義国家ではなく、スイスや北欧諸国に類似した独自の立憲国家に変貌した可能性は十分に(P180)」あるというのだ。倉山満氏らの言う通り、日本は軍国主義国家ですらなかった。軍部独裁、というがドイツと異なり憲法は最後まで機能していた。
なるほど幕府の根本的改革による国造りの可能性はあったのかも知れない。しかし、その理想がスイスや北欧である、というのはいただけない。著者も国際関係とは関係なく、日本の意思次第で、日本の政治外交がどうにでもなつていった、という考えを無意識に持っていると思われる。スイスや北欧は共通点のある、ヨーロッパ諸国の中に位置している。そのことを無視して、日本がスイスや北欧のような国を目指すのは無理なのである。
日本の今日があるのは、悪戦苦闘の結果、欧米の植民地がほとんど解放された、という結果による。日本だけがアジアの諸地域を無視して、理想の国を創ろうとしても、そうは欧米やロシアはさせてくれない、という地政学的条件がある。維新から大東亜戦争の敗戦と、その後のアジアの独立運動への参加など、日本人の苦衷と努力と成果にあまりにも、同情がなさすぎる、と言わざるを得ない。同情とはお可哀そうにということではない。厳しい境遇に共感する、ということである。長谷川三千子氏が林房雄の「大東亜戦争肯定論」を後世の日本人に勇気を与える、というようなことを言ったのとは、大違いである。
そもそも、大日本史を中心とした水戸学がテロを正当化したものであり「『大日本史』が如何にナンセンスであるか、如何にテロリズムを助長したものであった(P147)」という断定の根拠が分からないのである。根拠と言えば大日本史の発案者の水戸光圀が女狂いであり、人殺しを趣味としていたとか、水戸藩の人間がテロを行ったとか、水戸藩の財政が苦しく藩政は苛斂誅求であった言うことが、延々と書かれているだけであろう。水戸学の内容について検討した形跡がなく、山内氏や中村氏、その他の学者や識者が、水戸学を批判している結論だけ引用しているのである。
本書では藩主斉昭について、横井小楠や竹越三叉が「道理を見極めない」「無責任な扇動家」その他色々な言葉で口を極めて非難している(P159)という。ところが、西尾氏の前掲書によれば、「小楠の如きは、『当時諸藩中にて虎之助(藤田東湖)程の男はなかるべし』と感嘆している。」と絶賛に近いことを言っている(P207)という。
東湖はある時期水戸学の中心人物で、斉昭はその上司であり、一時は讒言により斉昭から疎まれたが、最終的には信頼されているから、斉昭と東湖の評価がこれほど違うのはおかしいのである。なお、西尾氏は水戸学を手放しで称揚しているわけではなく、テロの問題も、水戸学の狭量で貧しい面があることも指摘している。評価が単純ではなく、重層的なのである。
前述のように、慶喜が想定したようなイギリス型公議体制を称揚していながら、P145などで「武家の棟梁としての低劣さ」と言って慶喜批判をしているのがよく分からない。確かに政治家と武家の棟梁としての資質と言うのは、イコールではないが、「低劣」とまで断言される部分が多いと言う人間の政治的資質を理想化するのは、奇異である。面白い本ではあり、得るところも多いが、ともかくも根拠の薄い、一方的断定の多すぎるのも事実だと思う。
当たり前だが、人間というものは善悪で一刀両断できない。時代背景というものもあろう。後年人格者と称揚された乃木希典も若い頃は飲んだくれて、女遊びに明け暮れるろくでなしの毎日であった。鬼平こと長谷川平蔵も、若い頃は似たようなもので、多分泥棒やそれ以上の犯罪に手を染めていた。
この本を読まれた方は、紹介した西尾幹二氏のGHQ焚書図書開封11と桐原健真氏の「吉田松陰」をあわせて読んで、自ら考えることをお勧めする。