毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

書評「仮面の大国」中国の真実 王文亮 PHP研究所

2021-10-27 23:20:17 | 政治

 期待の1冊であった。何せ図書館に予約しても在庫は多いのに先着の予約が多く、借りることが出来たのは、1か月後だったから。著者は研究者である。1つのテーマに関して、かなりなスペースとデータを使って延々と実証的に追及する。反面素人の読み物としては冗長に感じる。この本の最大の指摘は、GDPは中国経済の実態を表しておらず、外資系企業により巨大なGDPのほとんどが支えられているのに過ぎない、と言う事だろう。 

 GDPでは属地主義の経済指標であるため、中国の土地において生みだされた付加価値額を表しているだけで、中国人が生み出した価値ではない、ということである。だからGDPがいくら大きくなろうと中国人自身が得る所得は大きくなってはいない。実際、国民にはそんな経済大国になっているという実感はないというのだ。本当はGDPから外国企業が稼いだものを引き、中国企業が外国で稼いだものを足した、GNI(国民総所得)が国民の収入の実態を表している、というがその通りである。中国は外資を導入して見かけの経済規模だけ大きくなっているのである。自ら汗を流して働くのではなく、人の稼ぎをあたかも自国のものであるかのように見せているのである。 

 この他に指摘されているのは、一人っ子政策に代表される、人口政策と汚職の問題である。汚職については、公務員の汚職かと思ったら、民間であっても職権を利用した職権乱用による腐敗がある、というのには驚いた。例えば自動車学校で順調に試験をパスしたければ、試験官に物をあげたりする必要がある、というのだからさすが中国である。ただ気になるのは、一方で公務員の汚職が共産中国だけではなく、歴代王朝の伝統である、といいながら、最後に汚職の監視システムなどによって事態を改善することは、共産党の独裁が続く限り無理だと言って、結局民族性に原因を求めていないことである。 

 また著者には中国人らしい恐ろしい人権感覚があるように思われる。巨額の汚職に対して死刑に執行猶予が付いたのに対して、金額の大きさから死刑を言い渡してもおかしくない、という見解に対して疑問を呈していないことである。近代国家で汚職によって死刑になる、というのは考えられることではあるまいと思う。


対等な日米同盟とは

2020-11-07 19:35:16 | 政治

  野党ばかりではなく、自由民主党ですら、対等な日米関係、と言うがその本質を考えてみた事があるのだろうか。日米安保は軍事同盟ではない、と言って米国に呆れられたのは鈴木元首相である。かくの如く日米同盟の本質は軍事同盟そのものである。すると対等な日米関係とはまず、対等な軍事同盟とはどういうものか考えればいいのである。現在の日米安保条約は日本の艦艇が第三国に攻撃を受けた場合、米国は反撃する。しかしこの逆はあり得なかったのだが、安保法制などで修正された。それでも確かに日米同盟は対等ではないのである。

 それならば対等にするには、どちらの国が攻撃を受けた場合に、日米双方が等しく反撃しないか、日米双方が反撃するかのいずれかである。軍事同盟であるから前者はあり得ないから、対等な軍事同盟とは後者しかあり得ない。ところがかつての野党の幹部の言葉は全くそんなものではない。駐留なき安保などとすら言っていたのだ。あるいは基地などいらず、日本付近に第七艦隊がいるだけでいい、と言う。必要な時に米軍が来て日本を守れ、とすら言っていたのだ。

 このいずれも日本が攻撃されたら米国が自衛隊と共に反撃してくれるが、日本は米国が攻撃されても知らぬ、と言うから元々対等と言うにはほど遠い。権利ばかり主張し義務は知らぬという幼稚な子供の発想である。そこで考えなければならない事がある。それは日米安保が早期に対等な軍事同盟になっていたら、日本は過去の米国の戦争にどう対応しているべきであっただろうか、と言うことである。その筆頭はベトナム戦争である。

 ベトナム戦争には韓国軍も参加して、多大な犠牲も払っている。韓国には米軍基地があり米国には韓国軍の基地はない。この1点を除けば米国の戦争を韓国も戦ったという意味で、対等の同盟と言える。問題はもし日本が対等な同盟を求めていたら、日本が参加するべきであったか、と言うことである。これは複雑な話である。今でも日本は敗戦による厭戦気分にある。日本人の平和主義などと言うのは、敗戦による厭戦に他ならない。日本が戦争に勝っていれば、大衆は反戦になどならない。そのような現象は日本ばかりではない。

 ベトナム戦争に敗北した米国は、極度の厭戦気分が蔓延して、最近ようやく立ち直ったともいえる。アメリカは軍事的に敗北していない、と言うのは屁理屈であって南の共産化を防ぐという戦争目的に失敗し、北ベトナムによる統一を許したのだから、紛れもない敗北である。米本土には一指も付けられることがなくても敗戦の後遺症はかくも大きいのだから、遥かに損害が大きく本土を占領された日本の後遺症は大きくて当然である。多数の日本人自身が日本の過去を忌み嫌う、と言うことさえ敗戦後遺症である。

 だから日本が米国の戦争に参加する、と言う事は憲法問題以前に不可能事であった。憲法九条があるから戦争に巻き込まれなかったなどと言うのは大嘘で、自分たちを負かせた米国の戦争に何故協力しなければならない、と言うのが本音である。あり得ない想定だが、日本に敗戦後遺症がなかったものとして、日本はベトナム戦争に参加すべきであったのか。日本が支那事変を戦ったのは、支那大陸の共産化を防ぐためであった。米国は共産主義の恐ろしさを知らなかったから、ソ連とその出先である毛沢東に利用されて、対日戦を戦った。

 主敵は米国であったのにもかかわらず、支那事変と大東亜戦争はアジア共産化に対する戦い、と言う側面があったのは間違いはない。ところが共産主義に対する防波堤たる日本を倒してアジアに進出する橋頭保を確保した、と思った瞬間に米国はソ連に操られたアジアの共産主義と対峙する事になったのは、皮肉でも何でもなく必然であった。アメリカは日本の代わりを演じて共産主義と対峙しなければならない羽目になったのである。それが朝鮮戦争であり、ベトナム戦争である。

 日本の共産主義に対する戦いを妨害したアメリカの、共産主義に対する戦いに参加する、と言うのはやはり日本にとっては耐え難い事である。日本人にとっては、今度はお前がやってみろ、と悪罵でも投げつけたくなるのは当然である。米国は日本を倒して初めて共産主義のとてつもない脅威をようやく理解した愚かに国である。残念な事に米国人はそのような歴史的経過をほとんど理解してはいないのであろうが、最近になって、中共の経済力従って軍事力がアメリカに追いつこうという間際になって、過去100年の過ちに気づいて、共和党のみならず、民主党すら対中強硬に舵を取ろうとしている。バイデン氏が大統領になっても、この方針が転換されないことを願うばかりである。。


日米同盟は崩壊しない

2020-09-17 16:27:34 | 政治

 多くの保守派の言論人が、沖縄の普天間基地の辺野古移設の反対運動について、日米同盟の崩壊の危機、と警鐘を鳴らしている。一見妥当なようだが、事はそう単純ではない。それはこう自問してみれば分かるだろう。日本政府が結局アメリカが納得する移設先を見つけなかったとして、だからアメリカは日米安保条約廃棄即基地撤収、と言う道に進むのだろうか。


 日本が基地問題でアメリカの気に入らない結論を出したからと言って、アメリカが怒って日本の防衛には責任は持てないから条約を廃棄して、日本の米軍基地を撤去して出ていく、と考えるとすれば、それはアメリカが単なる善意で日本の防衛をしていると判断している事になる。せっかく守ってやっているのに裏切るならもう知らない、守ってやらない、と言う訳である。

 考えてみればそんなはずがない。日本の防衛がアジアでの覇権を維持するという、アメリカの国益にかなうから日米安保はあるであって、善意などではないのは当然だ。米国はソ連や支那の共産主義政権に唆されて、アジア大陸進出に邪魔な日本を第二次大戦によって倒したのである。その結果、日本防衛のためと称して、日本の各地に公然と恒久的な基地を持つ事ができるようになった。蒋介石政権を使って支那大陸に直接足場を作る事に失敗した米国としては、望外な結果であったのに違いない。

 軍事的にアジアで対峙して、米国の進出を阻んでいると考えられていた日本を倒したばかりではなく、日本国内に基地まで得られたのだから。まして支那が共産化してアメリカのライバルとなった以上、日本の基地は貴重である。もちろんアメリカは日本が完全な自主防衛をする事を望んでいない。もし日本がそうなったら、再びアジアに厄介なライバルを持つ事になる。しかし日本にその能力も意図もない事は明白である。アジアで日本1国でロシアや支那と張り合う事は現在では不可能に近い。

 自主防衛に不可欠な、核兵器保有には国内の反対があるため事実上不可能であり、軍事航空技術を自主開発する経済力も能力も持たない。かといって支那やロシアのように西側など他国から技術を盗んだり、外国人に設計製造を密かに頼むというような安価かつ狡猾な事も日本はし得ない。軍事コストのバランスを得るために、死の商人となる事さえできない。ないない尽くしである。

 そんな日本から米軍がいなくなれば、その空白を埋めにロシアや支那がやってくる。そうすれば日本や東アジアでのアメリカの居場所はなくなるのである。駐留なき安保とか、いざとなれば第七艦隊がくればいいから基地がなくてもいい、などという、かつての民主党幹部の意見などがとんでもない間違いである事は、軍事知識の初歩すらなくても分かる道理のはずである。いくら飛行機や船が速くなり、世界一周が可能になったとしても、時間と空間の隔たりは軍事的には埋められない。ましてやいくら軍事技術が発達しても戦闘の最後を決するのは歩兵である。

 いくら爆撃しようと地上を占領するのは歩兵なのである。そういう物理的な力のない軍事力は意味をなさない。ましていくらいざとなったら米軍が駆け付ける、と米軍が公言したところで、基地を撤去した事はアメリカが日本の防衛を放棄したに等しい、とロシアや支那は判断する。日本やアメリカがどう言おうと、その行動を判断するのはロシアや支那であって日本やアメリカではない。自分たちの勝手な思い込みを、ロシア人や支那人もしてくれると判断するのはあまりにご都合主義である。

 現にフィリピンの米軍基地を撤去した途端に、支那との領土紛争中にあったスプラトリーつまり南沙群島は一気に支那の実効支配下に置かれてしまった。フィリピン政府にはそんな意図はなかったから、後悔した事だろう。日本の基地の東アジアにおける重要性はフィリピンのそれの比ではない。しかも日本の保守論者ですら日本の米軍基地の存在を有り難がってくれているのである。

 しからば米軍を日本の都合のいいように配置するといって、米国を怒らせるような事をしたら、アメリカはどう対応するか。それは安保が日本のためです、などと言うおためごかしの偽善をやめて、アメリカのための安保、と言う本音に徐々に立ち返るだけの事である。基地はアメリカの使いやすい場所に置き、使いやすいような施設にするまでである。もちろんロシアや支那は日本の労働組合などの左派勢力を操って、基地反対闘争を激化させるのに違いない。そうなったときに、日本政府やアメリカ政府がうまく対応する事ができるかは予見不可能である。だが日本国内に大混乱を齎すのには違いない。

 ソ連がSS20を配備した時、アメリカは西独にパーシング2ミサイルを対抗して配備した。あくまでも対抗措置であった。ところが日本では労働組合が、SS20が先に配備された事を無視した上に、日本には何の関係もないヨーロッパにおける、パーシングミサイル反対運動を何と日本国内で繰り広げた。せめて喧嘩両成敗ならましだが、先に手を出した者に目を瞑って、後から殴り返した者だけを非難したのは、明らかにソ連の意図に従っていたからである。

その指示ルートは今もあるのに違いない。更に日支間の経済交流が盛んになった結果、支那による日本人への指示ルートも当時より増えているから、状況は冷戦当時より悪い。もちろん末端の運動員は全体の構図を知らずに、正義感に燃えて運動していたのに違いないから却って手に負えない。その当時東京にいた私は、公園でパーシングミサイルの大きな模型を展示した大規模な反対運動を目撃した。彼らは正義感に燃えていたと言う事は実感できたのである。

 結局安保問題でアメリカを窮地に追いやるのは、日本の混乱を惹起するだけである。日本が米軍基地でアメリカを怒らせると、かつて第一次大戦などで英国に協力することが少なかったために、日英同盟が失われたのと同じ事になる、と警鐘をならす保守の論客はそれを本気で信じているのであろうか。それとも本当の話をしては危険なので、計算して嘘をついているのだろうか。私には前者であるように思えてならない。

それでも野党の幹部のように、アメリカに何を言おうが米軍は日本を守ると考えている人士より遥かにましである。そういう輩は、先験的にアメリカは日本を守るものだというところで、防衛問題には思考停止している。立憲民主党などの野党にとっては基地問題は国内問題であり、党利党略の問題であり、間違えても軍事や外交問題ではない。つまり政治家としての知的レベルに重大な欠陥がある。


正しい判断のための情報

2020-05-19 16:31:25 | 政治

 以前記事に書いたかもしれないが、一九八〇年代に以下のような経験をした。近所の公園に子供を連れて行くと、労働組合が大きなロケットらしき、張りぼての模型をかついで、大きな声を出している。看板もある。パーシングⅡミサイルを西ドイツから撤去せよ、と言うのがその主旨らしいのである。

 当時東西に分かれていた、西ドイツにアメリカ製のパーシングⅡミサイルが配備されたのである。いわゆる戦術核ミサイルで、戦争が起きると敵の軍隊に向けて発射する小型の核弾頭を積んでいる。ICBMが大都市に向けて発射されるもので、核抑止のためのものであり、一般市民の被害も計り知れないので、実際に使われることはまずあり得ない、とされている。

 これに比べると、戦術核ミサイルは、大型の大砲のようなもので、相手が軍隊に限定されるから、比較的実戦に使うことがあり得る、とされている。だからこそ、核戦争の引き金になる危険な兵器であるとされている。そんなものを、冷戦下のNATOとワルシャワ条約機構軍が対峙する、西ドイツに配備するのは危険だから撤去せよ、というまっとうな主張に聞こえるのである。この運動に参加している労働組合員は本気でそう信じて運動しているのである。

 ところが、事実は、ソ連がNATOの正面に戦術核ミサイルSS21を先に配備していて、それに驚いた西ドイツがアメリカに頼み込んで、SS21に対抗すべく、パーシングⅡミサイルを配備したのだった。そのことを隠していれば、パーシングⅡミサイル反対運動が起ってもおかしくはないのである。このように、情報は一部だけ知っていると、判断に狂いが生じる、と言う見本である。本来はパーシングⅡミサイルとともにSS21も撤去せよ、と言わなければならないのである。

 情報の偏りというのはそれにとどまらない。労働組合にパーシングⅡミサイルの配備だけを知らせて、反対運動をさせたのは、日本の某政党である。小生が知っている位だから、某政党がSS21の配備を知らないはずはない。故意に知らせなかったのである。それは某政党がソ連の味方をして、偏った情報を流したのは、長い目で見れば日本の共産化に役に立つと考えたからに他ならない。

 そんなバカな日本人がいたのか、と思わないのは、小生が当時、ソ連とその衛星国を理想の国家と本気で信じる某政党員でもある労働組合員に知己があったからである。某政党にとっては、偏った情報で人々を騙そうと、日本の共産化という目的が正しいと信じていたから、騙すということは悪徳であろうと方法論としては正しい、というロジックが成立するのである。この記事に「正しい判断のための情報」というタイトルをつけたが、このように正しい情報を知っていたとしても、正しい判断ができるとは限らない。いや、人によって正しい情報から導かれる正しい判断と言うのは、ひとつであるとは限らない。人の世の中は、そう単純ではないのである。まして政治の世界も単純ではない。

 


勘違いだらけの日本の政党政治

2020-03-31 20:46:52 | 政治

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 かつて日本には民主党という政党があった。マスコミの政権交代論の支援もあって、あれよあれよという間に政権政党になってしまった。その民主党は政党の体を成していなかった、と言ってもいい。看板となって表に出てくる鳩山総理などは自民党出身だし、多くが松下政経塾出身の寄り合い所帯もいいところで、政権を獲りたい、という点しか共通点はなかったのである。その上、固定支持基盤と言えば、官公労を中心とした労働組合であった、という支離滅裂ぶりであった。そのなれの果ての現在の立憲民主党の勢いたるや、かつての民主党と比べるべくもない。

 国家への忠誠心や信念、といった日本人の根本にかかわる理念が多くの人たちに共有されていた、という点では戦前の方が余程ましだったと言える。しかし、それでも当時の政党も党利党略に走っていた事には変わりはない。例えば野党の政友会はロンドン軍縮条約締結の際に統帥権干犯と批判して政権奪回を図った。本心は軍縮しなければ財政破綻の恐れありと考えていたのに、政局に利用するために反対したのである。

 満洲等における条約上の約束を破り続ける中華民国に対して、幣原外交の政党政府は対支融和策に出るだけで無策であった。あまりに支那に迎合するために英米からは、支那と融和して英米を支那から排除するのではないか、と疑われた位である。中西輝政教授が条約を守るまで保障占領するのは国際法上の権利であると言ったがその通りで、何も謀略的に満洲事変を起こして国際的非難を浴びることはなかったのである。しかし政治家にはそのような当たり前の知恵がなかった。それもこれも政党政治の無為無策に起因したものであって、満洲の権益を守ることを任務とした関東軍としては、軍事力行使しか使える方法はなかった。

 政治は無為無策だったから、もし満洲事変がない上に、ブロック経済が日本の貿易を阻んだ現実が続いたら、日本は疲弊して米英ソに対抗する軍事力を保有できず、日本自身が米国の支那大陸進出のための植民地となり、満洲朝鮮はソ連領、大陸本部は米英仏に分割されていたであろう。我々は有色人種も独立国家を持てるのが当然の現代にいるから、当時の欧米ソ連の世界覇権の恐ろしさが見えないのである。そして有色人種も独立国家を持てるのが当然である時代を招いたのは大東亜戦争である、というのは事実であって夜郎自大ではない。

 かつて、民主党が政権交代を実現しようとしたとき、多くの評論家が二大政党政治の実現への期待を表明した。しかし、戦前でも日本は立憲政友会と憲政党の二大政党政治は実現していたのである。それにもかかわらず、二大政党はうまく機能しなかった。そのことを反省しようとすらしない原因は分かる。GHQの焚書坑儒による教育と洗脳により、全ての戦前の失敗を軍部の特に陸軍の責任に帰したからである。いや大東亜戦争は単純な失敗ではない。敗戦と言う点では失敗だが、有色人種が独立国を持てるのが当たり前の世界を招来したという世界史的観点から失敗ではない。それを失敗だけと思い込まされているのである。日本は戦争目的のひとつを達成した。しかし真の失敗は、その後にある。唯々諾々と連合国に思想改造されたことにある。

 日本人が連合国によって植えつけられた思想は、大陸侵略の意図を持った陸軍がテロなどで右翼と組んで政党政治を消滅させた結果、対米戦に突入して滅んだ、と概括すれば良いだろう。だがこの考え方は本末転倒しているのだ。支那の革命外交によって大陸の権益が失われようとしている時、政党は政権獲得のための政局に狂奔していた。統帥権干犯という言葉は右翼と言われる北一輝が発明したが、有名になったのは前述のように、政権欲しさに憲政党批判に政友会が利用したからである。

 現実には外交など国際問題に適切な判断力を持っていたのは政党ではなく陸軍であった。もちろん海軍などは埒外である。東京裁判で文民政治家の廣田広毅すら処刑されたのに、残りは全員陸軍出身者であり、海軍軍人出身者がただの一人も処刑されなかったのは、日本海軍の首脳が連合国に都合のいい存在であったことを暗示しているかのようである。政策だけではない。実質的戦果の少ない真珠湾攻撃で米国に開戦の正義を与え、その後は野放図に戦線を拡大し、まずい戦闘で負け続けてくれたのである。

 当時の日本の国際的課題の基本は支那周辺のユーラシア大陸との関係であった。日露戦争で得た、満洲鉄道とそれを護るための関東軍の存在がそれであった。元々が東亜の大部分は欧米の植民地であった上に、不況でブロック経済化する世界情勢の中で唯一日本が期待できるのが満洲であった。マッカーサーが証言したように、満洲を失う事は、日本経済の壊滅を意味した。世界は現在のような自由貿易の世界ではなかったからである。だから当時の新聞に満蒙は日本の生命線、という活字が躍っていたのは正鵠を得ていた。

 日本陸軍が永田鉄山や石原莞爾といった戦略家を生んだのは、陸軍が満洲駐屯を通じて国際政治の何たるかを身に着けざるを得なかったからである。これに対して海軍には戦略はなく、建艦予算獲得のために、する気もない対米艦隊決戦を呼号していた。典型的官僚発想である。さらに、プロの政治家たちは政争に明け暮れ、軍縮条約交渉すら政局にして国内政治と化し、選挙の勝利を得るための方便にしていただけであった。国際政治については欧米にも支那にも協調外交しか能が無かった。この点は現代日本の政治家と酷似している。勉強の場が無い者にはその方面の知識も判断力も生まれないのは当然である。東京裁判史観に呪縛されて国際関係や軍事について自由な思考ができない分だけ、現在の政治家の方が劣化しているとさえ言える。

 実は外交や軍事に関しては、戦前の政党政治でもうまく機能していなかったのである。それでは何故、米英ではうまくいっているのであろうか。根本的には現在でも世界の覇権を握るのが欧米諸国だからである。もうひとつはエリートの育成という点が重要である。だがこの点についてここでは触れない。

 近代日本史から分かるのは、危機が迫っているが真に緊急事態に至るまでは政党政治は政権欲しさに危機に対応する能力がなく、真の緊急事態に直面すると日本人は政党政治を放棄したという事実である。危機をも前提とした米欧の議会制民主主義が、危機に至ると忽然と独裁制度に移行して、平時になると元に復帰することができるシステムを持っていることである。第二次大戦のチャーチルとルーズベルトの支配は事実上の独裁であって、選挙が独裁への移行への支持の手続きであった。チャーチルは英国崩壊の危機を独裁で支えたが故に、危機が去ると遠慮なく選挙民に放擲された。ルーズベルトは4期もつとめて戦争中に任期途中死ぬまで政権を離すことはなかった

 日本の議会制民主主義に基づく政党政治に必要なのは、議会制度を維持しながらも非常時には統帥を担う独裁となり、平時には独裁を止めるシステムを作ることである。戦前の日本は、議会を解散して大政翼賛会を創設した。これもひとつの知恵であろうがここでは触れない。現在の日本の状態を日清日露の戦争直前の危機に例える輩は多い。しかし、全世界に有色人種の独立国がほとんどなく、白人支配の世界であった戦前と現代とでは基本的状況が違う。イスラムの台頭も戦前にはなかったことである。日本の危機はGHQや共産主義に洗脳されてまともな歴史観を持てない、日本人自身が作っている。


書評・やがて哀しき憲法九条・加藤秀治郎

2019-12-31 16:04:48 | 政治

 タイトルに惚れ込んで衝動買いしてしまった。GHQにより日本国憲法が制定された過程について、従来の本とは別な視点で説明を加えている。これを読んでも狂信的憲法九条護持論者の意見は変わるまいが、まともな理解力を持っていれば、日本国憲法なるものが、いかにインチキで日本に有害か分かる。

 GHQが言論の自由と民主主義を唱えながら、戦前より徹底して厳しい検閲をしていたことは、江藤淳らの研究により、広く知られるようになった。皮肉なのは昭和天皇がマッカーサーを訪問した写真のエピソードである。かの写真は翌日掲載されず、二日後掲載された。(P18)それは外務省が掲載差し止め命令を出し、日本政府の検閲に気づいたGHQが外務省に抗議して掲載されたから遅れたのである。

 「不思議な話はさらに続きます-その間の事情を知らなかった日本政府の情報局が、なんと写真を掲載した朝日、毎日、読売の三紙を発禁処分にしたのです。もちろん新聞社側も黙っていません。GHQに事情を説明して、救済を求めると、GHQがすぐに日本政府の発禁処分を取消すように命じた、というのが顛末です。」という情けない話である。

 情けないのは新聞社がGHQに頼った、ということばかりではない。日本政府が差し止めすれば掲載を止め、GHQに命じられれば掲載する、という姿勢が第一である。そればかりではない。新聞社の営業に関係のない指示には、外務省にでもGHQにでも唯々諾々と従うが、発禁処分という営業の死活問題となると、なりふりかまわずかつての敵国のGHQに泣きつく、という新聞社の姿である。

 検閲されようが、掲載を強要されようが、真実はどうでもよい。ただ新聞の営業が第一なのである。まさに緒方竹虎の言う「新聞は生きていかなければならない」のである。

 戦後、検閲が廃止され自由になった、という感想の例証として高見順の「敗戦日記」が挙げられる。(P18)GHQが政府の検閲を廃止したことを知り、昭和20年9月30日に「これでもう何でも自由に書けるのである」と書いていることを示す輩が多い。ところが高見はそのすぐ後の10月3日には、米軍の非行を批判した「東洋経済新報」が没収になったことを知り「アメリカが我々に与えてくれた『言論の自由』はアメリカに対しては通用しないこともわかった」と書いている。

 護憲派の主な人士は、高見のGHQによる検閲批判を知っていて無視し、米軍の検閲がなかったかのように振る舞っているのは、自己欺瞞も甚だしい。しかし彼ら護憲派の自己検閲は「紫禁城の黄昏」の翻訳で、溥儀が自ら強く清朝復活を望んでいた箇所を大量に削除して出版したなどの事実を知れば、彼らの考え方と違う事実を隠ぺいする悪癖があることは知れる。

 しかし、小生は、根本的に高見は軽薄であると言わざるを得ない。結局のところGHQが日本政府の検閲を廃止したことを手放しで喜んでいるからである。これではGHQが作っても日本国憲法は内容が良いから改正すべきではない、という護憲派と同様である。

 日本国憲法は芦田修正によって、自衛権を放棄しないことになった、という通説も本書によれば真相は複雑である。マッカーサーノートには、「自己の安全を保持するための手段としての戦争をも放棄する。」という文章があったが、マッカーサーの部下がGHQ草案をまとめる際に削除した。(P45)これをマッカーサーも黙認しているから、芦田修正以前にGHQ草案は自衛戦争を認める意図があった、というのである。

 「前項の目的を達するため」という芦田修正を提案していた時点では、実は芦田には自衛戦争肯定という変更になる、という含みは考えていなかった、というのである。(P59)ところが、この文言を見た法制局官僚が、自衛戦争肯定という変更になるという考えを持ち、芦田に話したところ、それを認めて憲法公布の際にその解釈を公にした、ということだそうである。

 結局のところ芦田修正は、GHQの意図を明示したに過ぎない、ということになる。芦田は自らの発案で芦田修正をしたのではなかった。後に吉田首相は、軍隊絶対不保持の見解を示しているからややこしい。

 かの白洲次郎は、昭和27年の文芸春秋に再軍備の問題で「・・・憲法制定当時の米国の対ソの見通しは、日本に関する限りまちがっていた」としアメリカ人らしく「率直大胆に政策の失敗を認めて貰うわけには行くまいか」と書いているそうである。直言居士と言われる白洲らしい発言である。

 ところが実は米国は白洲が書いた翌年、明白に謝罪している。(P67)当時のニクソン副大統領は「もし非武装化が1946年(制定の年)においてのみ正しく、1953年の現在、誤りだとするなら、なぜ合衆国はいさぎよくその誤りを認めないのでしょうか。・・・私は合衆国が1946年に過ちを犯したことを認めます。」と演説した。

 演説は来日した際に日米協会で行われた。演説の原文は「日米関係資料集」に掲載されている。ところが「定訳がないらしく、そこにも日本文はありません。・・・ただ当時はそれなりに知られていたようでして・・・丸山眞男が同じ年の講演でこう語っています。ニクソンが『戦争放棄条項を日本の憲法に挿入させたのはアメリカの誤りであった、という有名な談話を発表した』と」あの丸山の言だから不思議なものである。当然護憲派はこのエピソードを知っても無視するであろう。

 なお、国会図書館で、「日米関係資料集」を確認したら間違いなく、ニクソンの演説の原文があり、内容は筆者の指摘通りであったことを付言する。

 ただ本書では西ドイツの「憲法」が再軍備を想定していた内容となっていたことについて、制定が遅れて米ソ冷戦が起きてからの作業であったこと(P65)と書いているのは単純すぎる。さらに憲法改正への関与を米国は日本には検閲で隠したことについて、ドイツではもう少し穏便にやっていたとして「ドイツについては法治国家の伝統がありますから、そういう小手先の方法は通じない(P27)」という判断だとしているのもいただけない。日本を法治国家と認めず、検閲も強引にしていて、憲法も強制した、ということについては、日本人に対する人種偏見という観点もあることが欠けているように思われる。要するに日本に対するのと異なり、西独に対しては、対等の文明国として対処していたのである。

 納得できない点をもうひとつ。侵略戦争の定義である。(P40)筆者の言う通り国際法の問題として考える。すると「侵略はインヴェイジョンだと思うでしょうが、・・・アグレッショョンだという」というところまではいい。「単純化して言いますと、侵略戦争は領土などを奪うため、他国に攻め入る戦争です。」と述べているのはいただけない。

インヴェイジョンではない、と言いながら「領土などを奪うため」という道義的判断を使っている。アグレッションは文字通り「先制攻撃して開始された戦争」のことを言うだけであり、意図とは何の関係もないのである。「不戦条約」の侵略戦争の概念の反対の自衛戦争とは当事国が自衛か否か判断する、という留保がつけられている、有名無実なものであることはよく知られていることを付言する。

さらに「交戦権が認められ、捕虜となった場合、人道的待遇を受けることができる(ゲリラなどはそうではない)。(p87)」と書かれているが、これも間違いである。1977年のジュネーブ条約の追加議定書で現在はゲリラも、武器を公然と携行することを条件として捕虜となることが認められている。

すなわち同議定書第四三条の1に「紛争当事国を代表する政府又は当局が敵対する紛争当事国により承認されているかいないかを問わない」とされている。(出典:国際条約集、有斐閣)正規軍と非正規軍との区別をなくしたのである。これは条件付きであるが、ゲリラも捕虜となる資格のある戦闘員とみなされると解釈されている。侵略の記述といい、これだけの知識のある筆者がこのことを知らないという事は不可解である。正確に言えば、正規の政府軍に対する、反政府軍も、条件さえ満たされれば、交戦法規が適用される、と言うことは立作太郎氏によれば、戦前から慣習として認められていたのである。

面白いのは人の変節である。安保法制の議論で立憲主義に反する、として反対論を展開した小林節慶応大学名誉教授は護憲派学者として有名になったが、平成8年頃「憲法守って国滅ぶ」と言う本が改憲論として出された。(P88)この気の利いたタイトルで護憲派を揶揄したのが、小林節氏だったのである。

ドイツの憲法学者のヘッセの「憲法は、平常時においてだけではなく、緊急事態および危機的状況においても真価を発揮すべきものである。憲法がそうした状況を克服するための何らの配慮もしていなければ、責任ある機関には、決定的瞬間において、憲法を無視する以外にとりうる手段は残っていないのである」(P94)と書く。

至言であるが護憲派は、日本が侵略戦争をはじめない限り「危機的状況」すなわち戦争は起こらない、と考えているのである。瀬戸内寂聴氏はクェートに侵攻したイラクを撃退しないと、クェートはイラクに併合されるがいいのか、と質問されると答えは、かまわない、とのことであった。その理由はソ連に併合された東欧諸国も、現在は独立をしている、ということであった。彼女にはソ連に併合された東欧の辛酸と、未来にまで残る東欧の苦しみに思いをはせることはできないのである。小生は湾岸戦争に賛否はあっても、東欧の例を引く彼女の無神経は信じられない。

日本の共産党の便宜主義は昔から有名である。元々共産党は憲法九条改正派であったが、今は護憲派のごとく振る舞っているのに、天皇制廃止論はあくまで捨てていない。ご都合護憲である。日本の共産主義の大御所だった向坂逸郎氏は、非武装中立論を唱えていた。ところが雑誌「諸君」でのインタビューで、社会主義政権でない間は非武装でいくべきか、と質問され、イエスと答え、本音は軍備を持つべきだが、当面は非武装でいくべき、という本音を言った。(p143)

共産党と同じ便宜主義である。向坂氏は恐ろしい人である。昔小生が見たテレビのインタビューで、共産主義政権になると政治思想がひとつだから、共産主義以外の思想を持つ人がいたらどうしますか、と言う質問に対して向坂氏は「弾圧する」と断言したのが忘れられない。共産主義者の本音である。共産主義国家の思想弾圧は、共産主義の本質からきていることの証明である。


施政権と領有権

2019-12-28 15:27:19 | 政治

 以前にも言及したことがあるが、尖閣諸島の日米安保の適用について「尖閣諸島には日本の施政権が及んでいるから、日米安保が適用される」と明言した。多くの保守の論客もこれを聞いて安心したようである。これは奇妙なことである。決して「日本の領土だから」とは言わないのであるから。

 このことが明確になるのは、竹島問題を考えた時である。「尖閣諸島は日本の領土だから、日米安保が適用される」と明言したらどうなるのか。日本は竹島を日本固有の領土たと主張している。米国がそれに同意すれば「竹島にも日米安保が適用される」ということになる。すると日米は共同して竹島の防衛、すなわち、竹島を奪還しなければならない、という仕儀になるのである。だからといって「竹島は日本の領土ではない」とは米国は言えないのである。

 つまり米国は日本が竹島を領土たと主張するのは勝手だが、施政権が及んでいない、すなわち韓国が実効支配しているから、安保の対象ではない、と暗に言っているのである。北方領土しかりである。一度奪われた領土が安保適用となり、奪還作戦ができるなら、竹島の奪還作戦も行わなければならない。米国はこれらの領土問題に言辞を明確にできない理由がここにある。

 その結論は尖閣諸島についても、跳ね返ってくるのである。もしも、中共の「軍人なり民間人」が尖閣諸島の一部に上陸したとする。すると元々無人島なのだから、存在するのは支那人だけとなる。実効支配は中共のものとなり、施政権は中共が及ぼしていることになる。つまり自動的に「日米安保の適用外」ということになる。尖閣の奪還作戦などと言うものはあり得ないのである。

 中共が「公船や漁船」を毎日大挙して尖閣の周辺をうろうろしている理由はここにある。一度中共の漁船が大量に出現して、あわや上陸しそうになったのを米国が裏で制止した、という情報さえある。尖閣は安保の適用外になりかけたのである。それなのに日本の国会や報道は「モリカケ」騒動や「花見」騒動を追求することしかしない。多くのジャーナリズムも同断である。

 尖閣は風前の灯なのである。スキャンダルを追求している多くの野党議員には国会議員の資格はない。日本国民の大多数は、野党議員の大多数ほど愚かではない。ごくつぶしのようなスキャンダルを野党がメジャーマスコミとタッグを組んで追及しようと、野党の支持率は少しも上がらないのである。


共産主義国の私有財産の不思議

2019-10-25 23:18:11 | 政治

 昔話だが、平成21年の暮、こんなニュースが国際面の片隅に載った。「立退き抵抗排除モスクワ」、という見出しである。モスクワ市当局が、1950年代に菜園要地として河川労働者に分与され、小家屋の建築が認められたのが始まりで、ソ連崩壊後に土地が転売されたり、一戸建て住宅が建てられたと言う。その後モスクワ市が1998年にこの一帯を自然公園に指定して、違法建築として住宅の強制撤去を始めたと言うのだ。長年住んでいるのを一方的に自然公園に指定して、強制撤去するのが通用するというのはロシアらしいでたらめである。

 だが小生が不思議に思うのはその点ではない。私有財産、つまり土地や家屋などを個人で保有する事が禁止されているはずの共産主義で、土地が労働者に与えられていたと言う事実である。だからこそ今頃になって強制立ち退きなどと言う問題が発生したのである。しかし一方でこの話で納得する事がある。皆が不思議に思わない不思議である。単純な小生は、ソ連が崩壊して資本主義になった時、ロシアには大混乱が起きるだろうと思った。

 ソ連では、土地や家屋などを個人で保有しておらず、全てが国の資産で、現在住んでいるのは、仮に国から割り当てられているだけのはずである。するとソ連が崩壊すれば、土地や家屋を誰が保有する事になるかについて、奪いあいの大混乱が起こるのに違いない、と予想したのである。つまり誰の土地でもない、と言う事は体制が変われば誰にでも権利がある、と言う事だからである。

 ソ連は平等のはずだから、誰も平等に財産を受ける権利があるはずである。例えばソ連崩壊にあたって、国有のはずの土地の配分について、こういうルールを定めたとしよう。一家の人数の頭割でその家族がもらえる総割り当て面積を決める。モスクワとシベリアでは人気が違うから、面積の比率を決める。次に各地の土地の保有の希望を募り、抽選で配分していく、などなどである。だがどのようなルールを決めても皆が公平だと納得できるルールなど作れまい。

 ところがそんなルール作りも行われず、混乱も起きなかった。その理由は、全ての国民が先の河川労働者のように、土地を配分されてそこに住んでいたのである。つまり土地の国有などと言うのは建前で、実際にはそこに住んでいた者の所有になっていたのである。もし住人が仕事の都合で転地すれば、その土地は不要になるから売って、その金で転地先の土地を買ったのであろう。

 ソ連にも貨幣はあったのである。貨幣があれば土地にも自然に価格がついたのである。そもそも貨幣の保有だって私有財産である。しかし建前では土地は国有だから、あまり公然とはできなかったのには違いない。だから土地の転売で騙されても裁判には持ち込めないから、裏では色々な問題が鬱積していたのに違いない。つまり資産の国有の建前は、国民に不便を強いていたのに過ぎない。ノーメンクラツーラと呼ばれた赤い貴族、つまりソ連の政府高官一家が世襲の豪邸に住んで、豪勢な暮らしをしていた事はソ連末期には広く西側世界にも知られていた。

 彼らは大資産を事実上私有していたのである。ソ連崩壊後、彼らは公然とそれを私有したのである。共産主義の実際とはそんなものだったのである。ソ連の初期には国営農場などが作られて、農民は土地を奪われて、かつての自分の土地を共同で耕させられていた。これが資産私有の禁止と言う、共産主義を厳格に実現する唯一の手段であった。しかしまもなく農民は共同農場では真面目に働かないために、能率が低下して個人農園が認められるようになった。

 そして国営農場は崩壊したのである。昔の中学の社会科の教科書には、ソ連のコルフォーズ、ソフォーズと言った国営農場で大規模農業があたかも理想の農業であるかのように、写真入りで紹介されていた。その後の経緯をみればそんな事は幻想であった事が分かる。つまり資産の私有禁止、つまり共産主義などと言うのは実際には運営できないのである。単純に考えてみるがよい。ソ連にだって貨幣はあった。貨幣の保有は私有財産の保有である。貨幣の保有なしに日常の生活ができようはずはない。だから、共産主義の絶対原則たる、私有財産の禁止、などというものがそもそも夢想である

 だから世界中で共産党が消え、中共ですら資本主義化した。いや、中共ですら人民元という通貨はあるのだから、初めから私有財産の禁止などというものは、有名無実だったのである。そう考えると日本にある「日本共産党」なるものに所属する人たちの知能はどうなっているのだろうかと、小生は思うのである。

 西欧諸国では「共産党」なるものはフランスにしか存在しない。現在のドイツでは、共産主義とナチズムは、ファシズムである、ということで政党の結成は事実上禁止されていることは有名な話である。日本の戦前はファシズムであった、などと見当違いの批判をする人士が、日本共産党の存在を支持している場合が多いことは、小生には奇怪なこととしか思われない。


表現の不自由展の怖ろしい深謀遠慮

2019-10-12 20:22:11 | 政治

 あいちトリエンナーレ2019の企画展「表現の不自由展・その後」の再開は着実に日本を悪くしていくだろう。この騒動を計画した人たちには、周到な計算があった。「平和の少女像」なるものと昭和天皇の写真を焼く映像などというものは、普通の日本人にとって耐えられるものではないから、激越な反発があることは予想された。彼らは激越な反応があるからこそ、表現の自由の名のもとに、美術館側が警備を厳重にしてでも、展示を再開せざるを得ないとふんだのである。

 「慰安婦像」と昭和天皇への侮辱は脈絡のないものではない。彼らの論理はこうである。昭和天皇は「東京裁判」で追及されるべき戦争責任を、運良くまぬかれた。戦争責任の中には、セックススレイブとして朝鮮女性を強制連行した、非道な日本軍の総責任者が昭和天皇である、という論理がある。

 これによって今まで行われたことのない「慰安婦像」の日本における展示と、昭和天皇を公然と侮辱することに成功したのである。これは大きな実績になってしまった。たとえまともな日本人が反発しようと、公的機関での展示が可能となったのは大きい。もういかに反発があろうと、公的機関であれ、個人の美術館であれ、このような展示公開を禁止することはできなくなったのである。もっと日本人を侮辱した悪質なものさえ登場するだろう。

 展示再開の翌日の産経新聞に、国際政治学者の三浦瑠莉氏が、「今回の展示によって激しい政治的対立が起き、非常に息苦しい社会が生まれた。展示によって表現の自由はむしろ後退した」などという頓珍漢な論評をのせた。この問題は表現の自由の問題ではない。まして芸術性があるかないか、などという問題ではない。

 芸術であろうとなかろうと、セックススレイブなどという虚偽の象徴である「慰安婦像」や皇室を侮辱するものが公然と、日本人自身によって展示が行われたこと自体が問題なのである。これを実績として、日本人を貶める展示は今後も増殖していくであろう。彼らは、日本人の良心として過去を反省しているつもりであろう。しかし、これらの展示は確実に日本人の心を蝕んでいく。

 そればかりではない。世界の人々は、日本人はセックススレイブを使う非道な民族であり、皇室などというものは軽蔑に値するものだと思うだろう。日本人自身がそう告白しているのだから。いくら「おもてなし」などとやさしげな言葉を使おうと、日本人の本性はこんなものに過ぎない、とせせら笑うであろう。


また満洲事変を繰り返すのか

2019-08-24 00:35:09 | 政治

 以前のある新聞の記事で、米軍が北朝鮮軍から攻撃を受けてそばに自衛隊がいても、守る事は出来ない、というのがあった。しかし実際にこのような事があったら、現場の自衛隊指揮官は躊躇なく米軍を支援して反撃するだろう。眼前に同盟軍が攻撃されているのを座視する軍人はいないからである。

 もちろんこれは重大な違法行為である。これは満洲事変を想起させる。むしろ満州事変で越境した、林銑十郎朝鮮軍司令官に相当するのかも知れない。いずれにしても当時日本には条約上の権利があって軍隊が南満州に駐留していても、満洲で働く日本国民に中国から殺人を含む様々な迫害が加えられていたにも拘わらず、政治家は政争に明け暮れるだけで、何らの有効な対策をしなかった。


  満洲の日本人と権益を守る任務の関東軍が、眼前の不法行為を座視する事ができようはずがない。満洲事変は現地の実情を知らない政治家の無責任によって必然的に起きた事件である。また、林司令官の越境支援は軍事上当然であった。米軍への攻撃の際に自衛隊が援護するための、集団自衛権の行使を具体的な事態を想定しもしないで、党利党略しか考えていない政治家の無責任は、戦前の政党政治を彷彿とさせる。

 確かに限定的に自衛隊の集団自衛権行使は認められた。しかし、これは事態が日本防衛に必要な場合という、重大な足枷がある。北朝鮮軍が米軍を攻めただけでは、自衛隊が援護はできない。必ずしも直接的に日本が危機にさらされた、とは言えないからである。この想定は荒唐無稽ではない。米海軍と自衛隊護衛艦共同訓練中に、北朝鮮爆撃機か潜水艦が突如攻撃する、というのはありうる。
 

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