毎日のできごとの反省

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ベトナム戦争参戦とアジア、支那の保全

2016-02-27 16:16:09 | 歴史

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 日本に憲法九条がなかったらベトナム戦争に参戦しなければならなかった、という論者がいる。だが、日本はベトナム戦争に直接に参戦するべきであったか、ということを考えるのが先決である。その前に一言する。日本はベトナム戦争に参加する航空機や兵士などに基地を提供している。これは倉山満氏ら何人かの識者が言う通り、国際法上は参戦していたのである。だから、ここで言うのは、戦闘員を送ると言う、直接的な参戦のことを言う。

 ベトナム戦争とは何か。それは戦後再植民地化のために戦ったフランスを、アメリカが引き継いだのではない。ドミノ理論によりベトナムの共産化が、東南アジアの共産化につながることを防止するためである。日本が支那事変を戦ったのも一面は反共の戦いである。ドイツと手を組んだのも反共のためである。日本は一面では、アジアの防共のために戦ったのである。それを理解できなかった米国は、結果として共産支那を成立させてしまった。

 それがなければアジアの防共はありえたのである。アメリカは日本を倒した結果として、共産主義の威力と本質を知り、ベトナムに飛び火した共産主義を阻止しなければならない羽目に陥った。つまり米国は日本のかつての役割を肩代わりしなければならなくなったのである。米国がアジアにおける日本の役割の貫徹を阻止したために、ベトナムで戦う羽目になった。日本が支那におけるゲリラ戦に苦しんだのと同様に、米国もベトナムで苦しんで勝てず、厭戦になったという相似性がある。

 それ以上に、両国の戦いにおける政治的意味は類似していた。ある意味で日本の代わりに米国はベトナムで戦ったと言えるのだが、日本の邪魔をしなければベトナム戦争はなかったのだから、既に支那で大量の犠牲を払った日本が直接参戦する義理はない。つまり、アメリカは過去の間違いのつけをベトナムで払わされたのである。

 だが日米戦争なかりせば、アジアの独立はなかったのだから日本としては、アメリカのベトナム共産主義との戦いに、消極的協力をするのもおかしな話しではない。その意味で沖縄基地を利用させるなど、後方支援をしたのは正当である。すなわち日本のベトナム戦争に対する態度は、結果論ではあるが正しかったのである。

 共産主義を標榜しているとは言えども、現在では中共もベトナムも単なる独裁国家であって、正確には共産主義国家ではなくなっている。両国とも既に市場主義を取り入れた資本主義経済を導入している。中共の覇権主義的行動は、統一された支那政権の伝統的行動であって、共産主義とは関係がない。その意味で日本に代わってアジアでのプレゼンスを得た米国が、日本に変わって中共と対峙するのは当然である。

 米国がアジアにおけるプレゼンスを維持する実力と意志を、日本が阻止あるいは引き受ける覚悟がない以上、日本は米国を支援して中共と対峙して、中共の侵略からアジアの保全を全うしなければならない立場にある。現在では日本が独力でアジアの保全をすることができないというのは、精神衛生上有難くない話であるが、大東亜戦争で証明されてしまった日本の国力や地理的な縦深性のなさから、米国の協力者となってアジアの保全を図るというのは、日本の縦深性の不足を米国に補完してもらえるという意味では有利であるともいえる。

結果論ではあるが、戦前の日本のように、アジアで孤独に悩むということはなくなった。その意味で支那事変と大東亜戦争を戦ったということは、現在の日本にとって有意義であった。その結果を現在の日本が有効に活用できず、中共に翻弄されているというのは、大東亜戦争の負の遺産である。だが両者を総合すれば、日本は戦前に比べ有利になったと言える。それを利用するのが今後の日本の役割である。

いつの日にかロシアは覇権国家として再生する。そのときにロシアと支那とは現在とは異なり両立しえないことは、歴史の教えるところである。そのときに支那は分裂しているかもしれない。分裂した支那をそのまま保全することが、支那大陸を構成する各民族の幸福である。その幸福のために、やはり米国と日本は協力してロシアと対峙すべきである。

日本は米国と異なり地理的にアジアに存在し、アジア唯一の近代的国民国家であるという、戦前からの立場が不変である以上、米国は日本の協力が不可欠である。大東亜戦争を戦った米国には、その事実を教訓として知っていなければならない。知らずば日本は教えなければならない。ロシアが復活する日まで日本と米国は協力して、支那と対峙してアジアを保全しなければならないのも両国の義務である。

支那と日米の対峙の目標はアジアの保全ばかりではない。支那大陸における健全な国民国家の成立である。支那大陸において未だかつて、近代的な国民国家が成立したことはない。だが支那系住民が居る台湾において、かなりその目標を達成しつつあることは、大陸にも健全な国民国家が成立しえることを証明している。

健全な国民国家の成立を阻んでいるのは、国家規模の問題と民族の錯綜と大陸における覇権志向の原因ともいえる統一願望である。統一願望は統一が成ったとしても、チベット侵略のように、更なる「統一」を求めて侵略する。これが覇権志向である。現代の中共は世界制覇の野望さえ抱いているように見える。支那においては日本と異なり、古来支配者と被支配者は厳然と区別されている。

支配者は自らの幸福のために統一と拡大を望む。そして大部分の被支配者は抑圧と収奪の犠牲となる。この不幸の連鎖を断ち切るのは、各民族が分立して独立する、支那の分裂しかない。分裂は適正規模の国民国家の成立と、類似民族の国内共存による安定と民度の向上をもたらす。

支那は漢民族と呼ばれる多数派民族が支配しているとされる。しかし漢民族というのはフィクションである。それが証拠に漢民族といえども北京語、広東語、福建語など全く異なる言語を話していることはよく知られている。漢字表記のない、漢語すら存在する。そもそも現代「漢民族」は漢文を読めない。だから漢字を共通項とする漢民族などはフィクションだと言うのである。

 互いに通じない異言語を話すものが、同一民族であろうはずがない。異言語とはいえ英語のルーツは古ドイツ語である。そのような意味における近親性すら、支那における各言語には少ないと考えられる。支那は古来、外来民族による支配を繰り返してきた。その外来民族が自らの王朝が滅んだ後にも支那大陸の各地にまとまって定住した。

そのグループが上記の北京、広東、福建などの異なる言語を話すのである。すなわち古来から続く、侵入してきた外来民族の象徴が、相違する各言語である。すなわち北京語と広東語を話すものは民族のルーツが異なる。ホームページの「支那論」で説明したが、北京語を母語として話すのは、実は満州族であるというように。

支那人が血族しか信用しないというのは、この雑多な異民族性による。血族すなわち同一民族しか信用しないのである。それは大陸が常に外来民族の侵略支配と定住を繰り返した、モザイクのような地域であったためである。血族すなわち同一民族、つまり同一言語のグループだけで国家を構成するようになれば、この不幸は解消する。

この分裂が始まったとき、日米は協力して分裂を支援しなければならない。そのためには米国人に支那大陸の本質はヨーロッパのように、異民族が各地に固まって定住しているモザイクのような地域であり、統一は住民に不幸しかもたらさない、ということを理解させることである。そして統一志向が覇権志向の原因であり、アジアの不安定化の原因であるということを理解させなければならない。少なくとも支那人以外は知っておかなければならない。

この際に潜在的な危険がある。それは米国がハワイ併合以来、支那に野心を持ってきたことである。現在の中共は軍事力のみならず、地理と人口の縦深性により侵攻しがたいために、米国は経済的権益の追求だけに止めているが、分裂した国民国家となった支那に対しては、米国は本来の領土的野心をもたげることなしとしない、と考えなければならないであろう。

そのときかつてのロシア帝国がそうであったように、復活したロシアも支那を狙うであろう。このとき支那大陸の保全のために、ひいてはアジアの保全のために、何らかの形で戦うのが日本の役割である。アジアの安定なくしては日本の平和はない

もう一つは米国の抜きがたい有色人種への蔑視である。そのことに日本はペリー来航以来悩まされてきた。排日移民法、戦時中の日系人強制収容、東京大空襲や原爆投下など市民への無差別大量殺害などである。すなわち日本人に対する欧米人、従って米国人にも表面上、現在はなりを潜めているが、絶対的な人種偏見がある。そのことを日本人は決して忘れてはならない。米国は日本が対等な同盟関係を求めた場合、その偏見が絶対に妨害するであろう。

米国が日本になした仕打ちは前述のようであって、米軍が人道的な軍隊などではなく、南方戦線や沖縄、本土において民間人の殺戮と暴行を行ったというのが本当である。しかしその故に同盟が出来ない、という結論を下すのは感情論である。

欧米人も究極において日本人と異なり暴力的である。だがロシア人や支那人と異なり表面上はルールを確立して秩序を保っている。文明を装っているのである。さらにウェストファリア体制を守ろうとするヨーロッパと、蹂躙する米国とは、これまた異なる。だが彼らがギリシアローマ文明の後継ではなく、ゲルマン、ノルマンの蛮族の出身で、倦むことなく争いを繰り返したのは遠い昔の話ではない。二千年の歴史の経過で暫時文明化した日本列島と異なる。

楠正成が糞尿をかけて敵軍を撃退した、などというおおらかな話しが讃えられる世界と、十字軍とイスラムの攻防のように、巨大兵器を開発して戦闘を繰り返す文明とは、世界観が異なる。近代においても同一民族でありながら米英は独立戦争を戦った。米国内でも南北戦争という殺戮を繰り返した。

ともかくも彼らは和解し、米英は断ち難い同盟国であり、米国民は南北ともに対外戦争に協力できている。しかし日本にした米国の仕打ちを忘れてはならない。だがそれ故に同盟が出来ないとしたら米英ですら同盟もできず、米国の南北統一もない。

これらの同盟と異なるのは前述のように、日米には人種偏見という抜きがたい溝がある。しかし多民族国家である米国にとって人種偏見は、自らにも向けられた刃であることを自覚しているはずである。それゆえ日本は人種偏見がなきがごとく、米国に対応することができるのである。

 日米戦争を戦ったのは必ずしも米国にも反感だけを残したのではない。米海軍には日本海海戦に大勝した東郷平八郎に対する伝統的憧憬がある。日本海海戦は最初の近代的大海戦であった。米海軍の将帥はアドミラル・トーゴーの海軍と戦うと奮い立った者が多いという。大東亜戦争で敗れはしたものの、彼らはカミカゼ攻撃の恐ろしさを知っている。いざとなったときの、日本に対する畏怖はある。

 英米人には伝統的に良く戦った相手に対する尊敬というものがある。その点は日本人と共通するところはある。それは個人から組織にまで及ぶことがある。相手が人種偏見の対象となる人種であっても、よく戦った相手には例外的に敬意を払う

例えば黒人であっても人種偏見にめげず勉学して弁護士や政治家となり、白人と対等以上の仕事をしている者に対しては名誉白人として、白人と同一の居住区に住めるし、対等に喧嘩をしながら仕事が出来る可能性はある。白豪主義の典型のオーストラリアですら、シドニー湾を襲撃して戦没した、特殊潜航艇の日本人乗員に敬意を払うために、反対を押し切って海軍葬をした

 日本人が米国人の人種偏見を打破して対等の同盟ができるとしたら、その資産は明治以来の日本が、苛烈な戦争を戦い抜いたことである。その極限が特攻隊である。西洋人は日本人と異なり、数百年の戦いを続けてきた戦争巧者であり、戦争の勝利に向けてハード、ソフト共に天才的な努力をそそぎ、才能を発揮することは日本人の及ぶところではない

だが日本人が故里のために生命を惜しまない精神を潜在させていることを知る限り、対等の関係が成り立ちうる。だが日本にも朝日新聞のような一部のマスコミのように、生命どころかカネの欲しさと脅しに屈して、故里を打っても恥じない者たちが増えている。彼らはパトロンである中共からも侮蔑される存在なのだが、現実には大きな日本の脅威である。

一方で米国は、ある意味支那には憧れのようなものを持っていると推察される。それが戦前、支那を支援した原因のひとつである。それは支那が文明発祥の地とされるのに対して、わずか二百年余の歴史しかないというコンプレックスであろう。ところが現実の支那はみじめな後進国であるということが、ますます支援を動機付ける。日本に対する蔑視と支那に対する憧れが近年に至っても、時々日米関係を阻害している。

 日本には古来支那大陸との葛藤があった。これに幕末以来、ロシアと米国が参加して日本を悩ませた。隣国朝鮮は常にその間にあって日和見をする自主性のない存在であった。このパターンは現在でも生きている。それが二千年の歴史が教えるものである。

 日本人は中国四千年の歴史というフィクションを忘れなければならない。支那は支那大陸という地域の歴史であって、連続した民族の歴史ではない。繰り返すが、漢民族というものはない。支那は飢餓と戦乱により民族の血統が何回も断絶した地域である。長江文明の支那人は黄河文明の支那人ではない。黄河文明の支那人は秦漢の支那人ではない。

 秦漢の支那人は隋唐の支那人ではない。隋唐の支那人は宋の支那人ではない。宋の支那人は元の支那人ではない。元の支那人は明の支那人ではない。明の支那人は清の支那人ではない。清の支那人は中共の支那人ではない。これらの間には風俗、文明、言語、血統のうちのいくつかが、必ず断絶して不連続である。異民族が漢化されたのではない。前にいた支那の住民が、次に来た異民族に滅亡あるいは同化されたのでもない。支那大陸には次々に異民族が侵入して、先住の民族を押のけて定住し、共存した結果が現在の支那大陸である。

 だから漢民族の四千年の歴史はない。日本人は戦前の日本人が持っていたような、文明の先達としての中国に対する憧憬を捨てるべきである。支那に憧れて殺された松井石根を見習うべきではない。冷徹に支那大陸の覇権争いとして捉えて対処するべきである。それが大陸の住民個人個人の幸福を達成するゆえんであるというのである。


戦前の大陸権益を批判する人たちが日中友好により経済的利益を得ようとする矛盾

2016-02-23 15:39:37 | 自虐史観

戦前の日本の大陸権益を批判する人たちは、大抵が現在日中友好により中共に投資して経済的利益を得ようとする人たち、あるいはそのような傾向を支持する人士である。これは単純に考えれば、大いなる矛盾であることはお分かりだろう。そもそも戦前支那本土で経済活動をしていた人たちは何も、侵略活動をしていたのではない。現在の経済進出と同じく投資や商業活動をしていたのである。何故同じことをしている人たちを非難できるのだろう。

ところが、当時の支那政府(当時は各地に実態は匪賊集団に等しい、自称の「政府」があった)は民衆や軍閥を使って、日本の経済活動を妨害するテロ活動をしたのである。元々の日本の大陸での権益とは、南満洲鉄道と沿線の付属地の権利だけである。満洲を守る気がなく、満洲で争っていた日露戦争を傍観していた支那には、戦勝した日本が満洲を併合しても、当時の国際常識からは文句が言える筋合いではなかった。日本にとって満洲自体は、経済的利益より、国防的観点の方が重要だった。

現に石橋湛山などは、経済的見地から、日露戦争などで得た、大陸の権益放棄論を主張した。純粋に経済的観点からみれば、その通りに違いないのである。満洲に権益を得た後は、満洲ではない支那本土に進出して、純粋な経済活動もしはじめた。これは現在、中共に進出している会社などと変わりはない。

現在大陸に工場などで進出しようとしている人たちは、純粋に経済的利益を得ようとしているだけである。つまり金儲けだけである。戦前の日本は、日露戦争で偶然できた満洲権益が、欧米諸国の経済ブロック政策から日本を守ることができるものにしようとしていた。満洲の権益は経済的利益ばかりではなく、対ソ防衛の死活的な意味を持っていた。日露戦争後一時友好を保っていた日露関係であったが、ソ連成立とともに、共産主義の脅威が日本には発生したのである。単に自分の会社の目先の利益で対中投資する現在の経営者とは立場が根本的に違うのである。

 さらに満洲国は現在の中共と根本的に異なっている。現在の中共も当時の支那本土も同じく、近代的な法治国家ではない。外国が経済投資をすると、政府の恣意で利益を奪ってしまうし、民衆や官憲は政府の指示に従い排外活動を行うのである。この事情は今も昔も変わらない。これに対して満洲国は法治が通る近代国家の地域に日本人がしたのである。

こう考えると現在の経済人が日中友好により、経済的利益を得ようとすることには大きなリスクがある。まして、大陸に満洲国と言う近代国家を作り、国防と経済の死活的利益を得ようとしたことを批判するのは矛盾に満ちている。もし満州における日本の権益を批判するなら、現在の時点で、中共に経済進出をしようとする資格も判断能力もない。

ちなみパールバックは支那人に肩入れしている、と言われるが「大地」を読めば支那の軍閥は、匪賊集団に等しく、幹部から兵士達まで、略奪などで儲けようとする者たちであることが書かれている。近代的な国家や社会ではないことも、よく理解できる。ただひとつ、最後に毛沢東が支那の希望の星らしく登場するのが大きな間違いである。


維新以後の日本の世界貢献

2016-02-20 14:18:42 | 歴史

 欧米にしても支那にしても、海外への進出とは他民族を犠牲にして、自己の最大限の利益を求めることである。すなわち侵略である。世界史的にはそれが当たり前である。もちろん支那やロシアが現に行っているように、現在でもそのことは不変である。それも自己とは必ずしも自国全体ではない。海外へ行った個人個人と考えるべきである。そもそも欧米人にも支那人にも、国のためになどという精神はないのである。

その中で、維新から敗戦までの日本だけが例外であった。確かに日本も朝鮮や満洲に進出した。しかしそれは地政学観点から日本を守る、防衛的なものから始まったし、経済的利益を得ようとするようになってからも、防衛的な考え方が基本であった。確かに日本人とて色々な手合いがいるから、大陸でろくでもないことをした人間もいる。

しかし、それは例外である。例外を極大に見せれば、例外には見えない。プロパガンダによって、例外を日本人の全体像であるかのように見せられているような状況に、現代日本は陥っている悲惨な状況にある。いずれにしても、日本は自国の為に防衛的なことをしながらも、他民族を思いやり、結果としてもアジア、ひいては全世界の植民地を解放した。世界史的に稀有なことである。モンゴルがヨーロッパまで進出して、初めて世界がつながったことに匹敵する事績である。モンゴルによって世界史が始まった、と言ったのは岡田英弘氏である。

支那のスプラトリー侵略を言うが、それが世界の常態であり、日本は例外なのである。最近ドイツの第四帝国化をいう論者が現れた。当然であろう。英国が失ったのは植民地であり、本土ではない。他の連合国側の西欧諸国も同様で、第二次大戦で旧来の本土を失った訳ではない。それどころか、東ティモール問題やミャンマーでは、隠れてかつての宗主国としての権利を行使している。

それに比べ敗戦によってドイツが失ったものは大きい。領土や人間の損失ばかりでなく、西欧が行ってきたユダヤ人迫害、という罪を最大限にしたうえで、あたかもドイツだけの罪とされて、名誉まで失った。ドイツは名誉回復を画策しているのだろう。日本と違ってドイツは敗戦には慣れているのである。

日下公人氏と宮脇淳子氏が「日本がつくる世界史」という本で現代世界に流布している世界史は嘘と不公平ばかりであるが、公平で本当の世界史が書けるのは日本人だけだ、と述べている。その根底には、小生が述べたように、日本が維新以後、世界へ多大な貢献をしている、という認識があるはずである。


何故北は核兵器を持てた?

2016-02-16 15:58:19 | 軍事

 中共政府は北朝鮮に核兵器を持たせない気なら、できたはずである。それは核兵器の技術を供与しない、ということではない。北朝鮮の言う核実験なるものが、現在知られている限り、かなり不完全なものである。従って北朝鮮の技術者が北京で勉強したり、技術を盗んだりしたことはあり得る話であるが、直接技術供与はしていないと考えられる。

 中共政府が北の核開発を阻止するつもりなら、政治的、経済的圧力をかければよいのである。政治的圧力には軍事的な要素もある。経済は全面的に中共に依存しているから、この方面の圧力も有効である。ナンバー2.であった張成沢は中共にならって改革開放政策をしようとしていた、とも伝えられている。

 張は中共との関係は良かったといわれているが、改革開放政策は必ずしも中共の望むところではなかったであろう。中共のように成功してしまえば、経済的に自立してしまって、中共のコントロールが利かなくなってしまう、と考えても不思議ではない。だから、張が処刑されて中朝の関係が悪くなったように論評する筋もあるが、決定的に悪くなったという兆候もない。

 北朝鮮が核兵器を持ったところで中共に問題はない。核兵器で中共を恫喝するなどということは、絶対に不可能である。通常戦力でも核戦力でも北を蹂躙するのは簡単だからである。それよりも不完全ながら、北が核兵器を持つメリットは大きい。北の核兵器を使うことによって、間接的に日本やアメリカを恫喝することが可能になるからである。

 中共自身がアメリカを核恫喝するには、リスクが大き過ぎる。現に兵頭二十八氏によれば、米中はICBM競争をしないという、秘密協定を結んでいて、中共のICBMの数はかなり制限され続けているのだそうだ。しかし、北朝鮮ならば、中共自身のリスクなしに、日米に脅威を与えることができる。今すぐ、と言わずとも将来の手駒のひとつになる可能性があるから、北の核開発を事実上放置しているとしか考えられない。

 また、産経新聞の平成28年2月10日の古田博司の正論によれば、核実験や延坪島砲撃事件などの騒ぎを起こすたびに、韓国は北朝鮮に裏金を払っていることがあるのだそうだ。つまり韓国は実質的に経済援助をしている。それならば、中共の経済援助の負担が減る。

つまり北朝鮮が、適度に騒ぎを起こしてくれることは、中共にとって、北朝鮮をぎりぎりのところで存続させるには好都合なのである。


書評・こんなに弱い中国人民解放軍・兵頭二十八・講談社+α新書

2016-02-14 17:02:39 | 支那大陸論

 久しぶりに兵頭氏らしい、明快な評論を読んだ。何故中国が欧米の科学技術を獲得できないか、を小生の理解と同じように書いていたので納得した。ただ、パリ不戦条約の解釈は相変わらずおかしい。氏は「中国」の地理的概念をシナと書き、中華人民共和国の略称を中共とする、と書いているのは正しい。(P11)いつの間にか保守の人間ですら、中共から中国に乗り換えている。

 AWACSさえあれば、前世代戦闘機でも十分最新鋭機と戦えるので(P33)、コピーなど色々な方法で中共は入手しようとしたが、4機製造したきりで終わった。つまり失敗作で、まともなAWACSを持てないのだ。

 兵頭氏は中共軍を旧日本軍と比較して批判するのだが、当たりも外れもある。日本の文官指導層や宮中が陸軍を掣肘牽制するために、海軍を大きくしてバランスさせたのと同じ方法を中京政府はとっている(P68)というのだが果たしてそうだろうか。

 軍事指導体制の本来の姿をとっていて、海軍が陸軍の下にあったのを対等にしたのは、山本権兵衛の執念であって、陸軍が暴走するのを掣肘するためではなかった。本書でも氏は陸軍の横暴独裁を言い募るが、それは戦後誇張された風評である。満洲で関東軍が暴走したと言われるのは、政府の無策で、関東軍が起たざるを得なかった、と小生は考えている。満洲における支那人の無法に対しては、国際法上合法なやり方で、満洲を保障占領することも、親日政権を樹立することも可能だったのであるのに、政府は無策だった。

 中共が大海軍を目指しているのは、氏自身が指摘するように(P68)、大陸周辺の資源に目をつけたことや、台湾併合などの役に立つからであろう。また改革開放で、金のかかる巨大な海軍を持つゆとりができたと考え、本来の覇権思考が頭をもたげたのである。

 井上茂美の「新軍備計画」を持ち上げて、太平洋の島々を本土から近いところから逐次占領、航空基地化して、資源航路を確保する戦略を取れば良かったので、中共も似た構想を推進している、というのだ(P77)。このアナロジー自体は正しいとしても、太平洋上の島々に作られた日本の基地は、米軍によって次々と無力化されるか、あるいは玉砕していったから策としては間違っている。島嶼の航空基地は、自在に動き回る、空母機動部隊に歯がたたなかったのは、戦史が証明している。

 中共についても、氏自身が、大陸周辺の浅海やマラッカ海峡は機雷などによって容易に封鎖され、中共の体制自体が崩壊するきっかけになる(P94)と書いているのである。中共海軍には、対潜作戦能力と、掃海能力が全くない、というのだ。これらの地味な能力の整備を後回ししたのは、確かに日本海軍に似ている。戦後、日本周辺や朝鮮戦争で日本が掃海に尽力したのは、必要性の賜物である。

 日本海軍の大間抜けは、「西太平洋域にやってくる連合軍潜水艦の出撃基地が、豪州西岸の『フリーマントル港』であったという事実すら、戦争に敗れるまでつかんでいなかったのだ。もし分かっていたら、こちらの潜水艦で機雷を撒くことにより・・・(P83)」というのだからあきれる。日本海軍はやはり、本気で対米戦などを考えていなかったから、この程度の情報収集すらしなかったのだ。

 小生に理解できないのは、氏が戦前の日本も現在の中共も文民統制国家ではない(P114)」と断言していることである。中共は軍隊が政府の言うことを聞かない国である、ということの証拠を提示している。本当だろうか。ソ連のシステムを導入した中共は、党が国家の上に立つという典型的なファシズム国家である。戦前の日本はファシズム国家ではなく、最後まで憲法が機能していた、文民統制国家である。毛沢東や東條英機の真似をするしか能のない習近平(P140)というのは認識間違いも甚だしい。東條は独裁者ではない。合法的な権限を行使しただけである。独裁者が合法的に倒閣されるものか。

 中共は、ニクソン時代に毛沢東が米国とICBM競争をしない核秘密協定を結び、米国に届くICBMの数を実戦用にはならない程度の数に限定していて、その方針は毛沢東以後のトップも引き継いでいるのだという。それは毛沢東が中共にとって神の存在であり(P117)、変更できないからだそうである。本当に毛沢東のカリスマは残っているのだろうか

 パリ不戦条約で先制攻撃による侵略戦争が違法化された(P145)というのは氏の持論だが、何回も別稿で書いたように、不戦条約では米英ともに自衛戦争か否かは当該国自身が決める、と留保している。つまり不戦条約は成立当初から有名無実である。しかも、米国自身が経済制裁は戦争行為だ、と言明しているから、先制攻撃をして侵略したのは米国であって、日本ではない。

 氏は正当な軍事行動であることを広報しないと、国際的に不利になるという例として、国連から軍事制裁が決議されることすらある(P146)とする。軍事制裁は国連軍が編成されて、北朝鮮や中共軍と戦って実現した実例がある、と言いたげなのだが、朝鮮戦争で安保理での軍事制裁が決議されたのは、ソ連が故意に欠席して、拒否権を発動しなかったための、例外中の例外である。従って、侵略行為に対して、国連軍が編成されて、被侵略国を助けてくれる、などいうのは絵空事であることは、兵頭氏のみならず、世界の常識であろう。

 前述のように支那の科学技術に関する氏の認識は正しい。「・・・幾世代も超えて、技術者が経験とノウハウを蓄積しなければならない最先端のエンジン工学のような分野で、シナ企業は、世界に何も貢献できないのである。(P159)」ということである。中共や韓国に日本の技術者が行くから、日本の先端技術が盗まれる、ということは、このような訳であり得ないことである。

 彼等は外国の技術者の指導の下、外国製の生産設備を設置してもらい、指導されるままに労働者が働いて、教えてもらった製品を作るだけである。欧米や日露の最新技術のノウハウが中韓に定着することはない。技術の伝承は、教育や社会組織などのシステムが整備されていないと、できないことである。中共軍が保有する、最新の戦車も中身はソ連のT-72なのだそうで、外見だけ違って見えるようにしてあるのだそうだ。だから日米欧露の戦車には歯が立たない。

 最終章は「弱い中共が軍が強く見えるカラクリ」という気の利いたものである。結局シナは近代国家にはなれず、シナ本土は匪賊の聖域(P204)だというのは本当である。「中共軍は戦えば弱い・・・逃げようとすれば、彼らの反近代的なルールが勝利を収めるだろう。逃げずに受けて立てば、それだけで中共体制は滅び、アジアと全世界は古代的専制支配の恐怖から解放されよう。(P206)」というのは、兵頭氏らしい卓見である。

 


米空母の抗堪性

2016-02-13 14:19:08 | 軍事技術

 現代の米空母は簡単には沈まない。支那軍がその点を勘違いしている可能性は、大いにある。大東亜戦争の日本軍機の猛攻によって、フランクリンやバンカーヒルといった正規空母は、甚大な被害を受けながら沈没は免れた。とは言ってもフランクリンは修理のための調査の結果、火災による高熱で、船体の鋼材に全面的に歪が発生していて、修理するのに新造と同じ費用がかかってしまう、というので修理されなかった、と雑誌「世界の艦船」に報じられていた。

戦死者も700人以上出している。戦傷者はその倍はいたろうから、乗員のほとんどが、死傷したことになったのであろう、甚大な損害であった。沈没した船でも救助によって、犠牲者がこれ以下であった例も多かっただろう。

 しかし、沈没したに等しいが、沈没しなかった、ということは戦意の維持にとっては大きいのである。南太平洋海戦でホーネットが沈没して以降、日本軍機による正規空母の撃沈はない。最大のもので、軽空母プリンストンは特攻によって沈没している。プリンストンは軽巡から設計変更したもので、正規空母とは言えない。

ただし、1発の500kg爆弾の命中により、大火災を起こし、味方から雷撃処分を受けた。これは被害が大きかったのはもちろんであるが、火災により戦闘が不利になることを考慮した結果とも言われている。

 それ以後原子力空母になってから、船体は大型化し、防御についても鋼材以外の特殊装甲まで使用されている。何よりも大東亜戦争で日本軍機の猛攻を受けた結果、ダメージコントロールのノウハウが蓄積されたのは大きいであろう。中国軍が米空母を攻撃するとしたら、潜水艦か航空機のASMミサイルによる攻撃であろう。

 中国の潜水艦が辛うじて魚雷を命中させても、致命傷に至る前にASWの攻撃で撃沈される。また航空攻撃は、旧ソ連のようにASMによる飽和攻撃を行うまでの戦力はなかろう。結局防空陣により撃退される。現代の米空母自身の抗堪性も大きい。支那軍など問題ではなかろう。

 


北海道新幹線には乗りたくない

2016-02-09 15:33:53 | 共産主義

 平成28年3月には、北海道新幹線が開通する。もちろん地元にとっても待ちに待った日である。だがJR北海道は大きな問題を抱えていて、根本的には解決する様子もない。平成25年11月21日の産経新聞の正論に、評論家の屋山太郎氏がJR北海道の病巣を厳しく指摘して、タイトルも「JR北は破綻処理するしかない」という過激なものである。

 平成23年に石勝線で特急が脱線炎上し、多数の負傷者を出して以来、JR北海道は事故や不祥事が続発している、というのだ。そもそも前身の旧国鉄は労組問題がどうにもならない状況になり、屋山氏が書く通り、国労の富塚書記長は公然と「国鉄が機能しなくなれば国力が落ちる。そうすれば革命がやり易くなる」という、とんでもないことを言っていたのだ。

 日本に暴力革命を起こすために、労働運動をしていると公言しているのだ。当時国労を支持していた政治家や学者たちが、この言動を非難しなかったのは、常識論からは不可解である。暴力革命を黙して支持していたのに違いないのである。

 国鉄の分割民営化は煎じ詰めれば、どうにもならなくなった労組問題を解決するためである。ところが屋山氏によれば、JR北海道は、この旧国鉄の体質が残っていることが原因で、事故やら不祥事が続いているのだ。

 レールの据え付け精度がとんでもなく基準から外れているのが放置されていた例もある。事故が起きるのは不思議ではない。新幹線の工事は、各種の基準通りきちんと実施されているのであろう。しかし、長い間維持管理しながら使っていると、精度は狂ってくる。それを点検して整備・補修しながら安全を確保していくのである。

 屋山氏の指摘のように、JR北が、そのようなまともな維持管理ができるような体制ではない、とするならいつか新幹線のレールや列車が老朽化しても、適切に整備されるとは限らない。在来線より遥かに早い新幹線の場合、維持管理の手抜きの結果は、石勝線の時とは比べられない大事故につながる。

 東日本大震災の時ですら、東北新幹線は事故を起こさず、安全に停止した。だが北海道新幹線は、適切に点検・整備がなされるという保証はないのである。開通してから年を経るごとに事故の危険は増える。人災である。北海道新幹線には乗りたくない。


鴎外は恋人の記録を残したが、ほとんどの人は痕跡すら残していない

2016-02-07 15:49:11 | 芸術

鴎外は恋人の記録を残したが、ほとんどの人は痕跡すら残していない

 以前、書評「鴎外の恋人」に書いたように、鴎外はドイツでの恋人のことが忘れられず、「舞姫」を書き、二人の子供の名前を、恋人の名前に似たものにした。他にも恋人の存在の痕跡を多く残している。そのために、上記の本の著者は、鴎外の恋人に関する事実を色々洗い出すことができた。

 しかし、同書にもあるように、当時欧米人と恋中になり真剣に結婚を考えた軍人は何人かいたらしいのだが、結局ハッピーエンドとなったケースはないらしい。同書で一人の軍人の名前が紹介されているのはましな方で、その他にも多くの日本人が、欧米人との恋に破れたケースがあったのに違いないのだが、誰も鴎外のように痕跡を残していないのであろう。

 幸せと言うにはあたるまいが、鴎外のように痕跡を残すことのできた者はましである。少なくとも、鴎外は自身の不幸を世間に表白できたのである。多くの人々は涙をさえ隠し、互いの胸に永遠に真実を秘めて亡くなっていったのである。


日露戦争で日本はナポレオンの教訓は考慮できなかった

2016-02-06 15:23:54 | 軍事

 ロシアがナポレオンに勝ったのは、退却戦で戦線を伸ばし、広大な領土に引き込んだ結果である。別宮暖朗氏の、「坂の上の雲」では分からない日露戦争陸戦、では奉天からのロシア軍の撤退は、日本軍の大勝利の結果である、としている。現にクロパトキンは満洲軍総司令官を降格された。

氏によれば、講和は、敗北を認めた側が、勝者に申し込むのであって、これ以上の継戦が困難だとして政府に講和工作をした児玉は間違っていた、という。講和を望むのなら戦争を続けるべきであり、それまで不足していた砲と砲弾も、奉天会戦後には、充足されていたのだという。

だが、ナポレオン戦争でも、好んで退却し、敵をロシア領深く迎え入れたのではない。負け続けていたのに過ぎない。奉天からの撤退を世界の大勢がロシアの敗北と判断したのも当然である。結局、講和が成立したのは、日本海海戦に奇跡的な勝利をおさめ、ロシア国内の不安定が拡大したため、日本のこれ以上の勢力拡大を望まない米英が、講和をロシアに斡旋したからである。米英は、ロシアの東亜での勢力拡大を、日本の軍事力で抑えられれば良いのであって、それ以上の日本の勢力拡大は無益であったどころか嫌悪する所であった。

ナポレオン戦争の時代と異なり、ロシアは国内事情によって講和を受け入れるしかなかった。たとえ海軍が全滅しようと、ロシアの国内不安がなく、陸戦を徹底して戦うことができれば、ロシアは最終的には勝てたであろう。そのような可能性まで検討した結果、日本は日露戦争を決断したのではなかった。

制海権が日本にあっても、日本の兵站が切断されないだけで、ロシアの兵站も可能である。まして、西方に進撃する日本軍の兵站は延びる一方で、ロシアは逆である。それでもナポレオンの敗北の教訓を考慮する余地は日本にはなかった。日本は戦うしか生きる道はなかったと判断したから開戦したのである。

それならば、大東亜戦争の開戦を間違っていた、と言える日本人はいない。明治の元勲なら開戦を選択しなかったとは言えないのである。ただ一部の識者が言うように、大東亜戦争にも勝てる戦略はあった可能性はある。正確に言えば、不敗の体制を確固として、米国を厭戦に追い込む、ベトナム式の戦略である。しかし、米軍の戦争テクノロジー、特に海軍のそれは開戦時点では英独をすら遥かに凌駕していた、といえるから米国相手の「勝てる戦略」は極めて困難であろう。大東亜戦争は、海の戦いであった。

別宮氏の講和についての考え方は、意外に思われるが正しい。結局相手に徹底して勝てなければ、相手は講和しないのである。現に大東亜戦争の終戦工作は、敗北を認めた日本が行ったのである。ベトナム戦争の場合は、北ベトナム軍が敵の首都サイゴンに突入し、南ベトナム政府が崩壊して終わった。講和ではなく、無条件降伏である。支援したアメリカは、勝てない長期の戦いで厭戦に陥って、南ベトナム軍が敗北する前に撤退したのである。これでも米国の敗北ではある。米軍は敗北しなくても、米国は敗北したのである。

日露戦争が、結局日本の勝利と言う形で講和が成立したのは、ロシアの国内事情と米英の思惑による、という極めて例外的なものである。その意味で、山本五十六が「城下の誓い」をさせることが絶対不可能と知りながら、緒戦の徹底的な勝利で、米国を厭戦気分にさせて講和に持ち込むことが唯一の勝利の道だと考えていたとしたら、大間違いである。唯一の勝利は、ベトナム戦争と同じく、長期持久戦略によって、米国を厭戦に追い込むことである。