毎日のできごとの反省

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書評・みんなで学ぼう日本の軍閥・倉山満・杉田水脈

2019-01-30 15:32:41 | 軍事

書評・みんなで学ぼう日本の軍閥・倉山満・杉田水脈

 平成27年の刊行だから、杉田氏がLGBT記事で叩かれない前の著作である。のっけから余談になるが、杉田氏の生産性云々の記事問題は、記事が不適切であるというより、左翼にとって杉田氏が手強い存在だから、ちょうどいい攻撃の口実を見つけられたのに過ぎない。例の菅直人もかつて、同性愛は生産性がない云々という発言をしたにもかかわらず、何の非難もされなかったからである。

 保守論客でも杉田氏の発言に対して、言論の自由を侵害する危機だとしてまともに擁護する人は少なく、本当に杉田氏が言いたかったことが誤解されているとか、LGBTも生物学的には生産性があるだとか言い訳をする輩がいた。つまり、自分が杉田氏のように非難の嵐にさらされることを恐れたとしか思えないのである。

 閑話休題。それにしても倉山氏も東條の事を、がり勉の秀才で典型的官僚と看做していることは残念である。「東京裁判」で東條が見せた歴史的見識と胆力は付け焼刃ではないからである。東條はこのとき真面目を発揮したのであって、追い詰められて人が変わったのではない。

本稿では本書のうち、山本五十六についてだけ一言したい。倉山氏があれほど歴史に詳しくても、軍事にあまり関心がないことが分かるからである。運命の五分間に空母を潰されたとか、そんなレベルではない(P236)、というのだが、阿川弘之のおべんちゃらを批判しているのに、この見え透いた嘘を指摘していない。阿川の言う運命の五分などというものは、艦上機が発艦するのに、一機当たり一分程度かかることを知っていれば、すぐばれる話だからである。

二十数機が五分で全機発艦するのは不可能だ位は、阿川氏のみならず軍事知識があれば知っている。阿川氏が嘘をついているのは明白である。それどころか敵空母攻撃隊の発艦開始後の五分であれば、発艦距離が短い直掩の零戦隊が発艦中で、艦爆と艦攻は飛行甲板にいるはずだから、急降下爆撃を受けたときには甲板上には爆弾、魚雷を満載した攻撃隊が待っている。米海軍の爆弾は瞬発に近い信管だから飛行甲板は兵装の連続爆発が起こったはずである。

ところがいくつかの証言では、ほとんどの機体は格納庫にいたのだから、阿川氏は二重に嘘をついている。赤城が急降下爆撃を受けた時に飛び立った一機の零戦とは、急降下爆撃にあわてた第一次ミッドウェー攻撃で帰投したばかりのパイロットが、近くの零戦に飛び乗って発艦したものである。これは飛び立った本人の証言である。

また、飛龍の敵空母攻撃隊が発艦したのは、三空母が急降下爆撃を受けてから30分以上たっている。もし、四艦同時に発艦していたのなら、こんなことにはならないことも、阿川氏らの説がいかにインチキかわかる。飛龍は3空母と離れて雲下にいたので同時攻撃を免れた、というのだから尚更敵空母攻撃隊を赤城と同時に発艦させているはずがない。

阿川氏の山本五十六伝記には、マレー沖海戦で、山本五十六と幕僚が英戦艦を一隻撃沈するか、二隻かでビールを賭けたことが堂々と書かれている。敗北した英海軍のみならず、日本の攻撃隊も戦死者が出ている。この壮絶な戦闘を賭けで遊んでいた、というのはまともな神経ではあるまい。山本を神格化しようとした阿川氏も、戦闘を賭けにして遊んでいたことに疑問を持たずに堂々と書くのもどうにかしている。ちなみに倉山氏も山本も博打好きは徹底的に批判している。

日本の艦砲の命中率が米海軍の3倍(P231)だという説を述べている。これは、旧海軍の黛治夫氏が出典であると思われるが、これは米海軍が新型の火器管制システムを完成しない、それこそ第一次大戦の延長の時点で、類似のシステムを使って日本海軍が訓練にはげんだ成果と考えられる。日米開戦時点では、米海軍は砲塔の制御等の火器管制システムの能力を大幅に向上しているから、日米の差は逆転している。

海自出身の是本信義氏は「海軍善玉論の嘘」で戦艦大和級とアイオワ級が戦えば、アイオワ級の圧勝だと述べている。これはレーダー照準の精度も含めているが、それがなくても、火器管制システムの優劣により、アイオワ級の楽勝である。高角砲の命中率が米海軍が二~三発撃てば一発当たるのに、日本のは1000発撃って3発当たる(P196)、というのだが、これも火器管制システムの圧倒的な差による。

ミッドウェー海戦の際の戦力を倉山氏は「連合艦隊 激闘の海戦記録」により(P236)日本側が圧倒的に優位な戦力であったとしているが、これもきちんと比較すれば逆で、米側の方がずっと優位である。戦力比較(P236)であるが、戦艦が日本が11に対してアメリカ0とあるが、これは作戦全体に含まれる数で、作戦に直接参加したのは二隻だけで、残りは作戦海域から遥かに離れたところで待機していただけで、戦力になっていない。

重巡は8対7となっているが、8隻のうち参戦可能だったのは二隻だけである。戦艦と重巡の合計の砲戦能力からすれば、米側の方がやや上である。日本の残りの戦艦等は、空母部隊から500キロ以上離れたところにいたから、砲戦が起きても参戦できなかった。山本五十六は遥か遠くの戦艦大和にのんびり座上して将棋をしていたのである。

それどころか、実際に対戦した航空機に至っては、日本が艦上機248機に対して米艦上機は233機であり、大して変わりはない(Wikipediaによる)。空母の比率が4対3なのに、この程度しか差がないのは米空母の一隻当たり搭載機数が大きいことによる。

さらに、米側は陸上機が127機もあるから、航空機の戦力は米側の方が圧倒的に大きい。「弱い日本が巨大なアメリカに負けたのではないんです。・・・日本の方が圧倒的戦力です。(P236)」とはならない。しかも、山本五十六は半数待機と称して、米空母が出現したときのために、108機を待機させていたというから、米側から航空攻撃を受けたときには、この機数しか対応できないのである。これに対して米側は空母戦力と陸上機の全力を投入できたから、実戦力の差はすごいものになる。

だから日本側は運が悪かったのではない。それどころか、つき過ぎるほどついていたのである。米空母は攻撃隊に援護戦闘機を随伴できなかった上に、空母と陸上から発進した雷撃機はバッタバッタと落とされて、わずかにかいくぐった雷撃は見事な操艦でかわされてしまった。長時間にわたる米機の攻撃にもかかわらず、日本艦隊は無傷で済んだ。一隻や二隻は被害を受けても当たり前の、執拗な攻撃を受け続けていたのである。この幸運の連続を山本は生かせなかったのである。

むしろ、わずかな急降下爆撃しか受けなかったことが不可思議な位な状況だった。そもそも敵空母攻撃に半数を待機させた、ということ自体が、本当に米空母の出現を想定していたとしたら不可解である。手順として、第一次ミッドウェー島攻撃隊が帰投すれば、飛行甲板にいた敵空母攻撃隊を格納庫に収容し、帰投した機を着艦させ格納庫に収容し、格納庫にいた敵空母攻撃隊を飛行甲板に並べ、発進させる。

これらに要する時間は一時間や二時間では済まない。それだけの時間を費やしてようやく敵空母攻撃隊を発進させることができる。その機数はわずか108機しかないのである。実際に敵空母が出現したら、わずかな戦力を時間をかけて発進させなければならない、という不利があることは、艦長以下の実務担当者に聞けば分かるはずなのである。図上演習でも、敵空母が出現したら赤城と加賀が沈没した(Wikipedia)、というが当然の予測である。

日本側が参戦不可能と見積もっていたヨークタウンが、予想通り参戦しなかったとしても、米側の航空圧倒的優勢は揺るがない。日本側が敵空母が出てくれば鎧袖一触などと放漫なことを考えていたのに対して、米軍は持てる全力を投入していたのである。米軍のこの態度は、日米戦力が圧倒的差になっても続いたから感心する。日本軍で最も驕慢になっていたのは、山本五十六そのひとだったのである。

 


江戸文明の残滓

2019-01-02 23:40:32 | 歴史

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江戸文明の残滓

 「逝きし世の面影」(渡辺京二・文庫版)を読んでいる。著者は、江戸期に完成した日本文明は、既に日本から消えてなく、歌舞伎等の伝統芸能のようなものに受け継がれているように言われるが、それは残滓ではなく形骸に過ぎず、残っているとさえ言われないようなものだという。筆者の渡辺氏は1930年即ち、昭和5年の京都生まれである。だが大連育ちであったというから、成長期には外国に住んでいたのである。

 だから、氏は知らないだろうが当時の田舎ではまだ、残滓といえるものが多く残っていたであろう。それは私自身の経験の一部でもある。私は、渡辺よりよほど後の戦後生まれであるが、この本の記述で思い出す私の朧げな体験を書いてみたい。都会の通りには、「それぞれの店が特定の商品にいちじるしく特化していることだ。・・・彼らの多くは同時に熟達した職人でもあった。すなわち桶屋は自分が作った桶を売ったのである。(P214)」という。

 それこそ、筆、墨、硯など個々の商品だけ単独で、しかし、山のように多種なものを専門的に売っていたというのだ。ということは、その程度のことだけで生計が立てられたということだ、と結論する。そこで私の生家の話をしたい。昭和30年台半ばまでの話が、主である。

 生家は四世代が同居する大家族の専業農家であった。しかも、農業機械などはなく、馬で田圃を耕していたし、それ以外は全て鍬などの農機具による人力作業であった。山羊を飼い、山羊の乳を牛乳のように飲み、山羊の皮を処理して座布団にしていた。山羊の肉も食べたろうが記憶にない。味噌も自前で作っていた。これらは主として祖父がしていたように思う。祖父は無骨だが案外器用で、山羊の皮の処理は父にはできず、祖父がしていた。

 曾祖母は冬になると一日中干し柿造りをしたり、サツマイモを天日に干していも菓子のようなものを作ったりしていた。特産が水菜の漬物で、長く漬けるものだから、暗褐色化して塩辛い代ものだった。母は元気な時は水菜の漬物を作って、結婚した私に送ってくれた。ところがある年から、同じ水菜の漬物でも全く違うものとなった。自分で漬けられなくなり、町で買って送ってきたのである。だから、馴染んだ味ではなく、正直がっかりした。

 曾祖母の仕事は女向きの仕事であったろう。祖母は29歳で病死したから、その仕事の引き継ぎができず、曾祖母が年を取ると女仕事は無くなってしまった。母は曾祖母から家事や家のしきたりなどを教えられたと言うが、結局曾祖母がしていた、干し柿造りなどは引き継がれなくなった。このようにして断絶は起きていった。さらに兄の奥さんは専業主婦ではなく、独身の頃からの仕事を続けていたから、母は女仕事を伝えることができなくなって、断絶は決定的になった。

 その他各種の野菜はほとんどが、糠味噌漬けであったと思う。米主体の農家だったが麦や蕎麦も作り、日本で普通に取れる野菜、胡瓜、白菜、キャベツ、ナス、人参、大根など大抵は自家用であり、市場に出すようになったのは後のことだった。蛋白源は豆類以外は、週一回漁村から来る、40代の女性が自転車に乗せて行商する魚を買っていたのである。

 その女性は、蒸気機関車が急勾配のためスィッチバックをしながら一時間かかるほどの距離の、漁港から通って商売をしていたので、そのルートを自転車に山ほど魚を積んで登っていたのだから今から考えれば驚異的である。その頃は、全くの専業農家であり農繁期以外はごろごろしていたし、雨が降ると農作業は休みである。することがないのである。

 椿の木がたくさんあったので、椿の実をむしろの上に並べて干して皮を向き、種を椿油用として売ったのである。曾祖母は、残った時間は古着を縫っていくらでも雑巾を作って、学校などに寄付して感謝されていた。農閑期も働きたかったのである。

 こんなことを長々と書いたのは、渡辺氏が専門の商品を売るだけで生計が立てられ、しかも商品は自作だ、ということと関係があるように思われるからである。曽祖母の作った干し柿や漬物、祖父の山羊皮のなめしなどは、比較しようがないが年季の入った職人芸だったと思う。祖父と曽祖母は黙々と根気よく、これらの作業をしていたのである。しかも、これらの農業などだけで、生活ができたのである。戦前のことだが、父とその弟は中学まで行った。

 後年父母が農閑期に建設業や缶詰工場に行ったり、野菜造りを増やし積極的に市場に売り出すようになったのを、子供の頃は不可解に思った。それまでは専業農家で暮らせたから、渡辺氏がいうような昔の自給自足の生活だったのである。昭和30代後半から急速に洋化して洋服も買うし、農業機械も導入したから現金が必要になったのである。その証拠は私が学校に行くのに自転車を買ったが、現金は半分で残りは私がリヤカーに野菜を積んで代金にしたのである。工業製品を買うには、現金が不足するから物々交換したのである。

 つまり、洋服、自転車、農機具や洗濯機といったものがなく、手作りのおもちゃで遊んでいた時代なら、現金は農業などで賄える程度しかいらなかった。私は自前でそこまで考えた。しかし、渡辺氏が西洋化や工業化によって日本文明が滅びた、といっているのを読んで得心したのである。私のかつて経験した農業は日本文明崩壊以前の残滓で、昔からの技術の農業や小規模の手工業的なものを家族総出ですれば生活できたのである。

 その他に思い出すのは祭祀である。農地を除いた昔からの家の敷地とおぼしき範囲は、100m×200m位あったはずである。井戸の脇に1か所、臨家の境界に1か所、県道から家の敷地まで150mほどの私道があり、私道から家の敷地に入るところに1か所(馬頭観音)、敷地の東南端に1か所の合計4か所に神様が祀られていた。

 特に東南のものは、鳥居があり無人であるが小屋のある小規模な神社の形をとっていた。鳥居から神社までは数メートルではあるが、参道さえあった。鳥居の脇には、その地方には珍しい大きな銀杏の木が一本あった。馬頭観音には、年一回松明をつけて祈る習慣があった。そこでは松明の下で何らかの祈りがされていたが、記憶がぼやけて単なる松明の明かりの点灯ではないこともしていたとしか、覚えていない。それは祖父が年老いてくると止めた。馬頭観音以外は、水神、土神ともうひとつは風神か火神であったろうが覚えていない。これらの神々には、お供えをする以外に、かつては何らかの祭祀が行われていたと思うが、小生の記憶する時代には絶えていたのだと思う。そのことは、馬頭観音の松明をともして祀る習慣が残っていたことから私が勝手に推察したのである。

 ただ、井戸の脇の祠の石戸をいたずら心に開けると、赤い口を開けた白い狐の像があって、ぞっとしたことがある。私道は早くに市道に召し上げられた。藁葺の家が古くなり建て替えるのに、父が100mも家を移したのは、農地の真ん中に国道建設の計画があったからだと思うが、それらの事情から、神々の祠は居場所が無くなってしまった。

それは既に父が早逝した後で、母だけ残った時代になってからである。父は隣家の親戚に土地を奪われて取り返す算段のストレスで早逝したと噂された。田舎の土地争いは醜い。母は独力で、神々の御神体を、新しい母屋の裏に1か所にまとめてしまった。本来ならば、風水でみたてて、新しい屋敷の敷地に、神々の各々の居場所を定めて祀るべきであったろうが、母にはその知識も気力も無かったし、家を継いだ兄は広い農地を貸すなどして守る事に汲々として祭祀には関心がなかった。というより嫌っていたから当然の結果である。御神体が残っただけましである。家を出て生家に関心もなかった私には、もとよりそれを咎める資格はない。

「逝きし世の面影」にも、「信仰と祭」という章が設けられているが、前記した生家の祭祀は古来どのようなものであったか、ということに対応することは述べられてはいない。西洋人が見た日本の記録から記述されているので、そのような類には観察がいきようもなかったのだろう。だからこの類の文明は、残された祠という形骸だけで、本来の姿はあらゆる記録から消え去っていったのに違いない。もしかすると既に曾祖母の世代の記憶にすら残っていなかったのかも知れない。

 曾祖母は伝えられた習慣や祭祀を守る事には熱心だったからである。しかし、後年の西洋化した私達には、煩わしいものでしかなかった。渡辺氏のいう古い日本文明が滅びた、というのは結局、人々の精神のあり方も西洋化によって変わったことを意味する。

 「逝きし世の面影」の「信仰と祭」という章には、唯一小生の記憶と一致する記録があった。それは「フォーチュンは野仏に捧げられた素朴な信心の姿を伝えている。『神奈川宿の近傍の野面にはたいてい、小さな祠があって、住民はそれに線香をたき、石に刻まれた小さな神に塩や銅貨などのお供えをする。・・・』(P538)」という記述である。そしてオールコックが描いた「道端の祠」という挿絵(P539)は、まさに小生の生家の無人の神社と同じ姿をしているのは小生には感動的であった。

 

 また、本書では、日本の田園風景が庭園のようで、しかも自然そのままではなく、人が念入りに手を入れた美しいものである、と書く。小生の子供のころ住んだ生家の庭には築山があった。メインは金木犀としだれ桜で、築山の中には細い通路があって子供の遊び場になっていた。築山は季節毎に咲く草花でおおわれていた。隣家との境には長い距離にわたって椿があった。

畑の真ん中には柿が何本も植えられたスペースがあったし、柿の木は他にも畑の角々に植えられていた。20m四方の竹を主とした雑木林があった。これらの植物は全て自然のものではなく、人工に造成したものであるのは間違いない。渡辺氏の記述した風景が昭和30年代まであったのである。ただし、それが西洋人が見て美的に感じるものであったかだけが確信がない。

前掲書の記述と小生の記憶と一致するものと一致しないものをいくつか追加する。祖父は滅多に怒らない人だったが、軽い気持ちで「畜生」といったとき「そんなことは言うもんじゃない」という意味のことを言って激しく怒ったのを不可解に思ったが「馬鹿と畜生という言葉が、日本人が相手に浴びせかける侮辱の極限だ。(P167)」ということと一致する。私にはない語感を祖父は持っていたのである。「このころは『女でもいばっている人』は、自分のことを『おれ』というのは珍しくなかったと断っている。江戸の庶民に、男言葉と女言葉の差がほとんどなかった(P371)」という。曾祖母は間違いなく、「おれ」と言っていたし、男言葉との区別がなかったように思う。母も自分のことを「あたし」などと女言葉を使ったことは考えられない。小生の生家は、東京から遠くない横浜言葉に似た訛りのある田舎町だったが、江戸言葉の影響は他にもみられる。

農耕馬として、馬を飼っていたが、乗馬の習慣はなくいことは、前掲書の記述と一致する。西部劇を見た私は乗馬風景を見たかったのである。日本の「猫は鼠を取るのはごく下手だが、ごく怠け者のくせに人に甘えるだけは達者である(P483)」というのだが、生家で飼っていた猫は代々、鼠を取るためということだったが、実際に鼠捕りに役立っていたかは怪しい。しかも耕運機を買って馬を売った日、最後の飼葉をあげていたから、動物に愛情が深かったのも本当である。

全般的に、当時の日本人は陽気でよく笑い、外国人にも平気で話しかける、と書かれているが、この点は私の常識とも一般的日本人観とも大きく異なる。ただ、母の実家の親族たちは陽気で人見知りしないたちだった。小生の兄弟は母方の従兄に、おまえんちは、外で遊ばない、と冷やかされた記憶がある。私が唯一持っている古い家族写真では、祖父は鍬を持って上半身裸の祖父が写っているから、労働する日本人は裸で平気であった、というのもその通りであった。以上のように、前掲書に書かれたかつての日本人の姿は、私の幼い記憶にとって全く意外、というわけではない。

渡辺氏は「・・・意図するのは、古きよき日本の愛惜でもなければ、それへの追慕ではない。(P65)」と断言する。それは、単に意図がそうではない、と否定するばかりではない。そもそも、古きよき日本が戦後にも残っていたのにせよ、なかったにせよ、そのような時代の記憶が渡辺氏になければ、愛惜や追慕は生じようもないのである。大陸に育った渡辺氏とは異なり、私は、前述のように確かに過去の日本の残影を見たのである。それは「良き日本」であったとは思えない。しかし、愛惜と追慕の念は微かにある、と言っておきたい。