毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

SF映画「黒い絨毯」・・・支那人は黒蟻の大群

2015-05-31 16:17:13 | 映画

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 随分昔の映画である。主演のチャールトン・ヘストンが若い。実はある本で、この映画に出てくる黒い絨毯、こと、人食い蟻は中共軍兵士を表わしているのだ、と読んで、ビデオ店で購入した。要するに猿の惑星が、日本人を模したのと同じ手の映画である。

 製作が1954年だから、朝鮮戦争で米軍が闘った直後で、殺せども殺せども湧いてくるように襲ってくる支那兵を、何十キロにも及ぶ人食い蟻の大群に見立てた、ということだろう。犠牲をいとわない人海戦術に対する米国人の恐怖を表わしている、のであろう。

 ただし映画は、手紙のやり取りだけで決めた見合い結婚、というアメリカ映画らしくない話がスタートである。日本人移民の写真結婚を嫌ったアメリカ人らしくないのである。この美男美女が、最初は反発するのだが、時間をかけて次第に愛するようになって、共に襲ってくる毒蟻と闘う、といった話である。

二人の心の駆け引きが長く、蟻との戦いは付け足し、としか思われない。猿の惑星は、いかにも戦時中の日本人を皮肉った、というのが前面に出ているのとは、やはり違う。しかし、いずれも主演がチャールトンヘストン、というのは偶然ではあるまい。それにしても、古い映画でDVDで再販されているのだから、二人の主人公の描き方が良かった、ということなのだろう。画面も綺麗だから、支那兵云々、ということを忘れて見た方が良い。


マスコミは時の空気に流されているだけ

2015-05-24 15:30:30 | ジャーナリズム

 最近の報道で言えば、集団自衛権問題を例にとろう。特にテレビの報道であるが、真剣な顔をして、「日本が戦争ができる国になる危険がある。」ということをキャスターたちは真顔で言うのであるが、彼らのスタッフが国際法上の自衛権について検討し、その上でコメントしているとは思われないのに、なぜあんなに自信を持って言えるのか、不思議ではないだろうか。

 彼らは野党などの反対勢力が言うこと、朝日新聞が時の安倍政権に反対して書いていること、などを要約して言っているだけである。しからば、なぜ彼らは自分の頭で考えもしないことを自信をもって言い、戦争になる、などと怒って見せることができるのだろうか。そう、彼らは、その時の言論界で多数派に寄り添っているから、もし言っていることが間違いであっても窮地に陥る心配がない、と知っているからである。

 反対に集団的自衛権の保持は必要である、などと言えば抗議の電話が鳴り続けるであろう。それは嫌なのである。特にテレビ報道などは、世の中の空気を読んで一番言いやすいことを言っているのに過ぎない。産経新聞とついこの間まで、フジサンケイグループであったフジテレビですら、朝日新聞のように、集団自衛権には疑義を呈している。つまりテレビマスコミが一番世の中の言論の支配的空気に乗りやすいのである。

事実をろくに確認もせずに、戦時中は日本が負けるなどと言えば、憲兵に追いかけられるとか、非国民と言われる、と彼らはいうのであるが、彼らの言うのは、その時代はそういう風潮が支配していた悪い時代であったと言っているのに過ぎない。

 もし戦時中がそのような時代であったと仮定すれば、彼らは戦時中に生きていれば、非国民、と非難する側にいるのに間違いはない。小生は戦時中に反戦的な言動をする者を非国民として非難することを悪い、と言っているのではない。ましてや本当にそのような風潮があったことを確認したわけでもない。

 しかし、当時のマスコミが非国民という言葉を多用していたとすれば、彼らの多くは、その意味を真剣に考えて言っているのではない。時の空気がそうだから便乗しているのに過ぎないのである。そういうメンタリティーにおいて、今集団的自衛権反対を怒ったように叫ぶテレビキャスターは、非国民とかつて叫んだとされるマスコミと同じである。もっと正確に言おう。

繰り返すが、戦時中に戦争を批判すると非国民と言われた、と言われたのが事実であったかどうか、ということではなく、そういうことがあったと事あるごとに主張する人たちこそ、時の空気に流されて、一番気楽な言論を語ると言っているのである。例えばテレビ番組で、戦時中の隣組などの場面を作るとき、そんな事実があろうとなかろうと、善良な人を非国民と非難する場面をねつ造するのである。そういう場面を作ることが現代日本での空気に適しているからである。後で嘘八百だとばれたとしても、非難される恐れもないのである。ドラマをでたらめにしないためには、「善良な人々が非国民と非難される」場面が当時一般的だったか否か検証しなければならない。希なできごとを一般化してドラマの場面にすることは、故意にする印象操作である。

政府がマスコミを批判すると、言論の自由を守れ、と言う。戦前のような言論の自由のない社会に戻すのか、と言う。それならば彼らは、政府に批判されただけで筆を曲げるような人たちなのであろう。それならば、彼らはもっと強い圧力がくればもっと平気で筆を曲げる。彼らが言う言論の自由とは、好き放題無責任なことを言っても、日本国内くらいは許される社会にしておいて下さいと懇願しているのに過ぎない。彼らにとっては、言論の自由の為に闘う、などということは論外で、言論の自由はそこいら中に転がっていて、ニュース営業が勝手にできるものでなければならないのである。

朝日新聞が昭和20年九月にGHQの逆鱗に触れて、2日間の発刊停止を命じられた。自民党の新聞への抗議などとはケタの違う、正真正銘の言論弾圧であった。彼らはGHQの言論弾圧と闘ったか。そうではない。唯々諾々として検閲方針の通りの報道をしたのである。それどころかGHQが去って自由になってもGHQの検閲方針を墨守した。それどころか、朝日新聞は未だに、GHQによっていかなる言論弾圧があったかを一切検証しない。戦後米国に占領されて、日本には戦前のような検閲がなくなり、自由と民主主義の国になった、とさえ言いきるのである。これでも朝日新聞が、言論の自由のために闘う、と断言できるのが不思議である。

だから日本より遥かに言論の自由がない、北朝鮮や支那の政府の言論弾圧は批判しないのである。批判すれば支局を閉鎖されるとか、脅されるという脅威がまっているからである。その脅威の前には言論の自由などは、どうでもいいのでる。日本のほとんどのジャーナリストには、普遍的価値としての言論の自由という考え方はない。商売として日本国内で言いたい放題言うことのできることが、彼らの言論の自由の意味なのである。 

  言論の自由のためにジャーナリストはどう闘っているのだろう。以前、安倍首相がNHKに圧力をかけた、と報道して言論の自由を守れ、と連呼した。これが彼らの闘い方である。僕たちは首相に圧力をかけられたと世間にいいふらして、世間を味方につけるだけなのである。マスコミの幹部が政治家に圧力をかけられたら、断乎拒否するだけで、言論の自由は守られる。彼らのしているのは、「政治家にいじめられたよう」と叫んで世間に助けを求めている子供同然である

 


書評・零式艦上戦闘機・清水政彦・新潮選書

2015-05-23 13:27:35 | 軍事技術

 他の本で名前を聞き、図書館で検索したら、この本が出てきた。類書は数えきれないだろうからと、期待をかけずに借りたが、予想に反して新鮮な視点から書かれていた。名の売れた航空ライターの常識にとらわれず、自ら検証している

 最大のものは、常識になった感のある、20mm機関砲の小便弾説である。20mm機関砲弾は威力はあるが、初速が低いので命中するまでに落下するために命中しにくいので、弾道が直線的なで命中しやすい7.7mm機銃をパイロットは好んだ、というのである。

 氏は簡単明瞭に「・・・たった200mばかりの射距離では、発射された弾丸が空中で『曲がる』ことなどあり得ない」(P93)というのである。小生などもそんな簡単な物理の問題に気付かなかった。

煎じ詰めれば、敵の後上方から角度を以て追撃し射撃すると、相手は前進するから、照準器の真ん中に敵を捕らえていると、少しづつ機首上げの運動になる。すると敵機に対して相対的に弾丸は下方に向かっているように見える。それが曲がって見えるのだ。7.7mm銃はパイロットの正面にあるから、同じ錯覚があっても見えにくい、ということである。

 

簡単な計算をしてみよう。水平に飛行する速度400km/hの敵機に対して、後方200mの距離から、水平に対し角度10度で降下しながら400km/hで攻撃に入り、照準器の真ん中にとらえていたとする。その瞬間20mm機関砲を初速600m/sで発射する。この時間を基準T0時とする。

以下次のように考える。弾丸がT0時の時の敵機の位置に到達したとき、前進してしまった敵機を相変わらず、照準器の真ん中にとらえ続けているとすれば、弾丸が照準器中の敵機のどのくらい下に見えるかを計算すればよいのである。

弾丸は初速プラス自機の速度で減速しないで200m移動するものとすれば、0.28s後にT0時の敵機の位置に到達する。その間に自機はわずか31mしか移動しないから、自機の降下角度は相変わらず10度としても誤差はほとんどない。簡単な幾何学計算をすると、敵機の下5.5mの位置に最初に発射した弾丸が見えることになる。

この間に実際に弾丸が水平軌道からどの位自由落下しているか計算する。計算は落下距離h、落下時間t、重力加速度をg=9.8m/s2とすれば

H=gt2/2

というのが物理の公式であり、h=0.38mとなる。この数字は「・・・この程度の時間では、ほとんど重力で落下することはなく」(P88)というのでもなく、案外大きいのだが、それでも実際の落下高さよりも15倍近く下に弾丸が見えるのだから、小便弾に見える原因は確かに目の錯覚である。降下角度を15度、20度と増やせば小便弾の錯覚は大きくなる。

 子供のころ、道路から数メートル離れて、走る車に粘土を投げたことがある。ど真ん中を狙ったつもりが、車に近づくと粘土は急に曲がって、車の後方に逃げてしまう。走っている車を目で追いかけてみるから、このような錯覚がおきる。本書の説明はこれとほぼ同じ原理である。子供も考えるもので、思い切って車の数メートル前に向かって投げたら、見事に当たった。怒った運転手に追いかけられ、田圃の中を友達と必死に逃げた、というのが落ちである。

 これも余談になるが、本書でまともに取り上げられた零戦のエースは坂井三郎だけであるが、岩本徹三という坂井よりもスコアが上だったに違いないエースがいる。彼は最初の空戦前から、50mの射距離による射撃を地上で練習し、初陣で実行したという。岩本は坂井と違い零戦の軽快な機動は使わず、優位な高位からの垂直に近い降下による、いわゆる一撃離脱に徹している。しかも20mm機関砲の破壊力を生かしたというのである。

 例えば500km/hで水平飛行する敵機に500km/hで垂直降下して、20mm機関砲を初速600m/sで50mの距離から発射すると、命中までに敵機は約9m進んでいる計算となる。100mからなら行く17m程度進む。敵前方を見越し射撃しなければ当たらないのである。岩本は操縦ばかりではなく、射撃もうまかったのである。

 本書には書かれていないが、零戦は軽快に機動して空戦していたばかりではない。支那事変では敵はI-15のような複葉機が多く、零戦より遥かに旋回性能が良いから、零戦の方が一撃離脱戦法を多用したという記録もある。岩本は一撃離脱戦法を支那事変で学習して身に着けたのであろう。特に高位からの攻撃に徹して、無理な攻撃せず、合理的な戦闘方法に徹していたことかが自伝で読める。本書で言う、カタログデータより運用次第で零戦も勝てる、という見本であろう。

 次は無線機が役に立たなかった、という常識である。「・・・軍はメーカーにその代金を払っている。もちろん使えない装備に予算を使うわけはない」(P94)という当たり前のことをいうのだ。だから納品時には使えないはずはないのだが、なぜか前線では全然使えない、と言われるのも事実である。

結局南方基地の超高温・超多湿環境で、進出直後故障してしまい、部品の供給ができない外地では修理ができなかったというのである。ソニーが戦後トランジスタ・ラジオを輸出したら高温多湿の船倉内でほとんどが腐食してだめになった例を挙げて証明にしている。以前、九六式艦戦の無線機はよく聞こえたのに、零戦のは全く駄目だった、という記事を不可解に思ったが、主として補給も整備もよい本土近くで使われていた九六式ならそうだったのかも知れない。

 また無線封止のため調整できなかったことや、周波数帯が狭く設定されていることに原因があったことから、運用のまずさがあったらしいことも突き止めている。それ以外にも、氏は空戦の敗因にも、運用のまずさが起因しているものが多く、初期には米軍もミスを犯していたが、次第に改善されていたことを指摘している。

 防弾装備については、米軍機も8mm厚の装甲だったから7.7mmには有効でも、13mm機銃弾に対しては終戦まで防弾しておらず、日本陸軍機と独軍機は対13mm装甲を施していた、(P181)というのであるが、陸軍機の場合には防弾板の有効性に優劣があったと言うことを米軍のレポートで読んだことがある。隼あたりでも防弾装備により、大戦後半では零戦より米軍の評価が良くなっていたそうである。

 本書は139ページ以降は戦闘についての描写がほとんどになっている。その中で一般的には、戦闘方法や作戦等の考慮や後方支援により、飛行性能よりも重要な結果がもたらされている、ということが強調されている。氏のいうように、日本の航空ライターはカタログデータにとらわれ過ぎているのである。

 ただ全般的には、小生の持論である、対空火器の効果の優劣がほとんど評価されていないのには疑問が残る。珊瑚海海戦の海軍の戦訓についても、この点の言及はないが、パイロットの記録には、対空砲火の凄まじさが書かれている。ただミッドウェー海戦の戦訓として対空砲火が極めて不正確で1000~2000mもそれていた(P221)と書かれている。また、ガダルカナルでも、米軍も食料が尽きかけ、重火器もほとんどない、という状態の危険な時期があった(P240)と述べられているが、海軍の航空攻撃と陸軍の攻撃との連携のなさについては言及されていないように思われる。

 ミッドウェー海戦については、簡単に述べる、と言っている割には陸上機と艦上機の連続攻撃について時系列的によく整理されている。これを読めば、いくら防空隊が連続攻撃をうまく排除し続けたとしても、日本艦隊はいつかミスを犯して、致命傷を負う確率大であると納得できる。巷間では作戦がばれていたことや索敵がお粗末だったことばかりがいわれているが、ミッドウェー攻略は土台強襲だったのであって、リスクは元々大きかったのである。米軍の上陸作戦が艦艇、航空機ともに圧倒的優位な条件で戦っていたのに対して、ミッドウェー攻略では航空戦力ですら日本軍の方が劣っていた

 最後に「紫電改」にも負けない活躍(P343)と書かれている。氏の言うように巷間の紫電改伝説はあまりに出来過ぎなのであろう。紫電改は優秀ではあったとしながら「・・・集団戦では飛行性能と戦果は直結しない。戦果を決定する要素は、運用・戦術とチームワーク、そして火力。」として五二型丙では火力では紫電改に劣らなかったので、戦い方次第では新型機と同等かそれ以上のスコアを上げることができた、と述べているのが本書の結論なのである。

現に隼Ⅲ型や五式戦なども、カタログデータは圧倒的に米軍機に劣っているが、使い方次第では米軍機に優位に戦っている。恐ろしく鈍足のはずの隼で檜与平氏は低空で逃げるP-51を追いかけ回して、逃がさず撃墜している。いずれにしても従来の航空ライターにない視点は実に面白い。


国家指導者の選択方法

2015-05-21 16:15:47 | 政治

 伊藤之雄氏の「伊藤博文」という大著を読み始めて考えていることがある。伊藤の父は足軽となったものの、元々は農家であった。それが、色々な人間関係で成長し、とりたてられて出世し、ついには日本初の総理大臣となった。小生は出世物語そのものに興味があるわけではない。伊藤が出世したのには、日本の指導者の選択の過程によって選択手法あるいは選択基準がある、ということに気付いたのである。

日本の指導者は、天皇の政治権力の後継となった人々であるが、全て日本人の幸福、もちろんマクロな意味であるが、幸福、ということを絶対基準としていた。小生は戦前の軍人の高官を批判していることが多いが、結局のところ日本の軍人の高官も指導者も国民に劣らず優秀である、と言えるし、何よりも国民全体の幸福を考えていた

それは隣国支那と比較すればいいであろう。支那における漢民族の指導者に、未だ嘗て民族の幸福を考えたものはいなかった。正確には、そのような人物がいたとしても、結局は指導者に選ばれず排除された、と言えるのである。少し脱線するが話の都合上、漢民族、という言葉について敷衍する。漢民族とはヨーロッパ人という概念とアナロジーがある、というのが小生の結論である。

ヨーロッパ人にも、雑に数えてもラテン系、ゲルマン系、アングロサクソン系などかいて、アルファベットによる言語の文字表記をするのだが、各々言語も相違する。文化も習慣も相違する。それでも日本人と比較すれば、やはり何らかの共通項はある。このようなヨーロッパ人とひとからげに呼ぶように、大陸に住む人々のある範囲に限ったいくつかの民族をまとめて漢民族と呼んでいる、というのである。つまり漢民族はひとつの民族の呼称ではないように、ヨーロッパ人もひとつの民族の呼称ではない。にも関わらずメンタリティーやキリスト教を代表とする共通項はある。

ところがヨーロッパ周辺にも、ロシア系、トルコ系、などの言語文字習慣など、ほとんど完全にヨーロッパとは区別できる人たちがいる。かれらは宗教ばかりではなく、メンタリティーにおいてもヨーロッパ人との共通項はかなり少ない。だからヨーロッパ人とは区別が出来るのである。同様に漢民族の周辺にも、そのような民族はいる。チベット人である。ウイグル人である。モンゴル人である。満洲人である。

支那大陸の王朝には、漢民族以外の満洲人、モンゴル人などに支配された時代があり、漢民族の居住の各地域の広範な自治を許していただけ、漢民族により支配されていた時代より幸福であったと言われている。漢民族と自称している人たちが支配した時代は、漢王朝、すなわち本来の漢民族の王朝の崩壊以後、領域の民を幸せにする指導者がいなかった。日本の指導者が国民を幸せにすることを選抜の条件としていたのに対して、漢民族は指導者とその血族だけの幸福を求めて、凄惨な闘争を繰り返してきたのである。

その典型が、最近では毛沢東である。彼の命令で何千万、いや億単位の民が死んでいったと言われている。それでも毛沢東の周辺は酒池肉林を繰り返していたのである。いや民は毛沢東を強い指導者として選択し、トップにまでし、尊敬し従ったのである。彼らの指導者の選択基準は、投票で指導者を選ぶことになっても変わりはしないだろう。

日本でもアメリカでも同じことである。選択の方法が選挙という手続きを踏んでいるだけで、選択の基準は同じなのである。伊藤博文は選挙で日本初の総理大臣になったわけではない。その後議会制民主主義となり、間接選挙で指導者が選ばれるようになっても変わらないのであろう。前述の「伊藤博文」によって伊藤が上り詰めるまでの過程を分析し、その他の日本の指導者の出世過程をも分析すれば、日本の指導者の選択基準はわかるであろうが、小生にはその力量はない。ただし最終目標は民を幸せにする、ということである、ということだけは言える。


共産主義の害毒

2015-05-17 13:19:52 | 共産主義

1.共産主義とは

 共産主義理論の根本は労働価値説である、と小生は単純に理解している。労働価値説とは、生産物の価値は労働によってしか生まれない、というものである。ところがやっかいなのは、マルクスが考えた共産主義理論における「労働」とは、国語の意味で言うところのものとは合致しないことである。共産主義でいう労働とは工場で行われる労働という狭義なものである。従って農業や運送業、設計などの作業は全て労働とは看做されない。マルクスの著書では、農民と労働者をはっきりと区別しているのである。

 そうなった原因は、マルクスが見たのは19世紀のヨーロッパにおける、悲惨な工場労働者だったからである。資本家によって過酷な労働を強いられ、仕事を得るために低賃金に甘んじている工場労働者の姿を見たのである。資本家は工場を建て、労働者を雇い働かせるだけで、何もせずに次々と金が儲かるというのはおかしいのではないか、という訳である。

 そこで、生産物の価値は原材料を加工する作業を行う、工場労働者だけが生むことができる、という論理にしたのである。農業は種を撒いたら植物は自分で育ち、実がなり農民はこれを刈り取るだけなのだから、農産物の価値は農民が生み出したのではない、というのである。現在までも、少なくとも日本では、政治家も学者も、マルクス主義思想における正確な「労働」の意味を明言ない。このマルクスの論理はソ連において徹底的に悪用された。飢餓輸出である。生まれたばかりの後進国ソ連を守るには軍備が必要である。軍備を行うには重工業が必要である。初期のソ連は資本の蓄積がないから重工業は発達しにくい。

 そこで農業生産物をほとんど輸出に回して資金を得た。そのためには農家から生産物を奪ったから農民には食料が残らない。そこで豊作であっても農民には飢饉が発生したのである。農民は労働者ではない、ということが農民から食料から奪う根拠となったのである。この理論が、恐らく党内で飢餓輸出を実行する説明に使われたのであろう。

 ソ連では、医師やエンジニヤと言った職業も低賃金に置かれた。現実を考えれば、そんなことは理論に拘ることはないのだが、一方で理論を強調したために、無理やり現実離れしたことを行う羽目になった面がある。医者は人の命を扱うことも多いのだから、安い賃金では大した治療はできない。だからまともな治療を受けようとすると、公定の医療費の何倍もする法外な治療費を払わなければならない。

 程度の差こそあれ、このような矛盾はあらゆる職業で発生した。必然的に闇市場が発生する。計画経済などという現実には不可能なものが生きながらえたのは、闇市場の調整機能のおかげである。どんな本に書かれていたか失念したが、昔西洋人が、外部から完全に隔離した数百人規模の人工の街を作り、計画経済の社会実験をしたそうである。

すると短期間に計画経済は破綻して立ちいかなくなったそうである。こうしたことから、西洋人の経済の専門家はかなり早い時期から、ソ連流の計画経済などは実行できないと知っていたのだそうである。ところが日本では、石原莞爾など対ソ戦を考える陸軍軍人ですら、計画経済による急速な経済成長、特に重工業の発展に幻惑された。ソ連は敵だが計画経済による重工業の発展は、日本の武器生産にも必要である。それで陸軍の軍人が求めたのがソ連でいう計画経済という名前を変更した「統制経済」である。

 戦後の日本の高度経済成長も統制経済の応用である、と言われる。それが日本で成功したのは、ソ連のような硬直した計画経済ではなく、資本主義経済下で日本人の柔軟な調整機能によって行われていたからである。もしソ連圏に組み込まれて計画経済を強制されていたら、高度経済成長などは二重の意味で不可能であったろう。第一にソ連の硬直した方式を押し付けられたであろう。第二に、ソ連の衛星国はソ連に搾取される経済だったのである。ソ連に必要なものの生産を割り当てられるのである。生きた証拠がチェコや東独である。あれほどの工業国であった両国もソ連の衛星国になったために、見る影もなくなっていった。東独などは西独と比較できたから、その差は歴然としている。

 

2.共産主義の歴史的役割

 共産主義はかつて多くの人々を魅了した思想だが、実は多くの害毒がある悪魔の思想と言うべきものである。日本は戦前から共産主義の害毒に気づき、共産主義者を取り締まっていたはずだった。にもかかわらず、戦前ですら、本気で共産主義を信奉し、ソ連を祖国と思う倒錯した政治家、軍人、学者、ジャーナリストや思想家など知識階級と目される人々の間に、無視できないほどに増えた。

そこには日本人の西欧思想あるいは外国思想への盲目的信仰が根本にはある。正しい考え方は、日本国内では発生せず、常に外から入ってくる、という半ば体験的な信仰である。戦後の共産主義の跋扈は戦前から胚胎していたのである。胚胎どころか政治中枢まで囚われていた、と言えるが全貌は未だに明らかにされていない。

中川八洋氏などに言わせれば、ゾルゲ事件などは枝葉末節に過ぎない、というのである。戦後45年も経ってソ連崩壊を契機として、世界で共産主義は否定され、日本でも同じ趨勢にあるように思われる。しかし直接的に共産主義が跋扈することがなくなった現代日本では、依然として共産主義がばらまいた毒に悩まされ続けている。

 日本にばらまかれた共産主義思想の毒の根本は、祖国への破壊衝動である。ソ連の作ったコミンテルンは、世界に支部を作った。世界各国に共産主義革命を起こすためである。他国にソ連と同じ理想の革命を起こす、というのはソ連の使った詭弁である。レーニンもスターリンも、外国にマルクス主義の理想としての革命を起こす気はなくなっていたのである。日本人、ドイツ人アメリカ人などでコミンテルンのエージェントとして活動した者の成果は、ソ連の都合のいいように自国の政府を動かしたり、ソ連に自国の情報を売り渡したのであった。その動機付けが祖国での共産主義革命、ということであった。

 尾崎秀実も近衛内閣を動かして支那事変を拡大して日本を疲弊させ、対米戦に持ち込んで負けさせ、革命を起こそうとしていたと言われている。だがスターリンの目的は日本によるソ連攻撃の可能性をなくすため、日米戦争の危機を惹起して、対独戦に勝利することであった。日本に共産主義革命が起きてソ連化したとすれば、出来過ぎたおまけである。尾崎が営々と祖国を裏切ったのは日本を理想の国にする、という目的があったからである。単に卑劣な裏切り者ではなく多少の(!)犠牲があっても究極的に日本人民を幸福にするという空恐ろしい自信があったのである。

 共産主義には額面上ではそこまでの魅力があったのに違いない。だから現実的なドイツ人や米国人さえ、コミンテルンのエージェントになったのである。だが米国やソ連の衛星国(何という欺瞞的呼称)とならなかった、西欧諸国ドイツは第二次大戦が終わると早くその難を逃れた。西ドイツなどは、戦後共産党は自由で民主的な基本秩序に反するとして、違憲判決を受け、その後名前を変えて再建されたが議席は得ていない。アメリカはエージェントの裏切りが戦後間もなくばれて、レッドパージが行われ、共産主義が一掃された。ジョーン・バエズなどのベトナム反戦運動をした人たちは、間接的にソ連などの共産主義者の活動に騙された人たちで、確信的なソ連のエージェントではない。

 ドイツや東欧では、共産主義の害毒を身を持って被害を受けたから、共産革命を夢見る人たちはいない。いくら子供の頃から共産主義教育をされていても、東欧諸国は共産革命とはソ連に奉仕するものに過ぎないことを身を持って知っている共産主義が抜けないにしても、外国に奉仕したり、自国を破壊するような衝動は持たないのである。

 どこか日本だけが事情が違う。その違いは、歴史的経過と日本人のメンタリティーの相違に起因しているように思われる。歴史的経過とは、ドイツや東欧のように共産主義政権に徹底的に弾圧された被害の経験を持ったことがないのが第一である。第二は正しい思想は外国から来る、という伝統的な幻想である。未だに解けない謎は、外国思想に寛容である、とはいっても日本人はキリスト教を絶対に受け入れなかったことである。キリスト教徒の日本人は例外である。仮説を立てるとしたらキリスト教は神道と根本的に相いれないこと、共産主義はキリスト教と関連があるとはいうものの、表面的には宗教ではなく、科学的思想で普遍性がある思想である、という触れ込みであったことであろう。

もう一点は、現在のように、共産主義による経済運営は成り立たないことが明白になった現在でも、日本人で共産主義に一度かぶれた者は、革命の原動力となるべき国家に対する破壊衝動が消えないことである。健全な反権力とは、現在の政権や政府機関に対するチェック機能であるはずであり、日本そのものに対する敵対心ではないはずである。これについては後述する。ただ一言すれば、日本を悪く言うこと自体が正しい、という尋常ならざる日本人は確実にいる。いかに尋常ではないかは、あったことがない人には分からない。

 

3.人権主義者の手続き無視の恐ろしさ

法治国家では、官憲が人を取り締まるためには複雑な手続きが必要とされる。誰の目にも明らかな犯罪や権利の侵害でも、取り締まるには所定の手続きが必要とされる。これは素人目には面倒なだけに思われる。これを素人考えで明らかな人権侵害を容易に取り締まろうというのが、民主党が提出して廃案となった人権擁護法案である。

官憲が人を取り締まるために複雑な手続きが必要な理由は、絶対的正義を認めないことからくる。だから米国でも、例外的に情報機関などは表沙汰になったら手続きを踏んでいない、とされる違法な行為が特定の人々にだけできるようになっている。それはこれにかかわる人々の絶対的正義を認めざるを得ない必要性がある例外的事項である。

だが、人権保護法案のように、公然と特定の人々だけが、明らかな人権と判断すれば、裁判所の令状もなしに個人を拘束できる、というやり方は、明らかに近代法治国家としては異常である。このような考え方の人々は、戦前の特高警察の例を挙げて国家権力の横暴を批判する人々である。明らかに、自分たちが批判している特高警察と同じことができる事を求めている。だが、彼らは特高警察は悪いが、自分たちには絶対的正義があるから同じことをしてもよい、と考えるのである。日本の病理は、保守政党であったはずの自民党議員にも賛成者がいたことである。

 

4.自由主義の反権力と共産主義の反権力の違い

元来日本の共産主義者の反権力とは、非共産主義の政府にことごとく反対することである。つまり議会制民主主義の政府の行うことに、無条件に抵抗することである。これは、日本にもたらされた、共産主義の反体制思想が根本にある。共産主義政権以外は全て、暴力革命によって打倒すべき政権である、という思想である。

革命によって倒すためには、民衆に現在の体制について大きな不満を抱かせなければならない。そのために、社会不安や不満を煽る。日本にもたらされた共産主義には元々このような反体制思想が根本にあるうえに、ソ連によって作られたコミンテルン日本支部、すなわち日本共産党は、共産主義思想を利用して日本をソ連の属国にしようとしていた。活動している者は、ソ連のためではなく、究極は日本のためになる、あるいは民族の枠を取り去った労働者の天国を作ることを理想としていた。だがそれはソ連に利用される謀略に過ぎなかった。

これらの残滓が現在の日本には明瞭に残っているのである。その結果、日本の反権力の多くは、単に現在の政府権力に対する反発ではなく、日本国という存在そのものに対する反抗意識となっている。歌手の加藤登紀子が「日本」という言葉を発すると嫌な思いがする、というエッセーを書いている。これは、政府という国家権力に対するものではなく、日本そのものに対する抵抗感以上のものだそうである。これは日本そのものに対する忌避感情である。加藤氏は政治活動はしていないが、元々共産主義シンパがあると考えられる。

これはウイグル人が、中華人民共和国に対して忌避感情を持つのと、同じとも言え同じではない、のである。中華人民共和国、というのは「漢民族」を自称する人たちの帝国であって、ウィグルはその植民地の一部である。一方でウィグル人は国際法上の国家である、中華人民共和国の国民であるという現実がある。

国際法上の国家の国民が、所属する国自体を忌避する、という意味では同じである。しかし、ウイグル人は漢民族ではないから、漢民族の帝国である、中華人民共和国を忌避する、という意味では、同じではない。加藤登紀子は日本という国民国家の主要構成民族である、日本人そのものだから尋常ではないのである

 加藤氏のように、潜在的に日本そのものを忌避する感情から、反権力思想が発生している、という現象は現代日本人にしか見られない、世界的にも稀な現象であろう。その淵源が共産主義思想にあり、共産主義思想から離れた後にも、このような反権力感情が消滅しない、というところにも現代日本の病理がある。

 ただ、加藤氏のために弁ずれば、小生の深読みかもしれないが、彼女は同じ自虐的日本人と同じく、洗脳にやられたのである。彼女は洗脳によって日本に対する忌避感情を植えつけられたのである。ところが一方で、眼前にある日本人や日本の風土への愛着は自然に生まれたはずであるから、心の中で分裂が生じている、としか言いようがない。


米海軍のゲリラ戦法

2015-05-16 13:33:13 | 大東亜戦争

 大東亜戦争の緒戦、日本の空母部隊が、ハワイ、インド洋で我がもの顔に行動していた時、日本側に大した実力ではないと見下されていた米海軍は、手を咥えて見ていたわけではなく、日本海軍の隙をついて、神出鬼没のゲリラ戦法で戦果を挙げていた。そのことが以前紹介した「凡将」山本五十六に書かれている。(P107)長くなるが引用しよう。

 昭和17年のことである。二月一日早朝、日本防衛戦最東端のマーシャル諸島が、米空母エンタープライズとヨークタウンの艦載機に猛烈な空襲をうけた。さらに、同部隊の重巡洋艦は、艦砲射撃まで加えてきた。・・・司令部はクェゼリン島にあったが、この奇襲によって大損害を受け、司令官八代祐吉少将も戦死した。

 二月二十日には、空母レキシントン、重巡四、駆逐艦十の機動部隊が南東方面最大のラバウルに空襲をしかけてきた。ラバウルからは、中攻十七機がこれらの攻撃に向かった。しかし、敵の対空兵器と戦闘機のために十五機が撃墜され・・・大損害を受けたのである。わが中攻隊には護衛戦闘機が一機もついていなかったのがその最大の原因であった。

 二月二十四日には、空母エンタープライズ、重巡二、駆逐艦六の機動部隊が、昨年末に占領したウェーク島を、これ見よがしに襲撃してきた。艦載機による空襲と重巡による艦砲射撃であった。

 超えて三月四日には、同じくエンタープライズの機動部隊が、傍若無人に南鳥島にも空襲をしかけてきて、日本側に相当な損害を与えた。

三月十日には、空母レキシントンとヨークタウンの機動部隊が、ニューギニア東岸のラエ、サラモア沖の日本艦船に、約六十機で空襲をしかけてきた。軽巡夕張が小破し、輸送船四隻が沈没、七隻が中小破という大損害を受けた。

 千早正隆は、その著「連合艦隊始末記」・・・で、米機動部隊について、次のように書いている。

-アメリカが守勢の立場にありながら局所的に攻撃を取る積極性、その反応の早さ、その作戦周期の短さ、その行動半径の大きさ等については、何らの注目の目を向けなかった。それらについて、真剣な研究をしたあともなかった。

 ただこれら一連のアメリカの空母の動きから、日本海軍の作戦当局が引き出した一つの結論は、首都東京に対する母艦からの空襲の可能性が少なくないということであった・・・

 本来ならば、南雲機動部隊がこれらの宿敵をどこかの海面に誘い出して撃滅すべきであった。その最も重要な目標に向かわず、やらずもがなの南方のザコ狩り作戦に出かけて、長期間精力を使い減らしていたのである。

  というようなものである。千早の言うザコ狩りとは、昭和十七年早々に南雲部隊がラバウル、インド洋などに出かけて長躯小敵を求めて航走し、大した戦果のない割に将兵を無駄に疲れさせたことである。日本海軍は緒戦の勝利に驕慢し、強敵米国と戦っていることを忘れていて開戦時の緊張感を失っていたのは、多くの識者の指摘する所である。また、千早氏の指摘もどうかと思う。結局艦隊を動かすのは、作戦目的を果たすためであって、敵艦の撃滅は作戦目的の手段である。「南雲機動部隊がこれらの宿敵をどこかの海面に誘い出して撃滅すべき」というのは艦隊撃滅自体が目的化していることを明示している。千早に限らず、常に日本海軍の首脳の考えは、日本海海戦のように敵艦を撃滅することが、作戦の目的であった。

 だがマリアナ沖で日本空母と艦上機を殲滅したのは、マリアナ諸島を攻略し、B-29による本土攻撃の基地を得るためであった。B-29の基地は、本土空襲を行い日本を屈伏させるためであった。事実上連合艦隊が撃滅されたフィリピン沖海戦も、フィリピン攻略のために生起したものである。

 千早氏の考えは、主力艦が戦艦から空母に切り替わっただけで、作戦目的が艦隊決戦であることに変わりはない。日本海軍は空母による東京空襲を恐れたと言うが、これは生出氏が言う山本五十六の世論恐怖症である。なぜなら、この時点で空母による散発的な空襲を受けても、ドーリットルの東京初空襲と同じで、戦術的な効果は皆無であり、心理的なものであった。日本海軍がゲリラ的な米機動部隊による攻撃から、米空母による東京空襲しか想起しなかったというのは、かくのごとく意味を為さないものだったのである。

 それより、米軍がこの間に米軍が動員したのは、エンタープライズ、ヨークタウン、レキシントンというわずか三隻であり、一度に最大二隻しか動員しない、という小規模なものであった。米軍は、日本軍の兵力が圧倒的である際には、敵の防備の薄い所を衝いて、散発的にゲリラ的な攻撃を仕掛けて戦果を挙げたことに注目する。日本が敗色濃厚になった際にも、艦隊は大規模な敵の正面からの攻撃しかせずに、殲滅されていったのとは異なる。


アメリカは対日戦も対独戦もしたくてたまらなかった

2015-05-14 14:30:58 | 大東亜戦争

 マクロに見れば、第二次大戦は米国にとっては世界の覇権を握るためであった。結果から見てみよう。第二次大戦の結果はどうであったか。敗戦国から言えば、イタリアは元の木阿弥。ドイツは大ドイツの復活ならず、第三帝国は崩壊し、分割されてヨーロッパの2小国となった。

 戦勝国から言えば、英国を筆頭とするヨーロッパ植民地帝国は崩壊した。ソ連は半植民地たる「衛星国」東欧を手に入れ、支那と北朝鮮を勢力圏に入れた。米国は、日本各地に陸海空の基地を展開し属国としたが、支那への伸張には失敗した。結局ソ連だけが拡大し、米国と対峙することとなった。米国は日独の代わりに、中ソという共産帝国と対峙する羽目になったのである。

 結局、米国は英国、日本、ドイツの追い落としに成功したものの覇権をソ連と二分することになった。ソ連をなめていたのである。伝統的にロシアと支那の強みは縦深性にある。という訳で、アメリカは英独日を追い落として覇権を握らんとしたが半分成功し、半分失敗したのである。

 英国は植民地を取ってしまえば、ただの島国である。ドイツは、それ自体で実力があるから危険である。特にヒトラーのドイツは極めて危険だと感じたのである。日本には・・・非白人かつ非キリスト教国でありながら、文明国として、西欧諸国と肩を並べるに至った・・・生理的な嫌悪感を感じていたのである。

そのことと欧米人が個人として、日本人と友情を結んだものが限りなく多いこととは別の次元の話である。また戦前の米国人にも満州事変への理解を示したり、「東京裁判」で日本人のために職を賭した弁護士がいたこと、はたまた最近でも戦前の日本の立場に深い理解を示す英国人記者ヘンリー・S・ストークスがいたりする。そのこともまた欧米人の層の厚さを示すものであって、総体として欧米が日本とどう対峙したかは別の話である。

対独戦の動機は一般的には英国を救うためであるとされている。最近では前述のように、英国を世界の覇権から追い落として、入れ替わるという動機もあったという説もあるが、これにらついてはこれ以上言及しない。

問題は対独戦とは関係なく対日戦も、したかったのではないかということである。そのことはぼんやりと考え続けていたが、決定的にしたのは「『幻』の日本爆撃計画」という本を読んだからである。別稿でも紹介したように、時期的には対独参戦と符合するにしても、日本本土を大規模に爆撃する、ということが対独参戦の方便としては、あまりに無謀過ぎ、あまりに日本をなめているのである。

当時、日本は支那事変に四年もかかり、経済的にも軍事的にも疲弊していて、対米戦を遂行できる力は残っていないと考えたられていたのではなかろうか。日本本土を数回大規模な空襲を行えば、日本は崩壊してしまうと考えたのではなかろうか。

日本には極一部を除いて維新開国以来、対米戦を本気で考えた者は少ない。むしろアメリカ大好きが、現代と同じく一般的風潮であった。石原莞爾の世界最終戦論などは、日米の勢力が他を凌ぐから対立関係となり、最終決戦を行うという、理由の裏付けなき空想であり、あまりに観念的であり、現実味がない。石原は支那大陸の覇権構想への日米の介入が日米戦争を誘発すると考えていた。そのことは正しいのだが、世界最終戦争論における日米決戦とは、何の繋がりもないから奇妙である。

一方で米国は自身の実力がついてくると、自ずから太平洋を越えてアジア大陸に進もうとするときの障壁として、また人種的偏見から日本を主敵と看做していて、機会あればつぶそうと考えていた。明らかに対日戦をいつか行うと考えていたのである。その時期は日露戦争以前に遡るのであろう。

だから戦争の主体となる海軍の戦備は対日戦用そのものであった。日本海海戦でロシア海軍は滅び、再建されなかった。第一次大戦で敗れたドイツも同様である。ドイツは第二次大戦では艦隊を編成して運用するのではなく、必要に迫られたとはいえ、戦艦にさえ商船攻撃を主任務とする愚行をしたのである。重装甲と巨砲が商船攻撃に必要ではあるまい。英海軍が米海軍と砲火を交えることはない。やはり米海軍は対日戦備を主目的としていたのである。

対日戦備が充実凌駕しつつあった時期に、日本は支那事変により消耗しつつあった。海軍の血たる石油を握っているのはアメリカ自身である。蘭印の石油を日本が狙ったとしても、それで全て賄える訳でもなく、本土への輸送の必要もある。何よりオーストラリアの方が近いから、阻止は容易である。かく考えると、新戦艦10隻が次々と船台から降り始めた昭和16年は正にチャンスであった。米国はかねてからの強い願望を実行したのに過ぎない。

 


書評・零戦と戦艦大和・文春新書

2015-05-10 15:00:39 | 軍事技術

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 ありがちなタイトルだが、案外他にはないようである。九人の論者の討論形式である。タイトルにふさわしいと思われたのは、前間孝則、戸高一成、江畑謙介、兵頭二十八の四氏であった。小生は普通は半藤一利氏は忌避するのだが、本書では比較的まともなことを言っている。 

◎勝てるはずだったミッドウェー(P54)

 重巡・筑摩からの索敵機が米機動部隊の上空を飛んだが、索敵の原則に反して雲上を飛んで見逃し、有名な利根四号機が帰りに発見して初報を出した。秦氏に言わせれば、雲下を飛んでいれば勝てた、という。確かに米雷撃隊は、護衛戦闘機を連れずに行って、零戦にほとんど撃墜されて戦果皆無であったなど、当時の米軍の攻撃は勇敢だったが拙劣であった。

だが急降下爆撃隊は判断も適切であった。珊瑚海海戦の結果を見れば、零戦の強さは別として、米海軍は対空防御は強く攻撃も積極的であった。珊瑚海海戦は祥鳳が滅多打ちで沈没、ヨークタウンと翔鶴が中破し翔鶴は戦列を離れたが、ヨークタウンは飛行甲板を修理して戦線に留まった。瑞鶴はスコールに隠れた幸運で助かった。レキシントンは被害は大きかったが、戦闘航海に支障のなかったのだが、ガソリン誘爆という不運で沈没した。

そして日本艦隊はポートモレスビー攻略を放棄した。この戦訓から考えられるのは、双方で攻撃隊を出して交戦していれば、日米叩き合いで同程度の被害を出したであろう。そこに陸上機が日本艦隊に襲い掛かっていたら、日本の大敗である。いずれにしても、ミッドウェー攻略は放棄したのに違いない。

先制攻撃しても必ずしも米艦隊には勝てない、という傾向は既に珊瑚海海戦からあったのである。搭乗員の損失は日本側の方が少ない、ということを澤地久枝氏が検証している。しかし日本が全力で先制攻撃できなかったからそうなったのであって、攻撃していたら搭乗員の被害は惨憺たるものになったであろう。

マリアナ沖海戦では、米軍は先制攻撃せずに待ち構えた。これは仮説だが、米軍は自軍の防空能力に自信を持っていたばかりではなく、ミッドウェーの戦訓から日本艦隊も米軍程ではないにしても、それなりの防空能力があるから、先制攻撃すれば攻撃隊に、かなりの被害を受けるだろうと判断したのではあるまいか。現に南太平洋海戦も、もろに叩き合いになったが撃沈戦果だけは日本の勝ちである。

しかし、搭乗員の被害は甚大であった。以上閲するに、巷間言われるようにミッドウェー海戦は、索敵が適切で驕慢さがなければ勝てた、というのは妄想である。単にこれらのミスは空母全滅という、一方的敗北というさらにひどい結果を招いたのに過ぎない。現に作戦前の図上演習でも日本軍敗北という予想が出ていたのに連合艦隊司令部、すなわち山本五十六以下は強行したのである。 

◎勝つために必要な覚悟(PP113)

 福田和也氏がドイツの暗号を解読に成功したので、コヴェントリー空襲の日時を正確に知っていたにも関わらず、避難命令を出せば暗号解読がばれる、というのでチャーチルはコヴェントリー市民を見殺しにしたという、比較的有名なエピソードを語っている。それに反して日本では平時の論理を戦時に持ち込んで、人事でも戦略でも失敗したというのである。特に山本五十六の人事は日本的である。ミッドウェーの敗北の責任も取らなかったばかりか、部下にも情けをかけすぎている。その癖黒島人という異常な人物を好んで使っている。情実が客観的判断に遥かに優先されているのである。

 

◎エリートがパイロットに(P155)

 父ブッシュは名門出身なのに真っ先に海軍に志願して二回も日本軍撃墜されている。ブッシュはアベンジャー雷撃機のパイロットで撃墜され、同乗者は戦死したとは聞いたが、二度も落とされているとはしらなかった。だから「・・・日本では、中学にも行けないような貧しい人々が兵隊としてパイロットになり、逆に学徒動員が悲劇として語られる文化です。本当は悲劇ではなく、ようやく欧米並みになっただけでしょう」というのが真実である。

 後年大統領になった人物では、ブッシュは撃墜され、ケネディーは撃沈され後遺症を負い、ジョンソンだったと思うが、B-26に乗っていて、撃墜王坂井三郎機に発見されて撃墜されかけた、というエピソードがあるが、米軍記録によれば、その時ジョンソン機はエンジン故障で引き返したということになっている。フォード大統領も志願し、太平洋戦線で軽空母に乗り組んでいて、台風の被害で危険な目にあっている。これらは全て対日戦であり、欧州戦線ではこのようなことはなかった。やはり対日戦は米国にとっても熾烈だったのである。

 ちなみに、後の大統領で、若かりし頃第二次大戦の前線に居た経験がある者は、ケネディー、ジョンソン、ニクソン、フォードの四人であるが、いずれも太平洋戦線であったのは偶然であろうか。将来のエリートは楽な大平洋戦線に配属されたとは言えまい。そのうち二人は戦死してもおかしくなかったのだから。

◎造船と航空産業の差(P179)

 兵頭二十八氏が堀越氏の「零戦」を読んで烈風の誉エンジンのプラグが汚れてうまく動かないのは、ガソリンのオクタン価が低いからだ、と書いてあったことに初歩的な疑問を感じた、というのである。プラグが汚れる原因には、ピストンリングやシリンダーの工作精度が低かったことによる、外部潤滑油の混焼もあったのではないか。

 とすれば堀越推薦のMK9Aエンジンでも同じことが言えるのではないか。堀越氏は、実際のものつくりの最前線や量産ラインを知らずにいたのではないか、というのである。一般的には堀越氏が生産現場に通じていない、というのは言えると思う。ある機械設計者に聞いたのだが、工場に製作図面を出すと、こんなもの作れるかと突っ返されることが、ままあったというのである。

 図面上では書けるが、溶接しようとすると、そこに手が入らないようなことが、あるのだそうである。設計者はこうして鍛えられているのだが、機体の設計者がエンジンの生産ラインに通じている、というのはトレーニングの場がないので困難であろう。またシリンダー内に潤滑油が入り込み混焼するのは、程度の差があれ避けられないことである。

 ピストンリング等の精度が悪ければ、混焼がひどくなるのも当然である。しかし、その潤滑油というのはクランクケースに貯められたものであって、「外部潤滑油」という別なものを想定しているのか意味不明である。別の著書で兵頭氏は、レシプロエンジンにはオクタン価というものが大切なようです、という明白な間違いを書いている。オクタン価の意味を知らない兵頭氏が堀越氏の意見を批評するのも異な気がする。

 小生は、さらに堀越氏の説明を兵頭氏より深読みしたい。オクタン価が低すぎるガソリンで運転すると、エンジンはブースと圧等の使用制限をしないとノッキングにより使えないので、性能が下がるのは当然である。加えて堀越氏が低オクタン燃料でプラグが汚れてうまく動かない、と言っているのは、使用制限による性能低下に加えて、異常燃焼によるプラグの汚れによって、さらなる性能低下をもたらす、と言っているのではなかろうか。とすれば堀越氏は使用現場を知っているのである。

 ◎後継機ができなかった(P178)

 ここでも兵頭氏はの高高度爆撃機を迎撃するエンジンは、空冷ではだめで液冷が必要である、という持論を言っている。しかしP-47のように空冷大馬力のエンジンに高高度飛行用の排気タービンをつけて成功した例は珍しくない。むしろ多気筒化による大馬力化が可能なエンジンは、空冷の方が作りやすい。なるほど液冷は冷却は確実であるが、V型12気筒が限界で、24気筒にするためにH型、X型、W型というエンジンが試みられているが、成功例は稀であり、皆例外なくトラブルにあっている。

 それでは、V型14気筒ならば、というがエンジン配置には振動に対するバランスが必要であるのと、クランクシャフトが長くなり過ぎて精度が確保できないのである。V型12気筒のシリンダ容積を増やせば良いのだろうが、冷却に必要なシリンダ面積は寸法の二乗に比例し、発熱量はシリンダ容積だから、寸法の三乗に比例する。つまり発熱に見合った冷却可能な限界が存在するのである。当時の液冷エンジンは、当時の技術水準で冷却可能なシリンダ容積の限界に達していたのである。

 本書の兵頭氏は、いつもの冴えが見えない。アイオワ級は33ノットまで出るのに、大和は27ノットしか出ないから高速空母艦隊に随伴できない(P119)、と言ったのを清水氏に、サウスダコタ級は同じく27ノットだったが、必死に空母について行っているから、作戦次第だと反論されている。その通りであろう。一体空母が全速を出すのは発艦作業するときなのだから。

米海軍で33ノットが出せたのはアイオワ級4隻だけで、ノースカロライナ級、サウスダコタ級6隻だけが27~28ノットであり、その他大勢は23ノットがやっとの鈍足だった。ただし、大和級とアイオワ級の対決となった時の速度差は、間合いの主導権を取られたであろう、という指摘は正しい。一体東郷艦隊は、優速と比較的小口径の多数の砲の、多量の射撃でバルチック艦隊を撃破した。

日本海軍はその後の大口径砲の威力の魅力に負け、常に保っていた米艦隊よりの優速というセオリーを放棄した。そもそも大和が30ノットを放棄したのは大口径砲搭載の他に、主機の温度と圧力が低く、小型で高出力の主機を設計できなかったことにある。その原因はひとえに技術力の差と言うしかない。


開戦後の第二段作戦

2015-05-07 16:51:26 | 大東亜戦争

 日本は、フィリピン、マレー、ニューギニア占領などの第一段作戦を終えて、石油資源の確保という開戦の目的の一部を達成すると、特に海軍は、何をしていいか分からなくなったことと、順調な作戦経過から、無駄な作戦を行うようになった。英東洋艦隊撃滅と称して、インド洋に南雲部隊を派遣して、わざわざおんぼろ空母のハーミスを滅多打ちにして得意になっていた。肝心の東洋艦隊そのものは取り逃がしたのである。

 第二段作戦のヒントはアジア諸国の独立である、と「真珠湾攻撃異見」に書いた。実は倉山満氏の「負けるはずがなかった大東亜戦争」に同様なことが書いてあったので、これをフォローしてみよう。ただし、倉山氏は真珠湾攻撃はすべきではなかった、というのが基本的考え方なので、前段で相違があることは一言しておく。繰り返すが小生は、日露戦争の開戦で旅順艦隊の撃滅を考えた如く、ハワイに米太平洋艦隊の根拠地となった時点で、何らかの方法で真珠湾対策は考えずにはいられなかったと思う次第である。

その点だけ一言する。確かに、日本の艦艇は、小笠原沖やフィリピン沖で米艦隊を迎撃するのが基本戦略だから、航続距離は米本土から進出する米艦艇に比べ余程短い。ハワイを併合した時に、日本は艦隊を派遣して抗議の意思を示した位だから、将来ハワイが米国のアジア進出の拠点となることは明白である。とすれば、その時点から対米戦略としては、ハワイの無力化、と言うことを考えて艦艇のスペックを考えなければならなかったはずである。無力化とは、色々な選択肢が考えられるであろう。思い付きを書けば、真珠湾を艦艇で直接攻撃する以外にも、機雷封鎖なども選択肢としてはある。

 閑話休題。倉山氏は、まず石油確保のためだから、オランダを攻めればいい(P188)というのだが、そうは問屋が卸さない、と知っている。「百歩譲って、シーレーンの都合上、フィリピンを取るのは仮にいいとしましょう。それならそこで待ち構えておけばよかった。ハワイ攻撃をやったものだから、余計な戦力を削いでフィリピン全土制圧が遅れています。」(P189)というように、フィリピン攻略は避けられなかったのであろう。

 確かに首都ワシントンに攻め込むことができぬ日本は「ベトナム戦争の時のように、アメリカに音を上げさせることをやらなければいけませんでした。」(P190)というのが唯一対米戦に勝つ道であったと思う。

 そこに繋がる道として「とにかくイギリスを一瞬でも早く降伏させるしかありませんでした。」(P206)というのも正解であろう。そのためには、インパール作戦を早期にやっておき、プロパガンダとしての「大東亜会議」も同時にしておく必要がある(P206)という結論には同意する。希少本に属するが大田嘉弘氏の「インパール作戦」によれば、実際に発動した昭和十九年の時点でも、英軍将校自身が相当に苦しめられたことを認めている。

 ビルマ制圧後早期にインパール作戦を発動していたら成功したことは間違いないであろう。そこで倉山氏の説にいくつかの疑問を出しておく。ただし小生も確信がないのだが。まずインド独立や援蒋ルートの遮断で英国が敗北し、蒋介石との講和も成立したかどうかである。軍需産業がないのにベトナムが戦えたのは、特にソ連が無制限に軍事支援したからで、戦争が延々と続いた結果、米国が逃げ出したのである。

 日本には軍需産業があったし、兵士の士気も高かった。だが問題は米国を厭戦に持ち込むだけの継戦能力があったかである。それには、シーレーンの確保や本土爆撃をされないだけの占領地の確保が出来たかである。日本は北ベトナムのように外部からの軍需物資の支援は期待できず、米国が厭戦気分が蔓延するまで、自前で軍需物資を生産しなければならないのである。

 以上の疑問は問題なかったのかも知れず、何とかなったのかも知れない。だが倉山氏の立論の前提の日本陸海軍が強かった、ということには最大の疑問を感じるのである。ノモンハン事変などで機甲部隊を動員したにも拘わらず、戦闘ではソ連は勝つことができず、スターリンは最後まで日本陸軍を恐れていて対日戦に踏み切れなかったという、倉山氏の指摘は事実であろう。昭和十一年の時点では、主力艦の大口径砲弾の命中率は日本が米国の三倍あったと言う黛治夫氏の指摘も読んだ。

 陸軍の三八式歩兵銃は旧式なボルトアクションで、自動装填の小銃を使っていた米軍とは火力が比べ物にならない、というのも迷信で、ノルマンディー作戦の時ですら米軍も自動装填式は行きわたっていたわけではない。九七式中戦車にしても制式採用当時は装甲厚さや砲の威力にしても、世界水準はいっていた。ドイツ軍のⅠ号戦車などは20mm機関砲しかなかったのである。

 というように軍隊の士気ばかりではなく、ハードウェアを含めた総合戦力で、日本軍はある時期まで強かった、と言える。しかし小生が問題にするのは、特に海軍に於いては米国が戦間期にカタログデータに見えないところで、長速の進歩をとげていたことと、同様に独ソ戦が始まる少し前からの、ロシア陸軍の装備の格段の改良である。また海兵隊も日本陸軍を手本に、相当の強化が為されていた。

特に米海軍とは直接戦っただけその差の影響は大である。何度も書いたが、日米の差はレーダーだとか、VT信管だとかいう特殊な兵器の差ばかりが強調されるが、実際には見えにくいところ技術の差が、開戦時点では広がっていったと思わざるを得ない。

別項で述べたような射撃指揮装置による防空能力の差は隔絶していた。艦艇が被害を受けたときの消火装置などのダメージコントロール、各種の無線機などなど、カタログデータに表れない、潜在的な技術の差である。例えば日本海海戦当時は軍艦自体のシステムも単純であって、電子機器もほとんどなかった。

これらについては、第一次大戦から第二次大戦の間に相当に発達し、複雑化していったので、日本の努力も相当あったのだが、目に見えにくい分だけキャッチアップが困難であったろう。また、素材である鋼材自体にも当時の日本の技術は劣っていたから、同じカタログデータの砲弾、爆弾、装甲でも性能に差があった。爆弾の日米の差については、兵頭二十八氏が「日本海軍の爆弾」で論じている。

もちろん特殊鋼に使う希少金属の不足と言うハンディもあった。また、日本は予算の不足から艦砲、装甲、魚雷と言ったカタログ上目に見えやすい兵器の研究に予算と人材が配分された。そのため、これらの主兵器をサポートするシステムの研究開発は後手に回り、兵器のシステムが複雑化すると、差は広がっていったと考えられる。

特に米国の進歩は大きかったように思われる。マレー沖海戦でも相手が米戦艦であったら、例え防空戦闘機がいないにしても、あれほどの戦果は挙げられなかったと思われる。軍事技術の専門家ではないので、実例を多く挙げられないが、カタログデータに表れない、日米海軍の技術力の差は相当なものであったと言わざるを得ないと思う。この差を考えたら長期戦になった場合には、生産力ばかりではなく、技術力の差も出たのに違いない。

こんなことをくどくど言うのは、倉山氏の前提が、士気、技量、兵器の質など総合的戦力で日本は米国より強かったことであるように思われるからである。少なくとも、第一次大戦直後の陸海軍の兵器システムが、質はそのままで、量的に拡大しただけの兵器体系を前提に、日本軍は強かった、と言っているように思われるのである。


開戦直前の米マスコミの一例

2015-05-06 14:56:37 | 大東亜戦争

 ある本で、アメリカの雑誌The Unied States Newsの1941年10月31日号に、「日本への爆撃経路-各戦略地点から日本までの飛行時間」と題する見開きの説明図があると読んだ。そこで、国会図書館で雑誌の所在を調べてもらった。なかなか見つからず、何か所かの大学の図書館にあると分かった。更に調べると、その後雑誌のタイトルにworld reportsというのが加わっているのだが、関西館にあることが分かった。二人掛りで30分はかかり、こちらは諦めかけていたが、さすがのプロである。

 東京館に送ってもらうと到着日から休刊日を除いた、3日間だけ閲覧できるが、送ることはできても、コピー不可の場合があるが、到着日までに電話連絡がなければ、着いていると言った。指定された初日に行ったら紙が古びていて、BC複写という方法しかないと指定されていたが、仕方ない。アメリカの雑誌でも、当時の紙質はさほどよくないのである。スペースの都合で洋雑誌は関西館に置いてあるというのだから、関西館などできなければいつでも閲覧できるのに、と勝手なことを考えたが仕方ない。

 前置きが長くなったが、前記の箇所を探していると、意外な収穫があった。週刊誌が3か月分の合本にしてあったので、何冊分も見ることができたのである。まず広告が戦時色いっぱいなのである。コピーしてきたものだけでも、ユナイテッドエアクラフト社のB-24の写真入りの広告、ベンディックスアビエーション社の爆撃機、軍艦、大砲などのいろんな兵器の写真入りの広告、などがある。

これらは兵器製造会社だからまだしも、煙草のキャメルの広告には陸軍、海軍、など4人の制服の軍人が煙草を持って「キャメル大好き」と言って、にこにこしているのである。今の日本の常識では、昭和16年の12月の真珠湾攻撃の直前までの時点では、米国民が厭戦気分に浸っていたということになっている。それが事実なら、こんな軍事一色の広告など忌避されているであろう。それが、武器の広告ばかりではなく、非軍事商品の広告までに、兵隊さんが登場するのである。この常識は全くの間違いに違いないのである。ちなみに、この週刊誌は、経済問題も取り扱っており、表紙の説明によれば、国の問題に関する興味深いニュースを扱う、と書いてあるから今の日本で言いえば、「軍事研究」のような軍事専門誌ではないのである。

この週刊誌を探した本命の記事には、日本を中心とした世界地図があって、シンガポール、キャビテ(フィリピン)、香港、重慶、グァム、ウラジオストック、ダッチハーバーの7箇所からの東京までの爆撃機の飛行時間が書かれている。図の説明の記事は、いきなり「日本は現在では主要7か所からの爆撃圏内にはいっている」というぶっそうな書き出しである。

そして、戦時には、これらの米国、ロシア、支那からの準備ができていると続く。各基地から東京までの飛行距離まで書かれており、最も近いのはウラジオストックの440マイルという近さである。

10月24日の記事も面白い。タイトルからして、AMMERICA READY TO MEET THREAT OF TWO-OCEANWAR、すなわち、アメリカは両洋の戦争の脅威に対して準備ができている、という刺激的なものである。TWO-OCEANとは大西洋と太平洋のことだから、いつでも対日独両方の戦争をやってやれるぜ、というのである。

中身はドイツ潜水艦がアメリカ船を攻撃したら、いつでも潜水艦を攻撃してやる、とか日本がアメリカ船の航行を妨害したら、日本はリスクを覚悟せよ、という。ドイツや日本が対英ソへの武器供与のレンドリースの船と護衛駆逐艦の邪魔をしたら攻撃するぞ、というのである。既に中立を犯しておいて、その邪魔をするな、という傍若無人ぶりである。ちなみに日本の邪魔というのは、ウラジオストック経由の軍需物資輸送のことだそうである。

アメリカは資源なども日々増強しているのに、ドイツはどんどん不足していくともいう。駆逐艦キアニーが独潜水艦に攻撃され犠牲者が出たという。その時までに米商船と軍艦の護衛をしていて、ルーズベルト大統領は、独潜水艦を発見し次第、攻撃すると警告している、というのである。

最後の方では日本もイタリアも戦争に疲れており、日本の国民は8年間もの戦争で疲れており、工業も資源も尽きつつある、というようなことを言う。1941年の時点で8年というのは、満州事変では短く、支那事変では長すぎるが、いずれにしても日本が支那との戦争でかなり消耗している、と判断しているのは間違いない。結局のところ日本は継戦能力が尽きているから、簡単に勝てると見ていたのである。

結びで、米英の戦略は海軍戦略で、それは消耗戦であるという。だからこの戦争は我慢比べであり、その結果はひとえにヒトラーが勝利の為に何をなすかにかかっている、というのだ。This war,at present,などと平気で書くのだから、記事を書いた米人記者にとっては、英ソが戦っている対独戦は既に米国の戦争なのであろう。