毎日のできごとの反省

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歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

書評・ルーズベルトの責任

2015-09-29 13:56:42 | 大東亜戦争

   日米戦争はなぜ始まったか チャールズ・A・ビアード・藤原書店

 

 翻訳に一点だけ気になることがある。「戦艦」という言葉がよく出てくるのだが、これが軍艦を意味していると思われる場合が多い。ルーズベルトが戦艦ポトマック号に乗って出かけたと書かれているが(P171)、ルーズベルトが使用した、海軍のUSSポトマックはわずか600t余だから、戦艦どころか駆逐艦ですらないかもしれない。明らかに軍艦と訳すべきものであろう。

ところが、駆逐艦や巡洋艦と書かれている箇所もあるばかりではなく、実際に戦艦と訳すべきところを正確に戦艦と訳している箇所もあるからややこしい。最後の戦艦アイオワ級さえ退役して、現役の戦艦は世界中に存在しないにもかかわらず、どこどこの戦艦がと呼ぶ人たちがいまだにいる。彼らは軍艦のことを言っているのである。ちなみに、軍艦はwarshipで戦艦はbattleshipである。

 本書は精緻な学術研究書の如くである。実証のために議会とマスコミの報道をこれでもかという位に並べている。最初は武器貸与法が、欧州での戦争に参戦するきっかけになるから反対である、という意見と、その反対に英国を強化するから参戦を阻止すると言う議会でのやり取りである。後者は詭弁に等しい。

かつての国際法は交戦国への戦争関連物資の供与は国際法違反であったが現在はそうではない、などととんでもないことを主張しているからだ。現に同時期の支那事変の日本への石油や鉄くずの輸出は、国際法上の戦争ではないから許される、という立場をアメリカはとっているのである。

ドイツが国際法違反を主張しないのは、アメリカの本格的な参戦を恐れていたからである。中立法の改正というのは、武器の交戦国への輸出は中立違反ではないとする、とんでもないものである。中立法は国際法の中立違反を、国内法で勝手に合法としたものである。米国は一般的に西欧諸国に比べ、国際法に対して厳格ではなく、自己都合で行動する節が今でもある

倉山満氏によれば、ロシアは国際法をよく知りながら、あえて無視するという。この流儀で言えば米国は、国際法を自己の正義に従って、都合良く解釈するのである。さらに英国に支払い能力がないから武器を「貸す」ということにしたのが武器貸与法である。武器は消耗品だから貸すとほとんどが返ってこない。それどころかソ連などは武器貸与法で借りた軍用機などが残っていても全く返していない。

 次は物資の英国への輸送に、パトロールと称して、実質的に護衛をしていることへの議会での賛否両論である。これも賛成派は武器貸与法と同様に詭弁を使っている。ルーズベルトとチャーチルが会談した大西洋会談も同類で、ルーズベルトが参戦の約束をしたのか否かという論争があった。パトロール部隊がドイツの潜水艦を攻撃したのは、潜水艦の攻撃以前に、政府からの命令があったのではないか、という議論もされている。真珠湾攻撃を受けた時の海軍のキンメル大将と陸軍のショート中将を職務怠慢として政府が攻撃し、退役せざるを得なくなったことについても議論があった。

戦争中に二人を軍事法廷で裁くことは、軍の機密を漏らすことになるので、戦争に不利をもたらすと言うので訴追されなかった。戦争の勝利が確実になりつつある時期にも訴追されないのは、政府や陸海軍上部では日本の真珠湾攻撃の可能性がある情報を持っていたにもかかわらず、故意に両将軍に知らせなかったためではないかという疑惑があったからである。

また来栖特使との交渉が始まると、太平洋艦隊はずっと真珠湾に集結停泊していた(P375)という。これは戦争準備だと言うのだ。真珠湾攻撃の72時間前にオーストラリア政府は日本艦隊が真珠湾に向かっていると本土の米政府に警告し、警告は再度行われたが、この情報はハワイのショート中将には伝達されなかったと、ハーネス議員が陸軍委員会で追求した(P377)。

さらに太平洋艦隊を真珠湾に集結するのは、日本に艦隊を全滅させられる危険がある、と反対した海軍作戦部長を、ルーズベルト大統領は通常の半分の任期で解任したと言う(P391)のだ。疑惑は武器貸与法の賛成者やパトロールの賛成者が、欧州戦争に参戦したがっているのではないか、ルーズベルト大統領も同様だったのではないか、ということである。真珠湾攻撃情報の隠匿も疑惑である。結局、上巻では全てが状況証拠による疑惑に過ぎず、文書等による決定的な証拠は提示されていない。

ひどいのは、米軍がグリーンランドを占領した件である。米政府はドイツに利用されるのを防止するために、グリーンランドを「侵略」したのである。ところが記者会見でこのことを聞かれると「それは初耳だな!私が眠っている間の事に違いない(P31)」と笑ったと言うのだ。この当時のアメリカ大統領はマスコミも歯牙にかけない独裁者であったのだ。

多くの日本の識者は日本の北部佛印進駐などをアメリカを挑発したというが、これは米英による武器輸送の仏印ルートの阻止であり、本国のフランス政府とも協議している。グリーンランド占領はもっと乱暴で、ドイツに宣戦布告したも同然である。日本の対支政策を米国が批判するのは勝手だが、禁輸などの戦争行為を実施されるいわれはない。当のアメリカはドイツを直接挑発していたのである。

なお、昭和16年3月のギャラップ調査では米国民の83%が外国の戦争に参戦するのに反対(P111)であったというのだがあてにはならない。人は戦争に賛成か反対かと言われれば、無反対というに決まっているからだ。現に国際法上の参戦となる中立法の改正や武器貸与法は圧倒的多数の賛成で成立した。この背後には多くの支持者がいるからである。

アメリカの政治家、有権者、法律家やマスコミはこれらの法律の意味を知らないほど愚鈍ではない。戦争には反対だが、英国の崩壊とナチスドイツの台頭は許さないのである。即ちこれは参戦を意味する。現に駆逐艦への独潜の攻撃に対して反撃したと大統領が発表するとホワイトハウスに膨大な反響が届き、8対1で好意的だったというのだ。ここまでが上巻である。

下巻だが、これも結局は状況証拠であった。例によって色々な報道や関係者の意見を倦むことなく提示する。ニューヨークタイムズ紙の昭和20年9月1日付けの新聞にハルノートについて「・・・合衆国政府が意図的に日本を、高圧的で独断的な難題でもって挑発し、戦争に追い込んだのであり、日本がわが国を真珠湾で攻撃したのは、この「最後通告」に対して唯一回答可能な返答をしたのだった、という結論を下しても、許されるのかもしれない」(P453)と書く。

 戦後もアメリカではルースベルトの開戦に至る政策を擁護する多数派と、故意に日本を戦争に追い込んだという少数派の議論があった。多数派は真珠湾攻撃は、いわれなき侵略行為であり(P480)合衆国の外交政策と行動は、日本のこの国に対する攻撃を正当化するような挑発行為にはまったくあたらなかった(P481)というものである。

これに対して議会の委員会で少数派はスティムソン、マーシャル、スタークらの陸海軍首脳の会議で「次の月曜日(12月1日)にも攻撃される公算が高いとし、わが国にさほど甚大な危険を招くことなく、奴ら(日本)が最初に発砲するように誘導するか、という問題を議論した(P496)という結論を提示した。

だが、多数派ですらルーズベルト政権は、単に対日戦絶対反対ではないと考えている。当時の国務次官補のパーリーは中立と孤立主義からの転換を1938年頃だと見ている。その証拠は1937年10月のルーズベルトの隔離演説である(P561)としているが、隔離演説は秘密でも何でもない。

何とルーズベルトの追悼演説にすら、武器貸与法などの連合国への支援があきらかな参戦行為でありながら「大統領はこの一連の込み入った動きに携わりながらもわが国による侵略行為が外観として現れることすら回避すべく巧みになされたのである。」(P564)としているのは当然であろう。武器貸与法やグリーンランド占領などが参戦行為だと言わないのは児戯に等しい。単にドイツ軍と砲火を交える本格的参戦ではないだけである。

親日派として知られるグル―大使ですら「・・・日本の制度、政治、党利、そして調和を重んじる日本国民と好戦的な軍国主義者の間の激しい対立によく通じていた」(P669)と書くのは著者の見解でもあろう。知日派と言われる人たちですら、日本人を理解してはいなかったのだ。興味深いのは、日本の外交暗号は解読されて「マジック」と呼ばれ、日本側の日米交渉の意向は全て米国に筒抜けになっていたことは以前から知られていたが、このことを公式に認めたのは1980年であったということだ。

著者の独自性は、これらの状況証拠を執拗に追求したことではない。多数派は、「ヒトラーの専制政治を打倒するために」必要だと言われた戦争を開始するためには国民を欺くことさえやむを得なかったということを念頭において詭弁を弄した。少数派は「ヒトラーに対して中立であるという考え方自体が一九四一年に恥ずべきものだったとするならば、テヘランやヤルタで平和と国際的友好の名のもとに交わされた約束はどう評価されるべきなのか。」(P757)として結局は「ヒトラーの体制に劣らず、専制的で非情な新たな全体主義政権」(P756)を強化したことを非難する。

著者がこの本で追求したかったことは、ルーズベルトが詭弁を弄して国民を欺き戦争を開始したこと自体にあるのではない。目的が違法な手段を正当化することにより、憲法のもとで議会に与えられた権限を欺瞞により実質的に大統領が奪ってしまったことを言いたいのだ。そして議会制民主主義を破壊しかねないことだ。こうしたことがかえって専制の危険をまねいたことである。そのことをエピローグで執拗に訴える。

「・・・合衆国大統領は再選を目指す選挙の議会の運動期間中に、この国は戦争に参加することはないと国民に対して公の場で約束しておいて、選挙に勝利した後、国に戦争をもたらすための、あるいは戦争をもたらすことが事実上必至の行動に密かに乗り出してよいことになる。」「合衆国大統領は、その秘密の目的を推進する法律を成立させるため、連邦議会と国民に、その法律の趣旨を偽ってもよいことになる。」「アメリカの軍隊を投入して第三国の領土を占領することを、実際に合衆国大統領として約束しておきながら、公式発表では新たな約束は交わされていない、と宣言してもよいことになる。」「・・・いかなる条約の同盟よりも、合衆国の命運にとってはるかに重大な影響をもたらす秘密合意を外国政府と結んでよいことになる。」「合衆国大統領は、特定の外国政府を合衆国の敵であると勝手に決めつけて、そうした国に対してこれまでのところ、合衆国で受け入れられ強制されてきた国際法の原則と国内法に違反して、随意に戦闘を起こす権力を求めることができ、連邦議会も従順にこれを大統領に付与できるということになる。」(p762~763)

引用はこれで充分だろう。この著書を書く以前からルーズベルトの政策に批判的であったビアードは、第二次大戦戦勝のムードから大きな批判を受け、中傷もされたという。当然であろう。このような米国人を見るたびに思うのは、日本では異論は受け入れられない雰囲気がある、というのは嘘だということである。米国でも異論はビアードのように排斥される。

しかし、それを恐れない強烈な個性があるかどうかが違うのである。かのミッチェル准将は、軍艦に対する航空機の優位論を唱え空軍の独立を強烈に主張したために、ある事故を口実に陸軍を追放された。もうひとつ感じるのは、西洋人の唯我独尊の考え方である。米国は勝手にグリーンランドなど他国の領土を占領しても平然としているのに、日本が協定により仏印に進駐するなどの行為をしても侵略とみなすのである。ビアードにもこの放漫はある。今の日本人は、これらの不条理を感じないように洗脳されつくしている。

ビアードの検証を読んであらためて、当時の米国民の大多数は実は、欧州への参戦に賛成であると考えていたことを実感した。なるほど大統領選挙の際には不参戦は約束された。世論調査も圧倒的に参戦反対である。戦争に参加したいか否かと聞かれれば、反対と答えるのは人情であり建前である。ところが、本書が論証したように、実質的に参戦である武器貸与法や英国への物資輸送の米海軍のエスコートに賛成し、グリーンランド占領に賛成した議員やマスコミは、戦争への道ではないと明らかな詭弁を弄した。

しかもこれは多数派だったのである。多数派だから法律は成立したのである。国民はその議論は詭弁であるとは非難しなかったし、反対派もその点を突きはしなかった。国際法の中立違反、すなわち正確には参戦行為であることを充分に知っている、国際法学者も非難の声を上げることはなかった。少なくとも世論を動かすような発言はしなかった。

できるはずなのに、米国民の特性である激しい批難はしなかったのである。議会の多数派の支持者は国民の数に於いても多数派である。つまり建前は戦争反対だが、暗黙の了解のもとに戦争への道を支持したのである。

それではなぜ世論調査は圧倒的に戦争反対の声をあげたのか。多数派は戦争にはならないからというのは嘘だと知りつつ、武器貸与法などの法律に賛成したのであり、少数派は戦争になるから反対した。つまり、どちらも上っ面だけみれば、戦争に至らない道を求めていた、と言うことになる。だから多数派も世論調査では戦争反対の声を上げた。世論調査が戦争反対の結果を出すのは当然である

多数派でも少数派でもなく、公然とヨーロッパへの戦争に介入すべきだと主張した人たちがごく一部にいる。彼らだけが、世論調査で戦争賛成の声を上げたのである。これが世論調査では戦争反対が圧倒的であったのに、実は米国民の多数が参戦すべきであったと考えている、という一見矛盾した事態のからくりだと小生は考えている。

脱線するが、ブロンソン・レ―という米国人は、戦前、満洲国出現の必然性、という著書をあらわし、米国流の正義を敷衍して、満洲国の正統性を主張した。その中で、何と自身が米西戦争の原因となったメイン号爆沈の犯人がスペインではなく、限りなく米国自身であったと言う証拠を現場で発見しながら、スペイン人に渡すのを拒否したと告白している。これが米国人の正義の一端を示している。小生はレ―氏の欺瞞を非難しているのではないことを付言する。

閑話休題。戦後も同じである。多数派は、キンメル大将とショート中将が真珠湾攻撃の責任を取らされて解任されたのち、訴追されなかったことについて追及をしなかった。少数派は、ホワイトハウスにやましいことがあるから訴追しなかったと追及した。開戦直後は軍事機密があり、法廷での証言は戦争の遂行に支障をきたす、という弁明がなされたが、戦争が終わるとそれも通用しなくなった。両司令官が解雇ではなく、自発的に退職したことにさせられたことについても少数派は疑惑の目を向けている。解雇という不名誉な措置は、両司令官の何らかの反撃に出ることになるとホワイトハウスは恐れていたというのだ。

私はこの本の上巻を読み終えてルーズベルトが戦争への道を裏で画策していたということについては、この本は結局は、他の本と同じく状況証拠しか提示できないであろうと推測したがやはりその通りであった。私はある時から米国民の多数派は欧州への参戦に賛成であったという確信をもつようになったが、世論調査は参戦の直前まで圧倒的に戦争反対であったと言う矛盾を解消できなかった。しかし、本書で米国での戦前戦後の論争を読んで、この矛盾を解くことが出来た。これが最大の収穫である。


性奴隷と言う言葉の怖ろしさ

2015-09-27 14:52:11 | 自虐史観

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 平成27年9月22日、とうとう、サンフランシスコ市議会が、慰安婦像設置案を採択してしまった。その決議の中には「日本軍によって拉致され、性的奴隷の扱いを強要された・・・」云々という文言が入っている。以前にも一部の日本人学者らが、「日本軍の性奴隷」ということを米国で吹聴していたことさえある。

 この日本人たちは、性奴隷sex slaveと言う言葉が、欧米人にどういう印象を持たれるか分かっていないのであろう。彼等は奴隷といえば歌の「恋の奴隷」というようなたとえか、女郎や売春婦の類を性奴隷と認識しているのではなかろうか。だが、実際についこの前の近代において、実際に奴隷を使ったことのある欧米人にとっては違うのである。

 奴隷は人間ではなく、物である。酷使して使い捨てるのである。アフリカから運ぶのにも、穀物を積むように山積みにして、換気どころか排泄の考慮もない。だから半数以上は途中で死ぬか、使い物にならないと言って瀕死の黒人は海に投棄された。それでも効率よく沢山運べれば儲かるからである。英国人は植民地インドの織物職工を、自国民と競合させないよう手を切り落とした。まして物でしかない奴隷なら、どんな苛酷な目にあったのか我々日本人には想像がつかない。

 日本や米国でsex slave と吹聴している日本人は、自分がいかに恐ろしいことを言っているか分からないのである。以前、ある朝日新聞の記者は日本が植民地支配を謝罪すれば、謝罪しない欧米に比べ道徳的に優位に立てる、などと書いたことがある。これまでの経緯からそんな馬鹿げたことは絶対ないことは証明されている。だが彼らは戦前までの日本の歴史を、どこまでも暗黒なものだと洗脳されていて、謝罪するなり性奴隷なりと言いつのれば、言った自分だけは良き日本人になれるのだと信じているのであろう。

 だがそうでないことは、慰安婦問題が米国で話題になるようになると、在米の邦人がいじめにあうようになっていることから分かる。彼等自身はそれらの犯罪を犯していたことはない。しかし米国人にとっては、日本人のDNAに残虐性があるからと思うのである。今オリンピックを前にして、おもてなしや日本の治安の良さ、など日本人の人間性の良さが強調されている。しかし、一方で性奴隷などという言葉が定着すれば、日本人は普段はおとなしいが、残虐性を秘めている怖ろしい民族である、という認識を持たれるのである。いくら、おもてなし、などと言っても片方で、それをぶち壊しつつあるのだ。


書評・昭和の精神史・竹山道雄・講談社学術文庫

2015-09-24 16:25:30 | 政治

 昔読んだことはあるとは思うが憶えていない。大東亜戦争肯定論(番町書房版「続」のP297)に引用されていることから、再度読んでみた。当然ながら、意外な部分とそうでない部分があり、不思議な感じである。竹山氏といえば、生前に朝日新聞の投稿で、ビルマの竪琴を書いた人が、こんな発言をするなんて、という非難があった。どんな案件か忘れたが、竹山氏が反戦主義と思ったら、それに反する発言をしたという非難である。

 講談社学術文庫には昭和の精神史と手帖というふたつがおさめられている。林氏が引用しているのは「昭和の精神史」の、軍部ファシストの反乱の失敗が、かえって強力な軍部ファシズム機構の完成に導いた、という左翼の見方の矛盾の指摘である。最初から日本の軍部はファシストで、最終的に軍によるファシズム支配が完成した、という結論があって、それを二二六事件と言う、軍部による軍部に対する反乱の側面もある、現実の出来事に無理やり適用したことによるインチキな結論である、というのが竹山氏の主張であり、正しいのである。

だが、全体を読み通すと、さすがの竹山氏も、時代の風潮を乗り超え切れなかった風がある。昭和の精神史からいくと、上からの演繹の間違いを否定するが、それは結局マルクス主義の批判である。結論が先にあって、それに都合のよい事実だけ取り上げる、という昔からの日本のマルクス主義者の決定的間違いを否定したのである。

 二二六事件に関しては素直に納得できる解釈がされている、と感じた。最近の論者でも北一輝などの関係者が隠れ共産主義者で、首謀した軍人も似たようなものである、などとも言い得るように、二二六事件は考えれば考えるほど複雑怪奇な事件である。竹山氏の見解はもっと素直に、首謀した軍人たちは、全員が窮乏した農民の出身などではなく、単に彼等に同情し政財界の腐敗に憤慨しただけなのである、というものである。

 複雑に見えるのは、それに便乗した軍首脳や政治家などの関係者がいて、それらが連携しておらず、連携していない人たちは当然思惑が違うから、二二六事件は矛盾だらけに見えるのである。だから、矛盾を強いて解こうとすれば複雑怪奇な迷路に入っていって、どんな陰謀説も出来てくる。だが事件が起った直接の原因と首謀者の意図は、彼等の遺書や言動をそのまま読めばよいのである。竹山氏は直截にそうは書いていないが、そう言いたいのであろうと思う。

 竹山氏は、もし戦争をせずに内乱が起きて、主戦主義者が覇権を握ったら、結局戦争への直線コースとなっていた、という緒方竹虎の意見を紹介して賛意を表明している。竹山氏は林房雄氏と異なり、大東亜戦争を国内的要因だけに帰し、外的要因の巨大さを考慮しないと言う、現在の日本人にも共通する倒錯をしている。

 確かに昭和三〇年に書いたという、林氏の10年前の時点である限界を免れなかったとは言うものの、大東亜戦争に突入するときに既に壮年に近かった人の意見としては、大東亜戦争に至るまでの、世界情勢に対応する日本の苦衷を後世の若者に残してもよかろうと思う。長谷川美千代氏が「からごころ」で大東亜戦争肯定論を、同時代の若者を元気づける、と言ったのは正鵠を得ている。小生自身も維新以後の日本の正当性をようやく主張してくれた人が出てきた、と思ったのである。

竹山氏の世代は知識人としてそれをなすべき世代だったのである。だが、GHQの策謀に容易に絡めとられた。竹山氏の世代は戦前戦中の日本の正義、というものを知っていたはずである。軍部の相克や政財界の腐敗があったのは事実であるが、世界史的に日本が苦衷にあったと言うことに比べれば、些末であり、本筋に据えるべきではない。

竹山氏の誤謬は、「手帖」のローリング判事への手紙、という項に如実に現れている。ローリング判事は、日本人の美徳を知っているからこそ、「この日本人がどうしてああいう残虐なことをしたのだろう?」(P280)と質問したのに対して、ある日本人が日本は封建制が清算されていないから、と答えると、日露戦争の日本軍将兵は欧米では敬意を持たれていたのに、日本は今度の戦争ではどうして?と反論した。

それに対し日本人は、温存された封建性が明治以後増大した、と答えたのだ。まるで司馬遼太郎のようである。しかし竹山氏は、そんなことがあろうか、と反問する。むしろ封建性が衰弱して日本人を支えていた精神体系がくずれていって、邪悪なものをときはなったのではないか、と結論する。原因はともかく、結論は司馬と同じなのである。竹山氏はGHQが宣伝した、バターン死の行進、南京大虐殺その他の、ねつ造された日本軍の残虐事件について、何の疑問も持たずに受け入れているのである。

ローリング判事は西洋人だから当然としても、同時代の日本人として、何かおかしい、と疑問を持たないのだろうか。小生の若い頃、終戦直後の日本では手紙を米軍に検閲されていた、と話してくれた年寄りがいて、当時は半信半疑だったが、今思えば本当だった。米軍による検閲や洗脳、ということを、同時代人は常識として知っていたのである。さすがにパル判事は日本軍の残虐行為というものを全て真に受けることはしていなかった、と思う。その根底にはインドでお前ら英国人がしていたことは何だ、という気持ちがあったのだろう。

記憶違いでなければ、大東亜戦争肯定論には、一切巷間言われていた日本軍の残虐行為には触れていなかった。読後感の一つとして、言われている日本軍残虐行為に対して、弁護や弁解が欲しかったと言う記憶がある。巷間流されている情報に対して、裏を取れない現在では触れるべきではない、と思ったか、大東亜戦争肯定論の本質とは関係なし、と思ったかのいずれかか、両方かである。いずれにせよ、触れなかったのは林氏の見識である。

 


本当に自分の頭で考えているのか?

2015-09-10 15:39:08 | 政治

 産経新聞の平成27年9月8日のコラムで、今話題のSEALDsが、「私たちは、自分の頭で思考し、判断し、行動していきます。」云々と言う宣言文に対して、自分の意見と思い込んでいるのは、左派ジャーナリストの主張にすぎないのではないか、と断じている。その通りである。

 その翌日のNHKだったと思うが、行動する学生をテーマにした放送があった。SEALDsなどの国内の運動に参加する学生たちの意見は、まるで金太郎飴のように同じで、やっぱりね、と思ったがそうでもなかった。世界各国の若者たちとディスカッションする集会に参加したある日本人の若者が、外国人に「戦争は必要だ」というような意味のことを言われてショックを受けていた。日本人に同じ言葉を言われると、拒否反応を示すのだろうが、外国人に言われると、大人しく受け止めるのが日本人らしいのだが。

 SEALDsに参加している学生たちは、同じ意見ばかり聞かされて、お互いも同じ意見で盛り上がっているから、こういう刺激的意見の洗礼が必要なのである。日本では戦争は悲惨だから、絶対悪である、と言う主張が常識である。しかし、ただいま現在も戦争は行われている。渦中の人たちは現代日本人より遥かに戦争の悲惨さを知っている。それなのに戦争がなぜ行われているか、ということに疑問を持たないのだろうか。

 小生は戦争はいいものだ、と言っているのではない。世界には自分と全く異なる意見の人々が多くいるから、それらの人々の声に耳を傾けて、更に自らの頭で考える必要があるのではないか、といっているのである。何度も紹介したが、小生の思想の原点は、日独の軍隊は悪逆非道な戦争ばかりしてきた、とか、日本は戦争をしてはいけないのだから、軍隊はいらないと言う常識に子供の事、疑問を持ったことである。

 これらの常識は外国から、戦後言われ続けたことから始まる。単細胞の小生の結論は簡単だった。日独は戦争に負けたからだ、ということである。そして、普通の国なら全て軍隊があるし、日独の敗戦後も戦争は起きている。日本の常識はどう考えてもおかしいのである。

 自分の頭で考えるべきは政治家も同じである。安倍首相が自民党総裁に無投票で当選した時の、社民党のコメントが傑作である。派閥で締め付けて対立候補が出ないようにしているのは、まさに独裁政党と映る、と批判したのだ。だが、社民党の大好きな中国や北朝鮮は、独裁政党が支配する国家ではないのか。

 政府批判も出来なければ、政府に都合が悪い人間は、指導者の恣意で法に基づかず拘束される。そんな超独裁国と日本を比べないのだろうか。8月に行われたような、反安保法制のデモを中国で行ったらどうなるかは、天安門事件をみれば分かる。何人が逮捕され何人が殺されたかも、未だに分からない。北朝鮮に至っては、天安門事件すら起きないのである。


未完の大東亜戦争・渡辺望・アスペクト:副題・日本の戦後をゆがめ続ける本土決戦の正体

2015-09-08 16:07:20 | 大東亜戦争

 久しぶりに大東亜戦争論で、衝撃を受けた本である。従前の本土決戦についての論考とは、どこに米軍が上陸を予定していて、日本もそれを読み切っていたうえで、上陸後の住民を巻き込んで、凄惨な戦いを続け、結局は松代の大本営が降伏する、という戦闘シミュレーションものがほとんどであった。

 本書では、そればかりでなく、思想方面に展開し、現代に到るまで未完の本土決戦思想が影を落としている、ということまで言うのである。だが、最後に本土決戦アニメとしての「宇宙戦艦ヤマト」をもってきているのは、小生にはいただけない。むしろ、冒頭にこの文章を持ってくる方が、カルチャーショックも含めて、現在も日本人は、どこかに未完の本土決戦に対する思いがある、という刺激的な表現が強くなると思うからである。

勿論、この文章を相当修正しないと、トップに持ってくることはできないのだが。アニメを結語的な部分に持ってこない方が良い、というのは偏見によるものではない。小生は活字の書籍とともに、漫画でも本に親しんだ世代で、アニメも初期から見ている。活字でなければまともな本ではない、という世代ではない。

松本零士の戦場もののコミックは好きだし、宮崎駿などのように、相当な武器マニアの癖に強い反戦、戦争忌避の思想を持っている、という性格ではないからである。ただ松本も少々日本的リベラルの影響は受けていることは否めない。しかし、宇宙戦艦ヤマトの元の発想が、ブロューサの西崎義典でアニメが先行しており、その後松本の他にも、豊田有恒が加わっていた、というのは知らなかった。

しかも軍艦は、三笠、長門、大和と変遷していたというのも知らぬ話だった。この順番は、想像するに、絶対的な勝利者、国民の憧れの軍艦の象徴、秘密のベールに包まれて密かに悲劇の敗北をした、というように、期待の星から段々悲劇性を増していったということであろうか。

考えてみれば、「世界的には当たり前の『本土決戦』」というのは確かに当たり前で、世界史上、戦争の9割以上が本土決戦の形で戦われているそうである。以前ブログなどにも書いたが、現在の日本人は特に本土決戦、ということに拒否感情を持つ。しかし、そういう人ほど専守防衛を言うのだが、専守防衛とは本土決戦そのものである。

日本が講和を受け入れたのは、原爆投下が原因ではなく、ソ連の参戦が大きな要因を成していた(P163)というのも本当であろう。逆に言えばソ連が参戦しなければ、原爆が投下されても、講和はなかった可能性があるということである。

ひとつ異見がある。東郷外相が「天皇の国法上の地位を変更しないという条件のもと宣言を受諾する」という穏当な回答案を書いたのに、平沼枢密院議長が「天皇の国家統治大権を変更しないという条件のもと宣言を受諾する」という強硬な文面に強硬に変更させた。そのため米国は疑心暗鬼になって「天皇は連合国最高司令官に従属する」とでも訳すべき文章を追加した、というのである。

もし東郷案が「受け入れられていたら、ポツダム宣言受諾条件に拘束されたアメリカは平和憲法の押しつけなどはできなかったかも知れないのだ。(P170)」というのだが、甘い考え方であると同時に、論理矛盾である。ポツダム宣言に拘束される、ということは国際法を守る、ということである。アメリカが国際法を守るなら、そもそも憲法を変えてしまうという、より重大な国際法違反を犯すはずはないのである。その上、ポツダム宣言受諾と言う条件付き降伏であったのを、国家の無条件降伏であるかのようにすり替えて、その後の占領政策を行った。この意味でも米国がポツダム宣言に拘束されようはずもない。

もし、日本が本土決戦を行ったら、戦後はどうなっていた、と言うことに関しても興味深い見方を提示しているので、ぜひ読んでいただきたいと考える次第である。ひとつ不満を言うと、アメリカにも日本本土上陸で相当の損害が出る、と予測されていてトルーマン大統領になってから、それに対する恐怖心から本土決戦を避ける動きが大きくなっていった(P101)というのであるが、もし日本がポツダム宣言を拒否した場合にでも、米国が本土決戦を避けて、講和したという可能性について書かれているかと期待した。

しかし話の展開はマッカーサーが誇大妄想的ヒロイズムから、本土決戦に固執して、やり残した本土決戦の代替として、朝鮮戦争に臨んだ、となっている。ベトナム戦争についても、やり残した本土決戦と言う見方もある、という考えを書くのだが、こうしたマクロな見方が本書の魅力でもある。