毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

わかっちゃいるけどやめられない、岡田克也氏

2018-12-24 22:39:17 | 政治

 立憲民主党(つまりかつての民主党)は「わかっちゃいるけどやめられない」、政党だということは、産経新聞の阿比留瑠比記者の「立民 非現実的政策の理由」(H30.12.21)という記事と、立民党の岡田克也氏へのインタビュー(H130.12.24)を対比すると歴然とする。前者では、早い話、政権獲得の可能性がないから、政権奪取したら困るような、沖縄政策や安保政策を平気で掲げているというのだ。

その証拠に当時の社会党の村山富市氏も総理になった途端、永年の主張を翻して自衛隊合憲と言った。民主党の鳩山由紀夫総理は、結局辺野古移転を行う閣議決定をし、あくまでも辺野古移設に反対する、福島瑞穂氏を大臣罷免までした。ところが野党になった途端に、彼らは元の「反対派」に戻ったのである。実に単純明快である。

 ところが、この記事を読んでいるはずの、岡田氏はインタビューで、当時辺野古移設は他に選択肢はなかったし、安倍政権は強硬にものごとを進め、基地問題をこじらせてしまったから今は反対である、と言っている。その癖、現段階での他の選択肢は提案しないし、そもそも現政権が辺野古移設の工事を始めたのは、当時の沖縄県知事が移設を容認してからであって、その後知事が変わると容認撤回したのである。こじらせたのは政権側ではなく、県側である。

 自衛隊の憲法問題については、岡田氏は言及すらしていない。党内事情と党勢拡大のために、言及できないのである。最後は「政権交代可能な政治の実現」のため近い将来枝野政権を誕生させたい、と結ぶ。岡田氏は政権をとることができないことを百も承知だが、分かっちゃいるけど(から)「なんでも反対」はやめられないのである。


書評 未来年表 人口減少危機論のウソ・高橋洋一

2018-12-02 00:02:37 | 政治経済

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 久しぶりに得心のいく本であった。小生自身が、少子化は防ぎようがなく、少子化に向けた対策はあり得るとしても、政府による少子化防止対策はあり得ない、と考えていたからタイトルに飛びついて買ったら、期待に応えてくれたわけである。明治以前はせいぜい四千万人程度の人口でそれなりに暮らしていた時期もあるし、人口が際限なく増えていった方が危険ではないか、と直感的に考えていたからである。日本の適正人口は、八千万人程度だという説もある。

最近、水道設備の老朽化等による危険と、水道料金の地域格差が問題にされている。本書ではこれに直接答えてくれるわけではないが、読めば水道インフラを扱う自治体の規模を適切に大きくすれば、ある程度解消すると理解できた。ちなみに政府が考えている民営化は、単に公営より効率が良くなる、という姑息な考え方で、他国の失敗例を考えれば、薦められない。郵政民営化の原因は元々そのようなものではない、という理由を他書で高橋氏が説明している。国鉄の民営化は、共産主義革命活動集団化した労働組合による、国鉄破壊活動に対する対策であると小生は理解している。

 

人口減少危機論

 人口危機論で本質的に問題になるとすれば、減少のスピードが想定外に速くなるといった、不測の事態が起きることだけである、と述べているのは得心する。ただし、小生には現在想定している人口減少は、異常に速いのではないから問題ない、ということも考えなければならないと思われる。出生率が1.1を切るような急激な人口減が想定されるとしたら、予測できても人口減少への対応策のしようがないのではなかろうかと思うのである。

 

AIとは何か

 AIを「人工知能」と訳すことが誤解の元で、「AIに知能はなく単なるプログラムだ。・・・AIが人間を超えることは当面ない。・・・誰にも解けない数学の証明問題を解くといった作業は無理だ。(P168)」と断じているのは正しい。コンピュータによる将棋や囲碁などというものは、コンピュータの演算速度の速さと記憶力の膨大さを利用して、トライアルを無数に行っているのに過ぎず、一流の棋士などの知能を超えているわけではない。棋士等より将棋等の能力が低いプログラマーがプログラミングしたコンピュータが勝っているのである。現在の技術の延長である限り、AIが人間の頭脳を超えることはない

 しかし「ブルーカラーもそのうちAI化されてくるだろう。(P84)」というのは無理だろう。建設労働などで、運搬や溶接などのうち、繰り返しで定型的な僅かな種類の作業を除けば、大部分の現場作業のAI化は無理である。大量生産の工場におけるロボット使用とは訳が違うのである。その意味で「労働力という観点では、最終的に外国人は不要になってくる(P84)」というようにはならないと思う。コンビニや飲食店の店員や、街の道路工事の作業員をAIで置き換える、というのは当面無理である。

 しかし、移民につながる単純労働者の受入れは無理筋である。排日移民が日米戦争の遠因になったことを持ち出すまでもなく、欧米が移民により悲惨な状況になっている現状を見れば明白である。以前ドイツのテレビ局が公学校の移民被害を、潜入取材した番組を見たが、日本の学校崩壊どころではなかった。移民にかかる社会的トータルコスト増は、日本人の単純労働者採用に必要な給与増よりはるかに多くなる。文化の破壊や人種摩擦も激化する。

「日米開戦の人種的側面」によれば、移民の国と言われるアメリカでも、「移民」とは「アメリカの白人社会に同化できる白人」というのが建国以来の本来の基本的要件だったのである。前掲書は排日移民法に批判的であるが、アメリカ先住民族については、はなから同化の対象の可能性の検討からさえ外している。日本人移民が迫害された戦前でも、移民の多数を占めるドイツ系やイタリア系の迫害はなかった。だからトランプ大統領がメキシコ経由での南米の移民阻止、というのは移民の国アメリカ、というスローガンに何ら反していない

安倍首相が進めている外国人労働者受け入れ政策は、目先の利益にとらわれた財界の圧力に屈してのことだと推察する。政策を批判する野党も安倍政権批判の材料に利用するだけで、単純労働者不足、という主張に対する根本的対案を用意してないから、意味がない。

 根本的に考えれば、人口減少が労働人口の減少の原因と単純に考えるなら、現状の店舗数と規模を維持してコストが合うはずがない。つまり人口減少に伴い、必要労働人口も減るはずである。それでも無理して外国人の単純労働者の雇用を求めるのは、日本人より安く使える、という意図が透けて見える。冷酷に言えば日本人がやりたがらない仕事に、日本人をやらせたければ賃金を上げるか、それでも経営できなければ、その店舗はもはやニーズがないものとして、閉鎖するしかないのである。

 それでも小生は労働人口の不足対策は少しはあると考える。著者のような統計値は持たないが、日本人で働くことは可能でも、働いていない人がいるはずであるからである。この中には働く意思がない、という人が含まれているが、それは必ずしも働くことができない、という人ばかりではない、ということである。都内の某区では、半数近くが生活保護を受けている、という都市伝説のような噂がある。噂は真実ではなかろうが、生活保護が受けられるために働かない、という人々もいるはずである。

 つまり生活保護の受給資格を厳格に査定し、働くことができるのに、生活保護が受けられるために働かない、という人の中から労働人口を発掘することができるのではなかろうか。何せ最低賃金で働くよりは、生活保護の方が年収が多いと言われている時代である。

 

無人自動運転自動車は実現しない

 本書で小生が最大の間違い、と考えている箇所を指摘する。無人自動運転が可能になるから「・・・タクシードライバーという職業は真っ先に消えてもおかしくない。(P171)」としていることだ。なるほど自動運転の研究開発は進んでいるし、実用段階になるのはそう先ではないだろう。航空機の世界では無人飛行機は既に実用化して多数が使われている。しかし、旅客機は自動操縦が可能で、離着陸の自動化も可能であるのに、パイロットは原則正副二人搭乗しているのは何故か。

 問題は安全性の確保なのである。旅客機パイロットの免許は一年更新で、その上免許は機種別にとらなければならないほど厳格である。大部分の飛行時間は自動操縦がなされている。それでも自動操縦中に常に一人は計器を見つめ、いつマニュアル操縦になってもよいように備えている。これだけの技量を持ったパイロットが乗っているにもかかわらず、万一の安全性確保のためにパイロットは必要なのである。

 まして、遥かに技量が低い運転者が乗っている自動車では、全自動運転が実用化したところで、運転手を無くすどころか、全自動運転システムが突如不測の事態の発生に対処できなかったり、システムにエラーが発生した場合に、普通の運転手が素早く対処できるとは、到底考えられない。運転手が乗っていてさえも万一の安全確保には疑問符が付く。危機管理の原則と同じでシステムとは不測の事態が発生したり、エラーした場合の対処は絶対に必要なのである。

 災害で「想定外の事態が発生したから」と言い訳されるが、危機管理では、想定外という言い訳は許されないのである。自動車の自動運転も同様である。有人運転なら人為的事故の場合、運転手個人の責任を追及するしかない、と皆本心では割り切っている。ところが無人運転の場合、システムが不完全なこともあるし、エラーも発生するものだ、とは割り切れないのである。もちろん現在の旅客機はほとんどが、機力(油圧などの機械力)操縦である。油圧などのシステムが完全に故障した場合にはパイロットは操縦できない。多くの旅客機は設計上機力操縦以外にしようがないから、システムエラーの可能性は暗に許容されているのである。

 前述の実用化されている無人飛行機とは何か。偵察や攻撃用の軍用無人機である。トラブルや敵の攻撃で墜ちようと、人命に被害はない。むしろ有人の軍用機よりも墜落した時の人的損害がないので、好まれるのである。現在では用途が戦闘機や爆撃機に拡大されようとしている。しかも無人とは言っても、人が乗っていないだけで、完全自動ではなく、地上でモニターして操縦している。機内に搭乗員がいないことが好まれるのである。副次的には、搭乗員の所要設備やサイズが不要になるなど、コスト面でも大きなメリットが得られる。

 小生の知る限り民生用の無人自動運転がされているのは、国内では「ゆりかもめ」のような軌道走行車両システムだけであろう。それとて、常に車両外の固定局でモニター、運転しての半自動運転というわけだから、運転要員はいるのである。ただ各車両に運転手が搭乗していないだけのことである。これを可能にしたのも、運用区間が短く専用軌道上だけを走る、という特殊な事情から、不測の事態が起きにくく、対処も容易であること、トラブルへの対処も比較的容易であること、などの相当な特殊条件があって認可されているのである。

 以上のことを総合すると見通せる近未来では、一般道を運転手の乗らない全自動自動車が走行するなどは考えられない。もし、あり得るとしたら色々な事態に対処できる、本当の意味で人間と同じ知能を持った「AI」ができたときであろう。しかし、そのようなAIは「2001年宇宙の旅」のコンピュータのように、人間のような意志を持ち、人を殺そうとする可能性が発生する事だろう。そのような遠い先の可能性ではなく、現実にあり得るとすれば、専用軌道ではなく、一般道を走るゆりかもめ方式のタクシーなどであろうか。それとて、一台に一人、車外監視要員を必要とするなら、メリットは激減する。

 

フリーランスについて

 もうひとつは著者の持論に対する疑問である。それは「いざという時はフリーランスが強い(P216)」ということである。著者はキャリア公務員でありながら、天下りをしなかった。著者は天下りをしなくてよかった、といっているが、別の著書でその経緯を読んだ記憶があるが、自らの選択と言うよりは、成り行きであったように思われる。しかし、民間等が天下りを受け入れるのは本人の能力などではなく「・・・親元(省庁)との関係を良好に保つための・・・いわば『人質』で」ある、と言っているのは事実である。

 小生の知人のある省庁のOBたちで民間会社にいったのだが、何の仕事もなく「人質」であることに嫌気がさして、年金の受給年齢になる前に自主退職してしまった人物を何人か知っているから分かるのである。だが著者の言うように「自分の才能を信じ、スキルを身につけ、組織に属さなくとも自分の力で食べていけるだけの武器を身につけ」るのが最も望ましい、という持論は小生には例外的な理想論である、としか思われない。民間会社でも「天下り」は存在する。

 昔、小生は20歳も年上の大先輩に、君は虎の威を借る狐だと冷やかされたことがあるが、的をつかれた、と痛感している。組織にいるものは、組織がバックにあることによって力を発揮するものである。人はそのことを自分自身の実力だと勘違いするものである。大先輩はそれを戒めたのである。著者は確かに財務省で自分のスキルを磨き、今では組織に属さずに実力で生活しているのは事実である。しかし、それは例外であるのに違いない。

 小室直樹氏は日本は戦後天皇の絶対性信仰とともに、村落共同体を失って、急性アノミーに陥った。村落共同体を補ったのは「会社共同体」だったという。ほとんどの日本人(あるいは人間)には、共同体への帰属意識が精神の安定上必要なのである。

 著者は、会社を持っているらしいが(P217)、事実上フリーランスらしい。その方が気楽で稼ぎやすいらしいとも、言うのだ。しかし、彼のように、組織に属さずスキルや才能を発揮できる、という例は一般化できるわけではないだろう。前掲の小室直樹氏も著者と同様に事実上のフリーランスとして能力を発揮していたのであろう。しかし、小室氏は自身のあり方を一般化せず、共同体必要論を説いている。人間世界の洞察としては小室氏の方が深い、と言わざるを得ない。

著者のフリーランス論は、従来の単なる実力主義論よりずっとまし、とは思うのだが。ちなみに著者自身は全く社会から疎外されている、というどころか、必要に応じて考えを分かち合えるグループのいくつかに所属していると推察する。これが共同体への帰属意識、とまでは言わないが、著者とて何らかの共同体社会から孤立して生きられるものではなかろう、と思うのである。

 明治維新は暴力や政治闘争を伴う大変革であった。しかし、村落共同体を破壊したわけではない。藩は解体したが、小室流に言えば、侍の忠誠は藩から国家(すなわち天皇)への忠誠に置き換えられた。仮に公務員や国家、地方の組織の大改革をするとしても、人間の業としての忠誠心や共同体への帰属心理への必要性は残るだろう。

 

なぜ日本はデフレか

 著者は経済等における数値計算の必要性と可能性を説いている。経済や年金の議論をする際に、あまりに定性的な議論だけで、定量的な議論が欠如している現状では著者の主張には説得力がある。ただし、日本はかつて10%を超える経済成長をしていたのに、現在は2%にも及ばずデフレだとすら言われている。そして賃金上昇の傾向も似たようなものであることの説明はできていない。というより、そのような比較はしていないように見える。

 これからする小生の説明は、数値計算できるしろものではない。もちろん本人に計算能力がないこともあるが、そもそも数値計算するには変数が多過ぎ、それですら確定できないものばかりだから、計算能力が人並みにあったとしても、計算できまいと思うのである。

 小生の定性的説明は単純なものである。いわゆる高度成長期、というのは主たる輸出先の欧米と日本にかなりな賃金格差があったのである。当時、日本の欧米への大量の輸出はソーシャルダンピングによって、格安の賃金により欧米より安くものを売っている、という非難をあびていたことが、その証明である。原材料は主として発展途上国から輸入するから元々安いし、製造コストに含まれるのは人件費の方が、遥かに比率が高いから、問題は日本人の賃金安にある、とされたのである。

 ところが欧米より高い賃金上昇率を続けた結果、東京は世界一物価が高い、と揶揄されるまでになったのである。その結果、日本の製造業は追いかける発展途上国に負けるか、製造拠点を賃金の安い海外に移すようになったのである。ブランドは日本だが、メイドイン・シンガポールなどという家電製品が珍しくなくなったのは、かなり昔の話である。

 米国でも同様である。日本の鉄鋼産業に押されて、米国の鉄鋼産業は消滅したのに近い。家電と異なり日本の鉄鋼産業の主力は、品質の安定性とコスト削減により、発展途上国に対抗し得たのである。現在でも普通鋼材などの低品質級の鋼材でも、重要な強度部材に関しては、品質の確実性から、日本製を好む発注者がいるが、発展途上国に押され続けているのは間違いない。アルミの精錬などは、国内の工場は無くなって久しい。

 現在、単純労働者で人手不足が言われているのが、建設業やコンビニ、飲食店などであることは偶然ではない。家電は日本メーカーの指導で海外生産ができ、自動車の組み立てはロボットでできても、まさか道路や建物の建設をロボット化したり海外で生産して日本に運ぶ、というわけにはいかない。コンビニ、飲食店も原料は輸入可能でも、コストがかかる店員は国内の店舗に配置しなければならない。

 というわけで、日本と発展途上国の賃金格差が企業努力では回収できないほど大きくなった結果、賃金は上げられない。製造業は海外で生産するようになって販売価格は上げられない、どころか劇的に安くなっている。それは量産効果ばかりではなく、発展途上国のメーカーが、日本メーカーに追いついたこともある。テレビや白物家電、と言われるものは海外生産でも日本ブランドも減りつつある。

 以上述べたように、日本が欧米並みの賃金となり、日本と発展途上国との賃金格差の拡大と、発展途上国の製造能力の拡大から、日本での賃金上昇や物価上昇の減速を招いている、という単純なことを言っているのに過ぎない。だから少なくとも、日本での賃金上昇率や物価上昇率は、発展途上国のそれより、ずっと少なくなければならないのである。それでも見通せる限り、多くの発展途上国が物価においても賃金においても、日本に追いつくという見通しはない。

 GDPにしても同様である。日本の十倍を超える人口の中国ですら、GDPでは、日本を超えたのは最近で、インドに至っては追いつく見通しはない。中国やインドの一人当たりGDPと、日本のそれは、まだそれほど大きな差がある。中国の経済成長率は低下して、6.5%程度と言われているが、これすら国家的嘘である、という陰口がなくならない。エネルギー消費量が減少を続けているようであるからである。

 だから、日本の経済成長率は4~5%どころか、人口が減少していることを考慮すれば、2%も相当困難な数字であることは、想像できる。この説明は本書への批判ではない。そもそも本書はこのようなことに言及していないからである。小生が書評を口実に言及したのに過ぎない。