図書館に申し込んで一年近く待ったのだが、根本のところで意見が相違するのでがっくりした。学べるものより批判が多くなってしまうのだ。農業を専門とする学者なので、情報量は恐ろしく多い。だが考え方にバランスを欠いているように思えてならない。同時にマルクス主義的思考の影響が強いと思われる。しかし農協や兼業農家の現状などはよく捉えていて、一読の価値はある。思考の整理のために、借りるのではなく買おうと思うくらいである。
氏の家には「折に触れて全国各地の農業名人から農産物が届けられる。彼らは、私に代金を一切請求しない。厚意での「おすそ分け」だ(P30)」そうだ。しかも奥さんと二人だけなので必要量は少ないのに、送られてくる量は多いのだそうだ。「親愛の気持ちを表したいのだろう」という。厚意も親愛の気持ちも本当であろう。本で公言する位だから違法ではないのも間違いはない。
質も高く量も多いから金に換算したら相当なものになるのであろう。農産物は農業名人の作品ではあるが、一方では生活必需品である。生活必需品は現金と等価である。一面では氏は現金を貰っているに等しいのである。氏は無邪気なのだろうか、無神経なのだろうか。法に触れようが触れまいが、道義的には賄賂と言われても仕方ないのである。現に氏はこれら農業名人の「技能集約的農業」だけが日本農業が生き残る唯一の道だと断言しているのだ(P103)。心情的には物をもらっても動かないにしても、これらの人の情報に偏ると言われても仕方ない。小生にはこの神経は理解不能である。
担い手不足の嘘(P50)は詭弁に近い。担い手不足になる原因として挙げているのが①若者が耕作放棄地を借りて就農したところ、地力が回復するようになった途端追い出された、として農地所有者が担い手が定着するのを嫌っている。②美人の若者が収納するとマスコミなどに持ち上げられて技能習得を忘れているうちに、周囲の言うことを学ばなくなって居場所がなくなり、マスコミに相手にされなかった結果、夜逃げ同然にいなくなった、という例である。果たしてこれが、一般的なのだろうか。そうでなければ、こんな事例を「担い手不足の嘘」として一般化されるのでは困る。
①の例を敷衍して、高齢の農地所有者が耕作放棄しても儲かるような仕組みになっている、と言うがこれを最も問題にしているのだ。本末転倒である。後継者がいないから、高齢化して耕作放棄せざるを得ないし、先祖伝来の土地を人手に渡したくないから仕方なくズルをするのだ。原因は後継者がいないことなのであって、ズルをするから後継者がいないのではない。肝心の就農したくない人が多い原因については論じないのである。
私の田舎は父の代まで旧式の専業農家だった。子供のころ手伝わされた範囲だけでも辛いものだった。いち早く耕運機を買ったのも楽をするためで、収益を上げるためではなかった。馬と違い耕運機なら中学生にも扱えた。耕運機は購入費も維持費も高いが、だからといって農業収入はさっぱり増えない。そればかりか耕運機が活躍するのは、年間一か月もなかった。
父は農閑期に土木作業員として働いた。農閑期はすることがなかったし、生活の近代化には現金が必要で、農業だけでは現金収入が年々不足するようになったためである。父祖の世代の辛苦を知る私たち兄弟は誰も就農しなかったし、父母もそれを望んだ。かなり広い土地を持っていても、昔ながらのが家族だけの農業で、現代的生活をすることは不可能な時代になっていたのである。戦前は生糸生産もしていてそれなりの現金収入もあったはずだが、それも失われた。養蚕のための小屋もあったが、倉庫として流用されていた。
母の実家は米以外に野菜やお茶で儲け専業農家でも裕福だった。その結果、従兄は進んで農業高校に行き、就農としてある花では栽培の講師をするほどになって、海外旅行も頻繁に行き生活もエンジョイできている。その息子も就農した。就農するか否かはこうして決まるのであろう。
なお、「担い手不足の嘘」の項には農協が電話一本で全ての農作業をしてくれる受託サービスをしてくれるそうだ。当然氏はこれを否定的に書いている。しかし、これは企業の農業参加の可能性を示唆しているのではあるまいか。筆者は企業の農業参入に反対している。「企業が農業を救う」のという幻想(P55)と書く。理由は「宣伝や演出の戦略にあわせた農業生産をさせるためには・・・なまじ耕作技能はないほうがよい・・・そういう企業は農業ではなく広告をしたいのだ」というのだ。
そしてマスコミに取り上げられたり、派手なスローガンが飛び交うと批判する。氏が例示したようにそういうケースもあろう。しかし企業が参入するのに反対する理由がそれだけ、というのは実に奇妙である。氏の言説は実にバランスを欠く。広告宣伝のために企業が農業をする、というのはあまりに奇妙である。企業は農業参入そのもので利潤をあげたい、というのが第一義の理由である。広告をしたいと言うのは、広告宣伝を常とする企業の習性による副次的なものであろう。
「経済学の罠」(P75)とは、政府の介入なしに企業の自由競争が生産効率は最高になるという経済学の教科書の言説の前提は、取引相手を探すのにまったく費用がかからず、取引にあたって違法行為がなく、決裁も滞りなく行われるのが前提である、と主張する。これらのことは実現がほとんど困難だから、企業の自由競争がベストだと言うのは間違いだと主張する。
だいいち「取引相手を探すのにまったく費用がかからない」と言うのは絶対にあり得ない話である。そもそも今の日本には「政府の介入なしの企業の自由競争が生産効率は最高になる」と言う言葉をそのまま信じている者はいまい。規制は必要である。人により異なるのは規制の程度である。規制をなくすために「・・・官僚や業界団体さえやっつければ、日本農業は劇的に強化され、農業は成長産業化し、輸出産業にもなる」という間違った論理を展開する、という。確かにこれに近い極端な言説をするものはいるし、単純化し過ぎている。適度な規制は必要であると、大多数の人は考えている。例外を一般化する悪癖がここにもある。
氏は表向きはどうか知らないが、共産主義的信条の持ち主のように思われる。オムロンの植物工場の失敗例の引用が「しんぶん赤旗」である。企業参入について別な動機があるとして反対するのも、さかんに労働の「商品化」批判をするのもその表れである。町工場を称賛するのも同じである。氏は共産主義観点から大企業批判している一面があるとしか思われない。そう考えると氏が、労働が商品化したマニュアル依存型ではなく、個人経営の技能集約型農業を絶対視することも理解できる。マルクスの理論では、厳密には農業労働は「労働」ではないにしろ、「取引相手を探すのにまったく費用がかからない」と突然言うのは、マルクス主義では、営業活動そのものは労働とはみなせない不要な行為だと考えられているからであろう。
いずれにしても氏は日本の農業には機械に頼らない技能集約型しか未来はないと考えている。そうすればJAに対する容赦ない批判も、補助金のばらまきでうまくやっている兼業農家に対する批判も理解できる。両者は持ちつ持たれつだからである。従ってJAに対する批判は読むべきものがある。
「経済学の罠」の後半の「取引にあたって違法行為がなく、決裁も滞りなく行われる」という前提条件はあらゆる経済行為に必要なものである。この前提が守られないのであれば、どのような生産形態の社会でも、生産も経済も崩壊していることを意味するから、意味がない前提である。大規模経営批判で「まじめに農業に打ち込む環境になければ、規模という外形にこだわっても無意味」だというのだが、この前提も資本主義が成立する前提条件である。
小室直樹氏だったと思うが西欧にキリスト教をベースにしたモラルがあるために、資本主義経済が発生し、日本にも別なベースによるモラルがあるのだそうだ。単に金儲け主義だけでは資本主義は成立しない。「まじめに農業に打ち込む」精神は資本主義社会に必要な前提である。技能集約型農業も同様であるし、マニュアル依存型農業も同様であるはずだ。そういう条件であれば規模が小さいと言うのは絶対条件ではない。
私には技能集約型農業には氏が敢えて触れない欠点があるように思われる。氏が技能集約型として例示しているのはほとんどが野菜農家である。多分最初に紹介されている「二人の名人」だけが、米農家である(p15)。この二人は反当り収穫量と食味値の抜群の良さが紹介されている。たが果たして、死の数年前から野良に出ることができなかったこの二人が、一般に言う定年の60歳前のころ、米だけで家計を支えるのに十分な収入を得ていたかが記述されていない。つまり名人の農業法と体力で、生計を立てるのに必要な量と単価の米を作ることができたのか否か示されていない。狭い面積を多くの労働力をかければ反当たり生産量は増えるが、労働力辺りの生産量が多いとは限らないからである。
もし、技能集約型農業が野菜にだけしか適用されないものだとすれば、それに全ての農家が専従すれば、日本の農業生産は極めていびつなものになってしまう危険があるのではないか。もう一点は、人間の能力と生産量である。説明によれば技能集約型農業は相当のやる気と技能を必要とする。日本にそのような人間がどの程度いるのであろうか。極めて少ないのではあるまいか。工場生産でも同様であるが、高度な技能を持った人間だけが生産に携わっている産業はない。もし高度な技能を持った人だけしか従事できない産業が全てであったとすれば、多くの人が就業できない。だが現実には、マニュアル通りに真面目にやれば、平凡な能力の人間にもできる仕事も必要とされている。そして高度な技能を必要とする仕事と、マニュアル通りの仕事の中間は欠落しているのではなく、その間の技能の程度は連続しているのである。
氏は製造業をあまりに単純に理解しすぎているように思われる。そして町工場を農業名人になぞらえて美化し過ぎているように思われる。工場生産ではマニュアルを使用し機械を使用した大量生産は、一品作りの製品に比べ品質が劣るとは限らないのである。正確に言えば、機械的に大量生産可能な製品を、一品作りに戻せば確実に品質は落ちるし、コストも膨大にかかる。それは大量生産された車の表面仕上げや加工精度の良さを想像すれば理解できるであろう。また町工場で作られているものの多くは、大量生産のためのマニュアル作業によってはできない部分を受け持っている。
つまり多くの場合高度な技能の町工場で作られる製品は多くの場合部品であり、マニュアルで大量生産されるものに組み込まれる補完関係にある。また、ロケットのようなハイテク産業の単価がなぜ高いか。根本的には知的にも肉体的にも多くの人間の労働力を必要とするからである。だが社会で必要とされているのはほとんどがハイテク製品ではない。氏の推奨するのはハイテク製品だけ作る農業に特化することのように思われる。それでは一般的に農業を多くの普通の若者の就業可能な産業にはできない。
高度な技能の寿司職人は、スーパーで売られている大量販売の寿司の品質の維持向上には不可欠である、と言っていることから、氏はマニュアル型生産と高度な技能の商品との分業について理解しているはずであるが、農業や工業への理解にはそのことが反映されていないように思われる。40年位前のカラーテレビなどというものは、今のものに比べれば品質は桁違いに落ちるは、給料に対する価格も桁違いに高いものだった。マニュアル生産によって現在のテレビの低価格高品質がある。私は農業でもそのような道はないかと思うのである。
大規模、企業による農業反対論にも異論がある。どこに書かれていたか判然としないが、氏は失敗の例として、販売活動に力を入れ過ぎて肝心の農業技能がおろそかになった人をあげている。しかし販売活動は必要であろう。いいものを作っても知られていなければ売れないからである。しかし個人農業で販売活動に力を入れれば肝心の農業に専念できない。身は一つだからである。だが大勢例えば100人いれば1人が販売に専念しても残りは大勢いるからロスは極めて少ない。そして大勢いれば研究開発して新製品や良い製品の研究に配分できる人ができる。
これが企業による産業活動が成立する理由であろう。100人いれば、給与の支払いからそれなりの農業規模とならざるを得ない。単に大規模大量生産に規模が有利なだけのではないのである。従前は農協が販売はや研究開発を分担していたから個人農業も成立してきた。しかし農協の肥大化と個人農業の崩壊によって、農協は組織維持のために農業以外の分野にも手を出さざるを得なくなっている。今の農協は農協のためにあるのであって、農家のためにあるのではなりつつあり、かえって凋落をまねいている。本来の仕事がなくなったから、農協が農協のためにあるのは組織としては当然の成り行きである。
農協と農家は別組織であり、一心同体ではない。だが企業なら違う。生産担当であれ、販売、研究担当であれ会社が倒産しては困るのは同じである。つまり所属する会社のために働くモチベーションが存在する。小規模農家を支えると言う本来の業務が減少している今、農協が必ずしも農家のために働くモチベーションがないのは当然である。もちろん企業が農地を保有するのには問題がある。しかし小規模専業「農家」が農地を保有することにも実態として問題を抱えているのは氏の指摘するところである。つまりだれが農地を保有しようと農業をするモチベーションがなければ、農地の保有は悪用される。
氏は「マニュアル化された工場で正確かつ忠実に指示に従う優良作業員として何年働いても職人技は身につけられない」(P83)と言うのだが、この言葉が氏の製造業に対する誤解を象徴している。意図せずとも氏の言葉はベテラン工員に対する侮辱である。単品設計生産製品では、設計者が持ってきた図面を、こんなもの作れるか、と突き返すベテラン工員がいるのである。職人技がマニュアル化した工場にも存在するのである。単にマニュアルや設計図に従っているのではない。第一にいくら完全なマニュアルを作ったところで、作業に対する習熟は必要である。氏は無意識にチャップリンのモダンタイムスの工場のように、単に物を右から左に動かす作業をイメージしているのではなかろうか。溶接を例にとろう。一番簡単な溶接作業ですら、言われた通りやってもなかなかできるものではなく、危険なものである。
溶接には材料や条件によって様々な種類があり、各々技能認定試験がある。試験には技能や知識の程度によりランクがある。単にマニュアルに従うだけではない。しかも高度な資格を取ったところで美しい溶接のビード(溶接した部分)が作れるわけではなく、永年の習熟がいる。マニュアルがあって高い資格を取った後にも不断の勉強と知識と経験は必要なのである。これも職人技である。
しかしこのようにして知識と経験を積んでも溶接工が行うのは、「金属の接合」という氏が嫌う「分業」の一部なのである。氏の称揚する「金型作り」にしても自動車生産などの工程のほんの一部である。ほんの一部をになう分業が集まって自動車産業と言う巨大産業が成立するのだから分業は忌避すべきものではない。
技能集約型農業は少人数で全工程を担う。個々人の技能のレベルについては、技能集約型農業従事者と町工場職人や溶接工は等しく高度なものを持ちうるのであろう。しかし、自動車産業は、その技能者が沢山集まる必要がある。ここまで敷衍すれば意図することが分かるであろう。農業を企業化することにより、研究開発、営業、各種技能を持つ生産技能者が集団化することができる。そこには、個人農業に近い小規模農家とは違った可能性が開けるのではなかろうか。単に規模の大きさによる高効率化での低コスト生産を言うのではない。それは技能集約型農業と良きライバルとなり、双方の発展の可能性があるのではなかろうか。もちろん氏の言う農地保有の問題はあるから、制度作りは必要である。
氏は農業の機械化についてあまり語らないが、嫌っているように思われる。しかし現代で田んぼでの機械を使用しない米作りなど絶望的に困難である。著者は大きな田んぼで機械なしの稲作をしたことがないのであろう。がその反面町工場の職人芸を称揚するのは矛盾している。職人芸であっても町工場では機械を使用しないことは絶対にあり得ないからだ。いくら化石エネルギーを忌避したところで、電力なりの動力を使用しないのはもはや町工場であれ工業とは言えない。農業についてもその辺りのスタンスが本書では極めて不分明である。
氏は日本の技能集約型農業によって、日本に海外の農業者をまねくか、海外に行って技術指導するのが良い、と述べる。「・・・町工場で腕を磨いた技術者が海外で工場指導をしているが、それの農業版だ」(P105)という。また「K名人は・・・韓国・中国にも出かける。中国での農業指導に対して、温家宝首相から直々に感謝を受けたこともあるという。」(P199)
だが日本から技術指導を受けた中国、韓国がどう対応したか。中国は新幹線は自主開発だと嘘をつき、外国に輸出しようとして日本のライバルになろうとしている。韓国は日本の技術者を使い捨てにしている。要するに両国は技術を得てしまえば恩義など感じないのだ。しかも中国はチベットやウイグルで大量殺戮をし、ヒトラー顔負けの民族浄化をしている。そんな国の指導者に「直々に」会えたことに感動しているとは空恐ろしい。今巷間伝えられるような、ナチスドイツのような国が出現したとして、そのような国の指導者に会えたことを自慢すべきなのであろうか。氏には中国幻想がある。
氏の学校教育批判(P86)は私にはいびつに思える。「製造業の発達のために社会全体の労働の価値観を変える装置はさまざまにあるが、その典型が学校だ。」として次のような教育社会学の専門家の意見を紹介する。「近代社会で必要な知識教授と集団的規律訓練の場として、学校は制度化された。学校は子供を社会生活からある程度引き離し、強制的に囲い込んだ空間だ。学校の肥大化は、やがて社会が学校で習得したことによって成り立つ(学校が社会を規定する)転倒した様相さえ呈することもある。」
これに加えて筆者は「近現代の学校は労働の『商品化』を教え込むための装置とみなすことができる。農家の子弟も近代学校に通うことで、労働の『商品化』の感覚を身につける。また、テレビなどの電気製品の普及も、人々に無機的な時間の感覚を覚えさせ、時給などの近代的な労働の概念を導入し、労働の『商品化』を推進する。」というのだ。これは現在の学校教育の在り方の全否定である。氏は学校は資本家が労働者を効率よく使うための訓練機関だというのだ。日教組の管理教育批判とも酷似している。どのような社会でも最低限の集団的規律は必要である。それを教えるのは必要なことである。中国人のようにバスの列に並ばずに平然と割り込めば混乱する。最低限の集団的規律がないからである。
氏はP143で「学部卒のほうが『つぶし』が利いてよかっただろう」とし、大学院卒の方がとっぴな発想を育むことができる、としているのだから、学校教育そのものを否定しているのではない。それならば、学校教育のあるべき姿を提示しなければ無責任である。また家電製品が労働の商品化を推進する、というに至っては荒唐無稽である。氏の家にはテレビも家電製品もないはずはなかろう。それならば、家電製品に騙される大多数の愚かな大衆と自分は違うと言うのだろうか。
学部卒は使い回しされるだけで大学院卒の方が賢いと言っていることと併せれば、農業名人を持ち上げる一方で、平凡な労働者を見下げるエリート意識が垣間見える。これは共産党の前衛政党、という意識と類似する。労働者の前衛とは、労働者は自ら考えることが出来ないから、我ら共産主義を理解するエリートが大衆を指揮し、労働者大衆はそれに従うだけでよい、というのだ。マルクスは労働者階級が支配階級になるべきであると主張したが前衛などとは言わなかった。後世の共産主義者はそこに「共産主義の前衛」という言葉を発明して、共産党幹部が政権を奪取する理論的根拠にしたのだ。共産主義国ではどこでも一党独裁となる根拠はここにある。
小生はかつての伝統農家出身で古い農業と古い農協しか知らないから、本書には示唆されることは多い。多年農業関係者と接触してきた著者は、さすがに既存の農業関係者に幻想を抱かず現実を見ている。しかし、一方で共産主義的偏見に基づくと思われる意見も見られる。P47に「戦前は欽定憲法のもとで・・・」と書くところなぞは、GHQの指示による教育にも従順である。米国の作った憲法を「民定憲法」というのであろう。また放射線被害については、警鐘を鳴らすあまりに、結果的に風評被害に加担することになるように思われる。原発事故以来、人体についても農産物についても放射線被害について非科学的な言説が飛び交っている。著者には農産物の放射線汚染について科学的な検証をし、風評被害をなくし、福島の農家を救っていただきたい。
結論から言えば氏の理想とする農業だけでは日本の農業が成立することは不可能な事は明白である。なぜなら一貫して、日本農業はごく一部の特別な能力ある者にしかできないものであるべきだと主張しているが、そのような農業ではバランスある農業生産品を育てることはできないし、特殊技能者は極わずかしか育てられないからである。だから、この本のタイトルは「自分の言っていることは正しいが、それが実践されたら日本の農業は絶望的である」、という意味をこめたものであると理解できる。