毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

文学賞とは何か

2016-04-30 15:29:26 | 芸術

 石原千秋早稲田大学教授が平成28年4月24日の産経新聞に、興味深いことを書いている。文学界新人賞の円城塔が「万人を圧倒する小説を目指す人はそれでよいが、小説の傾きを自覚する人は、選考委員の顔ぶれをあらかじめ見て、最低限対策するくらいのことをしてもバチは当たらないのではないか・・・」と書いているのに対して「僕を意識して書けば、推してあげるからね」ということか。何様だと思っているのだろうか、と揶揄する。

 石原氏も、「選考委員対策をして受賞したら自分の書きたいように書くぐらいのしたたかさがあってもいい」と言う趣旨のことを書いたが、しかし、それを選考委員自身が書くものだろうか、として、これは円城塔の人格の問題だけではすまされない、とまでいう。

 さらに選考委員たる作家は選考委員としてはストライクゾーンは広くしておくべきだが、作家はそれが出来ないのだろう。それなら複数の文学賞を一人の審査員が掛け持ちすれば、どの賞に応募しても、同じ基準で選ばれたらたまったものではないから、掛け持ちしないか、させないことである。ところが、現に掛け持ちしている何人かの作家がいるから「この人たちには社会人としての節度を求めたい」と辛辣である。

 石原氏の指摘は、「賞」の選考の一般論として正しいと思われる。だが、これが芸術に適用されていることに、奇異を感じる。作家はなぜ小説を書くのだろうか。なんだかんだ言っても、小説はどんなジャンルにしても、広い意味でエンターティンメントである。読者を楽しませるのである。ノンフィクションのように、真実を追求するのではない。

 小説家が相手にすべきは、評論家でも文学賞の選考委員でもない。読者であるはずである。小説家が文学賞を欲しがるのはなぜか。ベテランならば名誉であろう。新人ならば、名声により今後の作品を売り出しやすくすることであろう。石原氏のいうのは、内容からして、対象となる作家は、ベテランではなく、新人だとか無名の作家のことだろう。

 だから彼等は、出版社に採用されるチャンスを欲しくて賞が欲しいのである。石原氏の言う通りだと、作家は作品は選考委員の好みに合わせて書き、選考側は受賞のチャンスを広げてやることが必要である、というのである。結局、次代のニーズだとか読者の好みと言うのは反映されなくなる。

 小生は小説が時代のニーズを反映して、面白いエンターティンメントになるのは、結局読者の購買意欲による淘汰だと思っている。しからば文学賞の選考委員と言うのは何者か。既に何らかの権威を持っている者である。権威を持っている者は、小説家であろうと文学の評価基準が保守的になっていると思うのである。

 つまり時代のニーズに鈍感な人物である、というのが一般的であろう。そこで皆が皆、文学賞を目指して小説を書いているのでは、面白い小説と言うのは減る。だが、現実には、はなから文学賞など諦めて、売れることに徹する作家も多いのであろう。そうならば、小説もすたることはない、と思うのである。

 ところが、小説の世界では戦前にはなかった現象がある。小説をテレビドラマの原作にすることである。昔から有名な小説を映画化する、ということはあった。近年の風潮は、作品が有名であろうと、なかろうとテレビドラマ化したら面白いだろう、という作品を選ぶのである。

 最近、池井戸潤氏の作品がテレビドラマ化されて当たっている。するとテレビドラマで人気が出た、という事でドラマの主人公の写真入りの本が書店に並ぶ、といったいわゆるコラボができる。池井戸氏は有名だが、コミックで大して有名でないものが、ドラマやアニメ化される、ということも珍しくない。つまり、小説やコミックがテレビドラマの原作の供給源ともなっている。

 文学賞の選考委員の多くが、権威ある作家である、というのは不可解に思う。鑑賞眼の良し悪しには関係なく、小説の売れ行きを決めるのは読者のはずである。いくら賞を受けようと、読者の好みでなければ、いずれ売れなくなる。それなら最近話題になった、書店員が売りたくなる「本屋大賞」の方が余程ましではないか。売って読者に面白かった、と言われそうなものを選ぶからである。土台、文学賞などというものは、肝心の読者にはどうでもいい存在になりつつあるのではないか。


沖縄の基地問題考

2016-04-24 15:00:34 | 歴史

 保守陣営は沖縄基地問題を日米同盟の必要性の観点から語る。それも間違いではないのだが、本質はそこにはないと思うのである。大東亜戦争とその後の経過から米国は支那本土への足がかりを失った。その代わり在韓米軍と沖縄を得た。返還前の沖縄での米国の施策をみれば、米国は沖縄を信託統治領のようにして、永久に保有するつもりだったと考えられる。

 何万人もの犠牲で得た沖縄を返すつもりはなかったのである。「太平洋戦争」は米国の正義の戦争であり、領土を増やす目的ではない、という米国の建前を逆手に取ったであろう佐藤政権が、沖縄返還に成功したのは、世界史上の奇跡であったとしか考えられない。

 敵対する支那大陸政権に対するバッファとして、在韓米軍は必要である。これを支えるために、本土の基地より自由に使える沖縄の基地重要である。だから返還以前と同じ条件で基地を使える、という妥協点で返還に応じたのであろう。繰り返すが沖縄の基地は米国の立場からすれば多くの犠牲の上に得た、「領土」である。マクロにみれば日本本土にしても似たようなものである。

 安保条約と在日米軍は日本の軍事的自立を防ぐ「ビンの蓋」だと言うのは、米国の本音であろう。だが同時に日本を失えば、米国はアジアにおける最大の橋頭保を失う。また、日本の軍事的外交的自立なしに、米国が日本から撤退すれば、東アジアは大混乱に陥る。

だから日本がいやおうなしに、米国との同盟を続けざるを得ないようにするためにも、護憲勢力の存在は米国にとって必要不可欠である。護憲勢力とは、実際的にはかつてはソ連に利用され、現在は中共に利用され続けている。

しかし日本の軍事的自立を防ぐために、米国にも利用されている。軍事的自立は外交の自立を意味する。しかし護憲勢力は、戦争はこりごりだ、という以外は無思想である。小生は沖縄や本土の米軍基地の存在の現実を述べているのであって、善悪について述べているのではない。


書評・蒼海に消ゆ・祖国アメリカへ特攻した海軍少尉「松藤大治」の生涯・門田隆将

2016-04-17 16:21:34 | 大東亜戦争

書評・蒼海に消ゆ・祖国アメリカへ特攻した海軍少尉「松藤大治」の生涯・門田隆将

 本論に入る前に一言する。門田氏は本書以外でも「大東亜戦争」ではなく、「太平洋戦争」と書くのを常としている。小生は太平洋戦争と呼ぶ日本人を、東京裁判史観の影響から脱し切れていないと判定している。氏は多くノンフィクションを書いているが、戦史が主ではないからかも知れないが、本書の内容が申し分ないものだけに残念に感じる。

 ところで、以前「神風特攻隊員になった日系二世」という本を読んだのを思い出した。改めて、その本を手にしてみると、著者の今村茂男氏こそがタイトルの二世で、自伝でしかも英語で書かれたものを、他の日本人が翻訳したものであった。今村氏は志願して特攻隊員になったものの出撃せず、人生を全うしている。

 本書の主人公は二十三歳で特攻隊員として出撃して戦没している。若くして亡くなりながら、短い人生をせいいっぱい生きたことがよく書かれているが、その点は読んでいただくしかない。そこで、本書に書かれた意外な情報を少しだけ紹介する。従って書評にはなっていない。主人公松藤と同じく日系二世で、日米の二重国籍を持つタンバラ氏は戦時中一度だけ特高警察に呼び出された(P171)。

国籍を聞かれるから「アメリカです」と答えると、親はアメリカに住んでいるのか、と聞かれ「はい、私はアメリカ人です。」と答えると、取り調べはそれで終わったというあっさりとしたものだ。戦後流布されている伝説からすれば、とてつもなく意外である。鬼のような特高警察なら、アメリカ人と知れば、厳しく取り調べ、その後も監視されるのであろうという想像をしがちである。我々はいかに、日本人に対する悪意に満ちた情報に囲まれているのか。

それどころか、タンバラ氏は戦時中に普通に東京に住み続けていたというのが、事実である。松藤は二重国籍の日本人として、学徒兵で徴兵されたが、アメリカ国籍である、ということで拒否することができたのだそうである。現にタンバラ氏は早稲田の経済に通っていたが、徴兵されていない。文系なので学徒の徴兵猶予の対象ではないのである。

二世の仲間から一緒に海軍に入らないか、と誘われると「何を言っているんだ、頭がおかしいんじゃないのか?」と答えたそうである。その後大学を出て日本の電機関係の会社に就職した。戦時中の日本人はかくもおおらかだったのである。米英では学徒出陣などと言う大仰なものはしていないが、それは自ら休学して志願した学生が多かったからである。彼等は強制されなくても、エリートの義務として自発的に出征したのである。

この意味で、米英の方がこの時代は、より軍国主義的だったのである。これは悪い意味で言うのではない。国民に総力戦と言う自覚ができていて、積極的に戦争協力したのである。アメリカが日系人を全員強制収容所に入れたのは知られているが、本書では「全部監獄に入った(P280)」と証言されている。

松藤の弟リキはアメリカ人だとして、強制収容所を出ることができ、ナイトクラブでミュージシャンとして働いたが、マネージャーが危険だからと「君は今日からディック・ウォングだ。君は中国人だ」と言ったそうである。リキは「お客さんは全部白人だし、私も日本人とバレたら怖かったよ(P281)」と証言した。日本国内の大らかさに比べ、米国内の人種差別のひどさが想像できる。

ちなみに先のタンバラ氏は、特高警察に調べられている。戦後では、一般市民を憲兵が取り締まるようなことが書かれたり、映画等になっているものがあるが、ほとんどは嘘である。憲兵はmilitary policeすなわち、軍隊の警察であるから、取り締まり対象は軍人である。特高警察に調べられた、というのは証言が事実であることの傍証である。

海軍兵学校出の宮武大尉や田中中尉は特攻の際に、自ら部下を率いて突っ込んでいった(P218)が、これは例外で、兵学校出でこのような人は少なかったという。それどころか、皆を送り出して自分は芸者遊びばかりして、あげくに戦後航空自衛隊の幹部になった兵学校出の人物さえいたという。

海軍兵学校出身の幹部に武人というより、官僚というにふさわしい人物を多く見かけるが、やはり兵学校の教育や選抜方法に問題があったのだろうか。鍛錬自体は相当に厳しかったはずであるが。もちろん山口多聞のように、武人と言うにふさわしい人物もいたのであるが。


書評・官賊と幕臣たち~列強の侵略を防いだ徳川テクノクラート・原田伊織

2016-04-14 16:25:47 | 維新

書評・官賊と幕臣たち~列強の侵略を防いだ徳川テクノクラート・原田伊織

 意外な着眼点で反響が大きかった「明治維新という過ち」の続編であろう。氏の人物評価の癖などについて気になる点があるのと、マクロに見た結論に疑問があるので書いてみるが、本書の本質には触れていないのはご容赦願いたい。。

 筆者は人物の出自と人物評価を関係づける傾向が強いように思われる。出自と人物評価の因果関係を説明しないから、納得しがたいのである。例えば「土佐の坂本龍馬という、郷士ともいえない浪士がどういう人物であったかについては、幕末史を語る上でさほど意味のあることとは考えられない・・・(P250)」という。郷士とも言えない浪士、と身分が低いことを明らかに侮蔑的に述べるのはいただけない。

 井伊直弼暗殺を批判するのは、筆者が井伊が彦根育ちだからだけだ、といわれたそうである(P201)。これに対して、彦根の歴史的経緯を詳しく述べ、その結果として筆者の少年時代は、もともと浅井領内の者であるという意識があり、井伊は「憎っくき敵であった」のであって、彦根育ちだから、というのは屁理屈だという。確かにその通りだが、井伊が彦根を治めたことを口実に批判するのと、氏が浅井領内の者意識があったことだけを以て反論するのは、屁理屈を言った者と同列の屁理屈で反論しているのに過ぎない。

 出自によって思想が影響されている、ということはあるのに違いない。しかし、それを指摘するには、因果関係を説明しなければならない。説明できなければ、仮説に留めておくべきであろう。

 「日米戦争を起こしたのは誰か」と言う本には、「アメリカ人を論ずる場合、そのエスパニック・バックグラウンドを正確に見ておく事が必要である。」と述べ米軍のウェデマイヤー将軍が父はドイツ系、母はアイルランド系であるとして、将軍の主張が単純に血脈か生じたのではなく、「・・・このような背景から生まれ育っていなかったならば、イギリスやドイツを冷静かつ客観的に評価することはできなかったであろう。」と述べ更に出自と将軍の主張との因果関係を検証している。本書にはこのような観点が欠けている、と小生は言うのである。

 氏は薩長のテロの凄まじさをことあるごとに強調し、単なるテロリスト集団だと断言する。しかし、それは日本史の上から見た比較であって、欧米の変革期に行われたテロや粛清、といったものに比べればものの数ではない。米英仏はもちろん、スターリンや毛沢東が権力奪取や権力維持のために行った、テロや粛清は質、量ともにもの凄いものである。氏は、現代日本人の倫理観で当時を見、諸外国との相対的比較というものも忘れている。現にロシアや中国では、政権によるテロが、今も行われている。

 目明しの猿の文吉を殺した残忍な手口を描写しているが、日本では例外である。現に西欧の書物には、処刑の手段として同じ手口が図版で描かれている。つまり例外ではなく、標準的処刑の手段のひとつだったのである。同じことをしたにしても、この差異は大きい

 大東亜戦争の評価について、「・・・薩長政権は、たかだか数十年を経て国家を滅ぼすという大罪を犯してしまった。(P184)」とか「・・・大東亜戦争という無謀な戦争であった。(P8)」というから大東亜戦争の全否定である。父祖の苦闘を無視して、断罪する姿勢には大いに違和感がある。それに、明治以降藩閥打倒が呼号され、薩長政権色は消えていった。昭和初期の大物政治家にどの程度薩長閥があったというのか。

維新政府は薩長閥であるにしても、その後大きく変質していき、裏で薩長が糸を引いていた、という痕跡もないのである。大東亜戦争の頃の人材を見よ。東條英機、米内光政、山本五十六といった著名人は、全て薩長出身ではない。

 垂加神道を持ち出して「・・・後のテロリズムや対外膨張主義が示した通り・・・(P195)」と言って、日本は明治以降、対外膨張路線を走って、結局は大東亜戦争で破綻した、というのである。日本が清国、ロシア等による侵略の危機に対して戦ったとは考えない。これは姿を変えた東京裁判史観である。

 また、オランダが昭和になってヨーロッパの中でも有力な反日国家になったのは、大東亜戦争時の捕虜の扱いばかりが原因ではなく、文久三年にオランダ軍艦を砲撃して、4名を殺したこともきっかけになっている、というのだ(P229)。だがこの時同じく砲撃されたアメリカやフランスは報復攻撃を行い、オランダが参加しなかったのは永年の友好国だったからではないか、と言うのである。

 これは、全くの間違いではないにしても、長州のテロ行為を際立たせる手法であるように思われる。なぜなら、オランダが戦後日本の捕虜を最も過酷に扱ったのは有名で、その原因は蘭印(インドネシア)に侵攻する日本軍に簡単に敗れ、インドネシア人の前で恥じをかかされたことが大きい、という面が忘れられている。

 またオランダは旧植民地の再植民地化に欧米諸国では最も熱心で、長い独立戦争で80万人のインドネシア人を殺した上に、独立の代償に賠償金まで取った。独立に大きく寄与したのが、日本の支援で成立したPETA(郷土防衛義勇軍)や残留日本兵、日本軍の兵器であった。反日の最大の原因はこれらの敗戦やインドネシア独立への二本の貢献であろうと思う。また、オランダ軍の捕虜の扱いは日本軍の誇張されたそれより、遥かにひどいものであったことには言及しない。これらのことは、やはり氏が東京裁判史観に囚われている面があるとしか思われない。

 以上閲したように、本人は全くそんな意識はないのだろうが、マクロに見るといわゆる東京史観、すなわちGHQが日本を断罪して、あらゆる手段で日本人の歴史観を洗脳した目標に合致した思想を、結果的にであるが筆者が持っていると言う結論になる。それどころか、GHQは満洲事変の以降の日本の対外政策を断罪しているのに対して、氏は維新以来日本は一貫して対外膨張を企図し、そのあげく大東亜戦争の敗戦になったと言う、より徹底している考え方である。

 司馬遼太郎が、日露戦争までの日本を称揚しているのは、せめて日本の歴史の全否定から免れ、日本人に勇気を与えているのは間違いない。なるほど昭和史を罵ってはいるものの、それを具体的に書いた小説は残してはいない。司馬氏が称揚した維新以後の部分は、読む者に、司馬氏が罵った時期の日本を肯定する結論に至らせる余地は大いにある。

 なるほど坂本龍馬は実像より大きく評価され過ぎているのであろう。そしてグラバーなど英国に使われたのも事実であろう。しかし、幕府がフランスの傀儡にならなかったごとく、維新政府は英国の傀儡ともならなかった。薄氷を踏むが如くにして、政治の変革は成功した。

 維新政府が英国の力で作られ、英国は利用しようとしていた、というならば、一旦は日英同盟を結びながら、日本が反英に急旋回したことはどう説明するのだろうか。氏によれば幕末から敗戦まで、薩長政権は一貫した対外政策を持っていたごとく言うから、こう批判するのである。

 維新政府は徳川幕府のテクノクラートを多く採用しているのは、薩長政府に人材がいなかったため、使わざるを得なかった、と言う。しかし、戦争が終わって敵方の人材を活用するのは、一種の日本の伝統であり知恵である。それは、将棋の駒が相手に寝返るという世界的に例外的なルールを持っていることに、よく喩えられるではないか。

大きく見れば日本は総力を挙げて闘ったのであり、人材の有効活用は良いことではないか。現に徳川幕府のテクノクラートを活用したのは薩長政権であり、維新後30数年にして、日露戦争に勝利する力をつけている。

 また、氏は英国の対日侵略意図に言及するが、倉山満氏によれば、英本国にとって清朝は征服の対象だが、日本などは視界にも入らない存在だった(嘘だらけの日英近現代史P167)のである。パークスやグラバーなどの出先が勝手にやったのであって、本国の意図ではない。薩長に武器を輸出したのも商売に過ぎない。もちろん隙あらば英仏の餌食になった危険もあるが、それは英仏の企図したことではなく、チャンスがあれば、ということである。

欧米の侵略は相手が対応を間違えたき、機会があれば実行した、という計画的ではない機会便乗の面も多い。その意味で日本はうまく立ちまわったのである。不完全であるにしても、ともかくタイも、そのバランスの上で一応の独立を継続した。日本はそれ以上に経済力軍事力を充実させ、単に欧米に伍してうまくやる以上に、欧米植民地の解放と言う世界史上の奇跡を起こした。それが大日本帝国の滅亡と言う途方もない犠牲を払ったにしても、である。

戦争は勝たねばならない。しかし、大東亜戦争に突入した日本には、戦争回避という選択肢はなかった。大東亜戦争の戦略の失敗を反省する必要はあるにしても、戦争したこと自体を現代日本人に批判する資格はないと思うのである。

小生は原田氏の著書の欠点を指摘しただけで、全否定する意図は毛頭ない。それどころか、氏により指摘された多くの新しい視点は、維新史の見直しに大いに役に立つとさえ思っている。


ゼロ成長の時代

2016-04-09 15:12:28 | 政治経済

ゼロ成長の時代

 経済は成長し続けなければならないものである、というのは一種の定理のようなものである。およそそんなことを聞いたことがある。現に日本の経済関係者は、現在の経済成長の少なさを問題にしている。しかし、平成28年4月6日の産経新聞の正論に榊原英資氏の「先進国が迎えたゼロ成長の時代」という論説が載った。論旨は、欧米の近代資本主義諸国は、覇権国は戦いにより入れ替わったが、フロンティアを開拓することによって、高度成長を続けていた。だが20世紀末までの成長に比べると、21世紀には先進国の成長は止まった。

 原因は先進国のフロンティアであったアジアもアフリカも、世界経済の重要な一部となり、フロンティアではなくなったこと、産業においても開発しつくされて、フロンティアとしての新たな分野が開拓されることもなくなった、という。結論はゼロ成長を容認し、「豊かなゼロ成長の時代」となるだろう、と言うのである。

 小生は結論には賛成である。冒頭のような成長の原則については、以前から疑問を持っていた。ただでさえ差のある先進国と発展途上国間で、先進国が発展途上国を引き離して、さらなる経済成長を続けるのに無理がある、と思うのである。だが榊原氏のフロンティア論は肝心な点が省略されているし、日本のケースは、西欧とは異なると言う点が無視されているように思われる。

 近代資本主義の始まりは16世紀からだとしているが、この時代からは西欧の植民地拡大による侵略という搾取によるものであり、フロンティアなどという綺麗な言葉とは程遠いものである。西欧諸国は植民地では暴虐の限りを尽くした。そのことを日本人は忘れてしまった。英国はインドで紡績職人の手を切り落としたのは有名な話である。そして第二次大戦後、植民地が急速に消滅すると、旧植民地は貿易相手や労働力供給と言う立場で、先進国の成長を支えた。植民地時代に比べれば、よほどましになった。

 その後、旧植民地が世界経済のプレーヤーとして参加すると、先進国のフロンティアではなくなった、というのは榊原氏の言う通りである。日本の場合には、欧米諸国の場合とは異なる。開国以来、近代資本主義社会に参加しても、植民地搾取により利益を上げることはなかった。むしろ、朝鮮、台湾などと領土拡大はしても、投資してかの地の近代化に奉仕したのである。この時代の日本の成長は搾取ではなく、自助努力であった。

 戦後はまた異なる。高度成長期は欧米諸国とのコスト差と、技術力の蓄積で成長を続けたのである。欧米諸国にキャッチアップすると、その後は戦後の欧米諸国と同様に開発途上国を利用したのだが、結局は欧米と同じく低成長に陥ったというのも榊原氏の言う通りである。

 また、「産業分野においてもフロンティアは開発しつくされ、新たな分野が大きく花開くことはなくなってきて」いる、と断定するのは早計に過ぎるように思われる。技術の進歩と飛躍は今後も続くと思うからである。ただ直観であるが、大きな経済成長に貢献するような、技術の飛躍と新たな産業分野が出現することはないように思われる。ただし「豊かなゼロ成長の時代」に貢献する新技術は現れると思う。


田中角栄は天才か

2016-04-04 16:01:58 | 政治

 平成27年4月1日の夜のバラエティー番組で、石原慎太郎の近著「天才」をネタに田中角栄論を放送していた。もちろん石原慎太郎本人もメインゲストとして出演した。田中角栄の金権政治批判をして、晴嵐会を作り田中に永年造反してきた石原が、このごろ田中の偉大さを実感してきた、と言うのである。

 田中が議員立法を多数行い、そのため六法全書を全部記憶したという、努力と頭脳の優秀さや、人間としての魅力を紹介するエピソードには欠かない。高速道路網や新幹線整備への貢献や、リニア新幹線まで予測する、といった先見性も驚異的である。田中は批判されるような、単なる地元利益誘導型だけの政治家ではない

 確かに国を富ますのは政治家の本領である。だが国政は経済ばかりではない。倉山満氏は、戦争に勝つのは国家の責務であり、勝つには経済が必要だと述べている。国防が経済に優先する、というわけでもない。だが、国防すなわち、外交も経済とともに国政の本領である。この番組でも田中の外交上の功績として日中国交回復を取り上げたが、意外に短かった。

 日中国交回復により、日本から大量のODAを得て、現在の経済大国中共がある。その経済力は、結局軍事に投資され、東アジア諸国と領土領海問題で激しい軋轢を起こしている。確かに軍事は経済に支えられ、それが外交力になる。中共は倉山氏の言を証明しつつある。番組が日中国交回復の功績をわずかしか取り上げなかったのは、石原なら、その害を批判するからであろう。そもそも石原が深くかかわってきた晴嵐会は、日中国交回復に伴う、台湾との断交に絶対反対の立場をとってきた。だから、石原が出演して居たにも拘わらず、台湾問題に触れなかったのは奇異な感じさえした。

 田中は経済で成功しながら日中外交で失敗したといえよう。その影響が今日の日本に与えているものは計り知れない。北朝鮮問題も煎じ詰めれば、対中問題である。多くの西欧諸国も対中外交で失敗しているから、対中不見識は、田中だけではない、という言い方もあろう。何とイギリスが中国製原発を導入することになったのだ。AIIBという詐欺まがいの金融機関に欧州諸国は加担しようと言うのだ。

 アメリカは戦前、莫大な資金を支那大陸に注ぎ込み、何の利益も得なかったのに、また対中投資に熱中している。だが西欧と日本と異なるのは、地政学的問題である。欧米は支那と遠く離れ、少々のトラブルがあろうと、直接の被害は少ない。日本は西欧と異なり、永遠の隣国である。だから維新開国直後から支那には悩まされ続けている。松井将軍のように、日支提携して西欧と対峙し、アジアの安定を図ろうとした。

松井は誠実であった。松井の誠実に支那は謀略で答え、「南京大虐殺」の濡れ衣をきせて、謀殺した。支那は松井や田中の思うような支那ではないのである。そのことは、隣国として維新以来、現在まで骨身にしみているはずである。戦前は軍人ばかりでなく民間人まで多数虐殺され、現在でも対中投資した企業の財力がむしりとられている。

田中が政治の天才ならば、経済ばかりではなく、外交も分からなければならない。ことに中共、ひいては支那の本質も知って居なければならない。その点で田中程の頭脳が経済にしか生かされていなかった、というのは残念な話である。田中がロッキード事件で失脚したのは、米国の逆鱗に触れたため、と言われている。

本当だとすれば、外交より経済を優先したからである、ということではなかろうか。だがこのことは、一人田中の欠陥ではない。戦後の外交は戦前より劣化している。日本人の頭脳は同じであるとしても、戦後は外交を軍事なしに行う、というハンデを背負っているからである。だが、その責任は敗戦から70年以上たった今、我々日本人自身にある。

 


書評・世界史から見た大東亜戦争_アジアに与えた大東亜戦争の衝撃・吉本貞昭

2016-04-02 14:57:45 | 大東亜戦争

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 副題から分かるように、大東亜戦争が、アジア各国に独立ばかりではなく、その後の国家にも与えた影響を各国ごとに詳しく述べている。類書もあるが比較的丁寧に書かれた方であり、辞書的に読むこともできるだろう。西欧列強の世界侵略のスタートから初めて、幕末から日露戦争までが、前史として書かれているのは、一見蛇足だが、全体の流れを考えると納得できる。

 そのなかで、いくつか初めて知ったことを紹介する。マゼランは太平洋を横断しフィリピンに達して、セブ島のマクタン島で原住民と戦って死ぬが、日露戦争以前で白人に有色人種が勝った、最初の戦いなのだそうである。そこでセブ島では、この日を記念して毎年「・・・マゼラン撃退の記念式典や模擬戦闘を行っているという。(P22)」いつから始まったか書かれていないが、アメリカ大陸「発見」などという言葉に最近異議が唱えられているのと同様、よい傾向である。

 日本は清国と朝鮮の独立と改革について争ったのだが、欧米列国の公使に対して、朝鮮の中立化のための国際会議を提案していたが、清国から琉球問題を持ち出されて、頓挫した(P84)というのだが、いい発想である。ただ、当時は清国の力が大きいとみなされていたから失敗したのであろう。日清戦争に勝ったから、この構想は現実化しそうだが、清国弱しとみたロシアが南下して来たのだから、日清間の調整がうまくいっても結局はダメになったのであろう。

 日清戦争の日本の勝利は、フィリピンの独立の闘士のアギナルドにも刺激を与え、日本の国旗や連隊旗を真似た革命軍旗を作って戦った(P97)のだが、日露戦争以前に日本の勝利に勇気づけられたアジア人はいたのである。

 司馬遼太郎が、乃木大将を無能よばわりしていたことが間違いであった、という説は最近定着しつつある様に思われるが、本書でも「第三軍が強襲法」をしたことで、無駄な戦死者を出したと批判する司馬に対して、乃木が坑道戦術に切り替えたのは、ヨーロッパで同じ戦術が広く使われるようになったのは、10年後の第一次大戦中盤からであったから、乃木の戦術転換は「かなり先進的なものであった(P112)」のだそうである。二百三高地などの映画でも、坑道戦術が描かれているが、画期的なものとしては描かれていないが、やはり戦史を確認しなければならないのだろう。

 シンガポールのファラパークで、五万人のインド兵に対して、F機関の藤原機関長がインドの解放と独立を呼び掛ける演説をしたが、INAを裁くデリーの軍事法廷で、弁護側が最も活用したのが、このファラパーク・スピーチであった(P244)のだが、インパール作戦とともに、インド独立にいかに日本が貢献したか、の証左である。インパール作戦が悲惨な面ばかりではなく、インド独立に貢献したこと大である、と日本で公然と語られるようになったのは、そんなに昔からではない。

 南機関はビルマ独立義勇軍(BIA)を編成して、日本軍とは別行動でビルマ領内に入ることを、第十五軍に協議したのだが、機関長はビルマで徴兵、徴税、徴発をしながら進むと主張した。軍はこれらは住民に迷惑をかけるからと反対した。BIAがビルマに入れば徴兵しなくてもどんどん人は集まると説得したが、徴発に対してはあくまで反対で、軍票をやるから勝手に徴発するな(P324)と言った。誠に日本軍は軍規厳正だったのである。

 大東亜会議は重光葵が東條首相に提案した、という事になっていると思う。少なくとも日本人自身の提案だったと考えられている。ところが本書によれば「・・・この国際会議は、東條首相がフィリピンを訪問したときに面会したマニュエル・ロハスの発案によるものであった。(P511)」というのである。これはチェックしてみたい。

 ちなみに不思議なミスが1か所ある。山下奉文将軍の名に「ともふみ」とルビをふってある。「ともゆき」と読むのであることは、大東亜戦史を少しでもかじったことがあれば知っている。だから筆者のミスではないかも知れない。ちなみに歴史書で、最近西郷従道の名前を「つぐみち」とルビをふってあるのを見て意外に思ったのと同じである。もちろん「じゅうどう」である。

 谷干城にも似たような話がある。戸籍上の名前は「たてき」なのだが、本人も国家干城の意味から「かんじょう」の読みを好み、子孫もそう読みならわしている(谷干城・小林和幸)そうである。もっとも西郷は名前の読み方に無頓着で、どう呼ばれても間違っているなどと言いもしなかったそうだから、うんちくを述べる小生の方がせこいのである。だから本書のミスも本質的なものではないから、どうでもよい。