毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

日本の思想の分裂

2020-05-11 16:05:11 | 自虐史観

 日本では、反日左翼だとか、右翼だとかいう思想の大分類がなされている。これは明治維新以降、ことに米軍に占領された以後の実態からすると、あまりに左右の対立軸だけにとらわれた発想ではなかろうか。

 日本を含む多くの国は歴史的経緯から、単純に左右の対立軸以外のものがベースとして存在する。典型的なのが旧ソ連の支配地域で独立した国々である。例えばバルト三国やウクライナなどにおいては、元々の住民をシベリア開発のために、強制的に移住させた。その代わりにシベリアより環境のいい、これらの国々には、ロシア系の人々が送り込まれた。

 元々は、これらの国々に送り込まれたロシア人とて、好き好んで住み着いたわけではないが、何十年も住み着いて、世代が変われば、もはやそこは自分の故郷となる。従って、非ロシア人の共和国には、何割にもなる、多数のロシア系住民が住み着く。すると彼らは親ロシア系住民となる。多くロシア系住民は、ロシアによって併合された方が良いとすら考えている。そのような人たちが国内に何割もいれば、国論の分裂は当然であり、左右の思想問題ではない。

 このような紛争が現に東部ウクライナの、ロシアとの紛争として現れている。ロシア系住民はロシアから送られた特殊部隊と呼応して、東部ウクライナのロシア併合を画策して紛争になっている。このように単純な思想問題よりも根底に、歴史的経緯に起因する根源的な問題を抱えている国は多いのである。

 ミャンマーのロヒンギャ問題は、英国統治の残滓だから、アウンサン・スー・チー女史と雖も解決は容易ではないのである。実は日本にも歴史上初の外国統治の結果として、大きな思想分裂を起こしている。それは七年間による米国統治による、反日思想がそれである。米国が、マスメディアに対する徹底的検閲によって、戦前の日本は悪の塊であった、という思想をすりこんだ。

 戦前からのノーマルな思想を持つ人物は、公職追放によって、マスメディア、思想界、教育界、政界、財界等から徹底的に追放されたから、教育も報道も、全て日本は悪い国だった、ということがベースとなっている。多くの日本人は、意識しようとしまいとこれらに囚われているのである。これらの事情は江藤淳氏の「閉ざされた言語空間」などの一連の著書で明らかにされている。

 社会人になったばかりの頃、戦前生まれの人生の大先輩の知人から「手紙と言うのは皆開けられて検閲されているのだよ」と聞いて驚いた。戦前に検閲があったとは聞いたが、マスコミの話であろうと思っていたのである。この先輩はあたかも現在も私信の検閲が行われているごとくの口振りだったから呆れた。この先輩は、届いた手紙が開けられた形跡があった記憶があったのであろう。このような私信の検閲については、生活に窮して私信の検閲をさせられた人の著書に詳しい。かの先輩は、かつての経験から戦後何十年たっても、私信に検閲があると信じていたのである。

 このようにして、GHQによって日本の思想の基層は歪められていった。そればかりではない。戦前からの共産主義運動は暴力革命の地ならしとして、日本そのものを忌避したくなるような思想を注入していたのだから根は深い。かくいう小生自身にしても、これらの思想の歪みは自覚的には知ってはいるのだが、無意識には顔を表すことなしとはしないと自覚している。保守を自称するひとたちにも、思想の基層にGHQあるいは共産主義プロパガンダによる歪みがあることを垣間見ることが多い。それほど日本人の思想の歪みは大きいのである。

 まして、自由な思考をしていると信じている多くの日本人には、意識せずして、これらの思考の歪みがあるのである。大手マスコミ、例えば朝日新聞は、昭和20年9月に、米軍の批判をしたかどで、2日間の発刊停止を命じられて、論調が180度変わったことは有名な話である。このように日本には、というか日本にもというべきか、単純な左右の思想対立よりも歴史に根差す深い思想の歪みがある。

 同じ敗戦国でも、ドイツはうまくやった方であろう。ユダヤ人虐殺は全てナチスの犯罪であって、ドイツ民族の犯罪ではない、という立場を貫いている。ドイツ民族もナチスの被害者なのである。有名な「荒野の四十年」は日本では、ワイツゼッカーによる謝罪の書であるとされている。しかし、同書を丹念に読むが良い。ドイツ民族による謝罪の言葉などは一言半句も書かれていない。それどころか連合国による都市無差別爆撃批判の言葉すらある。ドイツは勝つことにも負けることにも慣れているのである。だから謝罪などせず、いちはやく国軍を復活している。軍需産業も再建著しい。何せヨーロッパで最も使われる主力戦車のほとんどは、ドイツ設計のものなのだから。


生存本能を失った日本人たち

2020-03-21 20:28:11 | 自虐史観

 人間は本能を失った動物だと言われる。動物は本能に従っていれば生きている事ができると言う。獲物の獲り方も、食べる時期も本能が教えてくれる。これに対して人間は欲望に従って生きていれば、自堕落で不健康な生活となり天寿を全うできなくなるというのだ。放っておけば遊び暮らし、好きなものを食べて自堕落な生活を過ごして短命になってしまう。これは動物と違って思考力が極度に発達したのが原因だというのだ。

本当にそうだろうか。ほとんどの人間は、欲望に任せて自堕落に生きていないのが現実ではないか。ほとんどの人間は、食べたいものを食べたいだけ食べ、怠けて暮らせば不健康になってしまう、という事を知る理性と実行力を持っている。あまつさえ、多数の人は敢えて苦しさを克服してスポーツをしている。誰に強制されたわけではなく、楽しみで行っているのである。その結果健康を獲得している。

これは理性のなせる業である。中にはアルコール中毒になって早死にする人もいる。極度に太って歩行すらできなくなる人もいる。しかしあくまでも例外である。そのような例外は本能で生きている動物にすらいるのである。人間の本能を理性を除いた欲望にだけ限定するから物事が分からなくなるのだ。人間の本能は理性を含めたトータルで見なければならないのである。理性を含めたトータルで道具を使い学習して、他の動物にはない進歩を遂げたのである。理性は人間を守る本能の一部であると考えれば良い。

ところで、旧聞に属するが、平成23年10月28日の産経新聞に、東京都教職員組合(都教組)が「竹島が日本領といえる歴史的根拠はない」とした内部資料を作成している事が報じられた。この問題に関しては、以前朝日新聞論説委員が、竹島は韓国に渡せばいいではないか、と書いた事と共通している。竹島は元々韓国の領土ではなかったのは明白なのに、李承晩の時代に占領して実効支配されて現在に至っている。

こんなことが自国に起こればどこの国の人でも、これを不当である、と言う。だが日本にはそう思わない人が例外ではなくいるのである。それどころか都教組ではそれがメジャーな考え方である。すでに実効支配されているから、そんなものはあげてしまおう、あるいは元々日本のものではなかった事にしよう、と言うのは尋常ではない。現に中共は尖閣諸島や沖縄も自国領土だと主張している。機会があれば奪おうというのである。沖縄の次は対馬である。対馬の次は九州である。

このような世界に日本は囲まれているのである。竹島などいらない、という思考は危険である。日本が無限に侵略される危険をはらんでいるのである。彼らはそれに目を瞑ろうとしている。それは領土を自己主張すれば軍隊が必要となる。日本の軍隊は本質的に侵略する軍隊である。こういう思考が絶対的に彼らを支配しているのである。戦争の基となる危険な軍隊に頼るよりは、けちな領土位失ってもいい、と考えているのである。彼らは日本人でありながら日本を守ろうとするのは絶対的に危険であると考えている。

そんな事を考えていれば、自分の寄って立つ国を失う事を世界のいずれの国の人も知っている。幕末以来の日本人もそのために努力してきたのである。それは歴史が人間の理性に教えた教訓である。原始の時代であればともかく、国家のせめぎ合う現代では、国家なしに諸外国から日本人は保護されないのである。自分は国家などには保護されてはいない、という考え方をする資格のあるのはチベットやウイグル人のように異民族に侵略されて隷属させられている民族だけである

中共のような古代から変わらない帝国と異なり、日本は「国民国家」でありながら自国政府を否定し領土を否定する日本人が多数いるのである。自分を保護する国家を否定する危険な思考。これはまさに理性の崩壊である。人間の本能の崩壊である。国に守られ国を守るという、自分自身と子孫の生存するための本能の否定である。本能の崩壊である。それでは彼らは自分はあらゆる他人の犠牲になってもよい、というお人よしではない。そうではない。都教組の活動家は都教組を守るためには嘘や詭弁をも平然とする。朝日新聞の論説委員氏も同様である。自分の直接所属する組織は日本国よりも大事なのである。

冗談ではない、朝日新聞や都教組が潰れても日本人は生き残る。日本国が崩壊したら朝日新聞や都教組が生き残ることに何の意味もない。彼らはそんな世界共通の本能を失っている。彼らは生存の本能を失っているのである。そんな人たちが例外ではなく大勢力を持ち、政治にも影響を与えているのが日本の現状である。日本は国家生存の本能を失わんとしているのである。その理由は自明であろう。

日本は侵略を行う好戦国家であり、それ以外の国は侵略しない良い国家であると書いた憲法。マスコミを多年にわたり検閲して日本が明治維新以来、いかに苦労して西欧の侵略と戦った事を隠して侵略戦争ばかりしていると報道させた米軍の支配である。日本の正当性を説明する日本人を公職から追放した。このように日本を貶めるあらゆる行為をした占領米軍の恐ろしい行為によってである。日本民族は生存本能をなくすように洗脳されたのである。

その結果は不思議な事に人為的に洗脳されたのではなく、自発的な思考であると思い込むようになった。もっと恐ろしいのはこれら本能を失った日本人のしている事である。例をあげよう。イギリス人の書いた紫禁城の黄昏、という本が岩波文庫にある。しかしこの本には原著の1章から10章までと16章を全部カットしている。その理由は「主観的な色彩の強い前史的部分」だからだと訳者は説明している。ここに書かれているのは清朝が漢民族ではなく、満洲族が建国した国家であること、満洲族の最後の皇帝が王朝を再建する事を望み、満洲族に王朝再建運動があった事が書かれているのだ。これは正に当時の日本の行為の正当性を主張する部分である。それを意図的に削除したのである。

英語ではthe last personと書けば、絶対にそういうことをする人ではない、という意味である事は高校生でも知っている。ところがこの本ではこの構文を使っている文章を「皇帝は蒋介石と張学良には絶対に頼らない」と訳すべきところを「皇帝が一番最後に頼る人物は蒋介石と張学良である」と日本語に書けば逆の意味になるように訳している。このような大著を訳す英語に精通した人物が典型的な誤訳をしている。正確には誤訳ではなく、嘘を書いたのである。彼らは洗脳された結果このような卑劣な行為をしても、結果が正しければ良いと確信しているのである。彼らは自分の教えられたことに反する事実が出てくると、このように隠ぺいしたり、嘘をついたりするのは平気である、という倒錯した状態にある。彼らは米軍の統制によって作られた歴史に反する事実の出現に本能的に拒否反応をおこすほどに完全に洗脳されてしまっているのである。これが生存本能を失った日本の現実である。


自ら犯した、鬼畜の残虐行為を公言する恐ろしい人たち

2019-08-10 19:47:43 | 自虐史観

 講談社現代新書の「七三一部隊」にこんな記述がある。旧日本軍の元軍医の証言である。元軍医は石井機関のメンバーではなかったが、三年半の間に十四人の中国人を生きたまま解剖し、手術の練習台として殺したというのだ。
 「 ・・・今思って異様なのは、その場にいた皆が二人の中国人を見てニヤニヤ笑い、普通の顔をしていたことだった。・・・
・・・一人はもしかしたら八路軍の兵士だったろう、堂々として悠然と自分でベッドに横たわった。部屋の中には手術刀、ノコギリそれにメスなどがあり、自分の運命は分かっていた。彼の心の中は日本に対する憎しみで溢れていただろうが、自分たちは皆、日本軍の威厳に八路軍の兵士が屈したと変な満足感を憶えていた。その彼の胸を開け、内臓を次々に取り出していった。
もう一人は本当に近所の農民だったろう、ベッドに行こうとせず、「アイヤー、アイヤー!」と泣きわめいた。看護婦は「麻酔する、痛くない」と下手な中国語で言い含め、麻酔を打った。その時、彼女はニヤと自分を見たのだった。それは自分を仲間と思ってなのか、それとも軍医さんは度胸がないねと思ってなのか、その意味は分からない。一度やるともう平気になる。三回目は進んでやるようになった。」

これが元軍医の証言である。彼は筆にするのもはばかれる残忍な行為をしたのである。ところがこの本の著者はこう書く。

筆者は、こうした体験をこれまで人前で話し続けてきた湯浅を尊敬している。」

と言うのだ。そして元軍医は当時の心境を次のように語ったという。

罪の意識はないんですよ。悪いとは思わないんですよ。だって天皇の命令で、その時信じてやったのだし、勝利のためなんだから悪くないんだと、細菌だっていいんだと私は思ったし、石井四郎に尊敬の念を持ったんですから」

 私には、元軍医の言葉も筆者の意見も到底受け入れられない。元軍医は任務とは言え鬼畜と言うべき残虐行為をした人間であり、BC級の戦争犯罪者(戦時国際法の違反者)に相当するのに罪も償っていない。いわゆるBC級戦犯と呼ばれる人たちは上官の命令で戦争犯罪を犯したとして処刑された人たちである。元軍医の言い分が通るならBC旧戦犯は処刑されるべきではなかったと言うことになってしまう。元軍医や筆者はそうは言うまい。矛盾である。これに関連して記憶は曖昧だがおよそこんな「事件」を思い出した。元軍医と同様に戦時中残虐行為をしたという元日本軍兵士が、アメリカに渡航して自らの残虐行為を講演で発表しようとして渡航申請をした。ところがアメリカ政府は、ナチスの犯罪者の渡航を禁止している法律があり、元兵士の行為はこれに準ずるものとして渡航を禁止した。すると元兵士とその関係者は、勇気ある証言をしようとしているのに、不当であると抗議したが通じなかったというのだ。

 それはそうであろう。米政府の判断が世界の常識なのである。極悪犯罪をした者が米国に入るのを禁止する、と言うのは正常な感覚である。まして英雄の如く聴衆の面前で講演するなどと言うのは考えられない。オウム事件の死刑囚が自らの行為を講演したらどうなるか想像したらいいのだ。聴衆は罵倒し、物は投げられ、挙句に被害者家族が刺殺しようとしても不思議ではないではないか。ところが元軍医は自分の残虐行為を公衆の前で話すと勇気ある証言として、尊敬さえされるというのだ。

 元軍医はいずれにしても恐るべき神経の持ち主である。もし証言が真実なら、天皇の命令で正しいと信じてやったのだとしても、現在はその事を信じていないのである。正しいと信じていたから恐ろしい残虐行為にも耐えられていたのだとしても、それが騙されていたのだから騙していた人間を恨むのと同時に自らの行為について悔恨に苛まれるのが正常であろう

 親の敵だと信じ込まされて人を殺して後、その人が無辜の人だったと気がつけば後悔する。しかし元軍医はそれ以上のひどいことをしたのである。それを公言して堂々としているのはまともとは思えない。いやもし親の敵であっても殺人と言うのはやはり人間の精神を苛むものであろう。正しいと信じていたから鬼畜のような残虐行為に何の良心の呵責もなかった、そしてそれを人前で堂々と話すという人間の存在は信じがたい。そして本書の筆者はその極悪人を尊敬するというのだ。これも尋常な神経と理性の持ち主ではない、異常者である。これが今の日本には堂々とまかり通るのだ。
 
 もうひとつの可能性は嘘をついているのである。全くの嘘だから残虐行為はしていないのだから悔恨も何もないのだとしたら、それ自体はあり得る。しかしそれならば大嘘つきなのである。身の毛もよだつ残虐行為をでっちあげて人前で大嘘をつく人は到底まともな神経の持ち主ではない。結局どちらの可能性を考えてもこの人はまともな人間性の持ち主だとは思われないのである。

 ちなみに、中国で戦争犯罪を犯した、という人たちの証言集を何冊か読んだ。これらには元軍医の証言と共通したパターンがあることに気がついた。八路軍(共産匪賊集団)の兵士はどんな状況でも堂々とした勇気のある人たちであり、残虐行為を見ている日本人は皆ニヤニヤしている人間性の欠如した人たちである。人間には色々な人がいる。このようにワンパターンであろうはずがないと思うのである。侵略者の日本人は残虐極まりなく、被害者の中国人は立派な人に描くという、統一された意図のもとに書かれているのである。洗脳である。洗脳の語源は中国語である。英語ではこれを直訳して brain washing というのだ。

 講談社現代新書の「七三一部隊」の信ぴょう性は大いに疑義がある。そして流布される七三一部隊神話も大いに疑義がある。米国には七三一部隊から入手したとされる、生体解剖実験データは存在しない。そもそも石井部隊長をデータと交換に無罪放免にした、というのもでっち上げに過ぎない。

 それどころか、米国政府は自国民から多数を抽出して、放射能汚染をを各種条件で発生させ、経過観察を行った過去がある。犠牲者は即時死亡した者から、多年生き延びた者まで各種の結果が残されている


 


戦争における賠償の意味を知らない人たち

2019-08-04 22:06:07 | 自虐史観

 戦後日本では日本は侵略戦争をしたから賠償する、と言う話がまかり通っている。結論から言うと、とんでもないあり得ない間違いである。そもそも戦争後の賠償とは、勝った国が負けた国から分捕る戦利品に過ぎない。勝ったほうが闘うのをやめてあげるから、領土なり金なりをよこせ、と要求して得るだけの話である。

 その証拠に勝った国が負けた国に賠償したのはただの一例もない。侵略の賠償ならば常に戦争に負けた国が常に悪い国だという馬鹿げた事になる。そんな事があるはずがないではないか。

 また、交通事故の損害賠償のように被害を補償するというのなら、被害が大きいのは常に負けた国である。被害が大きいから負けてしまったのである。これからも戦争の賠償とは被害の補償でもない事が分かる。

 これらの事は過去の事例からも明白な事実である。しかし多くの国民は日本が悪い国だったと教えられているから、盲目的に日本は賠償すべきだと信じている。ところがそう扇動している学者はそんな事は百も承知である。承知でありながら、嘘をつきまくるのである。

 こういう詭弁は他にもある。昔朝日新聞にある著名な英文学者が論説をのせた。明治時代にロシアのニコライ皇帝が訪日中に日本の巡査に怪我をおわされた。法律では死刑には出来ないのに政府は裁判長に死刑判決せよと圧力をかけた。

 ところが裁判長はこれをはねのけて、法律どおり終身刑にした。この故事をひいてこの人はなんと、このように法律を曲げてはならないから、この信念をみならって現在の政府は憲法を改正してはならないと言うのだ。理性も教養もある人間がこんな明白な詭弁を言うのである。

 詭弁でなければこの人は愚かであるとしかいいようがない。法律を厳正に適用するのと、憲法や法律を改正すべきではないというのは、別の話であるのは自明である。その理屈がまかり通るなら、あらゆる法律は改正してはならぬという事である。

 この人はもっとひどい矛盾を言っているのに気付かなかったのだろうか。このエピソードは明治憲法の時代の話である。それならばこの人は明治憲法を改正すべきではなかったと言っているのに等しいのである。そして今の憲法は明治憲法の改正の手続きによって制定されたのである。それならば今の憲法改正以前に、日本国憲法は不法な存在だと主張しているのである。

 この詭弁はかつて社会党が憲法改正反対に使った詭弁と同じである。政府には憲法を擁護する義務があるから憲法を改正してはならぬ、というのである。法律を擁護するのと改正するか否かは全然別の話である。政治や法律の専門家までがこの詭弁に異議を唱えなかった日本世論とは病的であった。当時は憲法改正まかりならぬ、という雰囲気が世間に充満していたから、こんな嘘さえ非難されなかったのである。かくいうほどに愚かな議論が日本では世間にまかり通るという珍しくもない例である。この謬説は今でも政界にまかり通っている。今や病理の世界である。

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日本人の活動家は性奴隷の意味をわかっているのか

2017-10-18 17:06:47 | 自虐史観

 最近の日本の左翼の活動家は「慰安婦」のことを性奴隷と呼んでいる。性奴隷すなわちsex slaveと言う言葉を発明したのはWiLL2017・8号によれば、日本人だという。すなわち1992年に国連人権委員会で慰安婦問題を提起した戸塚悦朗弁護士で、本人が「それまで国連に相手にされなかったのに『性奴隷』という言葉を使ったら急に取り上げてくれるようになった。性奴隷と言う言葉は僕が作った」と誇らしげに語った、というのである。

 彼は国連が急に取り上げた理由を分かっているのだろうか。西洋人ないし、西洋系の教養を持つ人たちには、奴隷とは究極の人権無視だからである。古代ローマなど現代西洋とつながりのない、過去の歴史では身分は奴隷と言っても、かなりの自由を享受でき幹部軍人などにもなった、といわれている。

 だが現代の西洋人の考える奴隷とは、そのようなものではない。動物以下の扱いで主人に生死すら自由気ままにされる、全くの劣悪な身分である。性奴隷と言えば売春婦ですらなく、報酬もなく、単に性行為に利用するために最低限生かされている生き物、と西洋人は考えていると思うべきである。

 戸塚弁護士は慰安婦とは、戦地で使われる売春婦であると知っていながら、もののたとえとして、「性奴隷」と言う言葉を使いだしたのであろう。しかし、西洋人の受け取り方は全く違うのである。日本人のおもてなし、など日本人のやさしさを強調することが今の日本では流行している。しかし、西洋人は日本人が、さほど昔ではない第二次大戦中まで性奴隷を使っていたと認識すれば、やさしい日本人とは仮面に過ぎないのではないかと、疑うであろう。

 米国人は、リンカーンが奴隷解放をしたことを誇る教育を施されている。かつては奴隷を使っていたのに、解放したのを自慢するのは変だと思うのはお人よしの日本人である。今の米国人は、奴隷が絶対悪だと教育されているから、奴隷解放が、たとえ南北戦争の方便であろうと、自慢するのである。その米国人が性奴隷、と聞いたらいかなる思いをするかは、想像の埒内である。現にアメリカには黒人の性奴隷はいたから、性奴隷とはいかに、非人間的かをしっている。そして現代アメリカ人には、その記憶が残っているのである。

 AV女優の悲惨な境遇を書いた新書本のカバーに「まさに性奴隷」と書かれたものを見た。確かにAV女優は悲惨な境遇のケースもあるのであろう。しかしそれでも性奴隷とは、もののたとえとしか言いようがない。アメリカ人の考える性奴隷は、そのような生易しいものではないのである。


戦前の大陸権益を批判する人たちが日中友好により経済的利益を得ようとする矛盾

2016-02-23 15:39:37 | 自虐史観

戦前の日本の大陸権益を批判する人たちは、大抵が現在日中友好により中共に投資して経済的利益を得ようとする人たち、あるいはそのような傾向を支持する人士である。これは単純に考えれば、大いなる矛盾であることはお分かりだろう。そもそも戦前支那本土で経済活動をしていた人たちは何も、侵略活動をしていたのではない。現在の経済進出と同じく投資や商業活動をしていたのである。何故同じことをしている人たちを非難できるのだろう。

ところが、当時の支那政府(当時は各地に実態は匪賊集団に等しい、自称の「政府」があった)は民衆や軍閥を使って、日本の経済活動を妨害するテロ活動をしたのである。元々の日本の大陸での権益とは、南満洲鉄道と沿線の付属地の権利だけである。満洲を守る気がなく、満洲で争っていた日露戦争を傍観していた支那には、戦勝した日本が満洲を併合しても、当時の国際常識からは文句が言える筋合いではなかった。日本にとって満洲自体は、経済的利益より、国防的観点の方が重要だった。

現に石橋湛山などは、経済的見地から、日露戦争などで得た、大陸の権益放棄論を主張した。純粋に経済的観点からみれば、その通りに違いないのである。満洲に権益を得た後は、満洲ではない支那本土に進出して、純粋な経済活動もしはじめた。これは現在、中共に進出している会社などと変わりはない。

現在大陸に工場などで進出しようとしている人たちは、純粋に経済的利益を得ようとしているだけである。つまり金儲けだけである。戦前の日本は、日露戦争で偶然できた満洲権益が、欧米諸国の経済ブロック政策から日本を守ることができるものにしようとしていた。満洲の権益は経済的利益ばかりではなく、対ソ防衛の死活的な意味を持っていた。日露戦争後一時友好を保っていた日露関係であったが、ソ連成立とともに、共産主義の脅威が日本には発生したのである。単に自分の会社の目先の利益で対中投資する現在の経営者とは立場が根本的に違うのである。

 さらに満洲国は現在の中共と根本的に異なっている。現在の中共も当時の支那本土も同じく、近代的な法治国家ではない。外国が経済投資をすると、政府の恣意で利益を奪ってしまうし、民衆や官憲は政府の指示に従い排外活動を行うのである。この事情は今も昔も変わらない。これに対して満洲国は法治が通る近代国家の地域に日本人がしたのである。

こう考えると現在の経済人が日中友好により、経済的利益を得ようとすることには大きなリスクがある。まして、大陸に満洲国と言う近代国家を作り、国防と経済の死活的利益を得ようとしたことを批判するのは矛盾に満ちている。もし満州における日本の権益を批判するなら、現在の時点で、中共に経済進出をしようとする資格も判断能力もない。

ちなみパールバックは支那人に肩入れしている、と言われるが「大地」を読めば支那の軍閥は、匪賊集団に等しく、幹部から兵士達まで、略奪などで儲けようとする者たちであることが書かれている。近代的な国家や社会ではないことも、よく理解できる。ただひとつ、最後に毛沢東が支那の希望の星らしく登場するのが大きな間違いである。


「南京事件」の探究・再考

2015-10-24 14:47:49 | 自虐史観

 美津島氏という方のホームページで、小生の「『南京事件』の探究」の書評を引用していただいた。そこで、以前にも書いたが「南京事件」という言葉について論考してみようと思う。

まず「南京大虐殺」と言う言葉は、プロパガンダの用語であって、歴史上の事件に使われるものとしては不適切であると考える。しからば「南京事件」である。歴史上の事件である、というからには、特異なもの或は歴史上の意義を有するものでなければならない。「南京事件」とは、南京攻略戦の際に日本軍が犯した、不法殺害、略奪、強姦、放火などの行為をいうものとされるのが、一般的認識であろう。

しかし、都市攻略において、一般民衆が存在する限りにおいて、これらの行為は皆無ということはない。米軍の沖縄攻略戦やマニラ攻略戦においても、南京におけるより遥かに大きな規模で、これらの不法行為がなされている。米軍はフィリピンの民間人を不必要に殺し過ぎた、と陰口を言うフィリピン人はいる。それならばなぜ「那覇事件」や「マニラ事件」と呼称されないのであろうか。

根本的原因は米軍が勝者で、日本やフィリピンがそのような事件を取り上げることが許されないからである。しかし、米国は、一般民衆が巻き込まれた以上、戦闘の被害は生じるし、強姦事件もあったが、偶発的で仕方ない程度であった、という弁解位用意している。現に「天王山」という本で米国人の著者は「米軍にも残虐行為はあったが、日本軍よりましだった」と言う主旨でうそぶいている。

被害に遭った人たちからすれば、仕方ない程度、などと言う言葉は許せるものではない。だが国際法適用上の現実なのではある。国際法の大家の立作太郎氏の「支那事変国際法論」でも、戦闘中に非戦闘員が被害にあう場合で、国際法上許される限界に言及している。南京攻略での日本軍行為は多くの場合、国際法上合法か、不法があっても極めて小規模であって、都市攻略の際の状況としては特別なものではない。日本軍の南京の攻略の歴史的意義は、中華民国の首都が日本軍によって占領され、蒋介石が首都を簡単に放棄して逃亡したことにある。すなわち歴史上は「南京攻略」である。

確かに松井大将は不法行為を嘆いたが、敵国首都攻略という重大時の際に、大将は完璧に不法行為を防止しえなかったことを言っているのであって、潔癖がなせる発言である。故に歴史上、戦史上も南京攻略戦における不法行為は「事件」と呼ばれるべきものではなかった。従って小生は資料の引用等やむを得ないとき以外は「南京大虐殺」はもちろん「南京事件」とも言わない。南京大虐殺などはプロパガンダに過ぎない、という人達ですら「南京事件」と言う人がいるが、それは南京攻略の際に、日本軍が歴史上の事件と言うべき不法行為をした、と認めてしまっているのである。

むしろ、敗戦直後のドイツで、米ソ軍が行った、何十万という規模の強姦と、百万単位の殺害の方が、なぜ歴史的事件として取り上げられないのか怪しむ。日本に於いても、敗戦直後関東地方だけでも、万単位の強姦事件があった。もちろん市民殺害もである。しかも日独で行われた連合国の犯罪は、戦闘が完全に収束して、勝者が完全に支配している中で行われた悪質な事件であった。人道的な米軍などと言う言葉は、GHQの洗脳である。日本人は米軍が占領中に行った、多くの不法行為を忘れてはならない。むろん、小生は反米感情を抱き続けよ、と言っているのではない。事実を忘れるべきではない、といっているのである。


性奴隷と言う言葉の怖ろしさ

2015-09-27 14:52:11 | 自虐史観

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 平成27年9月22日、とうとう、サンフランシスコ市議会が、慰安婦像設置案を採択してしまった。その決議の中には「日本軍によって拉致され、性的奴隷の扱いを強要された・・・」云々という文言が入っている。以前にも一部の日本人学者らが、「日本軍の性奴隷」ということを米国で吹聴していたことさえある。

 この日本人たちは、性奴隷sex slaveと言う言葉が、欧米人にどういう印象を持たれるか分かっていないのであろう。彼等は奴隷といえば歌の「恋の奴隷」というようなたとえか、女郎や売春婦の類を性奴隷と認識しているのではなかろうか。だが、実際についこの前の近代において、実際に奴隷を使ったことのある欧米人にとっては違うのである。

 奴隷は人間ではなく、物である。酷使して使い捨てるのである。アフリカから運ぶのにも、穀物を積むように山積みにして、換気どころか排泄の考慮もない。だから半数以上は途中で死ぬか、使い物にならないと言って瀕死の黒人は海に投棄された。それでも効率よく沢山運べれば儲かるからである。英国人は植民地インドの織物職工を、自国民と競合させないよう手を切り落とした。まして物でしかない奴隷なら、どんな苛酷な目にあったのか我々日本人には想像がつかない。

 日本や米国でsex slave と吹聴している日本人は、自分がいかに恐ろしいことを言っているか分からないのである。以前、ある朝日新聞の記者は日本が植民地支配を謝罪すれば、謝罪しない欧米に比べ道徳的に優位に立てる、などと書いたことがある。これまでの経緯からそんな馬鹿げたことは絶対ないことは証明されている。だが彼らは戦前までの日本の歴史を、どこまでも暗黒なものだと洗脳されていて、謝罪するなり性奴隷なりと言いつのれば、言った自分だけは良き日本人になれるのだと信じているのであろう。

 だがそうでないことは、慰安婦問題が米国で話題になるようになると、在米の邦人がいじめにあうようになっていることから分かる。彼等自身はそれらの犯罪を犯していたことはない。しかし米国人にとっては、日本人のDNAに残虐性があるからと思うのである。今オリンピックを前にして、おもてなしや日本の治安の良さ、など日本人の人間性の良さが強調されている。しかし、一方で性奴隷などという言葉が定着すれば、日本人は普段はおとなしいが、残虐性を秘めている怖ろしい民族である、という認識を持たれるのである。いくら、おもてなし、などと言っても片方で、それをぶち壊しつつあるのだ。


戦争犯罪人が威張るとは

2015-07-03 14:01:08 | 自虐史観

 平成13年頃だから、かなり以前の話である。高山市で元憲兵隊の「従軍慰安婦係」だという人が、シンポジウムに参加して「従軍慰安婦」問題について証言したという。アジアに大罪を犯したとか、政府は慰安婦問題を隠そうとしているなどと語気を強めた、と報道されている。

 私は彼の態度に疑問を感じる。その言葉を素直に聞く、聴衆にも疑問を感じる。彼は第三者ではない。彼は慰安婦を扱った当事者である。彼の言う「犯罪を犯した」うちの一人である。彼は犯罪者として追及されるべき立場にある人間である。

 ドイツではナチスの関係者は現在でも時効がなく、経歴がバレれば戦犯として処罰さるという。またベルリンの壁から逃亡する市民を射殺した旧東ドイツの一兵士までが、命令に従っただけであっても処罰されると言うのである。以前、自称元日本兵で、戦時中に犯した戦争犯罪を告白して、国内各地で講演をする者がいた。

 そこで、彼の支援者が、彼をアメリカに渡航させて、同様に戦争犯罪の告白の講演をしようとしたところ、先方から許可が下りなかったという。アメリカは、元ナチスの戦争犯罪者の入国を禁止していて、彼はそれに準ずる者とされたのである。これが常識というものであろう。

 ところが、彼と彼の支援者は、戦争犯罪の勇気ある告白をしに行くのに、なぜ入国させない、と怒ったのである。国内で戦争犯罪の勇気ある告白をすれば、拍手喝さいを浴びる、という奇妙な事態が続いていた。それで彼らの常識は倒錯してしまったのである。「告白者」は罪を悔いているのではない。拍手喝采を浴びて得意なのである。非人道的犯罪者(!)がである。

 冒頭に書いた元憲兵氏は、慰安婦制度を非人道的行為として、戦争犯罪同様に看做しているのなら、従軍慰安婦問題の関係者は彼本人も含め、処刑する法律を制定して責任を追及しなければならない、と主張すべきなのである。最低限、私は取り返しのつかない重大な犯罪を犯した、と悔悟すべき張本人なのである。それが、何とその犯罪者が、正義の味方のように、語気を強めて政府を責めていた、というのだ。

 時効が過ぎて処刑される心配のない殺人犯が、真犯人は私です、と名乗り出たところで、勇気ある証言だと感心する人がどこにいるだろう。

 聴衆も、目の前で悪辣な犯罪に加担した張本人が堂々と後援しているのを聞いたら、ごうごうたる非難や罵声を浴びせるであろう。けれども不可解なことにそうはならなかった。その非道な犯罪者は「アジアに大罪を犯した」などと他人ごとのように述べたのである。これは奇怪なことではないか。

慰安婦問題で、米国にまで行って日本軍は悪いことをしたと、運動して回る反日日本人がいる。彼等は「従軍慰安婦の像」なるものを米国内に建てる運動をしている韓国人と協働している。

 その結果、アメリカ在住の日本人が虐めにあっているという。当然であろう。米国人にしてみれば、性奴隷なる残虐なことを行った民族である日本人には、そんな遺伝的体質があるから他の日本人も同様に、残虐な体質があると考えるのである。

反日日本人自身は、素晴らしい正義の行為をしているつもりであろうが、彼等には同じ残虐な日本人に過ぎないのである。哀れなことに、反日日本人は米国人から自分もそのように見られている、ということに永遠に気付かない。

 


俯仰天地に恥じる

2014-11-23 13:40:33 | 自虐史観

 「加害と赦し」という本が出版された。「わが南京プラトーン」という著書で、当時の上官の嘘の虐殺事件を書いたとして名誉毀損で訴えられて敗訴した、かの東史郎氏とその支援者が、裁判の弁明を行ったものである。この本に「東日記を改竄した二審判決」という項があったので、国会図書館で判決のコピーを入手した。この判決は本の改竄どころか面白い指摘が多数なされていた。

 ①東氏は日記の原本は展覧会に貸したときに紛失されたと供述しているが、展覧会側はそのようなものはなかったと言っており信憑性がない。

②東氏らは300cc程度のガソリンで事件の再現実験を行っているが、自らの供述とも異なる少量で実験を行ったのは「作為的にしたものと推認せざるをえない。」

③東氏は一審では手榴弾が爆発するまでの時間を十五から二十秒と供述したが、そのようなものが存在しないことが指摘されると供述を変えた。当初の供述は殺人を準備するのにその位の時間を要することから逆算した作為による。

④東氏は現場を訪れて更に記憶がはっきりしたとして、本に書いていないことまで供述しているが、現場は当時とは風景が一変しており、「極めて不自然であり…右供述は到底信用することができない。」

⑤東氏は使用したガソリンを1合と供述したのは実験に合わせたと考えられ、本による袋の燃え方の記述と合わず「信用できない」

⑥ガソリンを抜き取った自動車の位置の供述を変更したのは、元のままでは事件を実行できないと指摘されたためである。

⑦一審では袋をかついで投げたと供述しているのに、二審では蹴り落としたと変更した。これは自らの実験で人の入った袋を放り投げるのが困難と分かったためである。

 以上のように判決では裁判官が東氏のことを、虚言癖のある信用ならない人物だと判断していることが分かる。判決によれば東氏は作家ないし新聞記者志望で文才もあり、戦地から友人に戦況を書いた手紙を送ったところ、感激したので雑誌に発表したいと言われたところ、拒絶して「そうするとしても、もっともっと訂正せねばならない」と書き残している。要するに東日記は「事実や出来事の記録ではなく」「従軍回想記ないし戦記」のたぐいで一種の文学である。

 驚いたことに昭和二十一年に東氏は「青年団報」というものに、当時の風潮を憤り「日本共産党の指導者を口を極めて批判するとともに、天皇制に対する熱烈な賛美に満ちて」いる文章を投稿したということを判決は暴露している。

 かの家永三郎氏も戦後の一時期までは、熱烈な尊皇の文書を発表したことが知られ、時流に合わせた卑劣な変節漢だというのが事実である。要するに東史郎なる人物は本来尊皇思想の持主であったが、文才があるため世に文章を発表する希望があったので、チャンスが来ると時流に迎合した「日記」を公表したが、嘘がばれた、というところであろう。

 「加害と赦し」でははるかに多い文字を要しているにもかかわらず、判決に関する反論は少ない。判決の方はよほど短いが簡潔かつ論理的な記述であり、実質的な内容は遥に多い。この本では再現実験を行って事件が可能だとしている。ところが、二審判決では実験自体が事件の再現性がないことを論証しているのにもかかわらず、これに対する反論が全くない。かくの如き次第で、実は東氏に関しては、南京大虐殺派の本多勝一氏らもあきれて相手にしていないとのことである。

 俯仰天地に恥じず、という言葉がある。嘘で塗り固めた、東史郎の行動は、これと正反対で、俯しても仰いでも恥の塊である。自身が有名になりたいと言う虚栄心のために、日本人全体を貶めて恥じない。東の子孫自身にしても、残虐な日本兵の子孫として給弾されることもあろう、ということに些かな思いもいたさないのである。