毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

撃墜王・岩本徹三

2015-07-28 14:39:57 | 軍事

 日本海軍の撃墜王・岩本徹三は自己申告で撃墜202機を主張していたことで有名である。日本のエースパイロットが、撃墜数を主張する事は稀なのだが、けれんみなく、あっさりと言ってのけているような気がするところが、小生は他の日本のエースパイロットより好きなのである。

 戦後手記を編集した「零戦撃墜王」の何版かをその昔読んだのが、岩本の名前を知った初めである。零戦の格闘性能を生かすのではなく、垂直降下により敵機に超接近して、一撃撃墜するのを常とした豪快な空戦法であったというのもなかなかである。

 零戦は、水平面の旋回性能の良さで米英軍機を圧倒した、と言われている。ところが岩本は優位な上空に占位して、急降下して、一撃離脱する戦法に徹底したのである。だから岩本は被弾することもほとんどなかった希な戦闘機パイロットである。。その戦法は支那事変の際に九六式艦戦で、複葉機と戦った経験から来ているものと推察する。いかな九六式艦戦でも水平面での旋回性能では、複葉機にかなわないからである。

 敵より優位な高度に占位するというのは、当時の戦闘機には洋の東西を問わず、絶対的な原則である。これを基本として徹底した岩本は名パイロットである。ちなみに欧米、特に英軍戦闘機は、格闘性能の優劣を横転性能、すなわちロール率で判定していた。これは高速化と矛盾しないから、是とすべきであった。岩本は撃墜マークを胴体がピンクに見える位沢山描いていた、というからプラモマニアとしても面白い。

 そこでタミヤの48にスペシャルマーキングとして岩本機のデカール付の52型のキットがあったので買った。ところが撃墜マークを見ると、控えめでガッカリしたが、同時にジャンクパーツでタミヤの21型のデカールが売っていて、桜いっぱいだったので買って組み立てたのが、この写真。

 ところが似た趣味の人は居るもので、童友社の1/100だと思うが、52型の岩本機の桜べったりのものが売られているはずです。撃墜マークは、この写真のものどころか、日の丸の直後から垂直尾翼ぎりぎりまで、目いっぱい撃墜マークで埋められています。ところでタミヤの零戦は、作りやすさ、考証の正確さで、ハセガワのより好きです。モールドも塗装で消える危険も少ないもので楽です。小生は零戦に限らず、同タイプの飛行機でハセガワとタミヤがあったら、迷わずタミヤにします。悪しからず。


何故日本のマスコミは、日本の歴史には辛辣か

2015-07-25 16:13:59 | ジャーナリズム

 平成25年8月12日のNHKで世界遺産ドリーム対決・コロンブスVSバイキングという番組があった。基本的にはは彼らを英雄視している。しかし多くは悪辣なカッパライ殺人強盗の類である。バイキングとは海賊のことではないか。もし彼等が日本人なら思い切り批判するのに、なぜ西洋人なら英雄なのか。大英帝国博物館の所蔵品などは、英国が世界から略奪したものである。バルト三国の紹介番組では、歴史を語っても、第二次大戦のどさくさにまぎれて、ソ連に侵略併合されたとは決して言わない。蒙古襲来についても、単に事実関係を言うだけで、決して侵略してきたなどとは言わない。

 これが日本となると、全く反対の態度を取る。朝鮮征伐は侵略戦争であり、秀吉は年老いて判断力を失い、非道な侵略戦争したという。もちろん韓国併合は悪しき植民地化である。大東亜戦争の東アジアの攻略は、これらの国々への侵略といういい方になる。ところが、東アジアの国々を侵略したと言うのは事実関係から言えば、間違いである。当時、フィリピン、インドネシア、ベトナム、ビルマ(ミャンマー)という国は無かった。無かった国々は侵略できない。

日本が攻撃したのは、これらの宗主国である、アメリカ、オランダ、フランス、イギリスである。東アジアの国々を侵略した、と言ってしまうのは、フィリピン、インドネシア、ベトナム、ビルマ(ミャンマー)が、欧米諸国から侵略されて、植民地になっていたことを間接的に隠蔽してしまっている。

このように、現代日本のマスコミは、欧米諸国の国々の行為については寛容で、日本の行為に対しては極度に辛辣である。これは、欧米の過去の歴史に対して寛容、というよりは事実関係を淡々と説明する、というのが比較的正常であるのであって、日本のマスコミが日本の歴史について、常に極度に批判的であるのが、異常なのである。


アウシュビッツの犯罪者の逮捕

2015-07-20 15:14:36 | Weblog

 平成27年7月18日の産経新聞に「独、アウシュビッツ看守92歳を起訴」というできごとが小さく報じられた。アウシュビッツ強制収容所で看守をしているときに、1,075人のユダヤ人が虐殺されたことで、殺人幇助として逮捕起訴されたのである。虐殺を実行したのではなく、同地に勤務していただけでこの厳しさである。ドイツがユダヤ人虐殺の時効を停止していることは広く知られているが、ここまで徹底していたのである。

 以前、講談社現代新書の「七三一部隊」の記述を紹介したことがある。それを要約して再掲すると次のようになる。

旧日本軍の元軍医の証言である。元軍医は七三一部隊のメンバーではなかったが、三年半の間に十四人の中国人を生きたまま解剖し、手術の練習台として殺したのだという。他人が解剖しているのを始めて見たときは異様に思ったが、一度やるともう平気になる。三回目は進んでやるようになった、というのである。更に、彼は当時の心境を次のように語ったというのだ。

罪の意識はないんですよ。悪いとは思わないんですよ。だって天皇の命令で、その時信じてやったのだし、勝利のためなんだから悪くないんだと、細菌だっていいんだと私は思ったし、石井四郎に尊敬の念を持ったんですから」

 彼は未だに、自分の犯した14人の虐殺行為を後悔も反省もしていないと言うのである。普通の神経で考えれば、彼は人間虐殺も何とも思わない、精神異常犯罪者である。狂った犯罪者が放置されているどころか、まともな大学教授が誉めているのだ。日本の異常も極まっている。

 ドイツでは、単にアウシュビッツに勤務しただけで92歳の老人が、大量殺人の幇助で裁かれる。ドイツだったら元軍医は当然極刑である。しかも元軍医の日本人は、このことを大勢の前で話しても非難すらされないのである。

 それどころか「七三一部隊」の著者の大学教授は、大勢の前で話す虐殺犯の元軍医のことを尊敬している、とさえいうのだ。狂っているのは日本のこの状況である。まともなのはドイツである。なるほどドイツ以外の欧米やロシアでも、かつて異民族の大量虐殺や虐待などの悪辣非道を繰り返した例は枚挙にいとまがない。だが元軍医のように公然と話す異常者はいない。皆、自国の悪辣な過去は隠ぺいしているのである。日本人にはその程度の羞恥心すら失われている。


書評・なぜ中国は覇権の妄想をやめられないのか・石平

2015-07-18 15:10:02 | 支那大陸論

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 副題:中華秩序の本質を知れば「歴史の法則」がわかる

 

 さすが総合的には的確であると思うが、違和感のあるところなしとはしない。中華世界で天子と認められる条件は、「・・・周辺の『化外の民』や野蛮国を服従させて『中華秩序』を打ち立てることである。(P60)」として隋が統一後、高句麗討伐に全力をあげた、という例をあげる。二代の皇帝が高句麗討伐に失敗した結果、天命に見放されたものとみなされ、崩壊したというのである。

 また、毛沢東が朝鮮戦争を、小平がベトナム国境戦争を、ともに政権を握ってからすぐに行ったのも、この延長にあると言うのだが、隋の件に関しては異論がある。隋は明らかに「漢民族」と呼ばれる人たちとは異なる範疇の民族支配による王朝である。この論法だと、たとえ異民族であっても中華社会に入ると、中華社会の天命の論理に従う、ということになる。実際はそうではないのでないのか。隋にとっては危険な大勢力であった隣国は倒さねばならず、結局その征服に疲れて崩壊したのではないか。

 清朝は満州族の王朝である。外部から北京に入って明を倒したが、モンゴルやチベットを支配したのは、天命の論理ではなく、各々の民族の長を兼ねるというソフトな方法で支配した。隋とはケースが違うのである。元もまた違うパターンである。ヨーロッパにまで侵入する大帝国を作ったが、モンゴル本土においては、モンゴルの論理で動いたのであって、天命の論理ではなかった。

 なるほど、毛やは石氏の言うことが適用されるのかもしれない。だが、中華世界を支配した全ての民族に適用されるのではなく、「漢民族」と呼ばれる範囲の民族に限定されるのではなかろうか。つまりドイツやフランスなどと民族は異なっていても、「西欧人」、という共通項はあるのと同様に、「漢民族」と言う共通項はあるのである。

 似た違和感を「四十数年後、アジアに生まれた『日本版の中華秩序』(P92)」という話にも感じる。日本が清国を崩壊させたのも、満洲国を建国したのも、西欧の圧迫というやむにやまれぬ必要からであって、天命の論理ではない。日本の危機感はロシアや英米に向けられていたのであって、支那に向けられていたのではない。ここで石氏は自己の結論を拡大解釈し過ぎているように思われる。

 日米戦争では、米国が中国にほとんど利権を持たないのに、対日戦を始めて多くの犠牲を払ったのは、「すべての国々は大小問わず平等な権利がある」、というアメリカの正義に従ったものだ、という(P110)のだが承服できない。その証拠がハルノートであると言うに至っては尚更である。石氏がハルノートの原則として示している、一切の国家の領土保全云々、といういわゆる普遍的正義は、一方では本気であると同時に、アメリカ得意の本音を綺麗な言辞で包むやり方である。

 日本国憲法が、日本だけが侵略国家で他国は侵略しないから、日本さえ軍備がなければいいのだ、ということを言うのに「・・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」という一見美しい言葉を並べるのが、米国流である。この米国流の美辞麗句を、護憲主義者は額面通り信じて真意を知ろうともしないからいるから恐ろしい。石氏ほどの碩学が、満洲事変よりかなり前から、日本が有色人種唯一のまともな主権国家であることに、米国が悪意を抱いていたことを知らないのであろうか。アメリカは常にダブルスタンダードで動く国である。

 「『民族の偉大なる復興』を掲げて登場した習政権(P156)」というのは、その通りなのだろう。かつての中華帝国によるアジアの秩序の再建をめざす、というのがその中身である。そして「アジア安全保障会議で発揮された安倍外交の真骨頂(P199)」というのは、石氏が中国に抱く危機感と、それに対抗できるものとしての安倍内閣に対する大きな期待を示している。だがまたしても「戦前の『大東亜共栄圏』を復活させるような野望を抱いてはならないのだ。(P213)」というのは大きな誤解である。

 なるほど戦前の一部の日本人には、国力への過信から放漫になっていた者もいる。しかし、全体的に見れば例外であるし、英米の方が過去も現在も、遥かに放漫であり続けている。中国共産党政権に至っては桁違いに放漫である。大東亜共栄圏とは、日本の弱い国力を何とかするために必死でとった政策を、大袈裟な言葉で表現したもので、実質は実に地味で防衛的なものであった。日本軍が精神主義だと批判されるのは、武器弾薬の質と量の重要性を無知により無視したのではなく、日本の工業力と経済力が、戦争に絶対必要なこれらを満足できないことを熟知した、絶望の果てに生じた結果によるものである。

 本書で全般的に感じるのは、石氏の米国に対する信頼が強い、ということである。例えば「・・・他国を抑制するような中華秩序と、アメリカが『警察官』となって共通した法的ルールを守る秩序とでは、天と地ほどの差がある。海洋の問題に関しても、アメリカが提唱する『航海の自由を守る法的秩序』は誰の目からみても、覇権主義的な中華秩序よりもはるかに公正で正義に適ったものだ。(P194)」というのが、その典型である。

 むろん中華秩序は論外である。石氏がアメリカについて説明していることも、一面では真実である。しかし、米国は中東政策だけを見ても、明らかなダブルスタンダードを犯しているし、謀略も敢えてする。それは国益、という観点からは当然なことである。だから米国の多面性を一方で理解しながら、同盟するなりの関係を持たなければならないのも当然である。

 長年私淑されているという、中西輝政名誉教授にしても、米国に対しても冷徹な目で見ているはずであって全面的に米国に依拠すべきだと考えてはいない。明晰な石氏がそのことを理解していないとは到底思われない。前記のような米国の正義論を述べるのも、中国の最近の覇権主義的な活動が、あまりに危険な水準を超えているための、焦燥感の現れだと小生は考える。


なぜ米軍は日本の艦船にスキップボミングを始めたか?

2015-07-16 14:50:02 | 軍事技術

 元々米軍は双発機以上の大型の機体による雷撃は、魚雷の投下場所まで直進しなければならず、しかも目標が大きいので対空砲火による危険が高すぎると見ていた。従って米陸軍も大型爆撃機に雷装はしなかった。しかし日本陸軍のように、はなから艦船攻撃を考慮していなかったのとは異なる。B-17などの陸軍の大型爆撃機による艦船爆撃も盛んにやったが、その場合も中高度以上からで命中率は悪くても、安全に攻撃していた。

 艦上爆撃機ですら、米軍は急降下爆撃によって、撃沈より損害を与えて敵艦の能力を減殺することを主目的としていて、撃沈の可能性が爆撃より大きいにもかかわらず雷撃機は、従の存在だったことからも、米軍は雷撃による被撃墜を考慮していたと推定される。

ところが戦争中期頃までに、米軍と比べると、日本の艦船の対空防御能力が著しく低いと見切ってしまった。しかし、今更爆撃機に雷装する改造を施しても、コストがかかるだけなので、爆撃により雷撃に似た効果がある、スキップボミングを採用した、という訳である。

爆弾は魚雷より遥かに安く、軽量である。しかも、魚雷より速度が桁違いに大きいから命中率が高い。舷側に命中するから、装甲の薄い艦船なら撃沈が可能である。。欠点のひとつは、海面を跳ねるように、爆弾を投下するのに技量を要することだが、魚雷とて、それなりの腕が必要である。欠点の最大のものは、波浪の高さによる爆撃実施不可能な場合があることと、一定時間飛行コースを維持しなければならず、対空砲火を受けやすいことである。

雷撃同様に、爆撃コースに入った時の対空砲火対策として、B-25などは艦船や地上攻撃用として、機首に機銃や大口径火器を固定して、銃砲撃しながら攻撃できるような型もあったから、艦船の対空砲火を制圧しながらのスキップボミングもできた。いずれにしても、スキップボミングが多用されたのは、駆逐艦などの小艦艇や輸送船など、元々日本の艦船でも防空能力と装甲がなきに等しいものであったからである。


プラモです。USA JB-2

2015-07-08 15:49:02 | プラモコーナー

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 JB-2 MAC 1/72

御覧になって分かるように、ドイツのV-1ミサイルの、米空軍による、ほぼ完全なデッドコピー品です。小型でパーツ数も少ないので、キットの組み立てに何の問題はありません。それよりこの機体を紹介したのは、戦史的意味からです。

 米軍が終戦までにこの機体を大量生産したのは、主として対日戦への実戦投入のためでした。使用する前に終戦になってしまったのですが、もし、日本本土上陸作戦が行われていたら、間違いなく、使用されたしろものです。

 キットはブースターロケット使用のレール発射式のものですから、地上からはもちろん、船舶上からも容易に発射できます。弾頭850kg程度で、戦艦の砲弾と同程度の破壊力で、デッドコピーとは言え、航続距離は250kmから400kmへと遥かに向上していますから、上陸前に大量に打ちこめば効果は絶大だったのに違いありません。

 しかも無人機で、コストも安く撃墜されても、艦上機のようにパイロット喪失のリスクもありません。いや既に、700km/hを超える本機を日本には撃墜できるような戦闘機も対空砲火も無かったでしょう。考えるだに恐ろしい兵器を米軍は投入しようとしていたのです。それも敵側のドイツ製兵器のデッドコピーという安直な方法で。


中国潜水艦を「元」と呼ぶ馬鹿

2015-07-04 13:34:15 | 軍事

 最初はプラモのキットを見て気付いたのだが、中国の潜水艦は歴代王朝の名前が付けられている。納得できないのは、元などという、明らかに非漢民族王朝の名称が付けられていることだ。現在の支那の政府中枢は明らかに「漢民族」と呼ばれる範囲でしか構成されていない。また夏などという伝説上の王朝としか思われないものの名前まで使われているのには驚いた。

 これは現在の支那政府が、中華民族と称して、満州族やモンゴル人まで、ひとがらげにして、歴代王朝を全て中華民族の王朝とすることによって、中国四千年の歴史などと主張していることと符合する。そこで、こんな潜水艦の命名までするのか、と呆れた。だがこれは、小生が往々にして犯す思い込みだった。

 ウィキペディアで調べたら、例えば、元級というのはNATOのコードネームで、支那軍の公式名称は029A型潜水艦(中国字で029A型潜艇)というのだそうである。ロシア軍の戦闘機のコードネームには頭文字Fで、フィシュベッドや、ファーマーなどという、およそ軍用機とは関係のないふざけたものを使っているのとは大違いである。

 なるほど、戦艦には英国では王家関係のものを、米国では州名を使っているのと発想は似ている。だが問題はNATOが、自然に歴代王朝を現在の支那政府の前身と看做していることである。日本が戦前苦しめられたのは、欧米諸国がこのような認識を持ち、清朝の後継は中華民国だ、などと考えて九ヶ国条約で中国の主権の尊重などという実態のないものを日本にも押し付けたことにある。

 「満洲国出現の必然性」という本の著者の戦前の米国人は、支那民族(すなわち漢民族)と言っても、言語、文化等の相違は北欧と地中海民族よりも差があるいくつかの民族から構成されているし、満洲人はその中にさえ含まれない、と喝破したが、このような欧米人は、当時も現代でも例外なのである。欧米人の宿痾がコードネームの命名にも現れている、と気付かされた次第である。

 


戦争犯罪人が威張るとは

2015-07-03 14:01:08 | 自虐史観

 平成13年頃だから、かなり以前の話である。高山市で元憲兵隊の「従軍慰安婦係」だという人が、シンポジウムに参加して「従軍慰安婦」問題について証言したという。アジアに大罪を犯したとか、政府は慰安婦問題を隠そうとしているなどと語気を強めた、と報道されている。

 私は彼の態度に疑問を感じる。その言葉を素直に聞く、聴衆にも疑問を感じる。彼は第三者ではない。彼は慰安婦を扱った当事者である。彼の言う「犯罪を犯した」うちの一人である。彼は犯罪者として追及されるべき立場にある人間である。

 ドイツではナチスの関係者は現在でも時効がなく、経歴がバレれば戦犯として処罰さるという。またベルリンの壁から逃亡する市民を射殺した旧東ドイツの一兵士までが、命令に従っただけであっても処罰されると言うのである。以前、自称元日本兵で、戦時中に犯した戦争犯罪を告白して、国内各地で講演をする者がいた。

 そこで、彼の支援者が、彼をアメリカに渡航させて、同様に戦争犯罪の告白の講演をしようとしたところ、先方から許可が下りなかったという。アメリカは、元ナチスの戦争犯罪者の入国を禁止していて、彼はそれに準ずる者とされたのである。これが常識というものであろう。

 ところが、彼と彼の支援者は、戦争犯罪の勇気ある告白をしに行くのに、なぜ入国させない、と怒ったのである。国内で戦争犯罪の勇気ある告白をすれば、拍手喝さいを浴びる、という奇妙な事態が続いていた。それで彼らの常識は倒錯してしまったのである。「告白者」は罪を悔いているのではない。拍手喝采を浴びて得意なのである。非人道的犯罪者(!)がである。

 冒頭に書いた元憲兵氏は、慰安婦制度を非人道的行為として、戦争犯罪同様に看做しているのなら、従軍慰安婦問題の関係者は彼本人も含め、処刑する法律を制定して責任を追及しなければならない、と主張すべきなのである。最低限、私は取り返しのつかない重大な犯罪を犯した、と悔悟すべき張本人なのである。それが、何とその犯罪者が、正義の味方のように、語気を強めて政府を責めていた、というのだ。

 時効が過ぎて処刑される心配のない殺人犯が、真犯人は私です、と名乗り出たところで、勇気ある証言だと感心する人がどこにいるだろう。

 聴衆も、目の前で悪辣な犯罪に加担した張本人が堂々と後援しているのを聞いたら、ごうごうたる非難や罵声を浴びせるであろう。けれども不可解なことにそうはならなかった。その非道な犯罪者は「アジアに大罪を犯した」などと他人ごとのように述べたのである。これは奇怪なことではないか。

慰安婦問題で、米国にまで行って日本軍は悪いことをしたと、運動して回る反日日本人がいる。彼等は「従軍慰安婦の像」なるものを米国内に建てる運動をしている韓国人と協働している。

 その結果、アメリカ在住の日本人が虐めにあっているという。当然であろう。米国人にしてみれば、性奴隷なる残虐なことを行った民族である日本人には、そんな遺伝的体質があるから他の日本人も同様に、残虐な体質があると考えるのである。

反日日本人自身は、素晴らしい正義の行為をしているつもりであろうが、彼等には同じ残虐な日本人に過ぎないのである。哀れなことに、反日日本人は米国人から自分もそのように見られている、ということに永遠に気付かない。