毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

米国の「海外緊急作戦」予算廃止は台湾侵略の布石

2021-04-23 15:00:06 | 軍事

 『米「海外緊急作戦」予算廃止の意味』というタイトルの、コラムが産経新聞令和3年4月22日に載った。如何に立派な演説を行い、同盟国と共同声明を出しても、先立つものがなけば、行動にはつながらない、として、日米首脳会談が、対中強硬声明を出しても、予算の伴う実行措置がなければ、意味がないということを言いたいのである。

 後段では、「海外緊急予算の廃止」によって海外で突発事態が起こってもり、米軍が緊急出動する特別予算は組めず、基本予算を組み替え費用をねん出しなければならないというのだ。これは尖閣などで緊急事態が発生しても、米国は海外緊急予算は廃止されたのだから、米大統領は即応して使える予算がないから、日本が単独で持ち堪えなければならない、というのが結論だが、これには重大な意味がある。

 中共が台湾に軍事侵攻しようとしたとき、尖閣をベースに素早い対応で、米国が軍事阻止する前に台湾占領を済ましてしまうことができることになる。大統領が即応的に使える「海外緊急予算」が廃止されたのだから、米軍の即応力は無くなり、気が付いたら台湾占領が完了している、ということである。

 バイデン大統領は事あるごとに、対中強硬発言をしている。しかし、これは言辞に過ぎない。実際にやっていることは、中国ウイルスとは呼んではならない、とか、孔子学院への制限を緩めるとかいうことである。そこに、海外緊急予算の廃止は決定的である。台湾侵攻があったとしても大統領の独断で素早い措置を取れない、ということである。

 バイデン大統領は台湾侵攻の布石を打ったのである。バイデン政権は北京冬季五輪のボイコットには動くまい、とすれば北京五輪は無事行われる。そのとき既に抗議のボイコットはやりようもない。とすれば、台湾侵攻は北京五輪終了後に行われるのであろう。ウクライナから核兵器が撤去されたとき、代替措置として米露はウクライナの領土保全を約束した。それはクリミア半島の併合としてあっさり破られた。軍事的措置を伴わない、制裁などは何の役にも立たないのである。台湾についても同じことは言える。


書評・陰謀と幻想の大アジア・海野弘・平凡社

2021-04-18 15:30:44 | 歴史

陰謀と幻想の大アジア・海野弘・平凡社 

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 本の大筋は、戦前戦中の日本がユダヤやイスラム、モンゴル、ウラル・アルタイと言った、アジアのみならず中東、中欧の諸民族との提携の模索や研究が深く行われていて、現在の日本の状況は、それらに遥に劣る、という壮大なものである。ウラル・アルタイ=ツラン民族圏と日本の関係や満洲にユダヤ国家を建てる構想など興味深いテーマが並ぶ。しかし所詮、筆者は東京裁判史観や親ソ親中思想に深く毒されていて矛盾が露呈して本論が矮小化されているように思われる。それがなければもっと深い洞察が出来て面白いものになるはずである。

 例えば内モンゴルのオロン・スムでスエーデンの探検隊が発掘した遺跡からの出土品が、戦後中国に返還された(P225)と書くが、たとえ内モンゴルは現在中共の領土であるにしても返されるべき相手はモンゴルのはずである。スターリンは強力にモンゴルをバックアップした(P210)といいながら、蒙古連合自治政府というのは、日本の傀儡政権だ(P204)と平然とダブルスタンダードを犯す。ソ連が傀儡政権を作ればバックアップなどというのだ。中共や北朝鮮、東欧のソ連の衛星国などは全て傀儡政権から出発している。

 また平然と、日本軍はハルハ河付近で軍事行動を起こした(P209)、とノモンハン事件を起こしたのが日本であると断定しているが、支那事変を戦っていた当時の日本はソ連と紛争を起こす理由はない。そればかりか、もし日本がノモンハン事件で勝っていたら、真珠湾攻撃による対米戦争はあったろうか、とし、ノモンハン事件は日本の南進政策への転機となっている(P210)という馬鹿げたことを言う。要するに戦争の原因は全て日本の都合による、というもので、世界の流れにおける日本の位置というものは考えもしない。まさに東京裁判とGHQがたくらんだ、日本罪悪史観に見事に洗脳されている。この本のテーマが、せっかく日本と多くの異文化の接触の体験という壮大なものであるのに、実にちぐはぐである。

 大東亜戦争がアジア諸国の解放をもたらしたという点は否定できない、と言いながら、もし勝っていたらアジアの解放はなかったかもしれない、と書くのは(P258)余計である。日本に勝機があるとしたら、インド独立などのアジア解放が必要だからである。筆者はGHQに洗脳された人間の特色として、西欧に対しては国家エゴは必要で当然であるとしながら、日本の対外行動に対しては完全無欠な自己犠牲の行動でなければ正当化できないと考えるのである。

意外なのは、「以上の例でもわかるように、大東亜戦争における南方謀略工作は単なる日本の謀略、戦略だけではなく、東南アジア諸民族の独立のための地下運動との関係で読み直すべきではないだろうか。」と書いている事だ。当然ではないか。日本が東南アジア解放を目指したのは、日本のためだったのは当然ではあるが、それが独立運動と連携することなしに成功するはずがないし、成功したのである。たとえ国家エゴを内包していたとしても日本はアジア解放という歴史的できごとを為したのである。日本では産業革命を讃えるが、それは西洋人が純粋に金儲けをしたいと言う動機と知的好奇心が一致したものである。産業革命と呼ばれるようになったのは結果であって目的ではない。しかし一方で、生産物を輸出し原材料を奪うためにアジア・アフリカ地域を植民地化し、その混乱は特にアフリカでは収まっていないと言う甚大な悪を為したことも忘れてはならない。日本人は産業革命の陰の部分に無邪気過ぎる。

また、ジョイス・C・レブラの「チャンドラ・ボースと日本」の序で「日本の歴史家たちは、東南アジアにおいて日本が大東亜共栄圏に托した理念、実現の方法などを吟味することに今まで消極的であった」と書いている事を紹介している。この文言を著者は、モンゴル研究や満洲イスラエル構想など、日本が過去に広くアジアで行った事績を忘れ去った、という平板な意味で捉えようとしている節があるのだが、もっと素直に読むべきであろうと思う。いずれにしても、著者の戦前に対する捉え方の振れが大き過ぎてせっかくの着想が「日本帝国主義」という悪罵で矮小化しているように見えるのは残念である。

 モンゴルに作られた西北研究所について、かの梅棹忠夫が著書で、敗戦直前にモンゴルで純粋でアカデミックなのんびりした研究ができたことを懐かしく回想している事に対して、日本がモンゴルに「純粋にアカデミックな研究所」を作ったと梅棹は本気で信じていたのか(P200)と批判している。さらに1981年にかの地を再訪した梅棹が、なつかしさをのどかに記しているのに対して、この感傷旅行には、戦争はまったく影を落としていない(P204)とも書く。梅棹は戦争責任について反省すべきだと言うのだ。同じ時期に同じ研究所で働いた磯野氏の妻が戦後の感想で「西北研究所の楽しき日々は、日本帝国主義に守られていたものであった」という主旨のことを想い、夫はそれに強い痛みを感じていた(P205)のに梅棹にはなぜかみられないという。筆者は戦前と戦後の梅棹の姿勢が一貫している事をタフだと批判するのだが、私には世間の風潮に迎合しない一貫した梅棹の姿勢が素晴らしく思われる。

この研究所が日本帝国主義の先鋒であったなどという者に限って、日本が勝っていれば平然と別な事を言うのだ。磯野氏は現実にモンゴルで研究をしていた当時その痛みを感じていたのかどうか疑問に思う。戦後世間が変わったから痛みを感じているのではないか。現に筆者は、戦前転向し、戦後再度転向した人物を、何の説明もなく転向し、しかも世間もそれを黙って受け入れたと批判しているではないか。要するに世間は迎合するものは批判しないのである。家永三郎は戦後のある時期まで典型的な「皇国史観」の論者であった。ところが何の説明もなく転向し皇国史観批判を行ったのに、多くのマスコミは絶賛する。何と典型的な転向者の家永を一貫した信念の持ち主と持ち上げるマスコミすらあるのだ。

最後に興味深い記述をひとつ。日露戦争で日本が勝利するとソ連からイスラム系トルコ人が日本に亡命し、「かれらは主としてイディル・ウラル・トルコ人に属し、タタルと俗称されてゐるものである」「いわゆる白系露人といわれたのは大部分、この〈タタール人〉であったらしい」(P178)という。満洲にも白系露人が亡命して住んでいた話があるが、タタール系と言われる人たちなら納得できる。


Yak-25B 完成

2021-04-15 14:47:17 | プラモコーナー

 完成です。細かいステンシルが多いのですが、汚れと区別のつきにくい細かいものは省略したので楽でした。国籍標識の位置が箱絵と説明書と全然違うのですが、もちろん説明書通りにします。両翼端のパイプ状のものはキットのものはテーパーになっているのですが、左右形が不揃いで訳が分からないので、真鍮棒で胡麻化したので、インチキです。主脚カバー内のパーツも意味不明なので、適当です。そもそも、前脚柱のパーツなどは、説明書に部品番号がないといういい加減さなので、このキットの組み立ても全体にいい加減になってしまいました。後輪の組み立てなど、結構厄介なキットです。

 

キャノピー枠はマスキングも楽なのですが、爆撃手窓は一本づつマスキングして手塗りです。仕上がりは感心しません。

 

翼端の補助車輪はYak-28と違い、地上から浮いて、主車輪で支えるはめになってしまいました。

 

原爆を搭載した台車下面ですが、後輪の接着がむつかしく、接着剤でぐちゃぐちゃになりました。

 

原爆の弾頭は案外すんなり台車に接着できました。前後の位置は山勘です。

 

機体と原爆のツーショットですが、やはり原爆は日本人にはあまり気持ちのいいものではありません。

 

 

 

 


Yak-28 完成品

2021-04-05 19:54:30 | プラモコーナー

 Yak-25を紹介していますが、Yak-25の発達型のYak-28の完成品を何年も前に作ってあったのを休憩に紹介します。こちらは爆撃機迎撃型戦闘機です。戦闘機ですが機関砲はなく、4基のミサイルを装備しています。

 機首の透明窓はなく、大型のレドームを装備しています。主翼は付根をYak-25をかなり延長して、胴体も全面的に再設計されています。

 

 車輪は自転車式で変わりません。このキット、よくできたもので、翼端の補助車輪は左右同時にピッタリ床面につくという優れものです。ただし、小さなエアスクープが機体のそこいらじゅうにあるのには参ります。

 

 複座なのですが、窓枠が少ないので、マスキングは楽でした。

 

翼端には左右円錐形のバーが張り出していますが、ピトー管は機首にあるので用途は分かりません。

下面ですが、エンジンポッドに各二個づつ透明部品があるのですが、意味が分かりません。Yak-25と違って、説明書通りに組み立てて、問題はありません。車輪の構造はYak-25と変わらないようです。全体的に、Ya-25より組み立ては楽で、見栄えもします。