毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

戦争ができる国で当然

2014-08-31 13:20:52 | 国防

 集団自衛権問題で、朝日新聞は日本が戦争ができる国になるから、というのが反対理由の大きなものである。だが、これは実におかしな考えである。国会答弁でも政府は専守防衛だと言っていて、護憲政党もこれで納得していたはずである。だから、戦闘機からわざわざコストをかけて空中給油装置を外して、敵基地を攻撃できないようにした。ところが、専守防衛でも、敵がせめて来たら反撃する。これは戦争である。

 日本が戦争ができない国では、専守防衛すらできないのである。突き詰めれば、こうなるのは朝日新聞もよく知っている。そこに真意があるからである。そもそも朝日新聞は軍隊を持つことに反対である。専守防衛と言う言葉を持ち出すのは、政府を攻撃する方便でしかない。彼らには日本が侵略することはあっても、侵略されることはあり得ない。だから戦争ができる国になってはならないのである。


映画寸評・エイセス・大空の誓い

2014-08-24 15:44:10 | 映画

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 古い映画である。日本人への偏見に満ちた映画であることを、出演した千葉真一氏は気付いていたのだろうか。あらすじはこうである。日米英独の第二次大戦のエースパイロット四人が、アメリカ各地の航空ショウで演技を見せている。ある時そのうちの一人の知り合いが事件に巻き込まれて殺される。その結果最終的には、四人が悪人の操縦する飛行機と戦うことになる。

 戦う前夜、千葉扮する日本人はエースパイロットなどではないと三人に告白する。翌日の空中戦で日本人は仲間を助けるために、体当たり攻撃をして死亡するが、悪人たちはやっつけられる、という、ごく大雑把に言えばこんなものであろう。

 ここで日本人に対する西洋人の典型的な偏見が見られる、人を騙す卑劣なやつ、自殺攻撃も厭わない、ということである。人を騙す、というのは真珠湾の騙し打ちであり、自殺攻撃とは特攻隊である。もちろん映画では仲間が自殺攻撃をした日本人に敬意を払っている。だとしても嘘つきの汚名は消えないのである。

 タイトルはエイセス Aces つまり空中戦で5機以上撃墜したパイロットの事をいっている。千葉真一の扮した日本人はエースパイロットではないのだからタイトルのAcesには含まれていないのである。何とも意地の悪い映画ではないか。日本人パイロットが偽エースだと知った米国人観客は、日本人は真珠湾の騙し打ちをする奴らだからね、偽エースもいるさ、と語るであろう。このようにして日本人に対する偏見は地道に定着していくのである。


書評・日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと・高橋史郎・致知出版社

2014-08-17 11:28:53 | GHQ

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 本の内容はタイトルがよく示している。ただし、内容のかなりの部分が子育て問題にさかれているのには、いささか辟易した。日本の教育問題の多くが直接間接に、GHQの占領政策に淵源を発しているのは事実である。だが、私の父母や知り合いの、相応の年代の人をみると、それに関係のない元々の問題もあると思うからである。

また、せっかく江藤淳の「閉ざされた言語空間」に匹敵するテーマでありながら、頁数を教育問題にさかれたせいか、肝心の期待した主題への言及が少なくなっていると思わざるを得ないのである。

むしろ独自で面白いのは、占領政策が日本人に対する極度の、というより異常な偏見によって立案されている、という指摘で詳しく例示された人物の日本人への見方である。それで思い出すのが、平成12年頃に作られた「パールハーバー」という映画の日本軍の描き方である。この映画の日本軍の指揮所の様子などは、どう考えてもアメリカ人ですらこんなことは考えてはいまい、というほどの滑稽でグロテスクな表現である。そんなことはあり得ないと知って、こんな表現を行うのは、日本軍がこうであったという想像によるものではなく、アメリカ人が内心に持っている日本人へのグロテスクな偏見を映像にしてみせた、ということであろうと思う。

当たり前だが「占領軍が東京入りしたとき、日本人のあいだに戦争贖罪意識はまったくといっていいほど存在しなかった。彼らは日本を戦争に導いた歩み、敗北の原因、兵士の犯した残虐行為を知らず・・・日本の敗北は単に産業と科学の劣勢と原爆のゆえであるという信念がいきわたっていた」と昭和二〇年のGHQ月報にあるそうだ「(P91)

それが現在の日本の体たらくになってしまったのは、まさに日本に贖罪意識を植え付ける「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」の大成功が原因である。そのことを著者は義眼を埋め込まれた、と適切に表現している。「挺身隊問題アジア連帯会議」で、インドに住むタイ人女性が「日本軍さえたたけばいいのか。インドに来た英国兵はもっと悪いことをしたのに」と泣きながら訴えると、「売春問題ととりくむ会」事務局長の高橋という女性が、「黙りなさい、余計なことをいうな」と怒鳴ったという記事を読んだ。(産経新聞平成26年5月25日)ちなみに平成26年になって慰安婦を挺身隊と呼んでいたのは間違いであった、と報道した御本家の朝日新聞が認めたから、この会議の名称は詐称であるという皮肉なことになった。

この日本女性は日本軍より英軍がアジアで行った残虐行為がひどいということが信じられず、そんな発言も許せず逆上したのである。しかも善意のやさしい人であるはずのこの日本人女性は、人間としての最低のマナーすらわきまえられなくなっていたのである。理性的に考えれば、タイ人女性の発言が事実かどうかも検証すべきなのだが、できないのである。このように日本軍の残虐行為に異議をとなえると逆上するパターンは、自虐史観の人に多い。それは、心の表層ではなく深層にまで「日本軍の残虐行為」への憎しみがしみ込んで理性を跳ね返すのである。つまり完全に洗脳されたのである。日本にはこうした人物が教育界や政界やマスコミに跋扈していて、日本の思想をリードしている。そういう恐ろしい状態にある。

昭和天皇を裁判にかけないことにした裏の理由のひとつとして、国民からのGHQ宛の膨大な嘆願書の存在があった。(P116)ところが「不思議なことに、いわゆる右翼の人たちはこういう嘆願書を出していません。(P120)」というのだが、考えてみれば当然かもしれない。GHQは日本を支配している外国人である。勝利に驕ってもいる。嘆願書を書くということは、頭を下げてお願いすることである。それができなかったのではあるまいか。プライドが許さないのである。嘆願書を書いたなかで最も多かったのが婦人であると言うのも、それを裏付けている。婦人たちはどんな手段でも天皇陛下を助けたい一念から、プライドを捨てて嘆願書をかいたのであろう。高橋氏の言には、天皇を最も助けようとするべき肝心の右翼が、嘆願書を出さなかったことに対する、言外の非難があるようにも思われる。

左翼勢力が占領政策に協力していたと言うのは事実である。それにしても、GHQの下部組織であるCIE(民間情報教育局)羽仁五郎が密談して日教組を作ったり、共産党の野坂参三も毎日CIEに会って何らかの成果を上げていた(P154)、というのもグロテスクな話である。たとえ共産主義政権実現のためとはいえ、自国を弱体化する政策の実現に信念を持って積極的に参加していた、というのは、ゾルゲ事件の尾崎秀実同様、醜悪である。特にGHQ支配下の日本には、このような人物はいくらでもいた。ルーズベルト政権下で活動していた、コミンテルンの米国人スパイに比べて、質も量も甚だしいであろう。

 


書評・「南京事件」の探究・その真実を求めて・北村稔・文春新書

2014-08-02 11:58:02 | 自虐史観

 南京攻略の際に何があったか客観的に探究していこうとしたもので、いわゆる「虐殺派」からも反論がなかった冷徹なものである、という評価を見て読んだ。確かに著者の態度は慎重かつ綿密なものである。南京大虐殺を告発したとして知られているティンパリーが、実は国民党の「中央宣伝部顧問」であったことに、日本で初めて言及したのは鈴木明氏であるが、同氏が『近代来華外国人名辞典』で発見し、英国の新聞の死亡記事で裏付けをとったのに止まるのに比べ(P31)、著者は更に各種の調査を周到に行い、ティンパリーが東京裁判に出廷しなかった訳など、この人物の素性や行動を調べて付帯的な事実まで発見しているのは流石である。

 例えば、ティンパリ―は、上海から電報を送って日本の検閲に引っ掛かって止められた。これを虐殺派は、日本側が隠そうとしていた証拠であると声高に言うのだが、著者は上海が既に日本側の占領下にあったのを知っているから、わざと検閲に引っ掛かって日本側とトラブルを起こす目的であった、(P50)というのである。日本側の検閲官はこのような情報管理の重要さは考えずに、単に職責に忠実であったに過ぎないの、というのだから情ない。もちろんティンパリ―は日本の検閲に引っ掛からずに記事を欧米に持ちだす手段があったのに使わなかったというのである。現代の日本の史家もこのトラップに引っ掛っているから大したものである。

 著者の冷徹な態度とは反対に「虐殺派」は資料の意図的な誤訳すら平気でする。それは希どころか頻繁で周到なのである。例えば筆者によれば、These areをThere areと読み誤ったものと考えられる誤訳がある。その結果、「報告は全て中国人報告者によるものだ」と訳されるべきなのに、誤訳は「報告は一部が中国人報告者によるものだ」と読み取れるようになっており、他の報告は全て欧米人により「目撃」されたように読み取れることになっている(P118)。これは意味が逆転する、意図的かつ重大な誤訳である。他にも、軍服を着ていない哀れな男を処刑した、と訳すべきところを、平服の一市民を虐殺した、と誤訳している(P120)。平服とはin civilian clothesであるが、原文には市民とは書かれていないし、市民ならわざわざ平服と断る必要もないから、軍人が便衣を着ていたというのが正確な意味なのだ。

 岩波書店の翻訳本「紫禁城の黄昏」は自虐史観に都合の悪い部分が故意に大量に翻訳せずに出版された。また、溥儀は絶対に蒋介石を頼らない、と訳すべきところを、溥儀が最後に頼るのは蒋介石である、と高校生の英文和訳問題の典型を、真逆に訳してあるのは有名である。自虐史観の人たちは、自分の主張を通すためには、平然と嘘をつく癖があるのは、承知している。私自身、左派の労働組合の若者から、自分たちは正しい目的で行動しているのだから、少々の悪いことをすることは手段として許される、と個人的に聞かされて、ぞっとしたことがある。彼らのメンタリティーには何らかの共通する部分があるようだ。

 「軍服を脱ぎ潜伏した中国兵の処刑」(P96)は重大な争点である。問題は、戦闘中に便衣兵を発見してとっさに射殺したケースではなく、難民の中に逃げ込んで摘発され、集団で処刑されたケースである。虐殺派は、便衣兵ではなく、戦意を喪失した敗残兵であるというが、反対に、中国人自身が小型の武器を隠し持つ兵士のグループもいて、日本兵を殺傷したケースもあると証言している(P100)。

 東中野氏は、処刑された兵士は、便衣に着替えて偽装していたのだから、そもそも捕虜となる資格を喪失した、すなわち国際法の保護の対象となる非捕虜であったと論じている。しかし、当時の日本の国際法の専門家たちの間でも、便衣に着替えた者たちの処刑は慎重であるべきだといい、裁判の手続きが必要であると判じていたとして、虐殺派に優勢に展開されている(P101)と著者は言う。

 しかし著者の考究はここに止まらない。当時の欧米の観察者たちは「ハーグ陸戦法規」を認識していたにもかかわらず、日本軍の便衣兵の処刑に対して非をならすことをしなかった。それは、兵士が多数の集団で武器を捨てて、軍服を脱ぎ捨て、民間にまぎれこむなどということなど戦史になく、それゆえ、積極的な判断を下しようがなかっただろう(P102)というのである。問題は戦史に前例がなく、従って陸戦規定の想定するところではない事態が大量に発生したことにある、というのである。

 国際法は当該国に有利に考えるべきものであるという暗黙の了解がある。だから、便衣兵の処刑は陸戦規定のらち外であって、自由に行ってもかまわない、という解釈も成立する。現に銃殺に立ち会って日本軍の説明を受けたふたりの欧米人は、非能率的で残虐だと言いながらも、合法的な死刑執行と述べている。(P102)相変わらず、たちが悪いのは洞富雄編の英文資料編は、誤訳して欧米人が国際法違反として批判している、と書いてあることである。

 ただ、大量の捕虜を捕獲した下級部隊の問い合わせに対して、「適宜処理せよ」と上級士官が応えて、日本的責任放棄をしていることに問題はある(P108)。戦闘行為に支障をきたす緊急の場合は捕虜の処刑も容認できるという国際法解釈(戦数理論)がある。ただこれは当時の陸軍関係の国際法学者の信夫淳平氏ですら、捕虜の処刑に関しては、これを殺さざれば自らの安全を保証しがたい場合に限る、としている(P109)。「南京虐殺のまぼろし」には兵士よりはるかに大量の捕虜を捕獲して、おびえながら監視していたら、暴動が起きて逃亡し、日本兵の死亡者もでたというケースが示されていたと記憶している。これがそのケースだから捕虜であっても処刑してもいいというケースであろう。また、東中野氏は、「捕虜」になる資格がない、と言っているのだから信夫氏の指摘するケースとは一致しない

 著者は「便衣兵として処分したいのなら、『ハーグ陸戦法規』を意識して、少なくとも何がしかの裁判の手続きを踏んでおくべきなのである。たとえ後になり、形式的裁判と非難されようがである。」(P107)これは一見よく考えられものである。しかし、日本軍とて便衣兵を摘発する際に、何の弁別もせずにやったわけではない。中国人の態度や銃によるたこ、言葉などをチェックして便衣兵か市民かを判別する手続きを、一人一人に対して踏んで、市民と判断された者には「安居之証」を交付している。これを著者の言う簡易な裁判と考えることも可能である。

確かに著者の言うように、日本軍には兵站の不備など捕虜に十分な給与ができないなどで、処分しなければ危機に陥ることもあったであろう。しかし、兵站の不備は日本軍の必ずしも兵站軽視の故ではない。急速に拡大する戦線と、ろくに戦いもせずに逃げ回る支那軍の逃亡速度の速さのために、補給はいくら頑張っても追いつかない、という面もあったのである。

ベトナム戦争では米軍が国際法違反の虐殺を行ったとされる事件がいくつかある。これも北ベトナム軍が、国際法に想定されていない非正規戦を行ったことに起因するものもあるのである。米国は支那での日本軍の苦しみをベトナムで味わされた。有名なソンミ村虐殺では、軍事法廷で隊長のカリー中尉が終身刑になっただけで残りは全員無罪である。しかも、カリーは減刑され、数年で釈放された。つまり米政府は、これらの国際法違反事件を自国に都合よく軽視したのである。これらを事件とすれば、「南京事件」は歴史上の事件ですらなく、南京城攻防戦で起きた戦史上のエピソードに過ぎない。

「・・・『まぼろし派』にとっては、食料調達の極端な困難は、監視要員の不足や戦局の緊迫などとともに、捕虜の大量処を弁護するさいに依拠すべき『これを殺さざれば自らの安全を保証しがたい』を立証する重要な要素となろう」、としてヒントを出しているのは正しい。

多分、他の著書では問題にされていない「南京地方法院検察処敵人罪行調査報告」なる資料が紹介されている。虐殺派の洞富雄氏「国際軍事裁判関係資料編」に翻訳収録されているものである。(P142)この資料は南京市民を1945年の冬から46年の2月まで聞き取り調査したというのである。ところが「欺瞞妨害工作激烈ニシテ」住民が「冬ノ蝉ノ如ク口ヲ噤ミテ語ラザル者、或イハ事実ヲ否認スルモノ」ばかりであり、日本軍の殺人を告発するものが極めて少ないと書かれているのである。市民は調査官が誘導しても黙っているか、否定するというのである。

既に日本が負けた時点だから、市民に日本軍が妨害工作をできるはずもないから、実に奇妙な事態である。だから著者はこれを大量殺戮など無かった証拠の一つであると示唆しているのであろう。だが私には別な見方がある。日本は確かに負けた。しかし、国共内戦は逆に本格化し始めたのである。調査された南京の市民は、支配者が真実を調査しているのではなく、自分たちに都合のいい情報を収集していることを、過去の経験から知っている。しかし、日本の占領時代は例外的に良かったとも考えている。

つまり日本軍がいなくなったから、真実を話せなくなってしまったのである。今調査している人たちだって明日は敗退するかも知れない。だから相手の誘導にも乗れないし、真実は喋れないのである。彼らは現在の中国のように支配者が確定すれば、堂々と話すであろう。それは真実ではなく、支配者が望む証言をである。これが今も続いている支那の社会である。

第四部の「三十万人大虐殺説」の成立にはいかに日本の虐殺派が、資料の都合の悪い部分を改ざんしたり、中国側が調査データを誤魔化して三十万人虐殺説となったかを論じている重要な部分であるが、読んでいただくしかないので省略する。ただ、その最後に筆者が、結局はこの事件は中国側の感情の問題であるとして「はたして『南京事件』を含む日中戦争の歴史記述に関して、『感情の記憶』を組み込んだ新しい歴史学の方法論が日中双方の思想界において確立されうるであろうか」としているのはいただけない。

著者はティンパリ―ら欧米人の活動が、中国政府のバックアップに依って行われたことを、他書に見られないほど綿密に論考し、南京大虐殺なるものが、中国の謀略であることを示したのに、最後にはあたかも中国人の歴史方法論や感情の記憶の日本人との相違によるものであるかのような不可知論に到達してしまっている。南京大虐殺なるものは、あくまでも政治的目的のために行われた膨大な中国と欧米の謀略の複合の産物である。支那の大衆の感情などというものは、今も昔も真実は吐露出来ない。それは未来も変わらない。そんな事情に依拠することは無駄であり、日本人はこの国際的謀略から脱却しなければ、永遠に敗戦の亡霊から抜け出せないのである。なるほど、筆者の叙述は冷徹だから感情は抑えるべきだというのは分かる。しかし、中国人の心情には言及して見せたのである。それならば、日本人の心情も顧慮しないというのは、片手落ちである。

そこで最後に付言するが、本書の長所は資料を丹念にチェックし、冷徹に論考していることにある。しかし、忘れられている側面もあるように思われる。著者自身が論考しているように中国政府は、南京大虐殺を政治的に利用するために活動しているのであって、自国民が大量虐殺の犠牲にされたという、人道的観点から様々な研究資料を作成しているのではない。彼らの主張する南京大虐殺より、はるかに大量の殺人と身の毛もよだつ残虐行為を自国民にしているのは、彼ら指導者自身である。それを隠蔽して日本の戦争を批判しているのである。その嘘に引っかかった欧米人、自国によるホロコーストから眼を日本にそらしたい米国人やドイツ人が利用していて、いかに理性的に論じても欧米人にも通じがたい状況にある。

最悪なのは、その洗脳に引っかかった日本人が大量発生し、嘘までついて日本の戦争犯罪を告発することが正義だと確信していることである。日本は四面楚歌にある。このような状況で、一面では著者のような冷徹な議論が必要である。しかし、そればかりではなく、何としても日本の名誉を守るという信念から、国際法などは有利に解釈できるものは、利用する、などの手法も絶対に必要である。

著者は便衣兵の処刑に際して、後日非難されようが形式的にでも簡易な裁判をしておくべきだったと書いた。しかし、日本人の裏切り者は、そのようなものは裁判ではない、と否定するに違いない。本質的には彼らの狂った頭を正常にするしかないのである。日本は大陸での戦争を望んだのではなかった。それにも拘わらず、多くの兵士が非道なやり方で支那人に殺された。その無念を思うことも必要だと思うのである。頑健だった小生の叔父も満洲に派兵されて1カ月も経たずにコレラで戦病死した。だから大陸では七三一部隊のような防疫部隊が必要だったのに、今では人体実験をするための部隊だと宣伝されている。

そして空襲で計画的に何十万の民間人の大量殺戮をした米国が何も非難されず、南京大虐殺などという法螺話が世界に通用するのは、日本が軍事的に徹底的に負けたからに過ぎないことを脳裏に刻んでおく必要があると思うのである。また、筆者の冷徹な観察は、一方で大切であるが、維新以来戦前の日本人が、いかに支那人に悩まされていたかという事実をも没却したものである。支那大陸という場所は、平均的国民に平等な幸せをもたらす日本と異なり、常に一握りの支配者に恐ろしいまでの富裕をもたらす場所であることも忘れてはならない。