毎日のできごとの反省

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帝国海軍の勝利と滅亡・別宮暖朗著

2023-02-12 21:34:01 | 書評

 別宮氏は頑固なのだろうか。自説を唱えるときに有力な反論があっても無視する癖があるように思われる。例えば「作戦計画(国策)にもとづいて第一撃を放てば、先制攻撃を禁ずるパリ不戦条約に違反する。(P175)」先に攻撃した方が侵略者だと言う言い方は、別宮氏が他の著書でもくりかえしている持論であるし、これを根拠に日本は米国を侵略したと言い続けている。不戦条約には正確には「・・・相互関係に於いて国家の政策の手段としての戦争を抛棄することを其の各国人民の名に於いて厳粛に宣言す。」(国際条約集・有斐閣)と書かれている。国策をカッコ書きにして作戦計画を前面に出しているのは、条約の文言には忠実ではなく、別宮氏の解釈を優先しているのだから、正確ではないがこれはどうでもいいことである。

 問題はアメリカが公文として「不戦条約の米国案は、いかなる形においても自衛権を制限しまたは毀損するなにものも含むものではない。この権利は各主権国家に固有のものであり、すべての条約に暗黙に含まれている。・・・事態が自衛のための戦争に訴えることを必要とするか否かを独自に決定する権限をもつ。」(前掲書)と公表していることである。つまり不戦条約は自衛戦争には適用されないし、自衛戦争か否かは自国に決める権利がある、と言っているのである。このことには英国も追従している。さらにアメリカは、戦争を始めるのが自国内かどうかを問わない、とし、経済制裁も戦争を構成するとさえ声明している。日本を擁護する人々は、これを根拠として対米戦が不戦条約違反ではないと主張するのは当然であろう。不可解なのは、博学な別宮氏はこんな主張はとうに知っているのに、何故無視し続けているかである。米国などは、不戦条約は、中南米の米国の影響圏には適用されない、とさえ言明しているのである。不戦条約は理想の言葉だけ高く、始めから形骸化していたのである。

 また軍事を論じている割には兵器に関する誤記もある。九六式艦戦の構造などの設計思想が零戦に引き継がれたのは事実であるが、長大な航続距離を誇ったと言うのは間違いである(P186)。九六艦攻が同時代のソードフィッシュやデバステーターをはるかにしのいだ(P187)というのは九七艦攻の間違いである。もちろん九六艦攻は実在した。雷撃機は複座であり、急降下爆撃機(艦爆)は単座である(P196)というのも思い込みを確認しなかったためのミスであろう。「駆逐艦は対空兵装が全くなかった。主砲は立派であったが、仰角があがらず高角砲として使えなかった(P193)」とあるが、艦砲は仰角を上げれば高角砲に使えると言うものではない。米海軍の駆逐艦は対水上射撃用主砲だけを積んだ駆逐艦の建造は一九二一年まででほとんど止めて、それ以後は大部分が、対空射撃兼用の両用砲を積んでいる。もちろん両用砲搭載艦は対空火器管制装置を搭載しているから防空能力は高い。

 日本の駆逐艦で本格的な対空火器管制装置の九四式高射装置を搭載したのは防空駆逐艦と称した秋月型だけである。別項で論じたが、日米の対空火器管制装置の性能による命中率の差異は格段の差がある。だから、旧海軍関係者が自慢する秋月型の防空能力は、第二次大戦で米海軍が最も多用したフレッチャー級の足下にも及ばない。対空射撃能力は高角砲の発射速度とか初速と言ったカタログデータだけでは判定できないのである。

本書P223の輪形陣には何気なくアトランタ級軽巡が描かれているが、これは、駆逐艦と同じ両用砲と対空機銃を多数装備した、防空巡洋艦である。単に陣形が優れているだけなのではない。日本の重巡は主砲の仰角が艦隊決戦用のために上げられなかったが、上げることができれば対空射撃に効果を上げたと予想される(P221)。実際には75度まで仰角を増やした重巡もあったが、実用上は55度に制限されていた。それでも対空射撃可能であるとしていたのだが、効果があったと言う戦訓はない。それどころか20cm以上の大口径砲弾の射撃は機銃による対空射撃を妨害する。

主砲発射の際はブザーで警告して機銃手は艦内に退避するが、大和級ではこの手順が適切に行われずに主砲の爆風で機銃手を殺した例すらある危険なものである。遠距離は大口径砲、中距離は高角砲、近距離は機銃と分担する方法はある。しかし、大口径砲は危険で機銃とは同時使用できないから、大口径砲が使用できるのは、空襲の最初の射撃に限定される。だから日本海軍以外に大口径砲を対空射撃に使った国はないのである。

以上問題点をあげたが、本書の価値を減ずるものではない。本書では陸軍のボスとされる山県有朋が、通説に反して柔軟な人物であることが書かれている。明治26年の山本権兵衛の海軍の将官整理に疑問を持った山縣は山本を呼び付けて趣旨を問うたが、納得すると「その後も陸海対立が生じると常に山縣は権兵衛の意見を聞いて、陸軍を譲歩させ妥協させる方向で動いた。」(P63)日露対立すると「山縣有朋は戦争に反対した。陸軍に必勝の策はなく・・・」(P98)。反戦だからといって褒める必要はないが、理性的に考えることが出来る人物なのである。

東郷平八郎も秋山真之もジュットランド海戦を、英海軍の被害が大であるが、制海権を保持したために勝利であった、と述べた。筆者はそれに納得して「帝国海軍は彼我の損害の点では勝利しても、決戦海面から逃げるのを常とした。(P153)」と酷評するがその通りである。昭和の海軍は制海権の思想がないことの延長として、船団護衛も通商破壊戦も上陸作戦阻止も行わなかったのである。

本書の最大の眼目である山本五十六批判の要点は、山本が典型的軍官僚であって(P285)ハワイ攻撃計画を作成し、戦略眼のない官僚的作文の実行に固執し日本を敗北に追い込んだ経緯は、第一次大戦のドイツのシュリーフェンプランに酷似している(P285)ということに凝縮される。旧海軍の幹部は戦後山本を親米反戦家のように称揚するがそんな単純なものではない。山本は真珠湾攻撃で主力艦隊を撃滅すれば戦意喪失すると、「勝敗を第一日において決する覚悟を要する(P241)」という意見書を及川海相に提出したのだ。結果はその正反対であり山本の知米派と言う評価は間違いである。

真珠湾攻撃が成功した同日の昼、山本長官の指揮する連合艦隊主力が小笠原方面に向かったのは通説のような論功行賞の為ではなく、残りの太平洋艦隊が大挙出撃するのを迎撃する「暫減邀撃作戦」の実行であった(P266)というのは確かに一日決戦論と符合する。山本はそれが生起しないと見ると、次の艦隊決戦の機会の為に航空機による暫減邀撃作戦暫減邀撃作戦を続けてラバウル方面で貴重な艦上機を陸に上げて消耗し尽くした。山本は航空主兵論者ではなく、著者の言うように戦艦による艦隊決戦論者なのである。

筆者は対米戦は避けられたという考え方のようであるが、賛成しかねる。「岩畔豪雄陸軍省軍事課長と野村吉三郎駐米大使の対米交渉がようやく実を結んだ。「四・一六日了解案」と呼ばれる協商案で、満州国承認から八紘一宇までを認めたもので、アメリカができる最大譲歩であった。アメリカは苦境にあるイギリスを日本が攻撃する可能性をみて譲歩した。(P249)」というのだ。これは松岡外相によりつぶされたのだが、成功したところで米国は、開戦を先延ばしにしたのに過ぎない。別項で述べたように、米政府は対日戦を欲していた。スターリンも毛沢東も日米戦争を望んでいた。これらの勢力の暗躍により日本は確実に戦争に追い込まれていたのである。

かの清沢洌は、当時の昭和十年危機説が、軍縮条約会議の決裂が原因だと言うことを批判した。軍縮条約がなくなったからすぐ戦争は起こらない、建艦競争が始まって戦争の危機が来るとすれば、それがアメリカの現在の建艦計画が完成する昭和十三、十四年頃であろう(清沢洌評論集P281)時期が正確かどうかは別として、米国は対日戦備ができるまで戦争はしない、と断言しているのだ。後知恵ではない卓見ではないか。

残りは注目すべき指摘をいくつか。「英仏と違ってアメリカには、合衆国法が国際法や現地法より優先するという域外適用といわれる独善性がある(P17)」その通りで、パナマのノリエガ大統領を麻薬取締法違反でパナマに侵攻して逮捕して米国内で裁判して懲役にした。信じられない話である。第二次大戦で日本海軍がソ連の脱落を狙うインド洋作戦をさけたのは、ロシアが知性的に弱いという戦略的判断が欠如していたため(P141)であると言うのだが、イギリスを脱落させるためにインド洋作戦が必要だったと言う説は、多くの人が唱えている。「独ソ戦勃発前、東條陸将を筆頭に陸軍には三国同盟について懐疑する意見の持ち主が多かった。(P255)」独ソ戦前なら三国プラスソ連の同盟論が松岡外相にも陸軍にもあったはずなのだが。何を根拠に言うのであろうか。氏は多くの資料をよく読んでいるのに綿密な考証に欠けるところがあるように思われる。少なくとも考証の過程を提示しないことが多く断定的である。


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