毎日のできごとの反省

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零戦はギリギリに設計されているため発展性がなかったという神話

2019-07-23 21:00:13 | 軍事技術

 一般に、第二次大戦当時の日本の軍用機、特に戦闘機はぎりぎりまで切り詰めて設計されて余裕がないため、改良発展の余地がなかったと言われる。例えば零戦が十二試艦戦の時の瑞星を除き、栄系統のエンジンで通し、沢山の型を生産した割にはエンジン出力も最大速度もたいして向上していないことについて、多くの本が、ギリギリに設計されているので発展性がなかったからだ、とコメントしている。それは本当のことだろうか。

 飛行機の機体は、空気力学上の要素を除けば設計上は構造物である。ギリギリに設計されていた、と言うのはどういう意味だろうか。構造設計の考え方のうち応力について概観してみよう。構造物は、発生する応力が許容応力以下であることが必要である。応力とは、荷重により物体内部に発生する力を単位面積当たりの力(N/m2)で表わしたものである。許容応力とは、材料が設計上許容できる応力(厳密な表現ではないがお許し願いたい)だから、計算上発生する応力は許容応力以下でなければならない。許容応力は材料の種類と設計対象の構造物の種類によって技術基準等によって決められている。

 最も良い構造設計は、発生する最大の応力が許容応力に等しいことであると考えられるが、構造物は複雑な構造をしていることや、他の要素もあるので、全ての部材をそのようにすることは現実的には不可能である。しかし一般的にギリギリの構造設計をする、というのは応力の観点からいえば、できるだけ多くの部材の応力を許容応力に近くする、と言うことである。構造設計上の応力の観点からは、できるだけ多くの部材の応力を許容応力に近くする、と言う努力をしない設計者、というのはありえない。与えられたエンジンと設計仕様に対して、構造設計上ギリギリの設計をするのは当然のことなのである。

 零戦より何年も設計が古く、最後まで改良され続けたドイツのMe109や英国のスピットファイアは構造上ギリギリの設計をしていなかったから、改良が続けられたのであろうか。もちろんそうではない。改良によって重量が増加すれば、それに見合った強度となるように部材の厚さを増やすなどの設計変更をしているのである。両機とも、将来の改良をみこんで、計算上の応力が許容応力を大きく下回るような「ゆとりのある」設計をするはずがない。そんな者は設計者失格である。

 機体設計上のゆとりのもう一点はエンジン出力に対する機体のサイズ、と言うものがある。簡単に言えば、重量と寸法の小さい機体に過大な出力のエンジンを積めば、トルクにより機体が振り回されてしまう。十二試艦戦は全幅12m、全長8.79m、自重1.65t、全備重量2.34tである。Me109の試作一号機は全幅9.87m、全長8.58m、自重1.5t、全備重量1.9tである。寸法も重量も零戦の方が大きいのである。Me109はエンジントルクの影響を解消するために、垂直尾翼の断面を非対称にさえしている。他にもそのような例はあるが、Me109の場合は高性能をねらってエンジンサイズに比べ機体サイズを切り詰めた結果によるものであると考えられる。つまり機体の大きさから言えば、Me109は零戦よりゆとりがないギリギリの設計なのである。それにも拘わらず、原型1号機から最終型に至るまで、大幅なパワーアップをしている。

 著書による限り、設計者の堀越技師自身は零戦はギリギリに設計されていたため発展性がなかったとは言ってはいない。それどころか「零戦」(朝日ソノラマ昭和五十年版)で「・・・最後型となった五四型丙は二年も早く生まれ、恐らくはその後もさらに改良されて、零戦は依然としてその高性能を誇っていたかもしれない。」(P262)と書いている。これは昭和十七年に海軍に金星エンジンへの換装の指摘打診を受けた際に応じていれば、五二型が登場したのと同じ昭和十八年に大幅に出力向上した高性能の機体が出来ていたはずだと言っているのである。

 同じ著書で「・・・たとえば金星換装などは外国人、特にスピードの速いアメリカ人には余りにも遅かったように見えたようであるが、これを、日本は外国の模倣ばかりしていたから戦争のために外国の資料が入らなくなるとよい知恵が出ない、とするには当たらない。・・・これを一口にいえば、日本の産業の規模が全般的には世界一流の水準からは遠い状態にあったということである。・・・経験ある技術者の過小とも重なって、着想から実験、設計、試作、実用に至るまで非常に時間がかかった。」と言っている。機体がギリギリに設計されていたから改良できる余地がない、とは設計者自身が考えてはいなかったのである。

 海軍の早期の私的打診応じることができなかったのは、堀越技師が過労で倒れる位忙しかったからである。ちなみに役所というものは、事前に「私的打診」をして可能性を見極めてから公式指示することが多いから私的打診と軽視はできないことは一言しておく。堀越が応じられなかったのは日本航空工業一般の基盤の貧弱さによることがあるかもしれないが、三菱の設計体制の非効率によるものである、という説もある。いずれにしても種々の要因が重なったのであろう。

 今となっては判然としないが、昔の雑誌で、零戦に誉エンジンを積むことはできなかったのですか、という質問に、堀越技師が、できた、と答えたのを読んだ記憶がある。これが小生の記憶違いであるにしても設計上は可能だったのである。もちろん翼断面の再設計まですることになったのかも知れないが、誉がまともなエンジンであれば大幅な性能向上が期待できたであろう。現実には烈風にさえ零戦五二型丙なみの低い翼面荷重を要求する海軍は受け入れなかったのに違いはないのだが。

なお、陸軍では隼にさえ、誉搭載の試算を行っていた(雑誌丸2019.6月号)とされている。この記事で筆者は、隼の機体に誉を積んで、再設計をするなら、新設計のほうが早かった、と書くがこれは一面の事実に過ぎない。誉換装で、最低限の設計変更したほうが、機体の特性は分かっているし、生産用の治具も極力流用すれば、生産の遅滞は新設計より少なく、現実的である。新設計では絶対的に時間がかかる。このような発想が、現在の自衛隊に至るまで、既存設計装備の活用を妨げている。ソ連のT-64,72戦車シリーズを見よ。1964年の設計が現在まで改良され続けている。車体規模は小さいし、ディーゼルエンジンをガスタービンに積みかえたものすらある。

 余談になるが、日本の発動機技術は決定的に遅れていた。そして機体設計においてもセミモノコック構造のの中で、既存の設計手法の範囲内で多くの努力を費やしていた。従って開戦前に輸入したDC-4にさえ、同じセミモノコック構造ながら、新しい設計手法を学ぶことが大きかったのである。最も得意であったはずの空力設計においてさえ、米国が直面していた急降下時に生ずる遷亜音速領域の現象など、至るべくもなかった。これらのことについて、当時の日本人技術者から素直に語られることはなく、抽象的に工業基礎構造の遅れとしてでしか語られないのは残念である。今でも最先端技術分野においては、類似のことが見られるからである。

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