毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

日本農業異見

2020-06-30 22:21:47 | 政治経済

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 私の田舎は父の代まで専業農家だった。父は長男(私の兄)が県庁勤めするとまもなく亡くなったから、それからは母が細々と続けてきたが老いてからは止めた。その母も80台半ばに亡くなったから誰も農業はしていない。その間広かった田畑は次々と道路や公園などの公共施設に売ってしまって、僅かな田圃が残っているだけである。今も稲作をしてあるところは自前ではなく人に貸して作ってもらっているだけである。残りは休耕田となっているから形式的には兼業農家である。だから減反奨励金を受け取っているのであろう。 

 祖父は耕運機が発売されるといち早く買った。母が大変だから、と言った。祖父は寡黙で朴訥だったがやさしかった。その代わり馬が売られて行った。夜、白熱電球を煌々と点けて最後の飼葉を食べさせてからトラックに乗せられた。その時の潤んだような大きな馬の目は悲しい想いと共に忘れ得ない。母は農家の生まれの癖に体が弱く、農繁期を過ぎると必ず一週間ほど寝込んだ。祖父はそんな母を気遣ったのである。

 祖父が耕運機を買ったのは、収入を増やすのではなく、楽をするためであった。農業機械があるからと言って、農業規模が増えなければ収入は増えない。農業機械を買う経費だけ収益は悪化するのである。その上に農業機械は1台が年間に数日しか稼働しない。そして当時の耕運機などは、3年もすればガタガタになって買い替えた。農業機械や肥料を買うのはもっぱら農協を通してである。米は農協が全部買いあげてくれる。こうして儲かったのは農協だけである。近くの農地がいつの間にか農協に買われて運動場のような広場がある農協の出先ができた。太ったのは農協だけである。

 一級上の近所の女の子が高校を卒業して農協に入った。その子が親に連れられて夕方、農協貯金に入って下さいと我が家を訪れた。こうして多くの農家の子弟は農協に採用されて兼業農家になった。高価な農業機械を買って、子弟を教育するためには現金がいる。こうして多くの農家が兼業農家になっていった。農協は農家の上に君臨している。TPP参加の問題が起きると多くの農家が反対した、と言うのは正確ではない。かつてTPP問題のときに報道されたテレビをよく思い出して欲しい。TPP反対の先頭に立っているのは農民ではなく、JA全中すなわち全国農業協同組合中央会である。

TPPに参加すれば、日本の農業は合理化しなければ立ちいかなくなる。合理化のためには、農協の独占的利益によって効率が悪くなっている日本農業を改革しなければならなくなる。多くの中小規模兼業農家は独立して経営する能力が無いから、農協に頼らざるを得ない。その状況を打破しなければ農業の合理化は成らない。現在農地を取得できるのは農家だけである。株式会社が農地を取得して農業が出来るようにすれば、会社にとって農協は不要である。

 そうすると農協は崩壊する。農協は子弟を雇っている事や農協に頼る農家をまとめて、政治活動を行い自民党の農水族議員を育てた。農水族議員は米価の逆ザヤや、補助金等を農家に垂れ流し、結果的には農業の効率化を阻止した。旧来の農業をしていて済むから改良努力をしないのである。農協が農業技術の改良をしているのはもちろんである。しかしそれは既存の農業政策の枠内であり、逆ザヤや補助金を前提としたものである。

 TPPに参加したら日本の農業は崩壊する、と言われてきた。しかし我が実家の現況を見るとわかるが、日本の農業の多くは既に産業と言える状態ではなく、崩壊している。産業の体をなしているように見えるのは、多くの税金が農家と農協につぎ込まれているからである。日本の工業が興隆したのは保護によってではなく、自由貿易によってであった。繊維の自由化によって崩壊したはずの繊維産業は、化粧品ばかりではない、最新の旅客機を作る高強度炭素繊維を開発してよみがえった。日本の農業の再生は農地の利用を農家に限定するのではなく、株式会社に開放することである。じいちゃんばあちゃんの三ちゃん農業に技術開発、品種改良や営業活動ができようはずがない

 農協はその点は農協がやっている、と言うであろう。そこも盲点である。自分で生産をする会社ならば技術開発、品種改良や営業活動は死活問題である。農協はあくまでも農家とは別個の組織である。だから農協にとっては死活問題ではない。産業は顧客のニーズが育てる。そのニーズに農協は第三者としてしか関係できないのである。そこに効率の悪さがあるし切実さもない。

 しかも農水族に頼ると言う一見、一番楽で効率的な方法がある。しかも農協は特権的地位を利用して観光や金融など本来の任務以外に肥大化してしまっている。今や農協の目的は農家の育成ではなく、農協組織の維持である。農協は戦後農地解放によってできた中小農家の育成の時代には大きな役割を果たした。しかし既にその役割は終わったのである。

 我が家の新しい墓地は、遥か遠くにできたので皆車で行かなければならない。母が死ぬ直前に、あそこまでも我が家の田畑だったといった。それほど広大な地主だった我が家が落ちぶれたのは、戦後の農地解放によってではない。病気がちだった曾祖父の治療費のために土地を切り売りしたことや、分家に土地を貸すと居住権でむしり取られ、戦後の農地改革以前に、既にようやく専業農家がやれる程度に落ちぶれたと聞いた。

 かつては地元の豪族であった痕跡は、わずかに戦国時代のいくつかの古文書と槍の穂先位しか残っていない。刀もあるが、何と祖父が鉈代わりにするために半分に折った上に切っ先を成形したので見る影もない。侍だったはずの我が家の心は、長いうちに農民となっていた。

その農民の子弟の小生が農業再生のためにはTPPは有効であると主張する。ショック療法でしか農業の再生はないと思うのである。

 

 


ルドベキア

2020-06-26 20:39:06 | 日本の風景

 私の生家は富士山の麓である。標高が500mあったから、高原に近い気候である。田舎だから旧家で、今から見れば貧しい割には屋敷だけは広いから、庭もやたらに広く築山があった。築山に毎年七月二〇日過ぎに咲く花があった。この花が咲くと梅雨があけて夏になったと思ったものである。今でこそ人並みの身長はあるが、小学校六年の時には身長が130cmもなかったから、その花は私の背丈より遥かに高いのを見上げていた。レモンイエローのダリアのような花である。その後見たのは10数年前の軽井沢だったからやはり高原の花なのである。それが、最近になって引っ越した近所の緑道公園に咲いている。

 それが下の写真である。昔職場で趣味で花に詳しい人に名前を調べてもらったら、探しあぐねた末に、オオハンゴン草ではないか、ということだった。流石である。ところがネットで調べると、オオハンゴン草はもっと赤みが強く、この花のように真ん中が黄緑ではなく、茶色でキバナコスモスのようだったので、名前の謎は深まった。

 

 ようやくわかったのは、駅中の花屋で売っていたからである。洋名ルドベキア、和名オオハンゴン草の一種だと言うことだった。しかも真ん中が黄緑なのは洋種のルドベキアでも珍しいそうである。その後都内をママチャリで散策すると、旧中川沿いの花壇と、隅田川のほとりに群生していた。しかし、どちらも一度見たきりで同じ場所を訪れても二度とは見ない。繫殖力が強いので、どんどん殖える。多分それが嫌われて根こそぎ引っこ抜かれたのだろうと思っている。田舎では七月二〇日過ぎに咲くと言ったが、東京で見るものは、1か月以上早く咲くし、背丈も2mはある。気候が違うせいなのだろう。

 

ルドベキアはオオハンゴン草の洋種である。だから古里になぜ咲いていたのか分からない。しかし古里は当時米軍基地の街だった。一時米軍の将校さん若夫婦に間貸しをしていた。彼らとともに来たのかも知れないと夢想している。ちなみに小生の初の記憶は金髪の(記憶ではそういうことになっている)奥さんに抱っこされて、奥さんの顔を見上げた一瞬の光景である。将校さん夫婦がいた年から逆算すると一歳ころ、ということになる。小生は母に抱かれた記憶がないのである。

 緑道公園には今は盛りのアジサイも咲いている。自慢にもならないが、私は花の名前はちっとも憶えない。しかし、ルドベキアの名前はだけは忘れ得ない名前となった。最近は生家に帰ることもなくなったから、近所の緑道公園のルドベキアがアジサイとともに咲くのが懐かしいのである。


できそこないのJu288 V103

2020-06-23 20:32:07 | プラモコーナー

 カントZ501はようやく出来上がりましたが、我が家にはまだまだ、できそこないが残っているのです。このキット製作には、考証ミスもあるのですが、説明書通りだと開き直っています。例えば上側面色と下面色の境ですが、比較的多数残っているV103の写真を見れば、バレバレですがいかんともし難いので放っておくことにしました。この方がカッコイイのです(;^_^A

 Ju288といえばエンジン選定に苦労していますが、He177と同じエンジンをつけたのがV103で、一応の決定版です。従って見た目は双発なのに、実質4発なのです。ところが、機体サイズを双発に近くしたので、速度性能だけはやたらにいいのです。

 

実機を見ると、主脚カバーの大部分は、脚が出入りする瞬間だけ開いて、いつもは一部を除いて閉じている仕掛けなのですが、キットを素直に組み立てるとそうはいきません。カバーを閉じると主脚の後方支柱が当たるのです。キットのメーカーのフーマはかつてドイツの珍機を一生懸命出していましたが、大甘のスジボリで悪評が高かったのですが、、この機体だけは、いい感じに仕上がっているから不思議です。グリーン系二色の迷彩も似合っています。特徴あるキャノピーなんかもうまくいきました。

 

 この機体の最大の魅力は、丸っこい機首のキャノピーと、双発なのに四発と言うごつい、エンジンカウリングにあります。ドイツ機の常で、ラジエターはエンジン前面の銅色のパーツです。中々迫力があります。過給機のエアインテークは、エンジン両端の主翼にあります。しかも搭乗員は、ガラス張りのキャノピーの4人だけです。リモコンの機銃座は4カ所もありますから、いざとなったら、パイロット以外は機銃の操作ですが一人足りませんから、全部の銃座を同時に操作できるわけではありません。機首に搭乗員を集中するという思想が、日本海軍の銀河に受け継がれたのですがリモコン銃座だけは真似できませんでした。見ようによっては、この機首、銀河に似ていませんか。ちなみにJu388はJu88の最終発展型でJu288とは系統が違いますが、キャノピーの形状がよく似ています。

 御覧のように、未完成はプロペラが主ですが、最近の雑誌でHe177のペラ径が4.5mと判明したので、V103も同じだと分かります。ジャンクパーツからから少しだけ大きなのを調達できましたから、切り詰めればいいのです。スピンナーキャップは三枚用のものででっち上げます。キットの箱が消えたので残りのパーツも消えたので、尾部銃座はプラバンなどで自作です(*の図面から)。元々キットのペラは寸法さえいい加減で使い物になりませんでした。

 

こう見ると与圧室用の丸っこいキャビンがカッコいいです。キャノピーの透明度もフーマにしては上出来です。それにしても、Ju288シリーズはそこいらじゅう弄くり回しているのに、ごく初期型以外は、どれも内翼が食い込んでいて、構造的には不可解ですが、魅力的ではあります。

 さて頭の中では、いかにして仕上げるか、イメージも材料も揃ったのですが、カントZ501同様、完成はどの位かかることやら。ここまで来るのに五年以上は経っているのですから。しかし、一点だけ修正できない大間違いがありますが、目をつぶることにします。その点は完成時に披露します。

資料* WARPLANES OF THE THIRD REICH、William Green著、この本高いですが、第二次大戦のドイツ機のハンドブックとして使えます。ただし、Ju288のプロペラの記載はありませんでした。


栗田艦隊の謎ではない反転事件

2020-06-19 14:10:28 | 大東亜戦争

  大東亜戦争の海戦史で必ず語られるのが、フィリピン沖海戦の「栗田艦隊謎の反転」である。空母を基幹とする小沢艦隊が囮となって米機動部隊を北方に集めている隙に、栗田艦隊がレイテ湾に突入して、米戦艦部隊と上陸部隊を撃滅する、というものである。そしてハルゼー艦隊を北方に誘う囮作戦自体は成功した。ところが米艦上機の執拗な攻撃で武蔵などを失った栗田艦隊は、レイテ湾の目前で突入を行わず、北方の敵機動部隊を攻撃する、と称して帰投してしまったのである。

 これに対して、レイテ湾の米戦艦群は西村艦隊との夜戦で主砲弾を消耗していたから、突入したら大和以下の栗田艦隊が撃沈して、上陸部隊も艦砲射撃で撃滅できたから、栗田中将は臆病風に吹かれたのだと言う説が戦後定説であったように思う。その後、レイテ湾の米艦隊の残弾数を算定して、実際にはかなり砲弾が残っていたから返り討ちになってしまうのが落ちだし、上陸は既に成されていたから、栗田艦隊は空の輸送船を砲撃出来たのに過ぎない、と言う説が出てかなり信憑性があるようである。また囮作戦の成功を栗田艦隊が受電しなかったので仕方ない、と言う説もある。肝心の栗田は戦後も生き残ったが真相を語らず、僅かに「疲れていたからだ」とだけ語ったとされている。

 最近はネットなどでも、囮が成功しようとしまいと、小沢艦隊の全滅を犠牲にした、乾坤一擲の作戦なのだから、突入した後の成否に関係なく、予定通り突入を決行するのが当然である、と書かれているがその通りであろう。これ以後連合艦隊の戦艦群は呉で浮き砲台となって組織的行動は取れず日本海軍はフィリピン沖海戦で壊滅したのに等しい。それ以後の海戦と言えば僅かに、何の戦果もない大和の沖縄特攻作戦を行っただけだから、栗田が戦艦を保全して帰ったのには意味が無いのである。

 私にとって不思議なのは、北方にいる機動部隊を攻撃する、といって実質逃避したことに対する批判が少ないことである。栗田艦隊がレイテ湾突入を断念したのは、サマール沖海戦で艦隊の隊列が混乱したために米空母群の追跡を諦めて艦隊の陣形を再度整えて、再度レイテ湾に突入しようとしたところ、北方に米機動部隊がいるという無電があったから突入を止めて機動部隊に向かった、というのである。これがどんないい加減な話かと戦史家は思わないのであろうか。サマール沖で戦った相手は、護衛空母艦隊に過ぎなかったが栗田艦隊は正規空母群すなわち機動部隊と見做していたのである。目の前にいる機動部隊から逃げ出して、いるかいないか分からない不確かな北方の機動部隊を追跡する、と言うのはどう考えても理解できる話ではない。

 栗田が陣形を立て直して、レイテ湾への突入を止めるのなら、まず現に確実にいる機動部隊の攻撃に再度向かうべきであろう。北方に機動部隊ありとの無電を発した日本軍部隊は未だに知られていない。護衛空母を救うための、あるいはレイテ湾突入を防ぐための米軍の偽電であるという説もある。果ては入電は栗田艦隊の司令部のでっちあげである、という説さえある。だが無電の真偽などはどうでもよい。北方の機動部隊を攻撃するため、ということを口実に戦場から逃げ出した、と言うことだけが確かなことである。

  ただ一言だけ日本海軍のために弁じたい。かの伊藤正徳氏は「連合艦隊の最後」においてフィリピン沖海戦について「無理の集大成であり、そして無理は通らないという道理の証明に終わった」と書いている。実に正しい評価である。しかしレイテ湾米軍上陸のあの時点で、連合艦隊は他にいかなる効果的な作戦を実施すべきであったろうか。寡聞にして代替の作戦計画の提案した戦史家を小生は知らない。この作戦の場合、代替案のない批判は無意味ではなかろうかと思うのである。


できそこないの カントZ.501のお終い

2020-06-15 17:26:38 | プラモコーナー

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 ようやく、できそこないが完成になりました。実は前回と幾日たっているか記憶はありませんが、前回からの実作業時間は接着の乾燥を含めて一週間しかかっていないのです。要するに気まぐれです。前回からワンステップ進行した完成直前の姿です。銃座に機銃と風防が付き、張線が張られた状態です。

 

 正直に言うと、ネットで「カントZ501」とひくと、見事な同機の完成作品があるのには呆然としました。細部も塗装も地味ながら見事で、一瞬製作をやめようと思ったくらいです。尾部の脚立のようなものが、同じであることから、同じキットの完成品であることはまず間違いありません。正直、地味なオールシルバー仕上げですが、資料の駆使や製作塗装技術などは小生の到底及ぶものではありません。ですから張線の位置などは、この作品によりました。キットの箱絵にも説明書でも張線の位置は分からないからです。

 下の写真の右舷の棒が見えるでしょう。小生はピトー管とふんだのですが、キットにもパーツはありましたが、先の完成品の写真とは異なるのです。そこでプラ棒ででっちあげてしまいました。

 

 ところでこの機体、750馬力(*)の単発機なのにやたらにでかいのです。同じ単発でも下のように、翼幅は109の二倍半はあるのです。この109は二千馬力あるから、その違いは驚きです。もっとも109は初期型では600馬力ちょいでしたから、109の進化がすごいとも言えるのでしょう。

 

 写真では分かりにくいのですが、この製作の目玉である、赤いストライプは一部汚れがある以外は我ながら文句なしでした。ストライプの上に赤丸を塗ったのですが、普通、モデラーなら、赤丸の中にストライプの線が残るだろうと気になるところです。ところが、時間がたって消えたと見えて、目視でもよほど注意して、ようやく線が見えるかどうかの程度になったのは不思議です。ですからネットの完成品に比べて威張れるのは、これだけです。

 

 銃座は銃架と弾帯が一体となった奇妙なもので、どう取り付けていいか分からないので、銃座の穴に「銃手の邪魔にならない」ような横棒をつけて、その上に乗せました。ちなみに、下のように、赤丸のついたストライプのすぐ内側のとなりのストライプとの間隔が他のカ所と違いますが、これは説明書の図面を極力忠実に再現した結果で、故意ですので。

 

 プロペラも塗装がシルバーとしか指定があるだけなので、ネットの見本に従って裏面だけ艶消し黒である。

 

 

 爆弾ももっともらしくぶら下げたが、爆弾架が骨組み構造の都合で30度位傾くと言うできになってしまった。主翼支柱の途中が爆弾架になっているとは爆弾を取り付けるまで気づきませんでした。大事な工程なので、気付いていたら、やたらにこだわって、出来上がらなかったかも知れません。

 

 

 ネットの見本には箱絵にもない張線がしてあるので、とにかく真似て全部張りました。そもそも水平尾翼上面の4本の張線などを含めて、説明書には張線の指定など何もないのです。ネットの見本でも張線は案外太いので0.4mmプラ棒でごまかしたが、少しも太すぎの感じがないのです。図体がでかいせいでしょう。

 

主フロートは台車に支えられているが、台車とフロートがヒッタリなじむので、接着しなくてもくっついてきます。

 

 下の写真でわずかに分かるが、ストライプはうまくいったが、何せ、国籍標識の白から、ストライプが透けて見えるのは、いかんともできないのです。

 

 まあとにかく、完成はすまいと思った機体だが、ネットの見本のおかげもあって、完成したのは有難いというしかありません。イタリア機のゲテモノかもしれないが、作ってみれば、箱絵に騙されて作って良かったと思う次第です。

資料(*)ミリタリーエアクラフト1994.11号 第2次大戦 フランス/イタリア機

 

 

 

 


武漢コロナウイルス陰謀説パート4

2020-06-08 17:13:53 | 支那大陸論

黒人暴動による、香港デモ弾圧の合理化

 六月初めのアメリカにおける、黒人暴動と警官による鎮圧の映像は、デジャブ(既視感)があったのではなかろうか。これは単なるデジャブではない。われわれは、香港デモ騒ぎとその鎮圧の光景というそっくりなものを既に見ている。このふたつの光景はまるでおなじものを映しているのかと見紛うばかりである。アメリカでは、警官による黒人殺害に対する抗議デモの報に、極左暴力組織ANTIFAの煽動活動があったとされ、暴徒化した民衆に 対して、警官による催涙弾等を使った弾圧行動があったのである。

 香港デモがあれほど過激になったのも、単なる抗議デモではない。デモ参加者の数人に一人は中共当局に雇われた者を入れて、デモを暴動にするような、過激な行動を故意に起こしたのである。こうして、デモの弾圧は、デモ隊のテロ行為に対する鎮圧として合理化されたのである。

 さらに中共政府はウイルスを漏えいして感染を広げることによって、香港デモ弾圧を合理化しようとしたのではないか、という仮説はパート3までに述べた。そして次に起きたのは、何とアメリカで警官による黒人殺害に端を発して、黒人暴動が起き、警官隊も暴力的に取り締まるという行動に出たのである。

 香港とアメリカにおける類似性は、警官に対する暴力的抗議活動に対して、警官側からも過激な弾圧行動が起きた、ということである。六月三日の産経新聞によれば、早速中共政府当局は、「香港の抗議活動を擁護してきた米国の政治家が、今回のデモを『暴徒』と断じるなどとして『米国式のダブルスタンダード』だと批判した、と伝えている。

 米国は香港で起きたことは応援するのに、自国内で起きると正当化している、ということである。換言すれば米国の暴徒を鎮圧するのには干渉しないから、香港で起きていることにも米国は干渉するな、ということである。

 だがこれはどっちもどっちではない。香港で暴徒化したのは、全てではないにしろ裏で中共政府が煽っていて、「暴徒」を鎮圧することを正当化している。これに対してアメリカで起きているのは、中共がANTIFAという極左暴力組織を利用して、黒人の抗議行動を暴徒化して、政府が武力弾圧をせざるを得ないようにしていることが大きいのであろう。

 アメリカでは黒人差別はいうなれば日常茶飯である。そのチャンスをとらえて、黒人を暴徒化する、ということはいつでも可能なのである。

 つまり香港デモでもアメリカの暴動でも、中共政府が暴徒化を煽っているのであろう、ということである。結局は香港での暴徒の鎮圧にアメリカに口を出させないためなのである。加えて武漢コロナウイルス禍対策として、九人以上の集会を禁止したから、天安門事件の31周年記念日のデモも、静かなろうそくデモにとどまった。

 結局のところ中共は、香港独立まで叫び始めた、中共政府の危機を、米国の人種差別問題や、コロナウイルス禍まで利用して抑え込もうというのである。


支那王朝の崩壊

2020-06-02 15:25:43 | 支那大陸論

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支那王朝の崩壊・・・西暦を受け入れて支那は西洋に組み込まれた

 清朝までは、支那大陸では現在の日本と同様に、元号が使われていたが、現在の中共が成立すると同時に廃止され西暦が使用されている。ちなみに西暦以外の元号が使われているのは日本以外には、台湾と北朝鮮で各々、民国紀元、主体歴と呼ばれる。独自の年号が使われるのは何故か。独自の文明圏を主張するためである。

 誤解しないで欲しい。ここで言う支那大陸の王朝の範囲というのは、現在漢民族と自称している人々が住む範囲である。清朝であれば、チベットやウイグル、モンゴルにはその元号は適用されない

 かつては朝鮮も支那大陸の王朝の年号を使用していた時代があった。その時代には朝鮮は、支那王朝の属国であった。そもそも朝鮮という国号すら支那王朝からいただいたものであった。だから元号も同様に使わせていただいたのである。その本家本元の中共は、西暦を採用してしまった。その原因は、マルクス主義の導入である。マルクス主義は科学的社会主義を唱えていることから分かるように普遍主義である。世界の文明は共通である、という普遍主義である。

 しかしその内実は西洋人の歴史より演繹した普遍主義だから、西洋を世界の標準とする普遍主義である。だからマルクス主義を通じて支那大陸は西洋文明にからめとられてしまったのである。その証拠に中共の時代になってからは、何ら独自の文化を生み出していない。西洋の真似をするばかりではない。独自の文化文明と称するものは支那服・京劇など清朝の遺物か、黄河文明の遺構である。各種の中華料理にしても過去の遺物で発展がない。これらは全て現在「漢民族」と称する人たちの文明ではなく、過去の異民族のものである。現在の中共は西洋の文明の模倣に過ぎず、模倣から永遠に脱することはできない。日本の技術者が中共に行って技術が流出すると危惧されている。

しかし支那では日本人に指導された通りの技術を使う事しかできない。本当の意味の模倣すらできない。中共の工場で行われているのは外国製の工作機械を導入して外国人に言われたとおりに動かして物を生産しているだけである。模倣ができるのならそれを発展させることが出来るのだが、それはできないのである。かつて支那大陸では、周辺の異民族が高いテクノロジーを使って攻め込んで新しい王朝を作ることを繰り返した。異民族が襲来して中原に新王朝を建てる事ができたのは、異民族のテクノロジーが旧王朝より優れていたからである。だが現在の支那大陸ではそんな発展すら期待できない。

 では独自の元号を持つ台湾と北朝鮮はどうか。これらの国の元号は、国の建国以来連続している。台湾の元号は辛亥革命により中華民国が成立して以来、北朝鮮では金日成が建国以来、同じ元号を使用している。実はこれは西暦と同じ考え方で、ただ一度の最初を定め永久に年を重ねる方式であり、支那王朝が皇帝が代替わりするたびに代わっていったのとは全く異なる。この方式は西暦と同様、過去から何年たったと数えやすい西洋流の合理性が隠されている。台湾も北朝鮮も西欧にからめとられつつある。

 では日本の元号の付け方は支那流ではないか、というのであろう。確かにその通りのようだが、元々が支那とは独立した存在であることを主張して日本の元号を制定したことに意義がある。北朝鮮は支那の元号の借り物から西洋の方式に変更したのであり、台湾は支那独自の元号の方式を継承しなかったのである。だから日本が神武天皇の即位から皇紀二千何百年などという方式を併用した時期があったのはかなり危うかったのである。日本は支那文明からの独立を宣言した意義ある年号を使用し続ければよいのである。

 これは皇室の存在を前提としている。北朝鮮も台湾も王室の存在のない共和国になってしまったから西暦に似たものを使うようになったのである。従って中共は永遠に西欧を追い越すどころか追いつくことさえできない亜流の存在である。ひるがえって日本も怪しい。便利さから民間では元号より西暦を使用する場合多いかろうじて官庁の公文書の日付が元号を維持しているだけである。これは底流で皇室の不安定と繋がっていると言わざるを得ない。

 文化も同様である。日本初の独自の文化と言えばアニメとコミック位である。これらはまだ日本文化として誇るには熟成されていないように思われる。音楽も同様である。西洋音楽と日本音楽の融合で演歌というものが生まれたが、現在は衰退しつつある。ポップミュージックもロックも基準は西欧にある。歌舞伎のような古典芸能は過去の遺物だから論外である。ひとり気をはいているのは落語と漫才である。