毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

絵画にも言語がある

2019-11-30 21:22:38 | 女性イラスト

 絵画には大きく誤解されている点がある。絵画は誰でも見ることができるために誰でも理解できるという誤解である。誤解も甚だしい。例えば私は富士山のふもとで育ち、毎日富士山の姿を見て十八まで育った。足元が富士山の傾斜の一部で、とにかく坂を上の方向に歩くと、富士山の山頂の方向になるのだからこれは誇張ではない。その私がいつも見ていた方向から富士山を見ると、他の地方の人より色々なものが見える。

 このように、同じ風景から受ける感慨も人とは異なる。見慣れた風景には、深く感じることができるといってもおかしくはない。これと同様なことが絵画にも言える。同じ形式の絵画を見慣れた人には、見慣れない人よりは細部まで感じるものがある。あるいは絵画ばかりではなく、音楽などあらゆる芸術に共通な事象である。それにはふたつの意味がある。

 ひとつの例は、現代日本人が受ける浮世絵の感銘と江戸時代の人々の受ける感銘とは異なるということである。当時の人々は浮世絵の景色のちょっとした小物の意味を理解できても、私たちには理解できないということもあろう。物の形状についても同じである。江戸時代固有の、家や景色や髪形について、我々には実物がどのようなものであったか、とっさには連想出来ないのである。そのことが、同じ浮世絵を見ても、受ける感銘が違うのである。すなわち浮世絵に使われている言葉への理解度が当時の人々は深いのである。

  西欧のキリスト教美術も同様である。聖書を理解しているものとそうでないものの理解度は異なるのである。そこまで極端な例ではなくてもあらゆる芸術には、時代や地域による共通性と非共通性から鑑賞者各自の理解度は異なる。

 もうひとつは個性の問題である。漱石は芸術は個性の表現だから、優れた芸術は作者自身にしか理解できないという意味のことを言った。これは極論ではないのかもしれない。それどころか作者自身すら時間の経過とともに理解できなくなるかも知れないのである。すなわち個人でも個性は変わる。

  以上のように作品に対しては理解の幅の狭さから広さまでがある。それをどう理解すべきか、私には永久に分からないと思う。ただひとついえるのは、絵画だからといって誰にでも同じように理解できるというものではなく、言語のように経験と学習が必要である。確かに訓練によって眼識というものは向上する。そのことを安易に考えてはいけないと思うのである。

さてイラストです。少しアニメっぽくなってしまいました。


九七式戦闘機(満洲国軍飛行隊)

2019-11-27 19:08:26 | プラモコーナー

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 この飛行機はご存知の通り、陸軍キ-27、九七式戦闘機である。国籍標識は赤青白黒黄の五色で五族協和の象徴とされる。五族とは、日、韓、満、蒙、漢である。キ-27は、中島飛行機の設計であるが、資料(日本航空機総集)によれば、満洲の「満洲飛行機製造㈱」が合計1315機製造した、とあるから、この機体もエンジンを除き、満洲で作られたものであろう。

 そして別の資料(THE EAGLES OF MANCHUKUO:満州国の翼、とでも訳そうか)によれば、満洲国軍には、満洲国軍飛行隊が存在した。平たく言えば満洲国空軍である。満洲飛行機は、軍用機では練習機、疾風などを製造したほか、航空会社である、「満洲飛行機」向けにMT-1という旅客機を自社設計して製造している。エンジンこそ造れなかったが、高度な技術と設備を持っていたのである。

 満州国の航空機関係の存在は1932年から1945年(昭和7年~昭和20年)と短いものであったが、日本の援助の下で、独自開発するだけの人員、設備などを備えるに至ったのである。この工業基盤は、満洲国を侵略したソ連によってかなりが持ち去られた後も、中共の東北部として、重工業の基盤を築いた。

 しかし、愚かな中共はその工業基盤を蕩尽しただけで、学ぼうとしなかったから、満洲国の遺産が老朽化すると更新できずに困窮し、鄧小平の開放政策として、外国資本を導入せざるを得なくなった。このプラモを作りながら資料を読むとそんなことが分かる。

 

 

 この機体に描かれているのは「護国長春壱号」である。すなわち、満洲国の大都市の長春市の市民の献納による一号機を表す。日本では、陸軍が「愛国号」海軍が「報国号」として献納を受けているから、これに準じたものである。ちなみにキットはウクライナのICM社製でデカールが国産である。1/72ならハセガワがあるが(旧マニア社製)、外形、モールドなど、ほとんどでICMのこのキットが優れているが、最近は店頭にない。

 ちなみにICMやSWORDなどの東欧のメーカーは、旧日本陸海軍機を発売して、儲けているようである。日本のメーカーが作らないような、レアでマニア好みしそうなアイテムを作って、高い値段で売っている。同じスケールなら国産の倍くらいはする。ソ連崩壊以前なら、ソ連や東欧のキットと言えば、バカ安だったのに、である。共産主義から解放されると金儲けに走る、という見本である。


対日戦の動機に関する疑惑(2)

2019-11-25 19:58:25 | 大東亜戦争

 本稿については、以前に書いた。しかし、間違いと気付いたことがあるので、修正する。それは、米国の対日独以前に全く反戦運動がなかった、ということが明白な間違いである、ということである。米国内の反戦運動については、「リンドバーグ第二次大戦日記」で書いていたから気付いていたはずなのにあまりに迂闊であったことを反省する。このことを含めて改定する次第である。また、以前は第二次大戦が始まった(欧州において)時点からの記述であったが、もっと遡ることにする。その方が米国の動機がより明らかになると考えるからである。さて本論に入る。

 通説は、米国政府が日本を挑発し、対日戦を開始した動機は裏側からの対独参戦である、とされている。つまりドイツによって崩壊しそうになった英国を救うためである。ルーズベルト大統領は、既に始まっていた欧州戦争への参戦を嫌う米国民に対して絶対に参戦しないことを公約して3選を果たした。そこでドイツと軍事同盟を結んでいる、日本に最初の一発を打たせることによって国民を引っ張ろうとした、というのだ。

 

 この見解に小生は以前から疑問を持っている。歴史年表を見てみよう。歴代米大統領政権についても付記した。

 

・明治19年3月~大正2年3月・・・マッキンリー、セオドア・ルーズベルト、タフトの共和党政権

・大正2年3月~大正10年3月・・・ウィルソン民主党政権

・大正10年3月~昭和8年3月・・・ハーディング、クーリッジ、フーバーの共和党政権

・大正11年2月・・・ワシントン軍縮条約署名、主力艦等の制限

・昭和4年3月・・・フーバー大統領(共和党)就任

・昭和5年4月・・・ロンドン軍縮条約署名、巡洋艦以下の制限

・昭和6年9月・・・満洲事変

・昭和7年3月・・・満洲国成立

・昭和8年3月・・・F.D.ルーズベルト大統領(民主党)就任

・昭和12年7月・・・北支事変勃発

・昭和12年10月・・・FDRの隔離演説

・昭和14年7月・・・日米通商航海条約破棄通告

・昭和14年9月・・・第二次大戦開始

・昭和14年11月・・・中立法を修正し武器禁輸を撤廃

・昭和15年9月・・・英領に海軍基地を租借し、英国に駆逐艦50隻を供与した。

・昭和16年1月・・・年頭一般教書演説でルーズベルトは、独裁者の戦争を非難し、米国が安全を脅かされていると訴えている。

・昭和16年3月・・・武器貸与法を成立。大々的に英ソに武器援助を開始。

 

 以上であるが、日米の動きは大正末からピックアップした。明治以降の米大統領の系譜を示したのは、政権と政策との関連を示すためである。軍縮条約は、米国の軍事政策との関連があるので示した。ワシントン条約では主力艦の制限と同時に、四ヶ国条約が結ばれたのに伴い日英同盟が廃棄されたために、軍縮では日本は不利は被らなかったと言われているが、日英同盟廃棄によって、日本は対米関係が不利になったとされる。

 

条約の締結は共和党政権であるが、時間的にその準備はウィルソン民主党政権によって準備されていた、と考えるべきであろう。ロンドン条約では巡洋艦以下の補助艦艇の制限では、実は、米国が第一次大戦中に連合国支援のために、主として駆逐艦を短期間に大量に製造していたことに関連する。これが艦齢二〇年を過ぎ、更新しなければならない時期にきていた。

 

従って、数量制限をしたとしても、米国は更新のちょうどいい時期となる。一方、特に元々日本は条約以前に逐次新型に更新していたから、制限の枠内で新造できる駆逐艦などの量は僅かとなる、というわけである。ちなみにロンドン条約は共和党政権下である。うがち過ぎた見方かも知れないが、セオドア・ルーズベルトやフーバーの共和党は、結果から見ると、反日的なことが明白なウィルソンやFDRの民主党政権よりましであったことがしれる。

 

条約においても民主党政権下では政治的に重大な日英同盟廃棄、という結果となっている。駆逐艦の更新などというマイナーな話は政治家より、軍人に関心があったであろう。ただし、更新された新駆逐艦には、日英と異なり主砲として高角砲兼用の、両用砲を備えており、後の航空戦においては大きな役に立っている。これはあまり戦史でも語られることは少ないが、大きなポイントであると小生は思う。

 

閑話休題。この時系列で明白なのは、米国が日中関係に本格的に干渉するようになったのは、満洲事変が契機だったのではなく、北支事変、すなわち支那事変以降であることが注目される。それも、FDR政権以降である、ということである。渡辺惣樹氏の著作によれば、フーバー前大統領は、隔離演説こそ「ルーズベルトがその正体(尻尾)を見せた事件だと考えている*(P72)」というのである。

 

江戸幕府と結んだ条約の改正版である、日米通商航海条約を破棄通告したのは、第二次大戦の勃発の寸前である。これは隔離演説の実行の始まりであった、と言えるだろう。この例は米政府が第二次大戦と関係なく、厳しい対日政策にシフトしている事の証明である。これらの一連の行動を見れば、米国民が真珠湾攻撃まで対独参戦に反対していたなどと言えるのだろうか。米国は民主主義とジャーナリズムの国である。国民は参戦国に対する武器援助が厳密には国際法の中立違反の事実上の参戦であること位知っている。

 

野党はそれを口実に大統領の公約違反を非難することができるのだ。第一次大戦で米国参戦のきっかけとなったドイツの無制限潜水艦戦は、英仏などへ米国が援助したことももひとつの原因となっている。だから英ソなどへの武器援助がこの点からも戦争への道であることは国民もジャーナリズムも承知していたはずである。しかしマスコミがこの点を突いて一連の政府の対応を非難したり、反戦運動が強まった形跡もない。既に米国政府も国民も参戦する心構えが出来ていたとしか言いようがない。

 

 今の小生の疑問は既にここにはない。米国政府の本当の意図は対日戦自体だったのではないか、と言う事である。対日戦は対独参戦のおまけどころか、たとえ欧州で戦争が始まっていなかったとしても、機会を見て日本との戦争を望んでいたのではないか、と言う事である。鍵は支那大陸にある。日本は日露戦争以後深く満洲に根をおろしていた。欧州諸国も支那本土にそれぞれ根拠地を持っていた。一人米国だけが大陸への確実な手がかりがなかった。門戸開放などと言うのはアメリカ得意の綺麗な言辞であり、俺にも支那に入れろ、と言う事に他ならない。そもそも西海岸に到達してアメリカ大陸にフロンティアを失くした後、日本を開国させハワイを併合した目的は支那大陸であった。日露戦争後鉄道王ハリマンが南満州鉄道の共同経営を提案したのもその一環である。

 

 そして日本は支那事変をきっかけに泥沼のような戦争から抜けられないでいた。主戦論を唱える陸軍軍人ですら、本音は一撃で支那政府を降伏させようというものであって、このような長期の消耗戦は望んでいなかったのである。支那事変の長期化は蒋介石や毛沢東の裏でソ連とドイツも深くかかわっていた事は既に色々な研究で明白にされている。更に米政府の中枢にいたコミンテルンのスパイもかかわっていたのであろう。

 

大陸に利権を持つ日本を追放するには消耗戦で日本を衰弱させ、「門戸開放」の実現が可能だったからでもあろう。支那政府の暴虐に決然と反撃する英米に対して、妥協的対応を続ける幣原外交はかえって支那政府と接近して英米の利権を犯そうとする試みに見えたであろう。既に満洲に権益を確立した日本が、今度は平和的に支那本土に進出しようとしているのだと見えたのかも知れない。

 

 アラン・アームストロングという米国人が書いた「幻の日本爆撃計画」という本がある。他のコラムでも紹介したが重複をいとわず再掲する。これによれば1940年頃から、蒋介石の提案した日本爆撃計画を米政府は本格的に検討し始めた、と言うのだ。これをJB-355計画と言う。もちろん公然と米空軍が実施するのではなく、戦闘機と爆撃機を国民党政府に貸与してパイロットは空軍を「自主的に」退役した米軍人が義勇兵として参加する、というものだ。参加の規模は時期によって変化するが最大の計画は戦闘機350機と爆撃機150機と言う真珠湾攻撃をはるかに超える規模のものすらある。攻撃対象は日本の主要都市と、工業地帯である。このような大規模な空襲が実施されていれば世界中に米政府に関係が無い、義勇軍だという発表を信じる愚か者はいない。

 

この本には米国のある会社がこの計画のために八二名のパイロットと三五六名の技術者を雇用した事があると書かれている。つまり一機の飛行機には整備等の要員が四人強必要となるのである。さらに軽爆撃機としてもパイロットは一機当たり五名程度必要となる。こうして計算すると先の計画に必要な人員は一六〇〇人となる。更に後方支援要員や指揮官党が必要となる。これはそんな膨大な規模の計画なのである。米政府が実行できなかったのは、英国に爆撃機を廻す必要があったため計画が遅延し、実行する直前に真珠湾攻撃が起こってしまったためであるのに過ぎない。

 

この計画の一部として一〇〇機ほどの戦闘機とパイロットおよび支援部隊が一九四一年一一月に派遣され、フライングタイガースとして支那大陸での対日戦に参加した。これはその次に送られてくるはずの爆撃機が真珠湾攻撃によって送られてこなくなって宙に浮いて戦闘機だけが活動した結果である。計画は梯子を外されたが実行の最中だった証拠である。これは米政府が本気であったことの証明である。対ソ戦のために動員された「関特演」が中止されたのとはわけが違うのである。

 

 それどころではない。「一九四一年の秋には、日本爆撃計画はアメリカの活字メディアで広く報じられていたからだ。」とさえ書かれている。その例として、ユナイテッド・ステーツ・ニューズ誌、ニーヨーク・タイムズ紙、タイム紙の報道の概要が紹介されている。これに対して米国内はどう反応したか。国民や野党は戦争をしないと公約して当選したルーズベルトを怒涛のように非難したであろうか。今日の目で見てもそのような反応は何も起こらなかった事は明白である。

 

なぜ誰もそのことに疑問を持たないのであろう。その答えは、米国民は欧州との戦争に「若者を送り直接戦闘に参加する事を望まなかった」のであり、日本との戦争は許容していた、と言う事でしかあり得ない。確かにルーズベルトは「裏口から」欧州の戦争に入ろうとして、日本に最初の一発を撃たせようとして、現にラニカイと言う米海軍籍のぼろ舟を太平洋に遊弋させた。だが対日戦に関しては明らかに自ら最初の一弾を撃とうとすることも実行しつつあった。繰り返すがフライングタイガースが現に大陸に派遣されたように、その計画は幻ではなく、実行途中であったのだ。

 

 なぜ欧州での戦争は嫌い、日本との戦争は許容されるのであろうか。アメリカは国際法に関しては、英国のように律儀な国ではなく、正義感と言うものが国際法の原則を超える事がある国である。日独に対して「無条件降伏」を要求するというチャーチルですら反対した国際法無視の行動をとった国である。だからレンドリースをして事実上の参戦をしても、兵士さえ送らなければ中立は守られる、という「中立法」の修正さえしたのである。その背景にはドイツの英国征服と言う恐怖に怯えると同時に第一次大戦でヨーロッパの諸国が膨大な戦死者を出したことを知っている、と言う事であろう。つまりヨーロッパに派兵すれば大量の若者が犠牲になる、と言う事を考えたのである。その苦肉の策が中立法の修正であったから世論は容認したのである。

 

 この本と同様に「オレンジ計画」と言う本の著者も日本に対する強度の偏見の持ち主である。この本には米国が恐れていたのは、意外なことに日本の海軍ではなく、陸軍であったと書かれている。日露戦争で精強なロシア陸軍を破った記憶があったのであろう。事実、機械化が遅れている日本陸軍でも戦略が良ければ米軍は苦しめられる、と言う事は太平洋の戦いでも証明されている。海軍はマシン同志の戦いだからワシントン、ロンドン条約で兵力差があった日本海軍は敵ではない、と考えたのであろう。元々の工業力の差に加え、支那事変で疲弊した日本は米国より建艦能力が遥かに劣ると推定したのも正しい。すなわち米国は地上戦を戦わなければ良く、海軍力と空軍力で日本を屈伏させればよい、と考えたとしてもおかしくはない。それにはいきなり本土空襲と言う手段は最短である。

 

 アームストロングによれば、・・・日本が“大量殺戮兵器”を保有していたことは言及に値する。日本は中国人絶滅を目論んだ戦争で炭疽菌と腺ペストを使用した。また、核兵器の製造に実際に取り組んでいたのである。

 

 この言辞だけでいかにアームストロングが偏見に満ちた人物か分かる。日本は支那事変に引きずり込まれたのであり、核兵器を実際に製造したのはアメリカである。自ら大量破壊兵器を開発使用したのには眼を瞑るのだ。だが問題はその次である。

 

第二次大戦終了時の国際連合結成の前の時点では、国際法は、一国が切迫し、かつ即時に起こり得る敵国からの攻撃の危険に対して取る先制軍事攻撃を認めている。・・・ブッシュ大統領はアメリカ国民に対しても国際世論の陪審に対しても、イラク政府が大量殺戮兵器を保有していたと納得させるに足る証拠を提示した、と万人が認めているわけではない。・・・しかし、イラク政府は二〇〇一年九月一一日の合衆国本土における同時多発テロに関わっていたと主張する者もいるのである。この分析の下では、イラクは”悪の枢軸“の一部であり、アメリカの報復攻撃-先制攻撃ではないとしても-を受けて当然だった。

 

更に別の箇所では、

 

JB-355が予定通りに実行されていれば、それは日本に対して中国でさらなる資源を消費することを強いる手段を、アメリカその他の連合国に与えることになり、その結果、日本の真珠湾奇襲は阻止されていたかもしれない。アメリカと中国による対日先制爆撃が一九四一年一一月初旬に始まっていたとすれば、アメリカ陸海軍は非常に高度の警戒態勢を敷いていたはずだ。・・・真珠湾攻撃から、あの奇襲と言う要素が取り除かれていた可能性は大だっただろう。

 

 つまり計画が実行されていれば、実行の時期によっては真珠湾攻撃は中止せざるを得ないか、反撃にあって失敗するかしただろうということだ。米国の防空能力は高い。完全な奇襲ですら、約300機の攻撃に対して、およそ10パーセントに当たる、29機を撃墜しており、特殊潜航艇は全艇が撃沈されている。わずかの損害と一般には書かれているが、実際は10%もの損害を受けたのである。日本本土爆撃では奇襲ではなく本気で迎撃したにもかかわらず、撃墜率は3%にも満たなかった。

 

アームストロングが言うように真珠湾攻撃が失敗した可能性は大である。イラク戦争を引き合いに出したのは象徴的である。著者は日本本土先制爆撃によって、日本軍はイラク軍のように緒戦でまたたくまに敗退したはずだと言いたいのである。しかも米国は国際法上も先制攻撃の権利があったとも言いたいのである。つまり長期の支那事変によって、日本は米国の一撃でもろくも敗退すると思われたから米国の朝野は、欧州戦争と異なり戦争を忌避していなかったのである。

 

イラク戦争を見よ。機械化部隊の快進撃でほとんど損害もなく短時間でイラク軍は降伏した。大量破壊兵器が無かったのではないか、などと非難されるようになるのは、正規戦が終わって親米政権ができたのにもかかわらず、ゲリラ戦で正規戦の何十倍もの被害を出すようになったからである。一撃で倒せる日本との戦争は、支那大陸と言う新しいフロンティアを求める米国の朝野にとって望ましいものであった。

 

もちろんこれは仮説である。しかし米軍による日本爆撃計画が公然と大手マスコミによって報道されていたにも関わらず全く反対運動が強まらなかったことを説明するにはそれしか考えられない。計画は厳重に秘匿されていたのは確かである。それにもかかわらず公然と報道されたのは故意にリークされたとしか考えようがない。そしてリークしたのは世論の反応を見たかったのである。さすがに世論によって国策が動く米国である、と言ったら皮肉になるのだろうか。

 

ひとつ思う。日本人が中国人の絶滅を企画していたなどと言うでたらめを、まともな米国人が普通に思うのは、米国人がフロンティアとして支那大陸を支配したいのに、それが日本人の妨害でかなわないのがくやしいという思いの表れなのだろう。つまりアームストロング氏は米国人の思いを、中国人絶滅計画と言う妄想に投影したのである。

 

参考文献

*誰が第二次大戦を起こしたのか・草思社


重光葵・連合軍に最も恐れられた男・福富健一・講談社

2019-11-22 20:31:46 | Weblog

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 現実的に見れば、連合国から云々という副題は適切ではなかろう。連合国が敗戦国の政治家を恐れようもないし、本人もそんなことに価値を認めない人物だろうからである。ともかくもこれだけ外交官として適切な日本人はなかなかいない、という著者の称賛は当然であろう。マッカーサーが軍政を敷こうとしていたのを止めさせた(P28)というエピソードは、よくてせいぜいうまくGHQと妥協する、というのが当時の日本人の最善策であった実態に比べれば画期的な事である。

 この本には重光の矜持と拮抗する西欧のエピソードがいくつか書かれている。このようなことは支那や朝鮮では考えられないであろう。例えば、第一次大戦で日本の英国船団護衛で殉死した66人の日本兵の名前がマルタ島の英海軍基地の墓碑に刻まれている(P79)という話である。反対に宋子文、王正廷、顧維欽ら戦前の中華民国外交官は中共が成立すると外国に逃れそこで客死している、という支那の冷たい現実がある。

 重光は幣原喜重郎の軟弱外交とは違っていたが、「当時の中国は群雄割拠の状態にあったが、北京政府は馮玉祥の軍隊を背景に段祺瑞がかろうじて政権を保持していた」(P96)というのが支那大陸の実情であって、国際連盟に登録されていた中華民国というのは、誰が首班の政府であったのか不明である、という当時の支那の実態を記憶しておくべきである。

 ワシントン条約体制について、幣原外相は忠実に守ろうとしていたが、重光は、この体制が事実より理想を求めたものであり、支那の共産勢力が排日を激化させていたこと、英米の目的は支那に進出した日本を妨害する目的であったことから、ワシントン体制は有名無実だと考えている(P98)。このことは九カ国条約のワシントン体制違反を口実に日本を弾劾した東京裁判と真っ向から対決するものである。

 日本人が大陸で心底から貢献した事実も示されている。福民病院は、日本人医師の頓宮寛が国籍・人種を問わず人命を救う事を理想とした病院である。頓宮は五ヶ国語を話し、魯迅とも親しく、魯迅の妻はここで出産している(P149)。こういった日本人の献身は例外ではない。日本の侵略を宣伝する中共はいかに非人間的な政府であろうか。それに騙される現代日本人はいかに愚かであろうか。平成24年の尖閣国有化の際の中共政府が行った、民衆による反日暴動の野蛮な行動を見てもまだ目が覚めないのであろうか。

 吉田茂を重光と比較して、戦略がない、として経済優先の短期的戦術には成功したが、アジア解放を志向した重光のような戦略がない(P171)として憲法改正による再軍備をしなかった吉田を批判するがその通りである。未だに憲法改正をできず在留邦人の海外救出すらできない日本の現実を考えれば、吉田路線による高度経済成長はあだ花にすぎない。それどころか経済大国への執着が国民精神の堕落さえもたらしている。

 共産主義については、初めより無理ある理論の実現に直進するのであるから、目的達成のためには手段を選ばぬことになる。共産革命は、常に闘争の観念がともなう(P173)、という。そして筆者は「西ドイツの憲法裁判所は憲法を破壊するような政党の結社はできないという理由から、共産党の活動を禁じた」と西独のアデナウアーが吉田に語った言葉を紹介している。観念的な日本の結社の自由など本当は意味をなさないことを論証した言葉である。GHQが共産党を容認させたのは日本を弱体化させるためであって、自由主義の普及のためではない。

 吉田批判はまだ続く。重光が一時的にしろ英国の援蒋ルートを閉鎖させることができたのに対して、英国政府が吉田駐英大使の構想に次第に懐疑的になったことを紹介して、外交官の加瀬俊一が「ハムレットはいつしかドンキホーテになった」と酷評しているのを紹介している。平成24年にも「負けて勝つ」と題してNHKが吉田を持ち上げたドラマを作った。GHQ路線を走るNHKがよいしょするのだから、吉田の功績は推して知るべしであろう。

 広田内閣が、軍部大臣現役武官制を復活させたのは、二二六事件の関係軍人を予備役に編入させ軍への関与を排除させるためであった、と単純に書いている(P207)。軍部による同制度復活のための口実だとするのが一般的であるが、軍を悪者にするための勘繰り過ぎないのかも知れない。重光は軍部が日本を支配して日本を破滅に追い込んだ、という史観を持たない

 重光の最大の功績は、やはり大東亜会議を構想実現したことであろう。会議ばかりではなく、実現しなかったが大東亜国際機構という組織まで構想していた。筆者も特筆しているが、これを最も支持したのは東條首相であった。小生が東條を単なる有能な官僚だと考えないのはそのためである。東條は重光と同じくきちんとした歴史観があったのは、東京裁判の宣誓供述書が如実に示している。資料もないどころか筆記具の入手にすら苦労した牢獄の、極めて不便な条件であれだけの歴史観を語れるのは今でも多くはいまい。

 大東亜会議に関連して英国がアジアをいかに分断支配していたかも語られている。植民地ビルマは英国人、インド人と中国人、ビルマ人の三階層に分けて支配し、搾取されるビルマ人の怨嗟はインド人と中国人に向けられるシステムを作った。このため大東亜会議はビルマとインドの関係を考慮しなければならなかったのである。日本にビルマから放逐されたイギリスは、インドのベンガル地方を食糧徴発し、数百万の餓死者を出し、ナチスのごとき大量殺人を行った(P246)。現代日本人は日本の行った植民地解放までの、欧米の植民地支配がいかに残忍で非道だったかを認識すべきである。彼らが宗主国を非難しないのは世界で欧米の力がまだ圧倒的に強いからに過ぎない。

 歴史学者のトインビーの「第二次大戦において、日本は戦争によって利益を得た国々のために偉大な歴史を残した。日本の掲げた短命な理想である大東亜共栄圏に含まれていた国々である(P253)」という大東亜会議についての言葉を紹介している。日本がアジアを解放した、というのは夜郎自大ではない、日本人が誇るべき事実である。この意識を多くの日本人が共有しない限り、経済的繁栄はあり得ても国際社会における日本の存在感はない。

 


書評・日米開戦の悲劇・・・ジョセフ・グル―と軍国日本

2019-11-19 20:45:14 | 大東亜戦争

PHP研究所・福井雄三著 

 福井氏は、バランスのとれた見方のできる人であろう。例えばグル―を大変な親日家としながら、一方で当時のアメリカ人に典型的な白人至上主義と人種差別意識を持ち合わせ、悪名高き排日移民法を強力に支持していたことも指摘している。多くの評伝に見られるように、惚れてしまえば欠点は隠す、と言う事はしないのである。

 松岡洋右についても、反米の好戦論者と単純に片付ける向きが多いが、実際には日米戦争を最も恐れていて、三国同盟推進の同期は日米戦の阻止であった事を書いてもいる。しかも松岡を日本外交史上最もスケールの大きく、かつリアリストであり、世界的大局観をもちあわせていた人物である、と評している。このような意外性、客観性が本書の魅力である。

 戦後のドイツについても、ナチスの行った国家犯罪は、反論も許されず過度に誇張され宣伝されているが、今は沈黙を守りながらもドイツ人は、歪曲された歴史を将来修正する日が来る、と書く(P184)。これは我が意を得たり、であった。ドイツ統一以前、私は、ドイツが一方的に批難されている第二次大戦期のドイツ史について、ドイツ統一がなったときドイツ人は昂然と歴史の修正を始める、と考えた。結果的には外れたが、いずれそのような時期が来ると、福井氏同様に考えている。戦勝国の洗脳で自虐史観がテレビなどのメジャーなマスコミを支配している日本とは違うのである。

 海軍はあくまでも陸軍の側女である(P53)、と言いきったのも明快である。従来の日本海軍批判は、大艦巨砲主義、艦隊決戦至上主義だとか、シーレーン防衛を怠ったとか、言われるが、これは個別的かつ枝葉末節であり、福井氏の指摘をもとに考えると明快になる。明治の海軍が心をくだいたように、戦地への兵員の輸送の保護、国内への物資の輸送などの保護を行うのが海軍の役目である。海戦はその目的の達成のために結果的に生起するのであって目的ではない。

 最も興味深いのは、対米宣戦布告が真珠湾攻撃開始から1時間近く遅れた件である(P141)。これまでのノンフィクションでは、前日に大事な電報が来ているのに、大使館職員は全員ほったらかしにしたまま宴会に行き、解読を始めたのが攻撃当日で、その結果、宣戦布告が遅れる結果になった。しかもこの失態で誰も処分を受けないどころか、戦後まで順調に出世している、と例外なく外務省の無責任さを非難している。

 ところが福井氏によれば、海軍はぎりぎりになって、宣戦布告を攻撃一時間前から30分前に縮めている。これは海軍が、宣戦布告により迎撃されて虎の子の艦隊を喪失する事を極度に恐れたからだと言う。それどころか、30分前の宣戦布告は建前に過ぎず、海軍は被害を恐れるあまり、通告が遅れる事を望んでおり、そのことを外務省と裏で連携していたのではないか、と言うのだ。そう考えれば氏が述べるように勤勉で時間厳守の日本人が、あのような失態を犯した理由も、何の咎めもなかった理由も腑に落ちるのだ。

 この仮説が事実だとすれば、私の思うのは、海軍は宣戦布告の遅れの責任を全部外務省になすりつけ、真珠湾攻撃の成果だけ誇り、戦後も真実を隠蔽して海軍善玉説に固執する海軍上層部の卑劣さである。本書では山本五十六の罪と無能を批判しているが、これについては近年、かなり巷間に言われるようになったことである。しかし平成24年に公開された映画「山本五十六」のように相変わらず平和主義者としてあがめる風潮がまだあるのは奇異の感がある。山本が軍隊の戦時の指揮官として重大な欠陥があるのには数々の明白な証拠がある。米内光政がソ連のハニートラップに引っかかっていたのではないか(P85)と言う説も興味ある。

 もちろん小生と意見が相違する箇所もある。蒋介石を偉大な軍人で政治家であり、彼が支那大陸を制覇していたら、反共と言う日本の目的は達成され、日本と支那は新たな大東亜共栄圏を作り上げていただろう、と言うのだ。そして台湾を世界屈指の経済大国に成長させた功績を語る(P73)。しかし台湾の繁栄は日本の支配のもたらした功績が大であり、かつ台湾と言う適正規模の国家によってもたらされたものである。蒋介石の中華民国が、中共の代わりに清朝の巨大な版図を引き継いでいたら、大陸全土に幸福をもたらすようなことがあり得るはずがなかろうと思うのである。チベットなどの異民族支配のための強権的な帝国にならざるを得ないのである。

 東條内閣ではなく、近衛や東條が推薦した東久邇宮内閣が成立していれば、日米戦争は回避出来ていたかもしれない(P126)、と言う。だが別の記事で書いていたように、当時の米政府はこの時点では対日開戦に決していた。ラニカイと言うボロ船で最初の一発を撃たせたり、3百を超える大編隊による爆撃計画の準備が行われている。これらは計画ではなく、実行に移されていたのである。しかも日本爆撃計画は大手の米マスコミが公然と報道していたが国民に何のブーイングも起きなかった。

 一方で中立法の改正により、英ソへの軍事物資の大量支援を実行していた。これは国際法上戦争を意味する。政府はともかく、国民の多数は厭戦気分にあったなどと未だに多くの歴史書に書かれるが、到底事実と符合しない。当時熱心に反戦運動をしたチャールズ・リンドバーグですら、反戦派が押され気味だと嘆いている(リンドバーグの第二次大戦日記)。真珠湾攻撃は乾燥しきっていた藁束に火を付けたのにすぎない。このように公表された事実を情報として共有しないから、意味のない意見のすれ違いが起きるように思えてならない。

 


なぜ複葉機なのに引込み脚か

2019-11-16 23:35:21 | プラモコーナー

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 これはグラマンF3F艦上戦闘機である。愛称はフライングバレル、つまり空飛ぶ樽だから、うまくつけたものである。日本の九六式艦戦とほぼ同時代の機体である。九六式艦戦が単葉で固定脚であるのとは、真逆である。艦上機だから離着艦の便を考えて複葉機という安全策をとったのである。この程度の速度性能を考えるならば、固定脚でも良かったのではないかとも考えられる、日本の設計者はそう言い訳をしている。

 

 

 問題は、不時着の際なのである。撃墜されたり、故障などで不時着する場合、固定脚だと不整地や海上では脚を引っかけて転倒したりして、搭乗員を喪失することがある。転倒してつぶれたり沈んだりする。あるいは、操縦席前方に顔面をぶつけて死亡することも多い。引込み脚だとうまく胴体で滑走すれば、これらの事故を起こす確率が断然減る。現に九九艦爆は固定脚の故に不時着水によって失われた搭乗員がかなり多いと言われている。陸上機ならば、平地などを探すことができる場合があるから、艦上機の方が引込み脚の必要性は高い。米海軍は、そこに目をつけたのである。なお、日本機は引込み脚の採用が遅れたことについて、当時の設計者はいろいろ言い訳をするが、本音は、日本の技術では正確に引込む機構の製作が困難だったためである。

 しかもF3Fは完全密閉式風防である。このことは歪みやくもりの少ない良質なガラスを製造することができた証しでもある。また上翼上面が黄色に塗られているのは不時着水したとき捜索機に目立つためである。かく艦上機の安全策とは面倒なものである。

 

 さてキットはスペシャルホビーの1/72のF3F-3である。複葉機の上翼を固定するには、最初に胴体からの支柱で取り付けるのが常道であるが、このキット、それができない。接着のピンも無ければ、接着場所の目印もないのである。それで、両翼の間のN型支柱に真鍮戦を埋め込んで、瞬間接着剤(ゼリー状)で上翼と下翼を固定してから、胴体と上翼の支柱をそれらしい位置に山勘で取り付ける。案外厄介で一発勝負となるので要注意。

 


イラストレーターとは何か

2019-11-15 19:34:58 | 女性イラスト

 私はビアズリー、竹久夢二、大橋歩さんで覚醒した。三人に共通しているのは、一世を風靡した芸術家であるにもかかわらず、正統な美術史には登場しないということである。そして三人とも画家と呼ばれずに、イラストレーターと呼ばれたことである。せいぜい挿絵画家と呼ばれたことである。

 私は日展をはじめとする、国内の有名な展覧会を見た。三人と異なるのは何か。日展の画家は日展にしかいない。しかしかの三人は世間の中にいた。大衆の中にいた。日展の画家は選考委員の審査によって選ばれる。日展の画家の関心は選考委員の歓心を買うことである。三人はいかに技量を高めようと、大衆の好みに合わなければ、大衆によって放逐される。

 三人の作品と日展の作品の、実際にどちらが面白いか。かく素直に考えたときにどうしても疑問が止まなかったのである。展覧会のために描く絵に何の価値があるのだろうか。聞けば無名の画家では、日展の当選回数と画の大きさ、つまり何号かで、市場価格が決まるという。日展の権威が価格を決めるのである。

 私の知人に日展の小先生がいる。小先生は日展の選考委員である大先生に「指導」されて日展に入選する。大先生は年寄りだからまもなく死んでしまう。すると小先生は日展に落選する。だから人の忠告に従って、別の大先生につくと入選する。これは芸術家が最も嫌っているはずの権威主義である。

 

 

 このイラストは、ラフにスケッチしたものに思い切った彩色をしたものである。髪は珍しく緑の黒髪にしてみた。繊細さはないが力強さは表現できたと思う。たとえ拙劣であってもよい。言い訳ですが画面下と左が暗く黄色っぽくなっているのは、スキャンの不手際です。この絵はもっと大きいのですが、コンビニのスキャナーがA3までなので、周囲をだいぶカットされました。


書評・日本は勝てる戦争になぜ負けたのか

2019-11-12 16:56:22 | 大東亜戦争

日本は勝てる戦争になぜ負けたのか・新野哲也・光人社

 全般的にかなりの思い込みと直感で書かれている。このことは著者自身も自覚している。直感で書かれていると言うのは悪いことではない。科学でも仮説と言うものは多くがそのようなものだからである。著者の主張を大雑把に言えば、方向こそ異なれ、陸海軍にそれぞれ日本の敗戦による革命を望んだものがいたから、勝てる戦いを負けた、と言う事であろう。これは必ずしも唐突なことではない。当時のアメリカ政府中枢はソ連のスパイに占拠されていて、外交の多くが決定されていた、と言う事は戦後のレッドパージで証明されている。ゾルゲ事件に象徴されるように、日本でもソ連のスパイが政治中枢を動かしていた、というのも事実であろう。その暗部は我々が知っているよりはるかに大きいのに違いない。日本は敗戦と近衛文麿の自決によってその全てが闇に葬られてしまったのであろう。 

日本人の多くが、かつての仇敵であったソ連の共産主義体制の惚れ込んだのは不思議ではないのかもしれない。日本の敵は帝政ロシアであった。ソ連はそれを倒したのである。敵の敵は味方であるかも知れない。しかも計画経済により、重工業化の大躍進をしたと伝えられた。軍備のため重工業化を必要とした日本もそれに続け、と考えたとしても不思議ではない。だから軍人が密かにソ連に傾斜したとして心情的にはあり得るのかも知れない。石原莞爾の総力戦の思想も国家社会主義を前提としているし、石原以上の戦略家であった永田鉄山も同様である。ソ連の重工業の躍進が農業を犠牲にした事は、ばれていないし、ソ連のスパイ活動の暗躍もあったのであろう。 

 ただ海軍が戦争下手であったと言うのは著者の言うように敗戦革命を望んだという高等戦術ではなく、幹部教育の失敗と官僚主義によるものであったと思う。陸軍は人間を相手にした戦争をするだけに、戦史教育を含んだ戦略と言うものを考えなければならない。しかも満洲鉄道を保護する関東軍を持っていたために、必然的に異民族を相手にした生きた戦略を学んだのである。海軍は、日本海海戦を艦隊決戦の勝利と誤解して、艦隊決戦に勝つための教育しかしてこなかった。日本海軍の戦略とは軍艦のカタログデータを優れたものにすることでしかなかった。この差が海軍には石原莞爾のような戦略家を生まなかったゆえんである。指揮官教育と言う点でも海軍には問題があった。東郷平八郎は、白旗を揚げて降伏の意思表示をするロシア艦隊に対して、参謀の進言を退けて停船するまで砲撃させた。ミッドウェー海戦で山本五十六は、空母ありの報を南雲艦隊に伝えたらどうか、と言ったが、参謀に反対されて止めてしまったと言われている。大東亜戦争の海軍には指揮官に必要な決断力がない者が多い、と言わざるを得ないのである。 

 著者はインド洋攻略を主張しながら、インパール作戦を批判しているのは矛盾である。艦砲や艦上機の攻撃だけでインドの英軍を駆逐するのは無理である。海軍の本質は補給路の確保や上陸の支援など、陸軍のサポートであって陸上兵力と対峙する事ではない。最後の勝利は歩兵により得るものである。昭和の日本海軍は敵艦船の撃沈を究極の目標としたが、これは作戦の手段に過ぎないという、明治の提督すら知っていた事実を忘れていた。東條がインパール作戦を指示したのはボースに対する同情ではない。戦略が分かっていたからである。インドの蜂起なくして英軍の駆逐はなく、英軍の駆逐なくして、インドの独立はない。インドの独立なくして東亜植民地の独立はない。 

 東亜植民地の独立なくして英米に不敗の体制を築くことはできない。日本軍の初期の快進撃を支えたのは、西欧の植民地の民が日本軍を支えたからである、という素晴らしい事実を書いているのはこの本ではないか。山本五十六が無暗に拡大戦略をとってソロモンの消耗戦で航空機と艦艇に甚大な被害を受けて失敗したのは、そもそも攻勢終末点というような戦略教育すら受けていないからとしか考えられない。山本は結局米戦艦の撃沈しか目的としていなかった。艦艇勢力が劣勢だから航空機で補おうとしていたのである。海軍が米国には勝てないとは言えなかったのも、三国同盟反対から賛成に転じたのも、全てが陸軍に対する予算均衡と言う官僚的発想であった。 

 著者の言う、日本の戦争下手は戦士たるべき軍隊の中枢が官僚化したのが原因である、というのは事実である。官僚化したのは陸大海大の成績で序列が決まると言うシステムが原因である(海軍は海大よりも兵学校)。システムの失敗はエリート教育の失敗であると言う著者の主張も事実である。政治家教育の失敗も同様である。それが陸大海大帝大を作ってエリート教育事足れりとしたのは、明治元勲の失敗であるのは事実であるが、その原因が下級武士出身だったと言うのは間違いであろう。いずれにしても著者の指摘する日本には正しいエリート教育がなく、学歴偏重の官僚主義が日本を蝕んでいる、というのは現代日本においても大きな課題である。真のエリートのいない議会制民主主義とは、衆愚政治の別称である。 

 確かに長い江戸時代にあっても武士の教育が続けられ、それが維新の原動力になり、日清日露の戦争の指導者の精神的基礎であったと言うのは事実である。しかし下級武士だったからエリートを育てなかった、と言う批判は単純に過ぎる。現に徳川末期の将軍後継の争いなどは、序列を重んじる官僚的発想で、新野氏の批判する学歴偏重と根源は同じである。むしろ伊藤らは下級武士から成りあがったからこそ、東郷のように成績優秀ではないものを戦時に抜擢した海軍の風潮の見本となったのではないか。明治期には伊藤、西郷、大久保らの実力主義の成り上がりの風潮の残滓があったからではないか。 

 著者は昭和十六年の時点で日米開戦を避けることができ、避けるべきであったと言うが、明白な誤りである。そもそも新野氏は、避けるべきであったと言うために、避ける事が出来たとこじつけている節がある。避ける事ができないのであれば、避けるべきであったと言っても仕方ないからである。日米開戦の直前ルーズベルトは「ラニカイ」と言う海軍籍にしたぼろ舟を太平洋に遊弋させ、日本に海戦の一弾を打たせて開戦しようとして、太平洋をうろうろさせている、ぼろ舟が攻撃される前に真珠湾が攻撃されたのに過ぎない。この事が象徴するように、アメリカ政府は参戦したくて仕方なかったのである。 

 既にアメリカは武器貸与法を成立させ、大量の武器弾薬を英ソに送っていた。国際法の中立違反である。ということは事実上の参戦で兵士を送っていないだけであった。正確にはUボートを攻撃させたのだから兵士を送っていたともいえる。国民が本当に戦争反対なら、野党もマスコミもこのことを攻撃して世論は沸き立っていたはずであるが、そのような事実もない。米国が第一次大戦に参戦したのはドイツの船舶攻撃により僅かばかりの民間人の被害を生じたからである。大量の武器供与ははるかに危険な行為である。建前は反戦でも米国民は戦争やむなしが本音であったと考えるしかない。ハルノートは満洲からの日本軍撤退を要求していないし、最後通牒ではない、と新野氏は書く。支那に満洲が含まれていたか否かなどは瑣末な事である。ハルノートは突如交渉の経緯を無視して条件を極度に高くしたのは交渉の拒否を意図している。 

 米国が世論の反対にもかかわらず、あれほど長くベトナム戦争を継続したのは何故か。それを考えれば支那本土から撤兵すればいい、などと言う発想はない。既に日米修好通商条約を破棄し、禁輸など経済制裁を実行している環境の中である。これらのことは米国民周知の事実である。かつての社会党などはイラク戦争の直前に、戦争はしなくても経済制裁だけにとどめよ、などと主張したが、これは経済制裁が準戦争状態であると言う国際法の常識を無視している。ことほど左様に当時の環境からして、最後に登場したハルノートが最後通牒ではないと言うのは誤りである。ハルノートはソ連のスパイによって厳しいものに改ざんされていた、と言うのは事実であろうが、それ以前にルーズベルトは日米開戦を対独参戦の口実にしようとしていたのだから、ソ連のスパイの暗躍がなければ日米開戦はなかったとは考えられない。根本的には人種偏見もあって、支那大陸進出つまり体のいい支那侵略のために日本が邪魔だったのである。 

 ハルノートを公開していたら、と言う事は小生も考えた。だがそれ以前に石油禁輸その他の公式な経済制裁措置を取っている。従って大統領は、それにもかかわらず日本は譲歩しなかったから仕方なく原則的要求を行ったのだ、と説明すればお終いである。すなわちハルノートは唐突に出たのではなく、エスカレートする米国の制裁措置の最後に登場したのであって何ら不自然なものではない。アメリカ国民は原理主義の面があるから、日本の対外的行動をなじって理想的言辞を並べれば説得できる。当時の米政府のマスコミ対応は現在の日本よりよほどましであり、説明上手である。 

 真珠湾攻撃さえしなければアメリカは参戦できなかった、というのも考えにくい。地球儀を見ていただきたい。新野氏の言うように東南アジアの資源地帯やグアム、サイパンなどの島嶼を確保しようとすれば、そこに大きく立ちはだかるのはフィリピンである。真珠湾を攻撃しなくてもフィリピンでアメリカは邪魔するのに違いない。逆に言えば地理的に、これらの地域を確保しようするのに、フィリピンは最適な位置にある。必要なのである。結局この観点からも、英蘭に宣戦すれば、アメリカとの戦いは避けられない。とすれば真珠湾の無力化は必要である。 

原爆を積んだ重巡インディアナポリスの航路をたどってみよう。パナマ運河を通過して、サンフランシスコ、真珠湾に寄港しテニアン島で原爆を降ろした同艦はフィリピンに向かう途中で撃沈された。パナマ運河、サンフランシスコ、ハワイ、テニアン島のこれらの間はほぼ等距離である。航続距離や補給の観点からも、これらの地点を経由する必要があったのである。つまりハワイへの補給を断ち無力化すれば米軍は日本を攻撃できない。 

 よく言われるように無力化のためには、真珠湾攻撃の際に、港湾施設と石油タンクを破壊する事であるが、それだけでは足りない。潜水艦などをハワイ周囲に配置して、機雷封鎖や出入りする艦船攻撃などをしてハワイを使う事を常時防止する事である。アメリカ西海岸を砲撃したことから分かるように、イ号潜水艦の航続距離は他国のものに比べ極めて長い。そのような作戦は充分に可能であった。この本は基本的にいい発想から書かれているが、たまに我田引水があるように思われる、と言うのが書評子の結論である。


メッサーシュミットBf-109G-10・クロアチア空軍

2019-11-09 17:05:40 | プラモコーナー

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 このプラモの写真うち真横から写したものは、ソ連崩壊前のプラモ雑誌に載った、ある写真の機体を再現したものである。写真のキャプションにはこうある。

 「1945年4月、東部戦線のソ連包囲下を逃れ、イタリア北部・ファルコナラの米軍占領飛行場へ投降してきたクロアチア空軍所属のG-10。」

 G-10とはメッサーシュミットBf109G-10のことである。当時の日本人には「クロアチア空軍」はてな?だったのである。ソ連崩壊がした今でこそ歴史教科書をひもとくとクロアチアとは

 クロアチアは第一次大戦後、オーストリア・ハンガリー帝国から独立して独ソ戦を戦うが、戦後ユーゴスラビアの1地方とされ、ソ連崩壊によって再度独立を勝ち取った。

 とまあ、要約すればこんなことになる。ところが、ソ連崩壊以前ならめったやたらに歴史の教科書にクロアチアなどという名前がのることがなかったであろう。ところが小生はプラモマニアだったために、ソ連時代には、ユーゴスラビアの一地方に過ぎなかったクロアチアという名前を、こんな訳で知っていたのである。

 それに大抵の日本人には、ソ連崩壊後、何故か突然に、ソ連から独立したのではなく、ユーゴスラビアから独立したことは奇妙であったのに違いない。しかしかつてクロアチア空軍なるものがあったのをプラモから知っていた小生には、意外でも何でもなかった。しかもクロアチアは、ナチスドイツとともに独ソ戦を戦い敗れたのであった。

 そして亡命したG-10のパイロットは、ソ連の魔手を逃れんとして、米軍占領地まで逃げたのである。いかに当時からソ連は東欧の人々から恐れられていたかが分かるエピソードである。クロアチアの物語はソ連圧政の象徴であるが、バルカン半島の野合分裂の象徴でもある。

 

 プラモの効用はそればかりではない。昔の左翼の人たちは、何とソ連を平和主義の国とみなしていたのである。ところがソ連軍用機のプラモ情報を知りたい小生にとっては、ソ連東欧圏は特に軍事に関しては徹底した秘密主義で、民需品そっちのけで、こっそり高度な軍事技術に予算を傾注していたのを知っていたから、平和主義など嘘八百だと知れたのである。

 そのため東欧のプラモなどというものは、キット本体はともかく、説明書に使われている紙と印刷の質の悪さは驚きである。今でも保管しているが、戦時中の日本の本の質よりもさらに劣っていたのではなかろうか。曲げるとポキリと折れてしまう。わら半紙より劣る。プラモマニアであったが故にソ連幻想を免れた、という次第である。

 ただし東欧の国々の名誉のために言うが、ソ連時代の東欧のプラモメーカーのソ連軍用機のプラモのデッサンは、同時代の日本のメーカーのものより優れていた。昔、某東欧メーカーのMiG-19をモールドを全て彫り直し完成させたが、基本形が優れているので、苦労のしがいはあり、今でも見劣りはしない。

 プラモのことを忘れていました。キットは30年よりもっと前のレベルの1/48である。確か、最初はG-10として売り出したのをK-4型として再販したものを買って、G-10として作ったというややこしいものである。元の木阿弥である(;^_^A。製作当時はクロアチア空軍バージョンのデカールなどなかったから、国籍標識や4の番号も含めて、細かいステンシル以外は全て手書き。胴体側面が真っ黒に汚れているのも、亡命機の写真に似せた。国籍標識が当時のドイツ空軍の鉄十字に似ているのが、空軍開設がドイツ空軍の協力によった影響と推察する。


日本画にデッサンとは

2019-11-07 19:47:38 | 女性イラスト

 東京藝術大学の美術学部には、日本画専攻と言うのがある。その入試には実技として、素描、と言う必須科目がある。素描とは単なるスケッチ、と言う意味があるが、ここではデッサンの意味である。デッサンには例外的に浮世絵からの影響を受けた、線描のものがあるそうだが、ここでは洋画のデッサンである。

 洋画のデッサンは、基本的に物の形を鉛筆等の無彩色で立体的に表現する方法である。例えば円錐形のものがあれば、陰影によって円錐形である事が分かるようにする事が基本である。その事は一見、物を見たままに正確に表現する事のようである。しかし実際は微妙に違うのである。

 飛行機で羽田に着陸する前に富士山を何回か見た事がある。富士山は周囲から際立って高く、昔東京空襲の爆撃機が、富士山を目標にして、そこから東京に向かったという意味が実感できた。ある時の富士山は、切り絵で三角に切りぬいたような形だった。富士山の形は実際には、円錐の頂点をカットしたような形である。しかしその時は立体的ではなく、三角の頂点を少しだけカットしたような台形の平面的な形に見えたのである。

 デッサンの場合には、たとえ目にはどのように見えようと、円錐形であるのが事実なら、そのように描かなければ不合格である。私は子供の頃毎日富士山を見て暮した田舎者である。正確には富士山の傾斜地の上に家が建っていたのである。だから富士山がどのように見えるかは脳裏に焼き付いている。ところがよく見る油絵の富士山の絵のほとんどには違和感がある。

 違和感があるのはデッサンの技法を基礎にして描かれた絵である。それよりは、よほど浮世絵の平面的な絵の方が違和感がない。私は何万回も富士山を見てきたが、赤富士を見たのはたった一度きりである。北斎の赤富士はその時の印象を適切に表しているように見えた。つまり古来の日本の絵画の技法は見えたように表す事を基本としているように思われる。

 絵画の技法は普段のトレーニングの影響を受ける。デッサンのトレーニングをすれば、人はその影響を受ける。伝統的な日本画は洋画のデッサンとは対極にある。例えば、もし北斎がデッサンのトレーニングを受けていれば、あのような絵は描けなかったのである。つまり昔の日本人がデッサンを必須の訓練課程としていれば、浮世絵は生まれていなかったとさえ言える。それならば日本画専攻の者にも、芸大でデッサンの技術の習得を必須としている事は、そのような可能性の芽を摘んでいるとも言えるのだ。

 私は日本画に対するデッサンの良い影響の可能性を否定するものではない。伝統的な日本画からの別な可能性の発見があるからである。しかし全員にデッサンの技術の習得を要求する事には疑問がある。デッサンの技術を習得できないが才能がある者、あるいはデッサンの技術の習得が、本来の才能をつぶす者もいるはずである。私の疑問はその事にある。

 藝術大学、と言うのは明治の西洋文明の習得の一環として設立された。その根本には科学技術は、西洋以外の文明圏にも、普遍的に適用可能なものであると言う発想が根底にある。例えば科学技術は自然現象をうまく説明し、それにより蒸気機関などの文明の利器を作る事ができる、という考えである。たしかにそれは一面の真実であろう。

 同様な発想で明治の日本では洋画を導入した。つまり技術文明の普遍性が、芸術にも適用されると考えた。遠近法も陰影のない平面的な日本の絵画は、明治の日本人には、いかにも非科学的で貧相に見えたのである。しかし日本の絵画の技法は日本の風景や人物を適切に表現するために生まれたものである。必ずしも間違っているものではない、という発想ができなかったのに違いない。民間でも洋画の技法を取り入れるのと並行して官立の美術学校が作られた。そけが芸大の前身である。

 しかし芸大は日本人のニーズから設立されたものではない。だから芸大を出ても仕事は少ない。そこで画壇なるものが構成された。つまり芸大などを出た人たちの活躍の場である。それはやがて院展などとして展覧会画壇に発展する。ここで展覧会のために存在する、という奇妙な絵画の世界が発生した。

 さて本題の女性イラストである。着彩する勇気がなかったのでスケッチ状態で放置したものである。小生のイラストにしては馬面であるが、意外にバランスがとれたというのは、自画自賛である。