毎日のできごとの反省

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GHQ焚書図書開封3・西尾幹二

2013-09-21 13:53:26 | GHQ

 本書の前半は、兵士や家族の心情についての本の紹介が中心である。「生死直面」という本には、息子の戦死を悲しむ父母の姿が書かれている。

 「私の一人息子が戦死を致しました。悲しみのどん底に居ります。毎日毎夜眠ることも出来ません。このまゝ居れば気狂ひになりさうでございます。死にたいが死ぬことも出来ません。・・・」(P68)

 このように父親が電話で話したということが書かれている。極めて直截に悲しみを表現している。そんな文章が昭和15年に出版されているのだ、として「当時の軍も『そんなことを書いちゃいけない』などとは言ってはいない。」とした上で「どうしてそんな本をGHQが焚書しなくてはならなかったのか、私にはさっぱりわけがわかりません。戦争中の日本より敗戦後の日本により多くの自由が与えられたと簡単にいえるでしょうか。」と西尾氏が言うのは当然である。

 その一方で同書は、ある俳句について「『死にてあり』、とは甚だ無礼である。死にたくない若者を殺してゐるとでも考へるのだらうか、・・・むやみに犬死することは誰も望んでは居らぬ。けれども、意義ある戦闘に戦死することは名誉である。・・・この名誉ということは、自由主義国に於て、他人を蹴散らして自分一人が成功する・さういふ場合に得る名誉ではない。・・・」(P78)と親の悲しみを赤裸々に書く筆者が、他方で名誉の戦死ということを書く。

 西尾氏は同じ怒りを小泉元首相の靖国参拝の際の言葉に感じている。例の「戦争によって心ならずも命を落とした方々の・・・」という言葉の「心ならずも」である。戦争に行きたくないと思いながら行かされた、というのは一面の真実ではあるかもしれないが、自ら進んで戦地に行った兵士も多くいたのだから、英霊を十把ひとからげにして「心ならずも」と言ったというのはとんでもない、というのである。小泉元首相のようなことを言う人は戦前にもいたのである。

 5章では、中国兵の実態を記述するために「敗走千里」という本を紹介している。日本に留学していた陳という中国人が、支那事変が始まると故郷の様子を見るために一時帰国したのだが、帰ってこない。すると彼の世話をしていた日本人に留学生から手紙と大量の原稿を送ってきた。彼は中国につくと強制的に入隊させられて前線に送られたのだが二カ月ほどで重傷を負って入院したが傷も癒えたので脱走して原稿を書いた。出版する価値があるなら本にしてくれ、と書いてあったのでこの日本人が翻訳して出版したというのである(P149)。

 P164あたりから、中国軍の便衣や督戦隊、といったものが書かれているが、中国軍では当然のことなので省略する。ただ西尾氏がいわゆる「南京事件」で南京の城門にたくさん積まれている中国兵の死体が日本軍の残虐行為だといわれているが、これは督戦隊のしわざだと指摘していることだけ言っておく。

 西尾氏は「日本と中国は国家同士で戦争をしていたのでしょうか-。主権国家同士の対戦であったといえるのかどうか・・・(P185)」として支那大陸で歴史上繰り返されてきた内乱を紹介する。太平天国の乱では清の人口四億人のうち8千万人が殺された。その後イスラム教徒を皆殺しにする内乱が発生した。フランスの研究者の「共産主義黒書」によれば毛沢東と中国共産党によって六千五百万人の人々が殺されている。何ともすさまじい数字である。只今現在でも年間十万件から二十万件の暴動が起きている。(P188)

 西尾氏はドイツに留学したことがあり、多くの学識経験者と出会ったが、みんな立派な人たちであった。「しかし、日本に来ているドイツ人はダメです。例外はありますが、概して教養も学問もレベルが低くて、いたずらにドイツを高みに置いて日本を見下げる風があり、とんでもない人間が多い。」(P282)菊池寛氏の「明治大衆史」には「然も当時日本に在った外国領事は、多く学問も教養もない者が多く、その裁判は偏頗であり、わが国の威信を傷つける処置が少なくなかった。」(P282)と書かれているのだが、西尾氏の経験と同じである。父は敗戦で支那から帰還して、港で米兵のチェックを受けたのだが、米兵は日本兵の時計を片っ端から巻き上げて、沢山腕に着けて喜んでいたのだそうである。それを見て父はアメリカ人は何と馬鹿な奴らだと思ったそうである。要するにヨーロッパに比べ程度の悪いのが日本に派兵されていたのである。

 最後に焚書にした理由が整理されているので見てみよう。GHQが焚書の対象とする時期が昭和3年から始まっていて、東京裁判が、日本が侵略を開始したと定めた時期と一致する(P322)のは当然であろう。著作の対象となった人物が、天照大御神から始まって乃木希典の様な偉人であるのも当然である。対象となった人物の本で最も多いのが乃木希典であるのは分かるとしても、山本五十六が比較的多いのに対して、東條英機や板垣征四郎が1冊もない、というのは山本五十六が時の人であり戦時に出版された本が多かったのだろうか。腑に落ちない話である。

 本の内容からすれば国体や神道に関するものが最も多く、次が東亜、支那、満洲などに関するものが続き、三番目が、戦争、聖戦に関するものである(P324)。本のタイトルに「侵略」とある本は全て欧米が侵略した、というものばかりである(P330)。ところが侵略戦争という言葉は一切使われておらず、この言葉は昭和二十一年にGHQが発表した「A級戦犯起訴状」の新聞発表で初めて登場する(P335)。当時は国際法上の侵略戦争という概念が明確でなかったから、日本では使われていなかったのであり、東京裁判が勝手にでっち上げたという事情がはっきりする。焚書の対象とならなかった人物の著作は、小林多喜二、三木清、尾崎秀実、河上肇などというから(P335)、思想的傾向は明瞭である。焚書の対象となった著者で二番目に多いのが長野朗という、このシリーズで西尾氏が最も高く評価している人物の一人である。要するに焚書にされた著書が多かったのは、日本を正しく記述し、焚書の対象とならなかった著者は誤って記述していると読めばいいのである。

 


書評・GHQ焚書図書開封5・ハワイ、満洲、支那の排日・西尾幹二

2013-09-07 13:23:15 | GHQ

 ハワイと満洲については、各々アメリカと支那により侵略されたことを描き、支那に関しては排日の実相と原因について述べている。アメリカは、東洋進出のための基地としてハワイを併合した。併合の手続きは手が込んでいる上に複雑である。多くの米国人を送り込み経済と行政を牛耳った上で、王政を廃止独立を宣言した後に米国併合を申し出る、という訳だ。バルト三国の侵略のように軍事力で威圧して併合を申し出させるという直截な手段に比べると対照的である。

 ところがいったんは併合を承認しながら、大統領が変わると否認するが、結局は併合する。「強硬論があるかと思うと、リベラルな論もある。・・・ただし国内調整のための正論の登場は最初の国家意思を変えることなく、ひと皮むくとそれが、“仮面”にすぎなかったことも次第にわかってくるのが常です。」(P64)というのである。専制独裁ではないから、ソ連のように直截にことは運べないから、異論は言うだけ言わせて結局は国家意思を通す。この欺瞞には日本も日米開戦で大いに使われていて、あたかも米国に対日開戦の考えなど無く、無謀な戦争に日本自ら突入したという考え方の補強になっている。

 ハワイ王家が断絶されて最後に併合されてしまった運命を見て「もし、天皇家が無くなり、精神的支柱を失ったら、日本は本当にアメリカの州のひとつにならざるをえないような事態に追い込まれるでしょう。ハワイと同じように、アメリカの軍事力に支えられているという・・・」という。当然であるが重い指摘である。だからアメリカは皇統が断絶するように長期スパンの仕掛けをしたのである。

 満洲についてである。「・・・支配階級として北京にいた満洲人はどうなってしまったのか?私は満洲研究家の専門家にそれを尋ねたことがあります。すると、「まったくどこにいったのかわかりません。ちりぢりになってしまいました」という答えが返ってきました。要するに、侵略して民族浄化のようなことまでしているのは中国なんです。」(P160)という。この発想の転換は面白い。西尾氏は満洲人が北京に行ってしまい、希薄になってしまった所へ、封禁が解かれロシアや日本のおかげで支那本土より平穏だった満洲に大量に流れ込み、あたかも漢民族の土地であるかのようになったことを侵略と言っている。

 そして共産党支配が始まると満洲人を強制移住させてしまい、他民族のなかに埋もれさせて民族の痕跡をなくしてしまったことを民族浄化と言っている。一面その通りであろう。元々外国であった土地に多数乗りこんで圧倒的多数になったから、俺の国のものだなどというのが通ったら侵略は簡単にできる。今満洲族であると自称するのはようやく増えて1000万人程度であると言われている。中共政権ができた当時は迫害を恐れて自称しなかったが、今はそれを恐れる必要が無くなったのだというのだが、支那北部と満洲にいる人たちは北京語すなわち満洲語を話す。この人たちは間違いなく満洲人と満洲化した漢民族である。満洲人は消えていなくなったのではない。西尾氏は言語は民族の根幹をなす、という考えのはずである。

 隋も唐も支配者は漢民族ではない。それならば、当時の支配民族はどこに行ったのだろうか。漢民族の中に埋もれたのであろうか。そうではあるまい。清朝の直接支配した北京と満洲が満洲人と満洲化した漢民族の生息地であるように、漢民族を自称しながらいずれかの言語を使い、どこかの地域に棲息している。本来の漢民族は五胡十六国の時代に絶滅に瀕し、少数民族に落ち込んだ。今漢民族と称している民族のほとんどは、漢民族絶滅後支那大陸に繰り返し侵入した民族が支那本土に定住したものである。侵入は何回も繰り返された。だから漢民族と呼ばれる人々は、広東語、北京語、福建語、上海語その他などの多数の異言語を話すのである。これら言語の相違する人たちは同じ漢民族ではなく、出自が全く異なる人たちである。これらの過程はローマ帝国崩壊以後、ゲルマン民族大移動や、ペルシア帝国の支配などを通していくつかの言語の国家に分裂したヨーロッパにそっくりである。相違するのは適正規模の国民国家に収斂しなかったことである。

 辛亥革命が成立してからは、支那は対外的には中華民国という政府があったことになっているが、実態は軍閥の分割支配する状態で、それも一定していたわけではない。例えば昭和3年に暗殺された張作霖のある時代は、例えば満洲から北京にかけては、張作霖、揚子江上流は呉佩孚、馮玉が西安の奥の支那北西部、大陸南方には蒋介石の国民党軍(P177)といった具合である。注意しなければならないのは、軍閥の意味である。日本の近代史では「軍閥支配」などといって、国軍である軍部の事を言っている。

しかし支那の軍閥とは事実上の私有の軍隊のことであり、悪く言えば匪賊である。パールバックの大地には金儲けが目的で、個人が「経営」する軍隊に入る若者が描かれている。清朝末期には清朝の軍隊が衰弱して支那国内が乱れたので自衛のために農民などが武装集団化したものが、統廃合を繰り返して規模が大きくなっていったものである。共産党政権になっても国軍というものがなく、共産党の軍隊となっている。ところが、軍管区に分かれていて軍事ばかりではなく、徴税したり農耕したりでかなり自活的である。そこで欧米では軍管区が軍閥化しているのではないかと見る向きがある。そのため、天安門事件が起きた時などは、各軍管区が独自の行動をとり、北京政府と敵対するのではないか、ということが注目された位であった。

 植民地について「・・・植民地主義というと、悪いことの代名詞のように今はいわれています。しかしイギリスが世界に率先して進めた『近代植民地主義』は、元来は一種の解放の理念でした。後れた民族を生活指導し、近代化を推進し、文明のレベルにまで引き上げてあげ・・・イギリスは最初そういうことをいっていたのですが、実際には遅れた国々を隷属させ、そこから搾取することになってしまった。イギリスだけでなく、フランス・・・みな、そうです。ところが日本だけは、当初のイギリスの理念に近いことを実行したのです。」(P243)というのであるが、これは黄文雄氏の考え方に近い

 それどころか黄文雄氏は、イギリスが香港をまともなところにしたように、植民地主義の理念がかなり実現された場合がある、と主張している。香港を例に挙げると正しいかもしれないが、他の大部分では理念倒れになっていると言わざるを得ない。支那大陸のように何千年たっても民度が向上しない地域については当たっている面もあったのであろう。それとて搾取が目的で近代化は結果に過ぎない。アフリカのようにまだ部族社会であった地域が植民地支配された結果は、国家が成立しない古代以前の状態にいきなり近代文明を持ち込んだから、自然な進歩が阻害され、混乱を引き起こした結果になったのが大部分である。部族社会に殺傷効率がいい近代兵器を持ち込んだものだから、部族間の争いは凄惨なものになったのである。部族社会の時代には、殺傷効率の悪い兵器で穏やかに闘い、何万年もの時間をかけて部族統合から統一国家に自然収斂するのが本来の姿であるが、西欧の介入はそれを阻害した。アフリカの混乱の原因は欧米による植民地支配の結果である。アジアアフリカの現在の混乱は、欧米が介入した時点における現地社会の進化の程度が遅いほど大きいのである。

 がっかりしたというか、納得したのは、宮崎市定である。宮崎の中国の通史を読んだことがあるがどうも中国の実際の姿が見えないきれいごとのように感じていたのだが、権威に押されていたのだろう、批判する気になれなかった。西尾氏は簡単に、中国大陸には蠅一匹いない、毛沢東の革命は成功したなどという「・・・デタラメをバラまいた張本人のなかに吉川幸次郎や宮崎市定や貝塚茂樹といった名だたる中国研究家がいた・・・」(P286)と言ってくれた。宮崎も底の浅い中国礼賛者のひとりに過ぎなかったのだ。

 満洲は本当に独立できるのか(P358)というタイトルは重いテーマである。ある雑誌の増刊号である「満洲事変の経過」という本の末尾に長野朗という人がこの問題を考えている。それには「もし、支那本部が強力なるものにより統一された場合にはその力は満洲に働きかけてその独立を困難にするから日本が絶えず実力を以てこれを防いでゐなければ独立は保たれないが、支那の時局が各地分立に向ふならば、満洲の分立も亦容易となる。(P358)」とある。

 この考察に西尾氏は注目している。多くの識者は満洲事変は昭和8年の塘沽協定で終わったと考えているがそうではなく、長野氏は「もう少し深く、シナ本土と満洲はほとんど一体だと考えていたようですね。(P359)」というのである。つまり満洲は封禁が解かれて漢民族が流入し、漢民族が満州族を圧倒するようになったとき、満洲は支那本土と一体になってしまったと言うのである。現に蒋介石が支那本土をほぼ統一した時点でも、日本が満洲を守っていたうちは独立していたが、引き上げて国共内戦で毛沢東が統一したとたんに、満洲は支那に吸収された現実が長野氏の先見の明を示しているというのだ。日本のバックなしに自然体で満洲が独立するのは、支那本土が小国に分裂するしかない、という見解は悲しくも事実であった。当時の世論は、支那本土の状況にかかわらず満州国独立を支持していて、長野氏のような冷徹な考察は例外であったから、いくつかの論文の最後に控えめに載せられていたのである。このような異論を許容していたのも戦前の日本であった、ということにも注目すべきである。

 


GHQ焚書図書開封6・西尾幹二

2013-09-02 16:11:28 | GHQ

 このシリーズは眼を開かれる記述が多い。本書の要旨は一言で言えば、戦前の米国の戦争のターゲットはドイツなどではなく、日本であった、ということであろう。小生も平成24年に真珠湾攻撃以前のアメリカの日本本土爆撃計画を知り、それを検討していくうちに米国は対独参戦とは関係なく対日戦争を計画していたと確信するようになったから、本書はその考えを深めてくれた。なお焚書の引用は旧かなはそのままに、漢字だけ当用漢字に改めた。

 焚書の引用で「・・・米国海軍当局の計画せる即戦即決戦法に狂ひが生じて・・・。・・・日米開戦となっても無条件にイギリスが参戦するとは考えられていなかった。・・・それに欧州政局よりもアジアのほうがきな臭い。(P108)」という。これは昭和7年の出版である。この時点で既にヨーロッパよりも日米戦争の可能性が高く、しかも米国単独でも戦争をすると考えられていたのである。満洲事変直後で、支那事変はまだ起きてはいなかった。それでも短期決戦を考えていたとすれば、昭和16年の時点では長期化する支那事変で日本が弱体化していたと判断でき、対日戦は短期で犠牲も少なく容易に勝てると考えていたのであろう。P300にも、「日本疲弊せりと盲断」という項目を紹介している。

 しかも昭和五年のロンドン条約の効果が残り、無条約時代になっても有利であった昭和16年の時点というのは米国自身が有利であったと判断していたとしても不思議ではない。海軍軍縮に固執したところから、日本の脅威は海軍であったと米国は判断していたのに違いない。事実、米海軍軍人で東郷元帥を尊敬していた人は多いが、米陸軍では乃木大将については案外知られていない。

 米国の日本人差別のついでに、黒人差別について語る。「アメリカで黒人の参政権が認められたのは東京オリンピックよりあとなんですよ。一九六五年です。しかも、投票に際しては『文盲テスト』がありましたから、多くの黒人はこれで弾かれた。実質的な選挙権は長い間無かったにも等しいともいわれています。文盲テストが廃止されたのは一九七〇年、発効されたのは翌七一年・・・」(P119)現在でも黒人差別はある。黒人のスポーツ選手の差別は減りつつあるが、米国で有力選手が未だに出ないものがある。水泳である。黒人が参加するとたちまち白人を駆逐する場合が多い。

陸上競技はその最たるものである。水泳も参加すればそうなるであろう。だがアメリカの白人は黒人と一緒の水に入るのを病的に嫌うのである。以前紹介したように「ダイバー」という映画に軍艦では週に一度だけ黒人が海で泳いでよい日が決められていることが紹介されている。だが白人は一緒に泳がない。これは病的である。P186には、無実の黒人を有罪と勝手に決め付けた白人群衆が、橋から吊るして殺す場面が紹介されている。西尾氏はアメリカ南部ではこのようなリンチは普通に行われていたと言う。アメリカでの黒人差別というのは差別という言葉はあまりに誤魔化しが過ぎるように思われるほどの非人間的なものである。

 アメリカ世論は戦争に反対であったと西尾氏も考えているが、これには賛成しかねる。「『ハル・ノート』という最後通牒を突きつられたとき日本は悠然と構えていたらよかったのに、ということもいえそうです。ルーズベルトが日本を威嚇して戦争をしたかったのは確かですが、・・・ルーズベルトの後ろにはアメリカ議会があるし、戦争はイヤだというアメリカ世論もあったわけですから、こちら側が「議会に訴えかける」という手を打てばよかったのではないか・・・」(P142)というのである。

 ハルノートをアメリカ議会にバラセバよかったという意見は案外あり、西尾氏もその陥穽に嵌ったように思われる。米国が武器貸与法や物資輸送の船舶護衛により公然と英ソを軍事支援したり、Uボートを攻撃しても世論も議会も多数が支持した。法律は議会が成立させるのである。日本本土爆撃計画は有名マスコミで公表されたのに議会も世論もブーイングの声はなかった。米政府の公式見解では経済制裁は戦争の一環であると以前から言われていたのに、政府は対日経済制裁を実施した。P227には、一九四〇年に米国が英国の肩代わりをして、ドイツに奪われないようにアイスランドを保障占領するという軍事行動を公然と取っていることを紹介している。どう考えても戦争を企画していたのはルースベルト政府だけで国民やマスコミは戦争絶対反対であったとは考えられない。戦争反対は国民にとって建前のスローガンに過ぎなかった。第一次大戦の惨禍を受けたのはヨーロッパであって米国ではない。米国は利益だけを得たのである。

 西尾氏の民主主義の定義はユニークであるが、妥当であろう。「・・・民主主義というものは、観念でも理念でもない。外国にモデルがあるという類のものでもない。独裁ではないそれぞれの民族の暮らし方-それが民主主義です。・・・老中民主主義・・・守護大名民主主義・・・日本は中国とちがって昔から専制独裁には縁遠い民主主義国家だったのです。とすれば、アメリカのデモクラシーというのはアメリカ型民主主義にすぎないわけです。・・・民主主義を至上のもののように考えるのも間違いです。(P182)」まあその通りである。

 「イギリスを助けるというのは名目で、じつはイギリスがもっていた遺産-領土にしても、権益にしても、貿易にしても、それを奪い取ろうという意図があるのではないか」(P229)ということを「英米包囲陣と日本の進路」という焚書から読み取っている。西尾氏が書く通り当時の日本人は日本の国際的位置を知らずにいたのではなく、現在の日本人より遥かに正確に知っていたのである。やはり日本人は戦後盲目にさせられたのである。

 今日の日本では大東亜会議を侵略を糊塗するものとして評価しない向きがあるが、その対照として評価されている太西洋憲章の方がインチキである。大西洋憲章のインチキを前掲書はきちんと語っている。また支那事変に対するチャーチルの日本軍批難演説の前夜に英印軍がイランに侵攻し「少数民族の保護」の美名で糊塗している(P248)。米英はタイを軍事力と在米英資産凍結の脅迫で、対日経済制裁に加わるようにさせた(P268)。欧米のやったことは正義で、同じことを小規模でしても日本は侵略と非難される理不尽が多数紹介されている。

 確認できないことがある。「日米開戦の日は以来、十二月七日ではなく、十一月二十六日であるというのが時の日本政府の見解です。日本側も最終覚書(帝国政府対米通牒)を同日にハル長官に手渡しています。(P290)」というのだが、日本政府の見解も対米通牒もこれから調べてみたい。これが事実なら、最後通牒の遅れと騙し打ちなどは問題にならない。軍事的奇襲攻撃などは戦術的には当然のことである。