本書の前半は、兵士や家族の心情についての本の紹介が中心である。「生死直面」という本には、息子の戦死を悲しむ父母の姿が書かれている。
「私の一人息子が戦死を致しました。悲しみのどん底に居ります。毎日毎夜眠ることも出来ません。このまゝ居れば気狂ひになりさうでございます。死にたいが死ぬことも出来ません。・・・」(P68)
このように父親が電話で話したということが書かれている。極めて直截に悲しみを表現している。そんな文章が昭和15年に出版されているのだ、として「当時の軍も『そんなことを書いちゃいけない』などとは言ってはいない。」とした上で「どうしてそんな本をGHQが焚書しなくてはならなかったのか、私にはさっぱりわけがわかりません。戦争中の日本より敗戦後の日本により多くの自由が与えられたと簡単にいえるでしょうか。」と西尾氏が言うのは当然である。
その一方で同書は、ある俳句について「『死にてあり』、とは甚だ無礼である。死にたくない若者を殺してゐるとでも考へるのだらうか、・・・むやみに犬死することは誰も望んでは居らぬ。けれども、意義ある戦闘に戦死することは名誉である。・・・この名誉ということは、自由主義国に於て、他人を蹴散らして自分一人が成功する・さういふ場合に得る名誉ではない。・・・」(P78)と親の悲しみを赤裸々に書く筆者が、他方で名誉の戦死ということを書く。
西尾氏は同じ怒りを小泉元首相の靖国参拝の際の言葉に感じている。例の「戦争によって心ならずも命を落とした方々の・・・」という言葉の「心ならずも」である。戦争に行きたくないと思いながら行かされた、というのは一面の真実ではあるかもしれないが、自ら進んで戦地に行った兵士も多くいたのだから、英霊を十把ひとからげにして「心ならずも」と言ったというのはとんでもない、というのである。小泉元首相のようなことを言う人は戦前にもいたのである。
5章では、中国兵の実態を記述するために「敗走千里」という本を紹介している。日本に留学していた陳という中国人が、支那事変が始まると故郷の様子を見るために一時帰国したのだが、帰ってこない。すると彼の世話をしていた日本人に留学生から手紙と大量の原稿を送ってきた。彼は中国につくと強制的に入隊させられて前線に送られたのだが二カ月ほどで重傷を負って入院したが傷も癒えたので脱走して原稿を書いた。出版する価値があるなら本にしてくれ、と書いてあったのでこの日本人が翻訳して出版したというのである(P149)。
P164あたりから、中国軍の便衣や督戦隊、といったものが書かれているが、中国軍では当然のことなので省略する。ただ西尾氏がいわゆる「南京事件」で南京の城門にたくさん積まれている中国兵の死体が日本軍の残虐行為だといわれているが、これは督戦隊のしわざだと指摘していることだけ言っておく。
西尾氏は「日本と中国は国家同士で戦争をしていたのでしょうか-。主権国家同士の対戦であったといえるのかどうか・・・(P185)」として支那大陸で歴史上繰り返されてきた内乱を紹介する。太平天国の乱では清の人口四億人のうち8千万人が殺された。その後イスラム教徒を皆殺しにする内乱が発生した。フランスの研究者の「共産主義黒書」によれば毛沢東と中国共産党によって六千五百万人の人々が殺されている。何ともすさまじい数字である。只今現在でも年間十万件から二十万件の暴動が起きている。(P188)
西尾氏はドイツに留学したことがあり、多くの学識経験者と出会ったが、みんな立派な人たちであった。「しかし、日本に来ているドイツ人はダメです。例外はありますが、概して教養も学問もレベルが低くて、いたずらにドイツを高みに置いて日本を見下げる風があり、とんでもない人間が多い。」(P282)菊池寛氏の「明治大衆史」には「然も当時日本に在った外国領事は、多く学問も教養もない者が多く、その裁判は偏頗であり、わが国の威信を傷つける処置が少なくなかった。」(P282)と書かれているのだが、西尾氏の経験と同じである。父は敗戦で支那から帰還して、港で米兵のチェックを受けたのだが、米兵は日本兵の時計を片っ端から巻き上げて、沢山腕に着けて喜んでいたのだそうである。それを見て父はアメリカ人は何と馬鹿な奴らだと思ったそうである。要するにヨーロッパに比べ程度の悪いのが日本に派兵されていたのである。
最後に焚書にした理由が整理されているので見てみよう。GHQが焚書の対象とする時期が昭和3年から始まっていて、東京裁判が、日本が侵略を開始したと定めた時期と一致する(P322)のは当然であろう。著作の対象となった人物が、天照大御神から始まって乃木希典の様な偉人であるのも当然である。対象となった人物の本で最も多いのが乃木希典であるのは分かるとしても、山本五十六が比較的多いのに対して、東條英機や板垣征四郎が1冊もない、というのは山本五十六が時の人であり戦時に出版された本が多かったのだろうか。腑に落ちない話である。
本の内容からすれば国体や神道に関するものが最も多く、次が東亜、支那、満洲などに関するものが続き、三番目が、戦争、聖戦に関するものである(P324)。本のタイトルに「侵略」とある本は全て欧米が侵略した、というものばかりである(P330)。ところが侵略戦争という言葉は一切使われておらず、この言葉は昭和二十一年にGHQが発表した「A級戦犯起訴状」の新聞発表で初めて登場する(P335)。当時は国際法上の侵略戦争という概念が明確でなかったから、日本では使われていなかったのであり、東京裁判が勝手にでっち上げたという事情がはっきりする。焚書の対象とならなかった人物の著作は、小林多喜二、三木清、尾崎秀実、河上肇などというから(P335)、思想的傾向は明瞭である。焚書の対象となった著者で二番目に多いのが長野朗という、このシリーズで西尾氏が最も高く評価している人物の一人である。要するに焚書にされた著書が多かったのは、日本を正しく記述し、焚書の対象とならなかった著者は誤って記述していると読めばいいのである。