安倍総理辞任の真相、財務省が隠した爆弾、郵政民営化の全内幕、などの前半の章については、貴重な著者の体験に基づく貴重な話で納得がいった。特に郵政民営化には、財務省との関係でいずれ民営化しないと郵政も財務省も破綻する必然的なものだということは世間に知られていない情報であった。
また、消えた年金の真実、では、年金記録がでたらめになっていたのは、旧社会保険庁内部の労働組合のサボタージュが原因である、ということをはっきりさせてくれた。しかも以上述べた問題について、ほとんどのマスコミが真実を報道せず、表層的に安倍晋三氏、小泉純一郎氏、竹中平蔵などによる改革を妨害する役割しか果たしていないことも明らかにしてくれた。
事あるごとに、報道の自由だとか、真実の報道は民主主義の根幹だ、などと叫ぶ日本のマスコミのインチキさについては、今更ながらあきれる他ない。日本のマスコミは多くが、建前に反して、特定勢力によって動かされる怪しげな存在である、という思いを深くした。
ただ、公務員制度改革については、一部指摘したいことがある。まず著者は、民間には天下りがなく、公務員だけが天下りをし、天下り先のために働いている、という面があると言うのだが、これは事実ではない。天下りが公務員制度をゆがめているのは事実であるにしても、民間にも「天下り」は存在する。
特に民間でも大きな企業には必ず系列会社が存在し、定年の前後に系列会社の大手から、中小の会社に再就職をする、ということは稀ではないと思う。日頃公務員の天下りを批判している朝日新聞ですら、子会社のトップに再就職をしているではないか、という記事を書いた、雑誌があった。しかも再就職する人物は単に親会社だから再就職するのであって、必ずしも子会社の業務に精通しておらず、お飾りのトップに過ぎないというのだ。正に悪しき「天下り」の典型であろう。天下り批判の急先鋒の朝日がこの体だから、他はおして知るべし、であろう。
著者の批判する公務員制度批判の多くは、日本の企業体質のかがみであって、年功序列も終身雇用も現代の日本の企業体質の反映である、といえる。
小室直樹氏によれば、日本は戦後、高度経済成長と天皇の絶対性の崩壊により、村落共同体が崩壊したため、急性アノミーにおちいったという。そのため村落共同体の受け皿となったのが、会社組織である、というのだ。(「小室直樹の中国原論」による)小生はこの指摘は正鵠を得ている、と考える。小室氏は豊富な学識ばかりの人ではなく、人の精神構造にも理解が深いのである。日本の公務員制度は、多くの面で民の縮図である。
個人のスキルによって、民から官、官から民、民民へと自由に転職することが可能であるべき、という著者の主張には一面の真理があるが、小室氏の言う視点が全く欠落している。日本の終身雇用制度は戦後に強固になったのであって、必ずしも戦前はそうではなかったことは、当時の小説を読むと分かるのである。戦前は必ずしも終身雇用でなくても個人の精神の安定が保てたのは、村落共同体が健在であったから、ある人が会社を辞めても村落共同体という安定した所属場所があったからである。あからさまに言えば、会社が嫌になって辞めても、帰って迎え入れてくれる村落共同体がある、という安心感があるのである。
小生の田舎にもそのような村落共同体があったため、その安心感は理解できる。今でもその残滓があって、小生の子供の頃の同級生にも、東京で公務員勤めをしていたのが、定年で実家に戻り、家業をついだ者がいる。彼にとっては歳をとってから、田舎で暮らす、というのは当然であったようである。わが家は事情があり、そのような村落共同体から疎外されていた。だから小生は村落共同体を忌避する本能があるのだが、日本社会における村落共同体の重要性は理解できる。
現代ではむしろ、都会にこそ村落共同体が濃厚に残っている、と感じることがある。例えば江戸市中であれば農村ではなく、隣近所が職業を異にする自営業なり職人の共同体であった。元々同じ農業を営む同一職業共同体ではなかったのである。だから農業村落共同体の崩壊は直接都市部には影響を及ぼさない。その結果代々、都会の地に住む家系の人々にとっては、共同体は存続し得たのである。ただし、小生のように田舎から仕事を求めて都会に新たに住むようになった新住民は、共同体の一員になるには日月を要するのであろう。何世代か定住しなければならないのではなかろうか。
恐らく世界の社会的生活を営む人類には、民族等に拘わらず、何らかの所属共同体が必要なのである。民族によってはそれが宗教であったりするのであろう。欧米では、その主たるものがキリスト教であることは、夙に知られている。戦前までの日本では職業の大多数を占めた農業を基礎とした、農村村落共同体であったのである。
このような観点の欠落した著者の公務員制度改革は夢想的理想主義の一面を免れてはいない、と考える。著者にしても、信念と運に基づいて行動した結果、財務省という共同体からはじき出されたが、実はその実力によって思想をともにする共同体の一員になっているのだろうと想像する。前川喜平元文科省事務次官にしても、左翼的言動をあらわにすることによって、何らかの居場所となる新しい共同体に安住したのであろう。
そうでなければ、文科省を辞めた身分で、学校の講演会に呼ばれて謝金を得る機会を得ることはなかったはずである。しかし、つい先日までエリート官僚であった前川氏の新規に所属した共同体の構成員の大多数はそうではないだろうから、必ずしも安定した居場所ではなかろうとおもう。小生が聞いた、公共事業関係のエリート官僚で、突如公共事業罪悪論を振りかざして退職してしまった人物がいる。その人物はかつての所属官庁の現職からもOBからも嫌われている。前川氏を想像するゆえんである。
本書も公務員改革の部分については、存外に旧来の公務員批判と大差ないように思われる。公務員とて終生、精神の安定を得る共同体は必要なのである。そこで小室氏の意見を克服できるようになれば、著者の公務員制度改革も現実的になる、と思う次第である。