毎日のできごとの反省

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インパール作戦なかりせば

2017-12-26 13:31:03 | 大東亜戦争

 平成29年の夏にも、インパール作戦の現地を歩く放送があった。いわゆる白骨街道だ。戦死者本人や遺族の苦しみを考えると、何とも言いようがないが、インパール作戦の戦死者や負傷者は当事者自身が考えているようには無駄死にではなかった。それどころか歴史的事実としては、世界史そのものを変えたのである。

 インパール作戦自体、早い時期に計画されていたが、補給が困難だとして反対していたのが、後日担当とされ多くの批判をあびたた牟田口参謀その人であった。作戦が発動されたのは、東條首相がチャンドラ・ボースのインド独立の熱意に動かされたからだと言う説もある。また遅れは海軍に騙されていた、という説もある。対米戦をしているのにインドに攻め込んでどうする、というのである。

発動した時勝つには遅すぎた。しかし、牟田口の作戦は英軍に評価されている。戦後インパール作戦には口を閉ざしていた牟田口は、英軍に評価されていると知った時、急に話し始めた、というのは余りに現金である。しかしインパール作戦でインド国民軍(INA)が反乱軍として捉えられた時、インドの暴動が始まって、インドの独立は実現した。

洋画の「ガンジー」にはインパールもインド国民軍も登場しない。しかし、インド独立はガンジーの無抵抗運動で成ったものではない。確かにガンジーの運動がインド国民に対して、英国への反抗心を育てたことは事実である。西洋人が「ガンジー」なる映画を作ったのは、インドが比較的平和的に独立した、という嘘のためであるとしか考えられない。

もし、インパール作戦がなかったら、インド独立は、何十年も遅れたとインド人自身は言う。これは、インド人の手だけでも独立できた、という見栄であろう。日本軍の干渉によって独立は現実に起きた。しかし何十年後に独立できる、という保証はないのである。

昔インド製作の戦争映画を見た。英語の稚拙な小生にも、上官は比較的流暢な英語を話したのが分かった。ところが階級が下がるにつれ、多分ヒンズー語系だろうが、英語以外らしい言語が混じっているのが増えていった。要するに、上流階級には英語すなわち、英国文化が浸透しているのである。数十年過ぎたら、その傾向は強くなるであろう。

独立の気運さえ失われるかも知れないのである。あるいは独立したところで、インド固有の文化は喪失しただろう。そのことは現在の南米を見るが良い。

インドの独立がなければ大英帝国の崩壊はなく、アジア、アフリカの独立はない。これら世界の植民地の独立がなければ、今の日本はない。すなわち世界と公正な貿易による日本の立国は欧米の植民地支配の終了から始まったのである。

あり得ない想定だが、外交努力で支那事変を解決し、対米戦が起きなかったとしたら、日本の平和は当面は続いたであろう。ただし、白人世界の中の唯一の有力有色人種国家と言う、閉塞した状態は続いたであろう。その間、いつの日か日本は白人国家と衝突したのは間違いない。いくら対欧米関係に神経を使ったところで、欧米は非有色人種の国家日本が、世界の大国として登場したことなどということは、心底では許し得なかったのである。

なるほど米国などの陰謀で、憲法さえ変えられてしまった。反日を生き甲斐とする異常な日本人が増殖し、テレビマスコミには戦前日本を犯罪国家のように言う人士しか登場しない雰囲気が固定化しつつある。しかし、日本はサンフランシスコ講和条約で独立したのである。主権を回復した以上は、日本の混乱は最早米国のせいにすべきではない。既にしてキャスティングボードは日本人の手にあるのである。講和条約以前の主権のない状態の憲法を今放置するのは、日本人自身の問題である。日本は解放されたのだ。

その後の全ては日本人の自己責任である。以前にも、紹介したが漱石の「猫」にこんな挿話がある。金儲けのジョークである。人に600円貸したら、すぐに返せとは言わず、月10円返すと言う話にする。すると年120円で五年で完済だが、毎月10円づつ払っているうちに、払うことが習慣になって、永遠に金を貰えると言う算段である、というジョークである。

話を聞けば馬鹿馬鹿しいが、漱石は単なるジョークとして書いてはいまい。現に日本国憲法がその類である。政府は米軍に押しつけられた憲法を仕方なく成立させたが、本音の共産党などは反対した。ところが今はどうであろう。5年の借金の完済、すなわちサンフランシスコ講和条約が成立し、旧憲法の復活の自由ができたときには、多数が強制された日本国憲法を金科玉条のごとくいいつのる。吾輩は猫であるの冗句は冗句ではなく現実におきている。国家主権がない時点で成立させられた憲法は、憲法たりえないのは当然である。

日本国憲法廃棄も含め、責任は日本人自身にある。もちろん小生は廃憲論者である。なるほど平成29年における、安倍首相の九条への自衛隊の追加は建前としてはおかしい。だが今の日本国内の、異常な改憲反対を打破する道としては、他に選択肢はないのではないか。

現に何十年も日本国憲法が使われてきたのに、今更全部廃棄するのは変だ、というのはたしか大阪の橋下市長らの法律家としての見解である。しかし、これは憲法を文章で書かれた憲法典に限定した狭量な議論である。日本国憲法を廃棄したところで、成文憲法がなくなるだけで、国体の本質と戦前戦後の慣習からなる、国体としての日本国の憲法はなくならない

帝国憲法に内閣制度の記述がないのに、運用されていたと瑕疵をいう論者がいるが、憲法を成文典だけに見誤る瑕疵であろう。日本の憲法すなわち、国体は明治天皇の五箇条の御誓文と聖徳太子の十七条の憲法で本来は充分であり、成文典は不要とも言える。英国に成文憲法がないと、言い出すのは西洋の例があるから、という悪癖としか言えず、本質ではない。

伊藤博文たちが苦労して帝国憲法を造ったのは、欧米との不平等条約の改正の方便のひとつである。そのことを評価するのと、事実認識とは異なる。安倍総理がとりあえずの改憲を言うのは伊藤博文の事情と似ている。方便としの9条改憲をしなければ、対北、対中問題の対応は出来ないし、ともかくも米国製憲法を打破したと言う実績は残らないのである。

改憲によって米軍の指揮により、世界中に派兵しなければならなくなる、という論者がいるが、どこに派兵するかは日本の国策の判断であって、憲法の問題ではない。現に日本は朝鮮戦争で米軍に掃海を命令され、基地を提供して国際法上は参戦している。しかも、戦死者一人を出している。

つまりどこに派兵するかは、政策の問題であって、憲法以前の法律の問題ですらない。改憲阻止は漱石の言う、強迫観念である。現に平和憲法のおかげで、日本の平和は守られたというが日本国憲法下で、日本は朝鮮戦争とベトナム戦争に参戦したばかりではない。竹島を侵略され、数百人を下らない国民を拉致されると言う、侵略を受けて、何もできない。日本国憲法のおかげで、戦争をせずに平和に過ごした、というのはお尻を出したまま頭も土に突っ込んで逃げている、ダチョウの平和である。

現に朝鮮戦争とベトナム戦争に国際法上の参戦したばかりではなく、国民や領土を奪われて、知らぬ顔していたではないか。旧社会党の土井元委員長らは、これらの事実に極度に冷淡な、非日本人としかいいようがない。韓国の呉氏などは、朝鮮民族の性格にすら強烈な批判をした。あげくに日本に帰化した。

それはむしろ誠実な行為である。呉氏ほどの批判をするならば、韓国人からの批判に耐えかねて、というより、良心に従って国籍を替えたものと信じる。今、日本の悪逆をいいつのる者がいる。それならば、北朝鮮でもどこでも自分の理想の国に国籍を替えるが良い。それをしないのは、思想に忠実でないばかりではなく、いいたい放題の日本の社会への甘えに過ぎない。