毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

Yak-25B 1/72 その2

2021-03-30 16:16:58 | プラモコーナー

グレーのサフを吹き、#600の水ペーパーでならしてから、シルバーを吹きました。シルバーは食いつきが良いように、クリヤーを入れ、アルミ風に白を混ぜたものを大量に作ってあります。操縦席キャノピーは単純なのでマスキングも楽です。

 

翼付け根の滑り止めの艶消し黒は、デカールを作ろうかと思いましたが、意外に面倒なので、塗装にしました。爆撃機手席の天井は大きくマスキングしてしまったので、マスキングし治してスリット状にしたので、冷や冷やものです。操縦席前の防眩塗装はデカールですが、キャノピーとの合いが悪いので、手塗りで補助です。

 

いよいよ原爆運搬の台車ですが、三車輪式の後輪の取り付けがややこしそうです。これは下側ですが、弾頭支えの半円の支えが弾頭とうまく合うか心配です。台車は色指定がなく、箱絵もモノクロなので無難にアルミシルバーにしました。

 

原爆は、色指定がなく、箱絵もモノクロなので、後半を黒前半をシルバーにするつもりです。弾体の穴は台車取り付け用です。原爆はサイズが日本海軍の800kg徹甲弾と似たサイズで、案外小さいのです。広島型か長崎型かは小生には分かりません。

 


Yak-25B Aモデル 1/72・その1

2021-03-23 11:21:46 | プラモコーナー

 ごくマイナーな、ソ連の原爆搭載用爆撃機です。オマケについている台車に載った原爆を作りたくて、以前、一度挑戦したのですが、説明書通り、自転車式車輪の後輪軸を後付けにしようと、胴体を先に組み立てたら、実は胴体接着前に後輪軸パーツは、胴体に組み込んでおかなければならないと、士の字に組んでから気付いて時すでに遅し。再度新品を買って挑戦したのが、下の写真です。

 

 エンジンパーツはインテークとアウトレットの間にエンジン代わりのダクトを組むことになっているのですが、短かすぎ、それでは排気側が長すぎるのでダクトは付けずにインテークとアウトレットをエンジンポッドの前後端にくっつけてお終いです。これではエンジンがやたらに長く見えますが、仕方ありません。

 

 主翼も水平尾翼も比較的素直に組み上がります。機首の爆撃手席の上面に、大きな透明パーツがあるので、全面窓と勘違いしてマスキングして塗装してしまったのですが、実際は細いスリットのような小さい灯取りだけだったので、後で修正に難渋しました。

 

 下面です。前輪収納孔は、いつものように紙と木工ボンドでマスキング。エンジンポッドの両側のマスキングテープは主翼との隙間を埋める、パテ塗布用です。

 

 


日本人だけが知らない・世界から絶賛される日本・黄文雄・徳間書店

2021-03-13 14:23:45 | 軍事

日本人だけが知らない・世界から絶賛される日本

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 これは書評ではなく、メモランダムである。神風特別攻撃隊について紹介した1項がある。そこには

 「戦わざれば亡国必至、戦うもまた亡国を免れぬとすれば、戦わずして亡国にゆだねるは身も心も民族の亡国であるが、戦って護国の精神に徹するならば、たとい戦わずとも祖国護持の精神が残り、われらの子孫はかならず再起三起するであろう」

 永野修身軍令部総長が昭和十六年九月十六日の御前会議で述べた言葉として紹介されている。この言葉が御前会議で述べられたものかどうか小生には確証はなく、言葉も微妙に相違したものが世間には流布されている。曰く「戦うも亡国、戦わざるも亡国、戦わずして滅びるのは真の亡国である」という核心の部分に変化はない。

 これは政府および陸海軍幹部の共通した認識であった。決して強大な米国の国力を見誤り、無謀な戦争に突入したのではなかったのはこの言葉が証明している。日本は日露戦争と同様に国家の存亡をかけて戦争に突入していたのであって、昭和の日本人は愚かなのではなかった。だから国民は体当たり攻撃という異常な事態の発表があった時、必死に耐えたのである。

 一人だけ夜郎自大であった人物がいる。山本五十六である。陸上攻撃機などの海軍航空戦力が充実すると、航空機による主力艦攻撃によって米艦隊を暫減すれば艦隊決戦で勝利して、米国と有利に講和できることが出来ると考えた。そして真珠湾攻撃が成功すると欣喜雀躍して、開戦時の大本営の決定を破って戦線を拡大していった。補給さえおぼつかないミッドウェー攻略を強引に進め大敗した。ミッドウェー攻略は楽勝だなどと愛人に漏らしていたというのだから、守秘もくそもない。ミッドウェーの敗北にショックを受けると、ラバウルで単調で意味のない航空線を延々と続けて戦力を消耗し尽くした上に自殺してしまった。

 草柳大蔵の「特攻の思想」の新聞記者の大西瀧治郎へのインタビューを紹介している。新聞記者が「神風まで出して、はたして敗戦を挽回できるかどうか」と質問すると

 「会津藩が敗れたとき、白虎隊が出たではないか、一つの藩が最後でもそうだ。いまや日本が滅びるかどうかの瀬戸際にきている。この戦争は勝てぬかもしれぬ」

 「それなら、なおさら特攻を出すのは疑問でしょう」

 「まあ、待て、ここで青年が起たなければ、日本は滅びますよ。しかし青年たちが困難に殉じていかに戦ったかという歴史を記憶する限り、日本と日本人は滅びないのですよ」

 この会話を如何に感じるかは皆さんの問題である。特攻の父とされる大西瀧治郎は毀誉褒貶の多い個性的な人物である。だが決して非合理的な精神の持ち主ではない。渡洋爆撃で九六陸攻が戦闘機の迎撃で大きな被害を受けたことから、一式陸攻の開発に際して航続距離を減じてもいいから、燃料タンクの防弾をせよと、最も強硬に主張したのはほかならぬ大西瀧治郎であった。ちなみに一式陸攻の初期型には全く防弾装備がなかったと言うのは間違いで、不完全ながらインテグラルタンクには防弾用ゴムが使われている(一式陸攻・・学習研究社)。世間に流布された常識とは当てにならないものである。