雑感・・・・ヨク

2009-09-05 18:49:19 | その他
ただいま、図版の工作中です。少々、遅れ気味。

例の「読本」を送らせていただいた方から、次のようなメッセージがありました。
「・・・頂いたファイルが WORD 形式である点(つまり変更が可能になります)と、credit がない点(お名前が見当たりません)が少し気になりました。・・・」
私は、概略次のように答えました。
「・・・credit の件、私は気にしていないのです。むしろ、下山が言った事だから・・・とかいう具合に見られることの方を私は嫌います。要は、書かれている事自体の当否の問題。
私は別に、私の存在を示すためにこういうことをやっているのではありません。
古建築をご覧になって、これを誰が設計したか、気になさりますか?
『いいものはいい』、それでよいと私は思うのです。そして、それこそが関わった工人への賛辞にほかならないのだ、そう思います。昔の工人は、自分の存在を示すためにつくったのではないからです(もっとも、見えないところに、たとえば枘に名前を書いたりはしています)。
また、『読本』を悪用する人がいたらいたで、それも別に気にしません。・・・」

どういうわけか、日本では(「近代化」を目指してからですが)、ある頃から、「事の当否」ではなく、「誰が言ったか」とか、「発表論文があるか」などが「ことの判断の物指し」になってしまいました。若い頃から、そういう「処し方」は、私の性に合いませんでした。

数日前に、客人がありました。元学生さんです。その方にも、「読本」と収録したCDをお渡ししました。そのとき、彼女が言ったことばは、「タダで配っていいんですか、欲がないですね・・」でした。これも私にとっては意外なことばでした。
私にだって欲や色気はあります。ただ、欲や色気のために何かをする、という気にはなりません。欲や色気は、何か行動を起こすときの動機付けになることもあるとは思います。しかし、それが目的になってしまったら、変な話ではないですか?
以前にもいろいろな情報を「惜しげもなく出してしまうなんて・・・」と言われたことがあります(前に書いたように思います)。「情報」を、いろんな人が知って、何か悪いことがあるのでしょうか?それで、私が何か「損」でもするのでしょうか?

こんな風になってしまったのは、どうやら明治の「近代化」以来のようです。
昨日(9月4日)の毎日新聞のコラム「余録」には、次のようにありました。
「薩長の官軍に反感を抱く江戸の市民は慶応が明治になった時、こんな狂歌を詠んだという。《上からは明治だなどといふけれど、治明(おさまるめい)と下からは読む》。上からの近代化を成功させた明治維新だが、下々の庶民は反発することも多かった。・・・新政権は旧慣廃止のため庶民生活のすみずみに指導の目を光らせ、違反があれば・・摘発した。・・・官の民への教化、指導は日本の近代化の特質となる。・・・公益をたてに、官が民を指導する官治主義は、戦後民主化の後も自民党長期政権の支柱をなしてきたように見えるからだ。・・・攻守所を変えて新政権が『官』への圧倒的な指導力を示さなければならない。でないとほどなく《上からは民主だなどというけれど、主民(あるじ見えん)と下からは読む》の歌が聞かれそうだ。」

自らの欲と色気の実現を第一と考える人が多くなったのは、言い換えれば、「情報を独り占めにしたい」と思う人が増えたのは、自らを「官が民を指導する官治主義」になぞらえたい、あわよくば「指導する側」にわが身を置きたい、と思う人が多くなったからなのではないか、と私は思います。
現に、「官」は、「情報」を独り占めにし、ときには「事実」を隠すではないですか。
そして、「指導する側」に立つ人たちもまた、「情報」を独り占めにし、ときには「事実」を黙殺しているではないですか。


写真は、そろそろお終いのキバナコスモス。
このあたりでは、自分の敷地と舗装道路との間の僅かな隙間に、それぞれがいろいろな草花を植えています。これもその一つ、毎年増えてきて、今年あたりは、道路の上にまではみ出して咲いています。
コメント (2)
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