浄土寺・浄土堂・・・・架構と空間の見事な一致

2006-10-20 12:09:56 | 建物づくり一般

筑波一小体育館の説明で、「浄土寺・浄土堂や東大寺・南大門で、垂木の先端に『鼻隠し』を取付けた理由に思い至った・・」と書いた。東大寺・南大門はよく知られているが、浄土寺・浄土堂は、場所がら訪れる人が少ない。

浄土寺・浄土堂(極楽山浄土寺)は、兵庫県小野市の郊外、平安時代、東大寺領の荘園があった場所に、東大寺の鎌倉復興を指図した重源により、念仏道場として1192年に建てられた(南大門は1199年)。山陽本線加古川から、加古川線に乗って約30分「小野市」駅下車。そこからタクシーで15分ほど(バスもあるが、本数が少ない)。行くとなると一日仕事。

建物の外観は、写真のように、軒に反りもなく、実に素っ気ない。
しかし、内部はちがう。一歩中に入ると、快慶作の阿弥陀三尊像を、見事と言うしかない荘厳な空間が包んでいる。
それは、何の化粧材も使わず、架構そのもの、部材そのものだけがつくりだす過不足のない空間。一言で言えば、所要の空間と架構の一致。
そのすごさ、見事さは、写真では伝わらない。写真にならない。いろいろ探したが、上の写真は、それを比較的よく伝えていると思われる1枚。

なお、三尊像の制作は同時。像を据えつつ建物を建てたようだ。像と空間に、まったく違和感がない(東大寺三月堂は、仏像が借り物、美術館の展示みたい。像と空間に違和感がある。本来の像がなくなったためらしい)。

この架構の卓越さは、登ってゆく梁、それに掛かる母屋、そして垂木の取合いにある。登ってゆく梁は、中途が途切れている。「遊離尾垂木(ゆうりおだるき)」と呼ばれる。
二つの「遊離尾垂木」は、断面図、そして左側のモノクロ写真で分かるように、母屋を介して載る垂木でつながるだけ。垂木が載るまでは、不安定。
しかし、これがかえって大断面の材の狂いを相殺・吸収する効果があると思われる(平安も末になると、古代のように素性のよい材は得にくくなっていた)。

さらに、垂木の先端は「鼻隠し」が取付く。その取付けは、左から2枚目の写真のように、数本おきに、垂木を鼻隠し板に「ほぞ差し」で納め、ほぞのない箇所でも鼻隠しに垂木型を彫り、はめ込んでいる。先端は、完全に動きが止まる。

これは、木材の特性にさからわない優れた技術。それは、内部の柱の底面に彫られた十文字の溝にもうかがえる(右側の写真)。この溝は、底面の湿気を予防するための通気口・溝なのだ。
柱は、平均直径約2尺、上へ行くほど細く仕上げている。

柱は礎石(自然石を上面だけ平らに斫ってある)にダボもなく据えてあるだけ。もちろん、緊結などしていない。架構が差口などで一体に組まれているため、礎石に据え置くだけで、何ら問題がないのである。

19世紀末、西欧では、いわゆる近代建築運動が盛んになっていたが、その主張は、たとえば、「建物は、求められる目的に十分合致し、適切な材料を使った合理的な構造で、自然に成立する形体でなければならない」というものだった。
そうであるならば、浄土寺・浄土堂は、そして東大寺・南大門も、《近代建築》の理想そのものを、すでに12世紀末に実現していた、と言えるのかもしれない。

図      :『国宝 浄土寺 浄土堂修理工事報告書』(極楽山浄土寺 刊)
カラー写真 :『日本の美術№189 鎌倉建築』(至文堂 刊)
モノクロ写真:『国宝 浄土寺 浄土堂修理工事報告書』(極楽山浄土寺 刊)
から転載・編集させていただきました。 
 
コメント (6)
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