再検・日本の建物づくり-6:の補足・・・・神輿のような建屋

2010-01-25 12:30:06 | 再検:日本の建物づくり
先回末尾で紹介した青森県・七戸で見かけた牛飼いの農家の写真を追加します。
今回の写真は、上から順に、建屋の東側の牛舎から南へとまわり、西側の面までの写真です。
長押のような材は、外付け引戸(雨戸も含む)のための「一筋」鴨居かもしれませんが、それにしては丈が大きい・・・?

1980年代の写真ですから、この建物は、今はもうないかもしれません。

      
   
よく見ると、この建物は、元の場所で、土台下に飼いものをして、建物ごと「かさ上げ」したようにも思えます。

考えてみれば、祭の「神輿」は、いわば小さな建屋を担いでいるわけです(何トンというような大きいものもあるようですが・・・・・)。
建屋は「地面の上に置いてあるものだ」「持ち運びできるものだ」「そういうようにつくるものだ」・・・・という「認識」は、
(近・現代以前の)日本人にとってはごく普通だったのかもしれません。

   神輿はひっくり返って地面に落ちても全壊した、という話は聞いたことがないように思います。
   耐震性抜群なつくり!?
   神輿が現在推奨されるつくりだったら、どうなるでしょう?

「建物」を担ぐ、などという形の祭は、日本以外にもあるのでしょうか?
少なくとも、石造の地域では、建物を担ぐなどという発想は生まれないように思えますが・・・・。
どなたかご存知でしたらご教示ください。

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4 コメント

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Unknown (菅野 照夫)
2010-01-27 16:13:21
再検・日本の建物づくり-6:の補足・・・・神輿のような建屋2010-01-25 12:30:06

下山先生のブログいつも拝見、読ませていただきました。

>先回末尾で紹介した青森県・七戸で見かけた牛飼いの農家の写真を追加します。
>今回の写真は、上から順に、建屋の東側の牛舎から南へとまわり、西側の面までの写真です。
>長押のような材は、外付け引戸(雨戸も含む)のための「一筋」鴨居かもしれませんが、それ>にしては丈が大きい・・・?

①「外付け引戸」と書いておりますが、写真からの想像で書きますので
間違っていたら誤解だとして下さい。
1~2枚目の普通東妻側だと思いますが写真は引き戸だと読み取れます。
恐らく夏のヤマセ地帯ですのでそうだと考えられます。

3枚目は普通南前のは、土台が切れているので、「回転大戸」だと思います。
確かに牛を飼っておりますが、高さから行って「馬」の産地でもあるので
開口高さが高く取ってのつくりであり、馬などに荷をつけてそのまま馬小屋に
入るのがあたり前ではと考えられます。

なぜかというと、「雨・雪」のときに外での荷付けや荷卸を考えるとそのような
つくりに自然になると考えられます。
戦後我が家も昭和40年代まで、父は「牛・馬」で仕事ですから実体験から
そうでは無いかとの考えだけです。

② 自分も20数年前に、ニンニクの産地「田子町」に別な用事で行った時に
写真を撮ってきました。この地域も産業と言っても第一次産業が主ですので
出稼ぎなども農繁期が以外は関東・北海道などの工事現場で働いているのが主。

先生は「差し鴨居」を気にされておりますが、「ラーメン構造」だと考えて良いのではと。
現在、国が「伝統構法設計法なんとか・・・・・」長たらしい名称で全国聞き取り調査、
その関係で伝統「大工棟梁」を各県から選びだしヒアリングを行なって数箇所
歩きましたが、地域によってつくりは全然違いますが、各県とも「石場・柱・貫・桁・梁」
基本は変っていないと思っており、一番は「風・雪・雨」等をどう共生するかの1点です。

先人のつくりは「桁梁材」を太く長くして、石場のことはあまり重きを置いていないようです。
気仙でもそうすが、「梁・桁」重視だと教えられてきました。現在まだ残っている民家なども
石場工法でありながら、そんなに現在工法のように意識しません。
大橋教授にその様な話をすると「贅沢普請」だと交わされます。
まあモノを知らない人に幾ら説いても「馬耳東風」だと思います。
研究しているから一番知っていると言う鵜の惚れ以外の何者でもありません。

差物等は桁梁の間の壁を固めるために入れてあり、今回七戸付近の民家もその様な考えが
根底にあり、貫の多様な使い方など地域特有の考えに基づいての仕組みと理解します。
写真の通り、屋根の軒先が短いため、風雨の時に石場に直接雨水がかかり、猫とか鶏などが
柔らかいときに掘り返しので、段々石場ゆるくなり地震のときなど移動することがしばしば
であります。住んでいる方々が、栗板や薄い石など飼いものを挟んだと考えられます。
これが今まで暮らしてきた方々は当たり前だったと思います。

尚この建物は明治初頭ではないかなあと思います。?
今後とも色々とご教示をよろしく御願い申し上げます。
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詳しいコメントに御礼 (筆者)
2010-01-27 16:53:46
いろいろと丁寧で、詳しいコメントありがとうございます。

七戸は、もともと馬の産地。それが現在の競馬馬の産地へと引継がれています。
一般の農家では、それが牛にかわったようです。

現在の三沢に「古牧」という地名がありますが、元は「古間木(ふるまき)」(「間木」は、放牧地の謂いのようで、私の暮す茨城県・出島も馬の放牧が盛んだった由、「牧の内」などという字名があります)。

お偉い方々には、「つくる立場、視線」で、各地域の建物や古建築を見てもらいたいものです。
もう、「学者、研究者の視線・視点」のご研究は結構、と思っています。この写真をみたら、「学者、研究者」は何と言うでしょうね。
ご指摘のように、明治初頭の建設とすると、大きな地震に何度も遭っています。多分、そのときは、担がれて揺れ動く「お神輿」のように、地面の上を動いただけだったのでしょうね。
返信する
追加 (筆者)
2010-01-27 18:06:00
南側の大戸、回転形式とすると、閉めたとき、東側の大戸と異なる姿になります。
よく見ると、やはり、引戸のように見えます(縦框だけが溝に入る方式)。
多分、建屋をかさ上げして、土台位置が高くなったため、切断したと考えた方がよさそうです。「うまや」でも、低い位置なら、土台を回しています。
返信する
井桁組 (久保恭一)
2010-01-30 04:06:15
いつも、貴重なご指導ありがとうございます。
日々、勉強に努めているところです。
先に一度コメントしたつもりでいましたが、手違いがあったようで失敗でした。

菅野様の鋭い観察力に敬意を抱きました。(その上で写真をもう一度見直し、再コメントさせて頂きます。)

・東面(始めの2枚(牛が顔を見せている)):外壁開口両側に引戸が見えます。引戸はいずれも外付け。
左側の引戸はこの開口用。右側の引戸は、更に右側にあるガラス戸用。このガラス戸位置は元々開口であったと推定。
外付け引戸上部にある長押状のものは、溝(一筋)を持った長押と考えます。1枚目の写真で、木の乾燥具合から長押丈の半分ぐらいが溝と思われます。また、引き戸右側の下枠(敷居)は「地長押」を兼ねているように思われます。またはそのなごり。

・南面:大開口の目的は菅野様が言われる通り、馬そりなどが直接出入り可能なようにしたと思われます。元々あった土台を切って。私も北国北海道の農家生まれですので、生家にはこのような箇所があったことを覚えています。
雪が積もる冬は土台があっても何とかなるのですが、雪がない夏場はじゃまな土台です。
「回転大戸」に関しましては、先生と同じ考えです。開口左側柱に3・4ヶ所ほど黒く孔のようなものが見えます。
右側の戸にも”スライド式桟木(何と言うのでしょうか)”2段見えます。恐らく引き戸し、この孔に差込んで閉めるのでしょう。

・「長押」は建物周囲に廻っているように思われます。「地長押」は元々無かったか或いは撤去されて行ったのかもしれません。

・「梁・桁」重視(菅野様コメント)とのこと。注目します。「石場工法でありながら、そんなに現在工法のように意識しません。」この当りをもう少しご教示いただけないでしょうか。

・井桁組土台について
3~4枚目の写真に見られる建物コーナー柱下の土台の組み方は、双方が飛び出た井桁組のようです。
井桁組は強い接合方法なのだと言われています。
ある研究者は「土台の起源」(昭和26年)の中で、戸外に置かれる「小工作物、井側、祠(ほこら)」等に
「つちい」(土居、土台のこと)を井桁組したものが見られる。井桁にする理由は、地べたに置いた
場合の安定よりはむしろ運搬のし易さにあるのではないか と考察しています。当然全体として剛性(硬さ)も大きかったと思われます。現在の建築設計基準では「保有水平耐力」を1Gの水平力が作用した時として算出します。最大級としてです。でも工場で製作し運搬が必要となる機械類は、3G以上の耐力を持っており、1Gは小さいですね と言う機械屋さんの発言をどこかのブログで読んだことがあります。
神輿もかなりの剛性を持っている筈です。天守閣の土台もこの井桁組になっていると言われています。
校倉造りの下部にもこの井桁組が使われているのではないでしょうか。もしそうなら、良く分かりませんが、朝鮮半島の山間部でも校倉造りがあるようですので、そこでも使われていた可能性はあります。

乱文失礼します




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