「『無名』抄・・・・名前を知ること=ものが分ること?」  1981年8月

2019-02-05 00:08:12 | 1981年度 「筑波通信」

 PDF「筑波通信 №5」1981年8月 A4版10頁 

      「無名」抄・・・・名前を知ること=ものが分ること?    1981年度「筑波通信 №5」

 山の季節だからというわけでもないが、今回は山について書かれた文章をもとに話をすすめようと思う。

 下に引用したのは、臼井吉見の随筆「幼き日の山やま」の一節である。勘のよい方は、この一文を続んで、私が何を言おうとしているか、およその見当がつくことと思う。この文章には、私たちの「もの」への対しかた、見かた、知りかた、の根本的な問題が、さりげない思い出というかたちであるが、実に見ごとに言い表わされていると思うのだ。      

 

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 宇野浩二に「山恋ひ」という中篇小説がある。諏訪芸者と、作者とおぼしき主人公との古風な恋物語である。この主人公が、諏訪の宿屋の窓から、あたりの山々を眺める場面が小説のはじめに出てくる。湖水の西ぞら、低くつづく山なみの上から、あたまだけのぞかせている一万尺前後と思われるのを指して、あの高いのは何という山かね? ときかれた番頭は、さあ? と首をかしげる恰好をして、たしかに高い山のようですが、名前は存じませんという。木曽の御嶽ではないのかねとかさねて聞くと、さあ、そうかもしれませんね、ともう一度首をひねってみせる。君はこのごろ、どこかよそから来たのかね? と問うと、いいえ、私はこの町の生れの者でございます。と答えて、気の毒そうな顔つきをするのである。

 この小説の書かれたのは大正の中頃だが、当時の読者だって、この番頭変ってると思ったにちがいない。いまの読者なら、なおさらのことだ。

 信濃のように、まわりを幾重にも山にかこまれている国では、この番頭のようなのは、当時として、決して珍しくはなかった。むしろ、あたりまえだったといってよい。生れたときから、里近くの山に特別に深く馴染んでいるので、奥の高い山などには、とんと無関心で過ごしてしまうのが普通だった。わらびを採り、うさぎを迫い、きのこを探し、すがれ蜂を釣ったのは、みんな里近い山でだった。近くの山なら。松茸は、どことどこの松の根もとだとか、うさぎの道は、どこそこの藪かげだとか、知識経験の最富な蓄積があった。おとなたちが、木を伐り、薪を集め、炭を焼くのも、これまた近くの山だった。                  

 現に信濃で生れ、信濃で育った僕の生家などは、あまりに山に近いので、前山のつながりの一つ奥の、一段と大きく高い鎬冠山(なべつかぶり)が威張っていて、その肩のあたりに、てっぺんだけのぞかせる常念岳にさえ気がつかなかったのである。

 常念岳の存在が大きく僕の前に姿を現してきたのは、小学校の三年生のときからである。三年生のとき、新しい校長がきた。なりは小さかったが、目は鋭く、黒いあごひげが胸の半ばまでたれていた。この校長は、月曜日の朝礼には、校庭の壇上から、毎回、常念を見よ!と呼びかけた。常念を見ろ! 今朝は特別よく晴れている。あんな美しい山はない、とか。常念を見ろ! 今朝はいたってごきげんがいい。あんな気持のいい山はない、とか。今朝は曇って常念が見えないのは残念だ、とか。常念を見ろ! あれはことしはじめて降った雪だ、とか。祭礼といえば、きまって常念の話だった。

 常念校長の呼びかけによって、僕らはこれまでとはまったくちがった思いを山に寄せるようになった。おおげさにいえば、常念岳によって、新しい精神の世界を発見したのである。常念岳は、わらびや、きのこや、栗や、小鳥や、うさぎの山とは、まったく別の山であった。それは眺める山であり、仰ぎみる山であった。

 東京や大阪など、都会の人たちが山について最初から持っているあたりまえの考えを、僕らはこの風変りな校長によって、はじめて教えられたのであった。しかし、常念小学校の生徒にとっては、常念はあくまでも眺める山であり、仰ぐ山だっただけに、常念登山などということは、まだ行われるに至らなかった。

 小学生の僕は。よく祖父のお伴をして、幌馬車で浅間温泉へ出かけたが、そのころ宿の上等の座敷というのは、むしろ山とは逆な方角に窓を開いていた。アルプスの見える窓などは、冬になると、寒い風が吹きこんでくるものとしか考えられていなかった。アルプスの見える部屋が。上等の座敷とされるようになってきたのは、僕が中学生になった頃からであった。

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  私たちはいま、ものについて知るということが、それの名前を知ることに等値であるかのようにみなして済ましてしまうことが多分にありはしないだろうか。あるいは又、目の前に在るというだけで、つまり見えるというだけで、それらのもの全てが均質・等質に見えているとのように思ってしまってはいないだろうか。存在するものを全て対象化して見るいわゆる自然科学的なものの見かたが隆盛を窮めるようになってからこのかた、ものが全て等値に見え、それ故ものの名前も又、それら等値のものの単なる区分上の符号になってしまったような気配さえ感じられる。

 いったい私たちにとって、あることを知るということ、知っているということ、あるいはあるものの名を知るということ、知っているということ、そしてより根本的には、あるものに名前をつけるということ、これらはいったい、もともとどういうことであったのか、数限りなく色々な知識や情報が満ちあふれているいま、これらについて一度落ち着いて考えてみてもよいのではないかと思い、この文章を話題にしようと思いたったのである。

 さて、この文章のなかの、番頭と中年の客のやりとりであるが、いったい何故このようなやりとりが生まれたのであろうか。

 彼の番頭は、木曽の御岳という(そう呼ばれる)山が在るということは、どうやら知ってはいるようだ。しかし、毎日自分の目の前に見えている山やまのなかの一角にそれが在るなどということは露知らない。ここで「知らない」というのはそういう呼称の山が在るということは(おぼろげながら)知っているが、その呼称に対応する具体的な山そのものは知らないということだ。おそらく、そういえばどこかで聞いたことがありますね、という程度ではなかろうか。

 それに対して、この中年の客は、毎日見ていて(見ているはずで)、しかもあんな有名な山を、どうして知らないのかと不思議に思ったのだ。そこには、毎日目の前にしているもの、しかも有名なものであるならばなおさら、常にそれを目の前にしている人々は、必らずそれを(直ちに指示できるぐらいに)知っていなければならない、それであたりまえだ、という考えが前提としてひそんでいる。だから、どこかよそから来たのかね、という言葉のうらには、明らかに、そんなことも知らないの!という、番頭の「無知」に対する非難の響きがのぞいている。文中にもあるが、いま私たちの大かたは、この中年の客に右同じだろう。しかし、この「無知」は、はたしてそんな単純に非難したり笑いものにしたりすることができる類のものなのであろうか。

 では、この中年の客:私たちの大かたの右代表の知っていることは、いったい何なのだろう。何故彼は木曽の御岳を知っているのか。彼がその実物を知らないことは、彼がそれを指示できなかったことで明らかである。ところが、どこかで聞いたことがありますね、などという以上に色々知っている。具体的に目の前にしたことのないものの具体的内容を結構よく知っているようだ。しかし残念ながら、それが現実に目の前に見えてきたとしても(現にそうなのだが)あれこれと比定する手段は、自らのものとしては何も持ちあわせていない。人に尋ねるか、地図を見ることになる。(もちろん、勘によって、これだこれだと思うことはある。しかしそれは、あくまでも、これにちがいない、である。)

 そうすると、この中年の客が知っていることというのも、実に不可思議なものだという気がしてこないだろうか。

 中年の客が木曽の御岳(の名)を知っていること、それについて知っていること、それはきっと彼がどこから仕入れた「知識」なのである。それは本で読んだのかもしれないし、人に聞いたのかもしれない。あるいは学校で教えられたのかもしれない。いずれにしろ彼は、中部地方の一角、信州の南の方に木曽の御岳という山が在り、高さがどのくらいで、信仰の対象となっておりきわだって目だつ山だ‥‥といったこと:知識を持っているにちがいない。その知識を持って、その先何を思っていたかは詳らかではない。そういう有名な山なら一度は見てみたいと思っていたかもしれないし、ことによると登ってみたいと思ったかもしれない。ともあれ、おそらく彼は、木曽の御岳の他にも、こういった「知識」をいっぱい仕入れてあるにちがいない。どこへ行ってもこれと同じようなことが起きただろう。

 そしていま、私たちも大概こうだから、例えばあれが槍、こっちが穂高・・・・といった具合に私たちの知っている名前が具体的に一つ一つその対象をあてがわれてゆくとなんだか長年の宿題が一つ一つ解けてゆくような快感が味わえ、なんとなく何かが分ったような満足な気分となり、感慨にふけることになるわけだ。けれども、あるものの名を知っている。何の名であるかも知っている。それがどんなものなのかも知っている。しかし実物は知らない。実物により「知った」のではない。すると、その知っているというのは何なのか。そして又、それに実物があてがわれて分った気分になったとき、いったい何が分ったのだろうか。単なるカード合せの快感でなければ幸である。

 いま私たちの頭のなかには、見たことのないものも含めて、いっぱいのものの名前がつめこまれている。それは何なのだろうか。何のためにつめこまれたのだろうか。それは、自分の「知識」の世界が広くなっているということなのか。そのためにつめこむのだろうか。しかしそれは、「自分の世界」が広くなったということと同じなのだろうか。もちろんなかにはそれが等値の人もあるだろう。しかし、そのときでさえその人にとって、そのつめこむべき「知識」の選別の拠りどころはいったい何なのだろう。そして多くの場合、もしも目の前に現われてきたものが、どこかきわだったものでもあればまだしも、何の変哲もない、それこそ事前には名も知らないものであったとき、彼の目には何の気もひかないものとしてしか映らないであろうから、彼はそれを雑物として見すごしてゆくだろう。

 けだし、この中年の客的私たちの多くは、きれいな花をつける草木には(それがきわだって見えるということなのだが)それなりの名前をつけ、あるいはそれを見たことがなくてもその名前を知り、そうでないものはその他大勢、雑物雑草として、名もなきものとして(ときには、あたかも存在しないかの如くに)扱い済ましてしまうのだ。単に名前がない、名前を知らないというだけで、そのときそれらは、たとえ彼らの目の前にそれらが在ったとしても、彼らの目には映らないのである。彼は何をみたのだろうか。彼の目には、「知識」という眼鏡がかかっているのである。

  ひとことで言えば、彼の中年の客すなわち我が近代人右代表のこれらの「知識」はいわゆる「教養」なのだ。おそらく彼は、専門家ではないにしても、色々なものごとについて、それはかくかくしかじかのものなりという(だれかがつくってくれた)「知識」を、どこかで身につけたのである。しかしそれは、あくまでもつるしの「知識」を知識として仕入れたのであって、そのことが日ごろの自分の生活とどう結びついているかなどということとは全然別な話として、ただ自分がそういった諸々の「知識のかたまり」と結びついているということ自体に「意義」を見出しているのであろう。そういう「博識」こそが自分の人格を向上させるのだ、なにかそういう気分さえあるのである。

 いま私たちのまわりを見わたしたとき、こういう物識り顔、分け織り顔の人たちが幅をきかし、あの番頭のような「無教養」な人々が小さくなっている、ならざるを得ない、そんな状景があちこちに見えてこないだろうか。この随筆のエピソードは大正中ごろの話である。この中年の「教養人」と「無教養」な番頭の間の話のくいちがいのような例は、いまよりもずっと多かったと思われる。そして「無教養」な番頭の方も、少しも無教養だとは思わず、気の毒そうな顔つきのうら側で、変な客だ、なんで私が木曽の御岳を知ってなけりゃあいけないんだい、などと思っていたにちがいないのである。(しかしいまだったら、番頭もそれがサービスというものだと思って、ききもしないのに、さしづめバスガイドの如くに、山々の名を得々と説明しだすにちがいあるまい。)この話が大正中ごろだというのが象徴的である。おそらくこのころからこういう中年の客的人間が増えだしたのだと思う。自分で構築したものでない、あれもこれもの「知識」が、人々の(特に「教養」あることをほこりに思う人々の)頭のなかを占領しだしたのである。いまはもっと激しくなっているにちがいない。だからそういう意味で「無教養」な人々は、由なく非常に肩身の狭い思いをさせられるのである。

  それでは、かの番頭は何故、かの有名な御岳を(それが目の前に在るにも拘らず)指し示すことができなかったのか。

 その解答は既に先の文章中に書かれている。「生まれたときから里近くの山に特別に深くなじんでいるので、奥の高い山などにはとんと無関心で過ごしてしまう」からなのだ。それは何故なのか。そこにははっきりそうだとは書かれてはいないが、それは、里近くの山々が、彼らの(その土地に住む人々の)生活そのものの範囲としてとりこまれたものとしてあったからなのだ。そこは、彼らの生活と切っても切れない関係にある。単なる見る景色、景観ではないのである。だから、目の前にするものが決して全て等質ではなく、そのうちの、彼らの生活に具体的に係るものが、先ず浮きあがって見えてくるのである。それらは、「教養ある」人々の目に見えている以上に(彼らの生活なりに)より細やかに、彼らには見えているはずだ(そして、同じよそもの、中年の客的でなく、彼らと同様な生活基盤をもつ人たちには、それが見えるだろう)。そしてそれらには、彼らによって、それなりの名前がつけられたのである。

  狭間に見える遠くの高山などは、文中にある如く、どこか遠くの彼らに直接係わりのない高山にすぎないのであった。もちろんそれがもっと近くにあって、どうしても日常「気になって」しようがない山であったならば、たとえそれが直接的に生活の範囲でなくとも、それはそれなりの「気づかい」が見られるだろう。例えば諏訪ならば、蓼科山や八ヶ岳などは決して放っておかれずましてやその名も知らず、どれでしょうなどということはあり得ないのだ(事実それらは諏訪大社と密な関係がある)。それに比べ、木曽の御岳は彼らとの係わりからいえば「遠い」山であった。早い話、御岳という名の山は各地に在る。それはそれぞれその地元の人たちが、そう尊称をもって呼んだのだ。「木曽の」とわざわざことわるようになったのは、各地にそれが在るということが分ってきてから、その区別が必要になってからのことである。番頭にしてみれば、いくら目の前にそれが見えようともそれは「地元の」山でなかったということなのだ。

 つまり、彼らが日常的に名づけて呼んでいるものは、彼らのその土地での生活の都合上知っているものに限られ、従ってそれは、決して「全国的」に有名になるとは限らない類のものが大半を占め、従って又この中年の客などが興味を示すような類のものでも決してないのである。番頭が木曽の御岳を知っていたのも、泊り客からでもきいたことにすぎず、せいぜい、そういう山があるんだってさ、というぐらいの、言わば彼にとっても余計な知識でしかなかっただろう。実際のはなし、その土地で長く暮してきた人たちのなかには、木曽の御岳も富士山も、そしてもちろん東京さえも知らないで生きた人たちがいたにちがいないのである。そういう知識に対し、「無知」で生きたのである。生きられたのだ。

 だから、中年の客と番頭では、明らかにその「知っていること」のなかみがちがうのだ。この番頭に一代表される地元に根づいた生活をしてきた人たちの知識は、だからいわゆる「教養」ではない。「教養的知識」ではないのである。いまや(この現代において)こういう知識を何と呼んだらよいのだろうか。

 いま私たちが「教養的知識」として得ている例えば山の名前にしたところで、いま私たちはその名前によって、その名前のついたものについてのある程度詳細な事実をも思い浮かべ、名前=もののようにみてあたりまえのようになってしまっているわけだが、その名前というのは、実はそういう扱いをするようになった私たちによって名づけられたわけではないということ、もう一つ、その詳細な事実というのも、私たちが直接それに「触れて」得たものでなく、従って、ものと私たちの「知識」との関には一つ「回路」がはさまっているのだということに、いまこそあらためて気がつかなければならないように、私は思う。(その「回路」が問題なのだ。)そして、実は、多くの場合例えば山の名前は、この番頭のような暮しかたをしていた人々、私たちがともすると「無教養」「無知」だとあきれるそういった人たちによって名づけられてきたものなのだということにも気がつくべきだ。同様に、それらについての詳細な知識というのも、その根は、そういった人たちの知識を集大成することからはじまったのだ。

 そしてこのことは、国土地理院:昔の参謀本部測量局(後の陸地測量部)の地図に記入される山などの地名は、そういった地元での呼称が採集され、そのなかから選ばれたということ、たとえばある山の名は、測量班が最初にその山のどちら側から近づいたかにより(たとえば飛騨側か信州側か)その初めに近づいた側で呼ばれる名のつけられることが多かったということなどで明らかだろう、(これは、一つの山に対して、いくつもの呼称があったということ、言いかえれば、いくつかの「地元」があったということである。そういった地元の呼称が無視されるときには、最初の測量者の名前:たとえばエベレスト:だとか、測量上の符号:たとえばK2:などで済まされる)。これは、しかし、地元の人たちの苦心の作たる諸々の概念の上っ面だけすくいとったことに他ならない。何故なら、実はそのときそれらの深い根や地下茎を、きれいさっぱり切りおとしてしまい、単なる符号としてしまったからである。

 それ以後、名前は単なる名前としてのみ通用するように(地元以外では)なってしまうのだ。(昭和初期以降の新興住宅地につけられる呼称が、その言葉のにおわすイメージやひびきだけでつけられているというのも、このことと関係があるだろう。たとえば、自由ヶ丘、桜ヶ丘、桜台、希望ヶ丘・・・・といった具合である。その土地からイメージが出てくるのではなく、名前が先行するのである。これが更に文学的イメージを切り捨て、物理的イメージに徹すれば、最近の住居表示で各地に見かける「中央〇丁目」などというのになる。)

  以上で明らかなように、番頭(に代表される人々)には、「目の前に在るもの」はいわばその「生活体系」のなかに、その生活との係わりの遠近あるいは濃淡の度合なりに整えられ位置づけられ、それが彼らの知恵となってゆくのに対し、中年の客(に代表される人々)においては、それは、日ごろの彼らの生活自体とは関係のない、何らかの規範により選択をうけ、「知識体系」なるもののなかに、いわば「客観的」に位置づけられてゆくということになる。

 おそらくこれは、重要にして決定的なちがいのはずである。極端に言えば。近代的教養人にとって、その日常は、とるに足らない、下らないものとのうっとおしいつきあいに他なるまい。大事なのは、自分の仕入れた高尚な「知識」「教養」とつきあうことなのだ。自ずとそれは、自分をかけて社会に係わるのではなく、自分の主たる興味の中心たる「知識」体系を通じてのみ、それと係わり、それ以外は我関せずとして過ごしてゆくことになる。そして自ら称して「専門家」という。彼らは、いわばフィクションの世界に遊んでいるのである。具体的な生活という根がないのである。だから、逆説的に言えば、泥くさい根や地下茎に触れることを避けることによって、私たちは今様の「教養人」「知識人」「専門家」に、なろうと思えば簡単になれるのだ。 

 しかしいま、番頭に代表されるような草の根付きものの見かた、知識は一般的ではなくなっているから、その意味さえ分らなくなろうとしているといってよかろう。番頭と中年の客のちがい、それ自体が、もう分らなくなってきているのである。しかしいま仮に絶海の孤島にでも、突然私たちが放り出されたことを想定してみたとき、この違いが歴然として露になってくるだろう。そのとき初めて、フィクションの世界がフィクションにすぎないこと、つまり星座でなくて星の大事さが、そして初めて星座の意昧が、分ってくるだろう。知識というもののほんとの意味が見えてこよう。しかし、こんなことは、なにも絶海の孤島に出かけなくたって、それこそ日常において分らなければならないのだ。私たちはいま、「常識」という二重三重にも重なった星座でものを見る癖がついて(つけられて)しまっているのである。

 私は最近、子どもの本箱から「十五少年漂流記」をひっぱりだして続んでみた。昔懐かしい本であった。そしてふと思ったのである。これは単なる冒険ものではない。著者は、近代という時代のあぶなっかしい傾向に対して一言言いたかったのではなかったか。そこには、番頭的なのも、中年の客的なのも、もっと知識人的な(行動のともなえない)人物も、あたかもこの世の縮図のように(だから十五人に意味がある。ロビンソンでは迫力がない)でてくるのだ。少しばかりうがちすぎであろうか。

  私は別に、「知識体系」や「教養」をもつこと否定しているのではない。そうではなく、日常の営為とそれとの遊離、言いかえれば、生活の根や地下茎を切り捨てて済ますこと。それを問題にしているのだ。何らの正当な理由もないままそれを切り捨てる癖がついたからこそ「それはそれ、昔は昔、いまはいま」になってしまったのだと私は思うのだ。自らの生活の体系と知識の体系の遊離、そして知識体系への寄りかかり、現実からの逃避あるいは傍観者的態度、これはどうも頭初の文にもあったように、大正中ごろからこのかた、あたりまえになってきたような気がするのである。

  そしていま、私たちの身のまわりのものや町や建物などが、ほとんど全て、この私たち(の生活)との真の意味の係わり、つまり根や地下茎を見失なったかの中年の客的発想で語られ、そしてつくられるようになってしまっている。人々は抽象的人間として対象化され理解され、生身の人間はどこかに雲散霧消してしまい(またそうすることが科学的だなどと愚かにも思い)、目の前のものも、全てが「景色」や「景観」としてのみ扱われ、その見えがかり(分り易く言えば、写真映り)ばかりが問題にされて、決してそれらのもつ私たち(の生活)にとっての重い意味はかえりみられもしない。たとえ「教養」にもたれかかって現実から逃けだすことを願ったところで、それはできない相談である。必らず、大なり小なりその日常には、番頭的局面がある。であるにも拘らず、どういうわけか、この番頭(に代表される人々)の立場・発想が完全に切り捨てられてしまう。

 従って、そういうなかでつくられるものは、ほとんど全てが、私たちとの語らいを許さないような、白々しい、あるいは私たちの神経を逆なでするような、あるいは又私たちに一定の行動しか許さないような、そして、ある詩人の言葉を借りて一言で言うなら「体験の内容と成り得」ないもの、「魂の象徴を伴わぬような用具に過ぎ」なくなってしまっている。

  「私たちの祖父母にとっては、まだ家とか井戸とか、なじみ深い塔とか、それのみか彼等の着物やマントさえも、今日より段違いに大切なものであり、また親しみ深いものであった。彼等にとっては、すべてのものが、その中に人間的なものを見出したり、またそれを貯えたりしている器であった。ところが今は、アメリカから中身のない殺風景な物品が殺到してくる。それらはただの仮りの物、生活の玩具にすぎない。アメリカ式の考えによる住居、アメリカの林檎、アメリカの葡萄には、私たちの祖先がその希望と心やりをそのなかにこめていた家やくだものや葡萄とは、少しも共通なところはない。私たちからいのちを吹きこまれ、私たちによって体験され、私たちと苦薬をともにするところの、ものは、いまだんだん消滅しつつある上に、もはやこれを補う道もない。たぶん私たちは、このようなものを知っている最後の人々であろう。」

 これを読んで、いったいこの文がいつごろ書かれたものと思うだろうか。実はこれは、1925年に先のある詩人が記した手紙の一節なのだ。それから五十余年、いま私たちはヨーロッパから半世紀連れて最後に直面しているのだろうか。それとももう最後を通りすぎてしまったのか、まだ辛じて最後ひきずっているのだろうか。

 そして私は、「もはやこれを補う道もない」のかもしれない、という暗い気分にともすればおちいりそうになりつつも、しかしどうしてもそのままで済ます気にもなれないのである。むしろ、補えるという確とした見通しがあるわけではないが、私たちこそがそれをしなくていったいだれがそれをするのか、そう思うだけである。それがきっと、いま生きている私たちの、私たちに課せられた、義務なのだ。そう思いたい。私たちはせいいっぱい、切ってしまった根や地下茎を再び探してつなげなおす責を、きっと負っているのである。

  私はここ十年近く、幸いなことに、学識のない無知の、専門家でもない人たちが、普通は素人は口をさしはさむべきでないとされるいわゆる専門的なことがらについて、学識ある、専門的知識あふれる専門家に対して、おずおずと、しかししたたかに、いうところの素朴な問いかけをする場面に何度も会ってきた。何故彼らがおずおずするかといえば、かならず専門のことは専門家のいうとおり聞いていればよい、とか、専門的なことだから、どうせ説明したって分らない、などとだいたい門前払いをくうのが常だからである。そして何故したたかかといえば、それでも彼らは問い続けるからだ。何故彼らはあきらめないか。それは単純な、全く単純な理由である。おかしいと自らの体験で思ったことはおかしいという、そして、同じくどう考えても分らないものに対しては素直に分らない、説明してくれという。それだけである。しかしそれは、いかに並大抵でない「それだけ」か。世のなかの「常識」「慣習」という峠を何回も越えなければならないからだ。

 そして実にこういう問いかけこそが、まさに学識ある専門家たちを根底からゆさぶることになるという例に、ことあるたびにぶつかったのだ。なにしろ彼らのほとんどは根なし草だから、ひとたまりもない。生活にがっちりとした根をはっている人たちの素朴な問というのは、どうしたって根源的(radical)だからである。

 そして、このいわゆる素人たちは、その専門家たちとのやりとりのなかから、自分たちなりにどんどん「知識」を吸収し、自らの生活体系のなかに組みこんでゆく。そこには生活体系と知識体系の二本だてはない。根から幹へ、幹から枝へ、そして花へと、一本のしたたかな樹木となる。ますます自らの生活をとりかこむものが「分って」くる。言うなれば、新しい型の番頭的人々が生まれているのである。そしてこの「無知」で「無名」な人たちが、「知識あふれる」「有名」「高名」な人たちと、対等に、ときには対等以上に話を交わすまでになる。

 そうなると、ここであらためて、「専門家」とはいったい何かということが問われることになる。

  もちろん、未だこういうしたたかな人たちの数は絶対的に少い。あいかわらず多くの人たちは、自らを「無知」だときめこんで、雲の上のえらい人たちの言いなりになっている。だから雲の上の人たちは、ますますいい気になる。雲の上にいることが、知識人、専門家の望むべき姿だとさえ思っている。

 けれども現実に、あそこにもここにも、こういう自分たちの上におおい被さる暗雲をとり除こうとする人たち、自分たちの生活に根ざし、それを大事にする人たち、こういう人たちがいるということ、そして、そういうことの大事さに気のつく人がそのまわりに増えているということ、そういう現実を目のあたりにするとき、決して未だ「最後」ではないのだ、と私は思うのである。明らかに、根や地下茎を切ることを拒み、「間」抜けをきらう人たちが、いつも踏みつけにされながら、そしてそのたびに強くなりながら、したたかに生きている。

 そしていつも、こういう素晴らしい「無名」な人たちの存在に、私は勇気づけられてきた。ここに「同志」がいる、一人ではないのだと。これはほんとに「幸いなこと」であった。

 

あとがき  〇猛烈な暑さである。そして、毎日のように雷雨。暑中お見舞申し上げます。   〇先号のあとがき中に引用した文章は、ソロー「森の生活」の一節である。同じく先号あとがきと今回引用した詩はリルケ「第九の悲歌」そして手紙は「ミュゾットの手紙」の一部である。なお後者は唐木順三「事実と虚構」中より孫引した。

この文を書いていて、この五月の末だったかに久しぶりに訪ねにきてくれた卒業生の話していったことを思いだした。   この人は、この春さき二ヶ月ほど信州白馬のペンションでアルバイトをしたのだそうである。その持主は都会のいわゆる脱サラで、とにかく無性に山が好きでそれをはじめたのだそうだ。しかしこの商売は言ってみれば季節もので、雪が消えたら客足はぱったりと途絶える。食えなくなる。どうするか。いわゆる日やといで土方をしてすごすのだそうである。彼の目ざすのは、より充実した「森の生活」なのだそうだ。かといって、ほんとの自給自足的「森の生活」ではない。森の生活というもののいわば口マンチックな側面がその想いの対象である。山が好きだというのも多分同じだろう。その実現のために(金がいるから)身すぎ世すぎのための金かせぎをするというわけだ。つまり生活が二重の構造で成り立っているのである。もっとえげつない言いかたをすれば、遊びのために金かせぎをするという生活である。これと、食うために働くこと自体が即生きることであり、その息ぬきとしてときたま湯治に赴く、という昔の農民の生活では、まるっきりちがうだろう。考えてみれば、近代人の生活は概ねこういう二重構造、二重生活になっているわけではなかろうか。好きなことをする「生活」とそれを行うための「生活」と。これも又、知識と生活、教養と生活、そしてこの場合は趣味と生活、この遊離だと言ってよいだろう。

 そしてこの卒業生、最初はこの人の生活が素晴らしいようにも見えたけれども、そのうちだんだんと、そのあまりの夢想にちかい根なしぐさの発想にいや気がさしてきたそうである。そして、おかげで、自分がしなければならないことが、おぼろげながら見えてきたらしかった。

〇先日の暑い夜、卒業生の一人から電話がかかってきた。いま、非常に問題だと思える計画をやっている。長い目でみたとき、いわゆる環境破壊以外のなにものでもないと思う。別のやりかたがあるはずだと言っても分ってもらえない。不本意ながらやってしまうことになる。いったいどうしたらいいのだろうか。ざっとこういう内容であったと思う。返答に窮した。この人が、その仕事から手を引けばよいというような問題ではない。五年後そして十年後、あなたが「分らない人だ」などと言われないように、それこそしこしこ、たとえ百分の一でもよい方向に向くように、あきらめないでしつこく毎日をすごすしかないのではないか、というまるで答にならない答を言うのがせいいっぱいであった。それとも、そんなこと自分で考えろ、とでも言うのがよかったのだろうか。こういうとき、教師とは何なのか、つくづく考えてしまう。

〇そうかと思うと、こういう物騒な手紙が来た。・・・・(世の中を)変えるよい方法があったら是非教えて下さい。爆破だろうが殺人だろうが(そんな単納な手段で世の中変えられたら悩みませんが)何でもできます!

〇たしかに、世の中、非常な危機感を感じる。あせってはいけないと思いつつ、どうしてもあせりたくなる。

〇どうにか五号までたどりついた。三号なんとかで終らなくて済みそうで、ほっとしている。でも、まだ先がある。

〇字の大きさを読みにくくするのが省資源とはこれいかに、という詰問をうけた。弁解の余地なし。老眼でないけれど、自分でも読みにくかったもの。よって修正する気になった。おかげで、一度打ったタイプを全面打ち直し!

〇それぞれなりのご活躍を!!

      1981年8月1日                        下山 眞司

 

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