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トラス組・・・・古く、今もなお新鮮な技術-7

2007-01-17 03:09:38 | トラス組:洋小屋
 
 トラス組の話は、木造トラスを使った設計の紹介(上掲写真)でひとまず終り。
 いずれもキングポストではなく、シレンの用いた方法(丸鋼で陸梁を引張る)によっている。キングポストはとかく重い感じとなるが、この方式(力の大きさが逆になる)では、軽快に仕上がる。また、陸梁の垂下がり(水平)を、トラス取付け後、丸鋼の突っ張りで調整できる利点がある。

 北条幼稚園はおよそ35年前の設計で屋根は片流れ。木造軸組にトラスを架ける方式。
 丸鋼の端部のナットで調整するのではなく、昔懐かしいターンバックルを使っている。よく見ると、陸梁と束を「かすがい」で留めている。本来これは必要ないはず。陸梁は105㎜角だったと思う。
 壁際の火打梁はトラスの直交方向の揺れ防止のため。

 下2葉は、10年ほど前に設計したM小学校の例。北条幼稚園と同形式だが切妻屋根。ただし、RCの躯体にトラスを架ける。
   RCの躯体に鉄骨トラスの屋根を架けたのが竹園東小(昨年10月26日記
   事)。
   なお、M小学校の体育館では、75㎜のアングルだけで構成した鉄骨トラス・
   アーチ梁を架けている。機会を見て紹介。

 ここでは揺れ止めのために、束を挟んで2本のつなぎ材をトラスに直交して抱かせ、その間を電気配線、照明器具設置に利用。陸梁は杉120㎜角。少し太い感じがする。105角で十分だったかもしれない。
 
 筑波第一小学校体育館(昨年10月18日掲載)でもトラスを考えたが、結局ああいう形となった。

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トラス組・・・・古く、今もなお新鮮な技術-6

2007-01-16 00:34:13 | トラス組:洋小屋

 きのうの続き。フィンランドの建築家の設計になる建物のトラス。

 上はヘイッキ・シレンのオタニエミの森の中の教会(近くにはアアルトのオタニエミ工科大学などもある)。学生時代に書物でこの建物の紹介を見たとき、この清冽な空間に驚いた覚えがある。単純にして、明快。

 下はアアルトの設計した「教育大学」の学生食堂の内部。これも単純にして明快。空間を物理的に維持する構造が、そのまま空間の構成要素になる。

 両者とも、私には、建物づくりの理想の姿に思え、大きな影響を受けた。

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トラス組・・・・古く、今もなお新鮮な技術-5

2007-01-15 19:40:30 | トラス組:洋小屋
 
 この数葉の写真とスケッチは、1950年、アアルトの設計で建てられたフィンランド・イマトラの小さな町役場(town hall)の議場の屋根・天井を支えるユニークなトラス。
 ここでは、トラスは隠すものではなく、空間を構成する重要な要素として活躍している。

 このように構造と空間を一体に考える例は、アアルトの設計には多く、フィンランドの他の建築家の設計(次回)にも見られる。

図と写真は、下記より転載
Atelier Alvar Aalto 1950~51(Verlag fur Architectur,Erlenbach-Zurich)
Alvar Aalto(The Museum of Modern Art,New York)



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トラス組・・・・古く、今もなお新鮮な技術-4(改・補)

2007-01-13 10:10:37 | トラス組:洋小屋

 長野県塩尻市の周辺には、興味ある建物が多数ある。
 塩尻は、鉄道で言うと、中央東線、中央西線、篠ノ井線の分岐点、街道で言えば、中山道(江戸~京都)、三州街道(伊那往還:塩尻~伊那谷~遠州)、そして北方へは松本を経て糸魚川へ通じる糸魚川街道(千国道)あるいは長野・善光寺への北国西脇往還(善光寺道)の交差点として栄えた場所。「塩尻」とは太平洋あるいは日本海から届けられる「塩」の最終到着地だから名付けられた、という説があるくらいだ。
 
 このあたりには、建屋を、石置き板葺きで緩勾配の大屋根でくるむ通称「本棟造(ほんむねづくり)」と呼ばれる建物が数多く残っており(今は瓦葺きに変っている)、それらのつくりなす街道筋の街並みも見ごたえがある。
 一般には、「堀内家」が「本棟造」のいわば代表として紹介されている。
 しかし私は、むしろ、「島崎家」と上掲の「小松家」を観ることをお勧めする。いずれも塩尻市の郊外、字片岡にあり、両家は数百メートルほどしか離れていない。

 「島崎家」は「本棟造」の原型と言ってよい建物で、「堀内家」に比べると数等細身の材で造られている。それでいながら、当初の建物を、改修によって約250年以上にわたり住み続けてきた住居である。材の寸面の大小は、そのまま直ぐには構造面での強さと結びつかない、という良い例。

 いわゆる「民家」は骨太と一般に理解されているようだが、骨太になったのは幕末から明治初めの頃のこと。庶民は、無駄に材料は使わない、必要最小限の材で、しかも手近で得られる材料でつくるのがあたりまえだった(《銘木》などという感覚とは縁がないのが庶民)。「島崎家」はその典型と言える建物。

 「島崎家」についてはいずれ紹介するとして、上掲の「小松家」は、「島崎家」の直ぐ近くにありながら「本棟造」とはまったく異なる茅葺の「上屋」だけからなる農家。
 屋内の写真はないので、断面図で想像していただくしかないが、きわめてすっきりしていて、呆気にとられるくらい単純な架構である。一種のトラス組と言ってよいだろう。断面図は、「しもざしき」での断面(右手が「しもざしき」)。

 もちろん、トラスなどという意識のもとでつくられたわけではなく、合掌の垂れ下がりを陸梁からの「つっかえ棒」で支えよう、という発想だ。これは、「現場でなければ生まれない発想」と言えるだろう。机上の知識では、こういう発想は生まれまい(知識としてのトラスが頭に浮かび、こんなのありか、と考えてしまう)。
 註 西欧の各地域の農家の建物にも、同様に、現場で生まれた技が数々あり、
   そしてそれが各地域独特の形状として結果している(これもいずれ紹介)。

 私は、こういう「建築家なしの建築」に潜んでいる溌剌とした発想・技に常に感動を覚える。そこに学びたいと思う。こういう新鮮で溌剌とした発想が、今の「建築家」にできるだろうか?
 最近建てられる建物を見ていると、今の「建築家」の目線は、どこか「建物づくり」とは無縁なところをさまよっているように思えてならない。 

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トラス組・・・・古く、今もなお新鮮な技術-3

2007-01-09 03:08:32 | トラス組:洋小屋
 
 今回は、一般への西欧風建築の普及に影響力のあった「建築学講義録」でのトラス組について。
 ただし、同書にはトラスという言葉は使われず、いろいろな「(西洋式の)屋根のつくりかた」の一つとしていわゆるトラス形式が解説されている(「日本小屋」の解説もある)。

 上の図は、同書から屋根:小屋組解説用の図を抜粋、編集したもので、用語も同書に拠っている。
 ただ、同書では、「垂木」には、[偏が「木」+つくりを「垂」とした字]、また、queen postには、[「夫婦○」:○は、偏を「木」+つくりを「短」とした字]があてられているが、読みも分からず(「めおと△△」と読むらしい)、フォントもないので、queen postのままにしている。

 解説は、張間に応じて、屋根を「どのようにつくるか」という視点でなされている(他の部位についても同様に「どのようにつくるか」が解説される)。
 以下、「屋根のつくりかた」についての同書の解説を意訳してみる。

 ①の「踏張垂木小屋」の「踏張」は「ふんばり」と読むのだろう(coupleは「一対の」という意味で、建築用語では「合掌」に相当)。
 これは、最も簡単な屋根架構法で(現在の通称「垂木構造」)。「垂木」を拝み合わせて、脚元は桁に、頭は棟板の両面で向い合せ釘打ち。 
 図の点線のように、壁を押出す(開こうとする)ので、それを防ぐ必要があり、煉瓦壁のときでも梁間12尺(約3.6m)を越えるときは使わない方がよい。
 木造の壁の場合は、@1間(約1.8m)に「繋梁(つなぎばり)」を渡して左右の壁を繋ぐ。煉瓦壁の場合でも、壁厚が厚いとき以外は、同様に「繋梁」の使用が望ましい。

 ②の「尻留垂木小屋」は、「しりどめ」と読むと思われるが、①の「垂木」の「尻」:根元ごとに「繋梁」を取付ける方法。
 「繋梁」は、通常は天井の「野縁(のぶち)」を兼ねるか、あるいは野縁の「吊り木」を取付けに利用されるため、天井の重さで「繋梁」の中央が垂下することがあり、梁間が12尺(約3.6m)を越えるときは、上部に「帯梁(おびばり)」を添えるとよい。

 ③の「帯梁小屋」は、壁の高さが低いとき、または屋内高を高くしたいときの方法。
 「繋梁」の代りに一段高い位置に梁(「帯梁」)を設ける。
 collarは「襟」のこと、collar-beamは建築用語になっている。
 この方法は、図の点線のように、「帯梁」の下にあたる部分の「垂木」が曲がり、壁を押出すことが起きやすく、上等な構造とは言えない。
 また、@8~10尺(約2.4~3.0m)ぐらいで同様の形状の組物(「帯梁」を設けた「合掌」と考えてよい)をつくり、「帯梁」と「合掌」の取合い箇所に「母屋」を取付け垂木を掛ける例を見かけるが、壁の一部だけに屋根の重さがかかることになり、その結果、壁が多少でも外に傾けば「帯梁」が引張られ、「合掌」も曲げられることになるので好ましくない。
 ただ、②の「尻留垂木小屋」形式に取り付けた(「繋梁」を設けた上、追加した)「帯梁」はきわめて有効である。

 ④の「中釣垂木小屋」(「中釣」は「なかつり」または「ちゅうづり」?)は、②の「尻留垂木小屋」の「繋梁」の垂下を防ぐために図のように棟から「釣ボルト」で梁を釣る方法。
 梁間14尺(約4.2m)以上のときは、「垂木」の中央へ点線のように「帯鉄」を取付けることもある。
 いずれにしても、④の方法は、壁も押出さず、梁の中央の垂下も起きない好ましい方法である。

 ④の架構を大きな梁間に使うと、屋根の重さで「垂木」が下方に曲がり気味になるので、「垂木」の中央を他材で突張る必要がある。この材を「斜柱(しゃちゅう)」と呼ぶ(現在の「方杖(ほうづえ)」)。
 「釣ボルト」では「斜柱」の取付けが難しいので、「釣ボルト」に代り木材の「釣束(つりつか)」を使う。「釣ボルト」を使うときは、小屋梁上に「斜柱」の脚元を受ける鉄製の沓金物を使う(図省略)。

 このように、「合掌」(2本)、「釣束」(1本)、「斜柱」(2本)、「小屋梁」(1本)の計6本の材だけでつくられる最も多用される方法のため「普通小屋」と呼び(図の⑤)、梁間20尺(約6m)以上30尺(約9m)の場合に最適である(現在の通称「キングポスト・トラス」)。

 「普通小屋」を①②の「垂木小屋」のように狭い間隔で並べるのは合理的でないので、図のように組んだ架構(小屋組)を@6尺(約1.8m)で壁上の木製の「敷桁」(壁にボルトで固定)に据え置き、「母屋」を渡して「垂木」を取付ける。「敷桁」に代り石材による「梁受」を設ける方法もある(10月28日掲載の「旧丸山変電所」の鉄骨トラス受けに石材の「梁受」が使われている)。

  註 「普通小屋」については、各仕口の詳細、各部材寸等が詳しく述べられて
    いるが、ここでは省略する。

  註 キングポスト形式の屋根づくりがきわめて「普通」で容易であったから、
     日本での普及も早かった(例:喜多方に於ける木造建築での利用)と
     言えるかもしれない。
     その意味では「普通小屋」の呼称も納得がゆく。

 張間が「普通小屋」が担える長さを越えるときに使われるのが⑥の「二重梁小屋」である(通称「クィーンポスト・トラス」)。

 「小屋梁(現在の通称陸梁:ろくばり)」の張間の両端から1/3の位置のところに立てる2本のqueen postで両端から登る「合掌」の頭を受け、queen postの脚部から「斜柱」を合掌の中間点へ向けて取付け「合掌」にかかる荷を受け、2本のqueen post間は、上部は「二重梁」で、下部は「添梁(そえばり)」で突張る。
 さらに「二重梁」を支える「斜柱」を図のように取付け、「合掌」の「斜柱」取付き位置から、「小屋梁」に向け点線の位置に「釣ボルト」、または「釣束」を設けるのが一般的である(こうすると、いわゆるクィーンポスト・トラスの一般的形状が完成する)。

  註 「二重梁小屋」という呼称は「クィーン・ポスト組」という呼称よりも
     明快である。

 以上紹介したように、現在の建築構造のトラスの解説では、軸力のプラス・マイナス、圧縮か引張りかをベクトルで解析して説明するのが普通だが、「建築学講義録」では、単純な「合掌」から始めて、張間の増加にともない生じる問題の対策として生まれた代表的な小屋組を順に説明し、最終的に通称トラス組に至っている。
 おそらくこの順番は、古人がトラス組の「発明」に至る過程そのものと言ってよい。
 このような解説は、日ごろ「現場」で建物づくりに接している「実業家」たちには、それが「実感」をともなう説明であるため、きわめて分かりやすいものだったに違いない(この書がロングセラーとなった理由の一つだろう)


 残念ながら、これに対して、現在の建築構造の教科書は、先達たち(「実業家」たち)の努力で得られた成果(架構の方法)の分析から生まれた理論:構造力学:が先に立ち、そこから逆に語られるために、理解を難解にしているきらいがあるように思える。
 その意味でも、「常に原点に戻って考える」必要を強く感じる

 
コメント (2)
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トラス組・・・・古く、今もなお新鮮な技術-2

2007-01-06 23:39:54 | トラス組:洋小屋

 先回の建物が「正統」トラス組の建物とすれば、今回紹介する建物は、「正統」には属さない、いわゆる「擬洋風」と呼ばれる建物で、明治21年(1888年)の棟札がある「旧登米高等尋常小学校」校舎である(ただ、明治20年代には、明治10年代のいわゆる擬洋風を離れ、和風との折衷が多くなるという)。木造二階建て桟瓦葺き。日銀京都支店の18年前の竣工。

 登米(とよま)町は宮城県の北東部、石巻と一関のちょうど中間、北上川の西岸にある町。現在は登米(とよめ)市・登米(とよま)町。
 一帯は北上川の氾濫原のため、宮城有数の米どころ。北上川水運で繁栄し、明治の建物が多く残されている。ただし、地盤は極めて悪い。

 設計者は、当時宮城県技手の職にあった山添喜三郎、工事は登米村(当時)の大工棟梁・三島秀之助、同佐藤朝吉が請け負った。
 山添は明治5年(1872年)、ウィーンの万国博日本館の設営のため大工として渡欧、終了後も数年滞在し西洋の建築を視察、帰国後宮城県の技師になり、以後40年間、宮城県内に多数の建物を設計した人物という。

 建物は念入りな地業(礎石下に3尺6寸角厚約1尺の三和土:たたきをつきかため、その下には長さ1尺の割栗石が小端立てに敷詰め)を行い、切石の礎石を設ける。きわめて悪い地盤にもかかわらず、目立った不同沈下は見られなかったという。
 教室になる部分は、四周と部屋境に土台をまわし、廊下外側の柱は礎石建て。
 教室部は、廊下側および背面側を@1間(1821㎜)の通し柱(約5寸角)とし、1階床位置では、桁行方向に「足固め」を1間ごとに「雇いシャチ栓」で建て込み、足元まわりを固めている。
 2階はおよそ丈1尺2寸の梁(@1間、梁行4間)を通し柱に差口(枘差し込み栓)でおさめて、根太を渡り腮(あご)で掛け床をつくり、小屋は軒桁上にキングポストのトラス組(@1間)を渡り腮で架けている。母屋はトラス合掌に渡り腮。

 この建物でも、トラス組は天井で隠されているが、唯一、六角形半割りの屋根の昇降口には天井がなく、放射状に組んだトラスが表れている。
 
 註 「足固め」:礎石建ての柱の一階床面位置に柱に差口で納める部材。
          柱脚部を固める役割を担い、「布基礎+土台」方式以前の
          日本の木造建築は、この方法があたりまえであった。
          足固めは一般に大引、根太を受け、また敷居を受ける。
   「差 口」:横架材を柱に枘差し、楔締め、込み栓、またはシャチ栓で
          固める仕口をいう。

 トラスの中途には片面に「添梁」を打ち付けているが、キングポストの場合、この補強は必要ないと思われる。しかし、「日本建築辞彙」の木造の図にも添梁があるから(12月29日掲載分参照)、ことによると、キングポストのトラスでも、合掌が開く恐れがある、と思われていたのではないだろうか。
 この点については「建築学講義録」の説明が参考になるので、追って紹介する。

 大分前になるが、松島から北上し、石巻から登米へと向う途中、石巻の手前の右手に、明らかに人工河川と思われる水路が見えた。あとになって調べたところ、明治14年(1881年)に完成した「北上運河」と言い、明治政府が計画した港湾計画の名残りとのことだった。
 明治当初、鉄道が敷設されるまでの間、河川は、流通手段としてきわめて重要視され、北上川もその一つ。その河口に大きな港湾を計画したのである。
 登米も、北上水運の重要拠点として隆盛を誇っていたゆえに、当時としては斬新な建築が多数つくられたのだ(地元では、東北の明治村、と呼んでいた)。
 
コメント (4)
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トラス組・・・・古く、今もなお新鮮な技術-1

2007-01-04 12:40:54 | トラス組:洋小屋

 会津・喜多方では明治30年代から(註:明治30年=1897年)小屋組にトラス組が用いられていたことを以前紹介した。
 トラス組の技術は明治の近代化にともない日本に紹介された技術で、日本では古い農家建築の合掌組以外にはその例がない。

 註 合掌組 陸梁(ろくばり)上に三角形に合掌を組むトラスの原型。
         合掌材には主に丸太が使われる。
         合掌の尻は陸梁の両端に穿った穴に差される。
         本来は真束(棟位置の束)はないが、設ける場合もある。

 トラス組は、小断面の、しかも少ない量の材料で、大きく梁間をとばすことができる方法だが、最近の日本では見かけることが少ない。木造の大架構というと、大断面の集成木材を、鉄骨造では大断面のH型鋼を使う例が多いようだ。
 多分、トラスは小屋裏に隠すもの、見せるものではない、と思われているからかも知れない。
 たしかに、明治以来、木造はもとより鉄骨造でも、校舎や講堂などに使われることが多かったトラス小屋組は、大抵が天井を張られ、外からは見えないのが普通だった(先に紹介した「旧丸山変電所」は、変電所施設であるため、鉄骨トラス表しである)。
 現在でも、各地にのこっている第二次大戦前に建てられた学校の校舎や講堂(体操場)の天井裏に、トラス組が隠されているはずである。

 上に載せたのは、「旧日本銀行京都支店」の建物の断面図とトラス組の写真。
 この建物は、二階建て一部地下一階、煉瓦組積造、小屋組をトラス組、スレート・銅板葺きの屋根の建物(煉瓦は、化粧煉瓦を含め、地階4枚、一階3枚半、二階3枚のイギリス積)。

 設計は、当時日本銀行の工事顧問だった辰野金吾(工部大学校第一回卒業生)と日本銀行技師長・野宇平治。明治39年(1906年)に竣工(会津・喜多方で、さかんに木骨煉瓦造の建物が建てられ始めたころである)。

 このトラス組は、工部大学校で教授されていたいわば「正統」のトラス組の例と言えると思われる(煉瓦積も同じく「正統」と言えるだろう)。

 現在、この建物は、「京都府立平安博物館」として公開されている。
 所在地は、京都市中京区三條通高倉西入る菱屋町。一帯は、明治期の商業活動の中心地。その他にも同時期の建物が多数残っている。

 この建物の由来等の解説は「重要文化財旧日本銀行京都支店修理工事報告書」に拠った。なお、調査の結果、外壁まわりの基礎、床束礎石には大きな沈下は見られなかったという(京都市内は、盆地ゆえ、一般に地盤は悪い)。

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