トラス組・・・・古く、今もなお新鮮な技術-2

2007-01-06 23:39:54 | トラス組:洋小屋

 先回の建物が「正統」トラス組の建物とすれば、今回紹介する建物は、「正統」には属さない、いわゆる「擬洋風」と呼ばれる建物で、明治21年(1888年)の棟札がある「旧登米高等尋常小学校」校舎である(ただ、明治20年代には、明治10年代のいわゆる擬洋風を離れ、和風との折衷が多くなるという)。木造二階建て桟瓦葺き。日銀京都支店の18年前の竣工。

 登米(とよま)町は宮城県の北東部、石巻と一関のちょうど中間、北上川の西岸にある町。現在は登米(とよめ)市・登米(とよま)町。
 一帯は北上川の氾濫原のため、宮城有数の米どころ。北上川水運で繁栄し、明治の建物が多く残されている。ただし、地盤は極めて悪い。

 設計者は、当時宮城県技手の職にあった山添喜三郎、工事は登米村(当時)の大工棟梁・三島秀之助、同佐藤朝吉が請け負った。
 山添は明治5年(1872年)、ウィーンの万国博日本館の設営のため大工として渡欧、終了後も数年滞在し西洋の建築を視察、帰国後宮城県の技師になり、以後40年間、宮城県内に多数の建物を設計した人物という。

 建物は念入りな地業(礎石下に3尺6寸角厚約1尺の三和土:たたきをつきかため、その下には長さ1尺の割栗石が小端立てに敷詰め)を行い、切石の礎石を設ける。きわめて悪い地盤にもかかわらず、目立った不同沈下は見られなかったという。
 教室になる部分は、四周と部屋境に土台をまわし、廊下外側の柱は礎石建て。
 教室部は、廊下側および背面側を@1間(1821㎜)の通し柱(約5寸角)とし、1階床位置では、桁行方向に「足固め」を1間ごとに「雇いシャチ栓」で建て込み、足元まわりを固めている。
 2階はおよそ丈1尺2寸の梁(@1間、梁行4間)を通し柱に差口(枘差し込み栓)でおさめて、根太を渡り腮(あご)で掛け床をつくり、小屋は軒桁上にキングポストのトラス組(@1間)を渡り腮で架けている。母屋はトラス合掌に渡り腮。

 この建物でも、トラス組は天井で隠されているが、唯一、六角形半割りの屋根の昇降口には天井がなく、放射状に組んだトラスが表れている。
 
 註 「足固め」:礎石建ての柱の一階床面位置に柱に差口で納める部材。
          柱脚部を固める役割を担い、「布基礎+土台」方式以前の
          日本の木造建築は、この方法があたりまえであった。
          足固めは一般に大引、根太を受け、また敷居を受ける。
   「差 口」:横架材を柱に枘差し、楔締め、込み栓、またはシャチ栓で
          固める仕口をいう。

 トラスの中途には片面に「添梁」を打ち付けているが、キングポストの場合、この補強は必要ないと思われる。しかし、「日本建築辞彙」の木造の図にも添梁があるから(12月29日掲載分参照)、ことによると、キングポストのトラスでも、合掌が開く恐れがある、と思われていたのではないだろうか。
 この点については「建築学講義録」の説明が参考になるので、追って紹介する。

 大分前になるが、松島から北上し、石巻から登米へと向う途中、石巻の手前の右手に、明らかに人工河川と思われる水路が見えた。あとになって調べたところ、明治14年(1881年)に完成した「北上運河」と言い、明治政府が計画した港湾計画の名残りとのことだった。
 明治当初、鉄道が敷設されるまでの間、河川は、流通手段としてきわめて重要視され、北上川もその一つ。その河口に大きな港湾を計画したのである。
 登米も、北上水運の重要拠点として隆盛を誇っていたゆえに、当時としては斬新な建築が多数つくられたのだ(地元では、東北の明治村、と呼んでいた)。
 
コメント (4)
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トラス組・・・・古く、今もなお新鮮な技術-1

2007-01-04 12:40:54 | トラス組:洋小屋

 会津・喜多方では明治30年代から(註:明治30年=1897年)小屋組にトラス組が用いられていたことを以前紹介した。
 トラス組の技術は明治の近代化にともない日本に紹介された技術で、日本では古い農家建築の合掌組以外にはその例がない。

 註 合掌組 陸梁(ろくばり)上に三角形に合掌を組むトラスの原型。
         合掌材には主に丸太が使われる。
         合掌の尻は陸梁の両端に穿った穴に差される。
         本来は真束(棟位置の束)はないが、設ける場合もある。

 トラス組は、小断面の、しかも少ない量の材料で、大きく梁間をとばすことができる方法だが、最近の日本では見かけることが少ない。木造の大架構というと、大断面の集成木材を、鉄骨造では大断面のH型鋼を使う例が多いようだ。
 多分、トラスは小屋裏に隠すもの、見せるものではない、と思われているからかも知れない。
 たしかに、明治以来、木造はもとより鉄骨造でも、校舎や講堂などに使われることが多かったトラス小屋組は、大抵が天井を張られ、外からは見えないのが普通だった(先に紹介した「旧丸山変電所」は、変電所施設であるため、鉄骨トラス表しである)。
 現在でも、各地にのこっている第二次大戦前に建てられた学校の校舎や講堂(体操場)の天井裏に、トラス組が隠されているはずである。

 上に載せたのは、「旧日本銀行京都支店」の建物の断面図とトラス組の写真。
 この建物は、二階建て一部地下一階、煉瓦組積造、小屋組をトラス組、スレート・銅板葺きの屋根の建物(煉瓦は、化粧煉瓦を含め、地階4枚、一階3枚半、二階3枚のイギリス積)。

 設計は、当時日本銀行の工事顧問だった辰野金吾(工部大学校第一回卒業生)と日本銀行技師長・野宇平治。明治39年(1906年)に竣工(会津・喜多方で、さかんに木骨煉瓦造の建物が建てられ始めたころである)。

 このトラス組は、工部大学校で教授されていたいわば「正統」のトラス組の例と言えると思われる(煉瓦積も同じく「正統」と言えるだろう)。

 現在、この建物は、「京都府立平安博物館」として公開されている。
 所在地は、京都市中京区三條通高倉西入る菱屋町。一帯は、明治期の商業活動の中心地。その他にも同時期の建物が多数残っている。

 この建物の由来等の解説は「重要文化財旧日本銀行京都支店修理工事報告書」に拠った。なお、調査の結果、外壁まわりの基礎、床束礎石には大きな沈下は見られなかったという(京都市内は、盆地ゆえ、一般に地盤は悪い)。

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