私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

ノーム・チョムスキーが泣くのを私は見た(3)

2012-10-03 10:02:00 | 日記・エッセイ・コラム
<翻訳つづき>
 ノームの反応が私の心を打った理由の一つは、彼がこれらのラオス人を知らなかったことだ。ラオス人の中で暮し、ポー・スウのような人々を心から愛していた私には、ラオス爆撃を止めなければと懸命になるのはまあ容易なことだった。しかし、ノームだけでなく、何千ものアメリカ人たちが、その人生の多くの年月を費やして、目撃したこともない戦争で見ず知らずのインドシナ人たちが殺されることを何とか止めようとしたことに、私は畏敬の念を抱いたものだった。
 あの日、難民キャンプからの帰りの車の中で、彼はその日知ったことの衝撃から抜け切らず、黙り込んでいた。それまでにも彼はインドシナでのアメリカの戦争行為について広範に書いていたが、今度はじめて彼はその戦争の犠牲者とじかに向い合ったのだ。そして、その沈黙の中で、今日まで一度も言葉にしたことのない暗黙の絆が我々二人の間に出来上がったのだった。
 いま私の人生を振り返ってみると、あの時期の私は、それ以前、それ以後の私より立派な人間だったと思う。そしてまた、あの頃は彼と私は同じ思いから出発していた:これらの何の罪もない、温和な、親切な人々の?そして彼らと同じような他の無数の人々の、全く理不尽な受難にくらべれば、ほかの事はすべて取るに足らない事に思えたのだ。これらの無辜の人々が殺され続けていることを知ったからには、彼らの命を救おうとせずに何か他の事にたずさわる自分をどうして正当化出来ようか?
 そして、事実と理詰めの論陣を張るインテリの中のインテリという外向きの彼の顔の下に深い人間的感情が息づいていることを、私は、帰る車中の沈黙の中ではっきりと悟ったのだった。 ノームにとって、会って来たラオスの農民たちは、名前も顔も夢も備えた人々、その彼らをまるで無造作に殺しまくる人間たちに何ら劣らない生きる権利を持った人々であった。しかし、アメリカ国内のアメリカ人は言うに及ばず、訪れて来るジャーナリストたちの多くにとってさえ、これらのラオスの村民たちは、その命など何の意味もない、顔なしの“抹殺御免の民(unpeople)”に過ぎなかった。 
 私がアメリカに帰ってから、ノームと私は戦争が終わるまで度々接触を続けた。彼の書いたものを読み、戦争の惨禍とそれを生み出すシステムの両方について,彼ほど詳細に、理詰めに、そして実に深い理解をもって書いている者はないことを知って、ますますノームに敬服した。しかし、それにも増して彼と彼の友人のボストン大学のハワード・ジンに就いて感銘を受けたのは、彼らが、執筆と講演の活動を越えて、戦争反対のデモのラインに身を挺して参加したことであった。
 ノームとハワードは、数千人が逮捕されたあのメーデーのデモの間、私の“絆グループ”に参加していたし、ワシントンD.C. で行なった奴隷制賠償市民非服従運動中には、監獄で隣り合わせの独房に入れられた。ノームはまた「抵抗」というグループの指導者の一人で、ベトナム戦争の徴兵と課税に反対して、もしテト攻勢が起らなかったら、起訴されていたに違いない。彼は、我々の殆どが戦争のことなど聞いたこともなかった1963年頃から、早くもベトナム戦争反対の叫びを上げていた。そして、彼は度々の殺しの脅迫状やいろいろな困難を身に浴びたから、とうとう彼の妻のキャロルは、ノームにもしもの事があって彼が三人の子供を養育出来なくなった時のことを考えて、何か職業を身につけようと学校に戻ったほどであった。
 ベトナム戦争が終った時、私は運命的な決断をした。アメリカの指導者たちが起しつつあった次の一連の恐るべき行為に反対を続けるというよりも、戦争に反対し、社会正義を促進するような新世代の指導者の育成を国内的に進めて、現指導者層と交替させる努力をしようと決心した。それからの15年間、私は、経済的民主主義草の根運動のトム・ヘイデンと共に、カリフォルニア州知事ジェリー・ブラウンの閣僚級役員の一人として、ゲリー・ハートのシンク・タンクで『アメリカ再建』の指揮を取り、多くの産業経済界のトップの進言を受けながら、アメリカの国内政治と政策に私の時間を費やした。
 この期間中、私はたまにしかノームと接触しなかった。我々の関心事が分離してしまったせいもあった。彼は、東チモールに対するアメリカの残忍凶悪な政策、中米でのレーガンのテロ戦争、クリントンのハイチや第三世界向けの破滅的な経済政策とコソボ爆撃などを人々の目に晒し、それに反対するために、論考や本を矢継早に発表し、しきりに講演を行なっていた。そして彼が最も強く情熱を注いでいると思われたのは、イスラエルのパレスチナ人虐待をアメリカが後援しているという問題であった。彼のこうした関心事は、太陽エネルギーとか国家的経済戦略の発展などといった選挙政治や国内問題に焦点を置いた私の関心事とは遠く離れていた。
 しかしながら、いま振り返ってみると、殆ど意識していなかった要因が働いていたのだと思う。彼が、私のことを、人命を救う努力を放棄して妥協的で腐敗した政治機構のなかに入った不道徳な奴だと看做しているだろうと思い込んだから、私は ノームを避けるようになってしまったのだ。しばしば、頭の中で、私がやっていることを正当化しようとして自己弁護的な会話を彼と交わしている自分に気が付いてはっとした。しかしその弁解は、私が関係していた選挙運動的努力がうまく行かなくなるにつれてますます困難になり、ベトナム戦争中より遥かに自己中心的になってしまった自分に気付かされた。
 十年以上もたってから、ボストンに行く機会があり、市内からノームに電話した。彼は温かく私を彼の家に招いてくれた。しばらくは無駄話をしていたが、ややあってから、私が選挙政治の世界に入ってしまったことをどう思っているか、思い切って聞いてみた。また、以前は進歩派で今は大銀行で仕事をしている人物と同じホテルに私は泊っていて、その朝、彼は、ノームに会えば怪しからんと責められるだろうから会いたくない、と言っていたことも話した。ノームは私の話にしんそこショックを受けたようだった。“何だって!誰もみんな妥協して生きているじゃないか”とノームは言った。“私を見てごらん。私はMITで働いている。MITは国防省から何百万もの金を貰っているのだよ。” 私の友人や私が、自分たちのやっていることの故にノームが我々を誹謗するだろうと考えたことに、ノームは本当に困惑し、傷ついた様子だった。(続く)

藤永 茂 (2012年10月3日)