私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

ノーム・チョムスキーが泣くのを私は見た(4)

2012-10-10 11:05:49 | 日記・エッセイ・コラム
<翻訳つづき>
 近年は、おもにイーメールで私はノームと常々連絡を取り続けている。2010年4月3日のハワード・ジンの追悼式出席に先立つ10日間、私は彼の家に泊めてもらった。それは我々の双方に、特にハワードと強い絆で結ばれていたノームにとって、深い感情的経験の日々であった。この訪問は私の心にとりわけ深い印象を残した。
 40年前とまるで変わっていないノームがそこに居た。世間話には興味なし。自己軽視。米国の知識人やジャーナリストが、相も変わらず、米国指導者たちの戦争犯罪の告発に立ち上がらないことに対する怒り。現代の重大な道義的問題への没頭。ケンブリッジの集会に出席した私を車で迎えにきてくれて、帰りの道すがらスーパーに立ち寄って、家での我らの食事のために買い物をする気さくな男。
 私は、ノームが米国指導者の罪業ばかりを取り上げて他の国々の指導者たちを非難しないとして常々批判を受けていることに就いてどう感じているかとノームに聞いてみた。彼は、自分は米国市民であり、そして米国の指導者たちは、第二次大戦終戦後、他のいかなる国の指導者たちより遥かに多く国外での戦争犯罪を犯しているのだから、こうやるのが当然の事だと感じていると答えた。私も同意見だったし、外国の指導者たちを非難する著名な知識人やジャーナリストが多数いるのに、我が国の指導者が犯してきた戦争犯罪を批判する者は殆どいないことに気が付いた。
 また、40年前と変わりのない仮借なき彼の仕事ぶりは何にも増して私の心を打った。彼はその時間の殆どすべてを、読書、執筆、面接あるいは電話でのインタビュー、また講演に費やしていた。そして、これがとりわけ彼の心の広さの表れだが、ひっきりなしに送られて来るイーメールの流れに、しばしば一日数時間を費やして答え続けていた。
 その上に、彼は国内国外のあらゆる所で講演活動を続けていて、数年先まで予定が一杯という有様なのだ。82歳でこのスケヂュール、40歳若い人でも圧倒されてしまうだろう。
 彼のひどくつつましい生活にも私は感銘した。電話をかけた時に気が付いたのだが、彼は40年前と同じ電話番号で同じ質素な郊外住宅に住んでいた。ジーンズを着て、食べ物や物質的な持ち物には何の興味も持っていない。友人たちや家族的な来訪者はあるが、その他には、彼は何のレジャーの楽しみごとも持っていない。
 特別の感動を味わった夜もあった。米国指導者たちが、全世界にわたって、罪のない人々の殺戮を続けていることについて、ノームが知っていることと一般の世人が知っていることの間の気の遠くなるような距離を、いつもながら、思っていると、突然、オーウェルの小説“1984”の主人公ウィンストン・スミスに私の思いが飛んだのだ。ウィンストンはまわりの社会を変える望みをほとんど失い、ただ、自分の気が狂わないようにすることと、真実を書き留めて後世の人々への形見とすることに努力を集中する。私にとって今の君はウィンストン・スミスだ?と私はノームに言ってしまった。
 彼の反応を私はいつまでも忘れないだろう。彼はじっと私を見つめて、悲しげに微笑しただけであった。(続く)

<訳注>チョムスキー一家が半世紀の間同じ家に住み、同じ電話番号を使っていたと聞いても、特別驚かない読者も多いことでしょう。ここで私の経験したことを少しお話ししましょう。
 1968年カナダのアルバータ州の州都エドモントン市に一家4人で移住した私どもは、はじめの2年ほどアパート住まいをした後、市の郊外に手頃な一戸建てを見つけて銀行から金を借りて入居しました。右隣りは板金工(sheet metal workers)組合の組合長さん、左隣りは大工の棟梁さんで、両方ともウクライナ人、若い人の出入りも多く、私どもにも親切な人たちでした。私は息子二人が大学に進んで家を離れた後も同じ家に住み続け、年を取って芝生の刈り込みや家の前の除雪作業が辛くなってからコンドミニアム(日本のマンション)に夫婦で移りました。その引っ越しの少し前に、結婚したばかりの若い中国人の男性と住宅の事で話したことがあり、彼は私が長い間同じ家に住み続けていることを不思議に思ったらしく「私の兄も大学で教授をしていますが、就職以来もう三回も家を変えて、今ではサスカチュアン・ドライブ(大学に近い高級住宅地区)に住んでいます。」と申しました。カナダの人々、とりわけ向上心の強い中国人たちは、社会的地位が上がり、収入が増加するにつれて、それ相応の住宅地区の家に移り住むのが普通なのでした。住居は一つの重要な status symbol(身分の象徴)です。勿論、チョムスキーと私では話が違います。私は甲斐性のない怠け者であったに過ぎませんが、チョムスキーは、そんなステータス・シンボルなど全く眼中になかったに違いありません。

藤永 茂 (2012年10月10日)