私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

ノーム・チョムスキーが泣くのを私は見た(6)

2012-10-24 10:54:58 | 日記・エッセイ・コラム
<翻訳続き。最終回>

 米国指導者の犠牲になっている人々の苦難に、ノームが何故あれほどまでに心を砕くのか、私はその理由を探ってみたいと思うようになって行った。
 成人の我々の行動の大部分を解く鍵は、幼時に味わったトラウマ、特に人は死ぬということを知ることで受ける精神的な傷にあるとする心理学の分野に私はこの十年ほどはまっている。それで、この見地からノームを読み解いてみようと思うようになっていた。
 我々の生き方は、若年の頃に感情的な苦痛に対して作り上げた無意識な防御で動かされていることを学んでから、ノームを理解する鍵は、何らかの理由で、彼は世の中の苦痛に対して我々普通の人間より手薄の防御しか持っていないことにあるのは明らかだと私には思われた。彼は“皮膚”を持たないのだ。私がラオスに居た時にそうだったと同じように、彼はいつまで経っても“抹殺ご免の人々”の苦難に苦しめられ続けていて、年がら年中、その苦難を和らげようと働く。
 それを裏返せば、そうした人々と共にある時、彼は最も生き甲斐を感じているのであり、彼の内奥の感情が彼の知的仮面(ペルソナ)を突き破ってほとばしり出るのである。
 彼の家に世話になっていた間に、私は、世界で誰を最も尊敬するかとノームに聞いてみた。すると、コロンビアの奥地で熱帯雨林を開発搾取から守ろうと戦っている百姓たちを訪れた時のことを語り出した。ノームは数日間そこにいて百姓たちの大きな苦難と大きな勇気の話に耳を傾け、録音した。つい最近の訪問では、人々は丘の上に登り、シャーマンたちの指導の下で、一つの森をキャロル<訳注:ノーム・チョムスキーの妻。2008年没>に捧げるため複雑な儀式を行なったという。それを語るノーム、それほどまでに感動し、生き生きと感情をあらわにした彼を、40年前のラオス以来、ついぞ見たことがなかった。
 最近また私はラオスの難民キャンプでノームが泣いた時のことを思い出しながら、またまた、彼は何故あんなふうなのか、考え込んでしまった。彼の幼時かその後の人生にそれを説明出来るものがあるのだろうか?しかし、この線ではどうも埒があかないことが分かって来た。ノームは自分のプライベートなことには口が堅いばかりでなく、人間の行動の心理学的なあるいは宗教的な説明には特別興味を持っていない。心理療法が彼の知っている人たちに役に立っていることは認めたが、人間行動の説明を試みるとなると、結局は“お話”に過ぎないと彼は看做している。人間の理解のためには余りに多数の変数が関わっていて、人間の頭脳がそれをうまくこなすのは無理だと彼は信じている。科学的に信用のおける、統御された実験などとても実行できないとも彼は考えているのだろう。
 その上、察するに、多数の人々が現に苦難に苛まれていて、彼らを救う唯一の希望は集団的運動を立ち上げることにある時、そうした心理学的“お話”に血道をあげるのはお門違いだと、彼は考えているのだ。もし彼以外の十分の数の我々が、この40年間に米国指導者たちが無辜の人々を殺戮し搾取するのを止めさせるために、ノームと同じように努力していたならば、結局は、無数の人々が救われ、そして、アメリカも世界も遥かに豊かな、もっと平和で、もっと公平になっていたばかりでなく、世界が、気候変動の故に、我々の知る文明の崩壊に向かって突き進んでいる現状も生じなかっただろう。ノームは、この現状の大きな責任は気候変動を“外在性”の問題---つまり、誰か他人が思い悩むべき問題---と看做す短期的考慮に駆動された企業システムにあると考えている。
 しかしまた、もちろん私も含めてのことだが、十分に多くの我々が不気味に迫り来るこの文明の死に適切に対処して来なかったことにも大きな問題があることも明白だ。
 かくて私は最終的に思い至ったのだが、重要な問題は、この地球上の無辜の人々の苦難に対して、何故ノームがあのように応答しているかにあったのではなく、何故、彼以外の我々の余りにも多くが、彼のように応答しないかということにあったのである。(翻訳おわり)

<訳注>6回にわたってこの翻訳を続けていた間に、私が強い関心を持ち続けている事項について、いろいろ重大な事件が起こっています。コンゴ/ルワンダ、リビア、ハイチ、・・・ 。次回から、また、こうした話題に戻ります。しかし、詰まる所、私の関心は圧倒的に米国という国にあります。米国が私の最大最重要の関心事です。単なる政治的あるいは文化的関心などというものではありません。もう終りの時が近い私の全存在に関わる問題です。私もその一員である人間、あるいは人類というものが、こういうものであったのかと、今になって、思い知るのは大変辛いことです。ノーム・チョムスキーと私の最もはっきりした違いは、私がその辛さを個人的な幻滅と悲惨として閉鎖的に受け取るだけであるのに、チョムスキーは断じて絶望の中に身を沈めることなく、自国アメリカの世界全体にわたる暴虐に対する戦いを、過去四十数年間、絶え間なく続けていることにあります。
 チョムスキーは間もなく84歳(1928年12月7日生)、この10月20日、21日にガザのイスラム大学で開催された応用言語学と文学の国際会議(The 1st International Conference on Applied Linguistics and Literature)で基調講演を行ないました。出席者は、パレスチナ内から15人、国外から24人。2010年に、チョムスキーはパレスチナ人の大学で講演を行うためにヨルダン側からウエスト・バンクに入ろうとしましたが、イスラエルはそれを許しませんでした。今回はエジプト側からエジプト政府の許可のもとにガザ地区に入りました。彼のパレスチナ入りは初めてのことであり、パレスチナ人たちにとって大きな喜びであったと思われます。このニュースに関する記事の三つ(1)(2)(3)を以下に引いておきます。

(1) Chomsky Tells Israel from Gaza: "End the Blockade"
http://www.commondreams.org/headline/2012/10/19-6
(2) Chomsky is in Gaza
by Annie Robbins on October 20, 2012
http://mondoweiss.net/2012/10/chomsky-is-in-gaza.html
この中にはPRESS TV による3分足らずの動画があり、会場の様子を見ることが出来ます。大学生と思われる若い人々も沢山居ます。
(3) Reflections on Noam Chomsky’s visit to Gaza
Submitted by Rana Baker on Mon, 10/22/2012 - 00:21
http://mondoweiss.net/2012/10/chomsky-is-in-gaza.html

(1)と(2)の記事に寄せられた多数のコメントも極めて興味深いものです。チョムスキーに対する批判の声もありますが、老体に鞭打つ彼の勇気ある行動への感謝と賛同の発言が圧倒的です。

藤永 茂 (2012年10月24日)