私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

地獄の黙示録/ファイナル・カット

2022-09-26 20:08:17 | 日記・エッセイ・コラム

 NHKのBS放送で映画『地獄の黙示録/ファイナル・カット』を観ました。日本では、コッポラの『地獄の黙示録』の最初の版は1980年に公開されましたが、2001年に『地獄の黙示録(完全決定版)』が発表され、更に2020年になって『地獄の黙示録/ファイナル・カット』が公開されました。その長さは

1980年版(153分)

2001年版(202分)

2020年版(182分)

です。

 今度、『地獄の黙示録/ファイナル・カット』を観ながら、自分で、とても驚いた事があります。それは、観ながら、私の心の中で鳴り響いた音楽が、映画の中で鳴り響くワグナーの「ワルキューレ」ではなく、ドアーズの「The End」と米国映画「荒野の決闘」の「愛しのクレメンタイン」の一節であったからです。ファイナル・カットを観ながら、私の心中でしつこく鳴り続けていた二つの文句は“This is the end”と “You are lost and gone forever” でした。

「荒野の決闘」の歌のメロディーは、日本ではダーク・ダックスの雪山讃歌(西堀栄三郎作詞)で一時代昔にはよく口ずさまれたものでした。

雪山讃歌(西堀栄三郎:ダーク・ダックス)

https://www.youtube.com/watch?v=CEF6TfwkuLo

荒野の決闘(1964年)

https://www.youtube.com/watch?v=CEF6TfwkuLo

 一昨日、私のブログにNORIKO・Tさんからコメントを頂きました:

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遅ればせながら (NORIKO・ T)

2022-09-24 11:30:42

BSでの地獄の黙示録放映を機に、以前読んだ「ロードジム」の作者の「闇の奥」が原作と知り、図書館で予約。その検索の途次に「闇の奥の奥」に出会い、ここまで辿り着きました。分かり易く、読み易く、とても楽しく読ませていただいております。

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これに勇気付けられて、2006年に出版した拙著『「闇の奥」の奥』の冒頭の一節、

1 「地獄の黙示録」のエンディングをめぐって

の全文を以下にコピーします。少し長いですが付き合ってください:

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 フランシス・コッポラによる大作映画『地獄の黙示録』のシナリオは、ジョセフ・コンラッドの名作小説『闇の奥』(Heart of Darkness)を下に敷いている。

 米軍最高幹部への昇進を約束されていたカーツ(Kurtz)大佐は、その未来を自ら捨て、軍の指揮系統から逸脱してメコン河上流の密林の奥に入って先住民の王となり、プライベートな軍隊を組織してベトナム共産軍(俗称ベトコン)と激しく戦っていた。米軍司令部は軍の命令系統からの逸脱を許さず、カーツは気が狂ったと断定してその抹殺を決定し、暗殺の任務をウィラード大尉に託す。ウィラードは四人の部下と小型舟艇に乗り込み、メコン河の上流を目指す。途中、悪夢のような戦争の実相を目撃しながらカーツの王国にたどり着いたウィラードは、丸坊主の大男カーツを鉈でめった打ちにして殺害する。

 コンラッドの『闇の奥』の舞台は、中央アフリカのコンゴ河である。海の船乗りマーロウはアフリカで象牙の交易をしている商社に雇われて、小さな蒸気船の船長としてコンゴ河を遡る。目指すは奥地出張所の所長クルツ(Kurtz)。彼はコンゴ河上流の密林地帯で先住民から神のように怖れ敬われ、交易手段ではなく、武力を使って気が狂ったように象牙の強奪収集を続けていた。中央出張所の支配人はクルツの異常な象牙集めを不健全な個人プレーと考え、クルツを連れ戻してその失脚を謀ったのだった。クルツは、やがて、その商社のヨーロッパ本社幹部になると思われていた優秀な社員だったのだが、アフリカの密林の中でその妖しい原始暗黒の魔力に取り憑かれて正気を失ってしまったのである。熱帯の病に倒れたクルツは「地獄だ!地獄だ!」という言葉をマーロウの耳にのこして息絶える。

 映画『地獄の黙示録』はベトナム戦争の、小説『闇の奥』は白人のアフリカ侵略の核心に迫った優れた芸術作品とみなされている。『市民ケーン』や『第三の男』の名作映画で知られている鬼才オーソン・ウェルズはコンラッドの『闇の奥』をラジオドラマ化し、続いてハリウッドで映画化しようとした。彼の最初の映画になるはずだったが、予算その他で映画会社と折り合いがつかず、断念して『市民ケーン』を制作した。『闇の奥』の中心人物クルツに扮したウェルズの写真が残っている。小説のクルツは丸禿げだが、ウェルズのクルツには髪がある。当時(一九三九年)、世界の耳目を集めていたドイツの独裁者アドルフ・ヒトラーをウェルズはクルツに重ねて考えていた。

 それから四十年後、コッポラは『闇の奥』を翻案して、名映画の誉高い『地獄の黙示録』(Apocalypse Now)を撮影した。その中でカーツ(Kurtz)大佐を演ずるマーロン・ブランドは丸禿げの大男として現れる。この翻案されたクルツは映画の終わりの三十分ほどの間に出てくるのだが、このエンディング、そしてブランドの演技が多数の映画批評家から「むしろない方が良かった」などと、散々にこき下ろされることになった。『ニューヨーク・タイムズ』の映画評がその代表例である。

 ほとんど全ての批評家が認めるこの映画の最高の見せ場は、ワグナーの「ワルキューレ」の音楽を空から大音響で鳴らしながら(これは映画の背景音楽ではない!)ベトナムの村落に襲いかかる米軍のヘリコプターの大群と、その指揮をとるキルゴア大佐の描写だ。一度見たら忘れられない鮮烈な映像である。『ニューヨーク・タイムズ』の映画評論家キャビーはこのキルゴア大佐をベタ褒めにする。「この男、息を呑むような迫力と魅力でロバート・デュヴァルが演じ切ったキルゴアは、この映画の中のカーツの馬鹿臭い仰々しさの中に全く欠けている優れた資質のほとんどを備えている。カーツの方と言えば、結局のところ、彼の行動もこの映画の他の部分とはおよそ何の関係も持っていない」。米国のベトナム戦介入を批判した著書『ベスト&ブライテスト』(浅野輔訳、サイマル出版会)で有名なハルバースタムも『地獄の黙示録』をベトナム戦争についてのベストの映画と呼び、ヘリコプター襲来のシーンを全てのベトナム戦争映画の中でのベストシーンとまで褒め上げるが、エンディングについては「マーロン・ブランドが出てくる終わりのところのたわ言はない方がいい」などと手厳しい。

 映画と小説ではジャンルが異なる。シネマトグラフィックな意味でコッポラの『地獄の黙示録』が記念碑的名作であることに否定の余地はあるまい。しかし、映画は映像だけで成り立っているわけではない。キャビーやハルバースタムの批判を受け入れて、ブランドが出てくるエンディングの部分を切り落としてしまえば、この映画はより良い作品になるだろうか?

 この映画の解説として日本でもっともポピュラーなのは立花隆著『解説「地獄の黙示録」』(文藝春秋)であろうが、その頁数の大部分が映画のエンディングを語ることに費やされているのはいささか異常である。本文の最初の部分の太字タイトルが「エンディングができない」となっていて、そこには「撮影は十七週の予定が六十一週に延び、編集もどんどん延び、公開予定日は何度も延び、“Apocalypse Now”は“Apocalypse When”といわれ、遂には“Apocalypse Never”とまでいわれた。なぜそれほど延びたかというと、台風でセットがつぶれたり、主演のマーティン・シーンが心臓発作で倒れたり、マーロン・ブランドがなかなか撮影にのらなかったり、いろいろあるにはあったが、主たる理由は、エンディングがうまくできなかったためである」とある。また、コッポラの夫人エレノアの著書『「地獄の黙示録」撮影全記録』(岡山徹訳、小学館)を「この映画を理解しようと思ったらまず第一に読むべき本である」と推奨し、「この本を読むと、はじめから終わりまで、コッポラがエンディングに悩みつづけたことがよくわかる」とある。『地獄の黙示録』は難産の末に一九七九年やっと日の目を見た。コッポラは二億円近い私財をつぎ込み、財政的にも精神的にも破綻の直前まで追い詰められた。エンディングが始めから終わりまで最大の難問としてコッポラにのしかかり、まさに七転八倒の辛苦をなめた。

 ところが、それから二十二年もたった二〇〇一年になって、コッポラは新しく編集した『Apocalypse Now Redux』を発表する。Reduxは“帰って来た”を意味する。日本では「特別完全版」。映画のエンディングの部分の変更は大きくない。しかし、この「完全版」の公開の後でもコッポラはまだ満足できず、ローリング・ストーン誌のインタビューで「あれは嘘のエンディングだ。僕の中には本当の結末がある」という奇妙な発言をしているのである。果てしなく続くエンディングの腰の定まらなさ一体何に由来し、何を意味するのか?

 アメリカの著名な文学評論家ハロルド・ブルームは、それを、コンラッドの『闇の奥』の意図的な曖昧性に求めている。ブルームによれば、コンラッドの作品の中で最も有名な『闇の奥』が最も出来損ないの作品であり、それは、「コンラッドも、彼に代わる語り手のマーロウも、クルツというものが一体何を意味するのか、意味すべきなのかについて、とんとはっきりしないからだ」と言っている。

 しかし、クルツにまつわる曖昧さ、晦渋さは読者向けのものであり、その創造者コンラッドの内心ではクルツの担う意味が明確に措定されていたとは、私は考えない。言い換えれば、多くの論者がヨーロッパの帝国主義的アフリカ侵略の核心を摘出する文学作品とみなす『闇の奥』には、本質的な曖昧さ、したがって、欠陥があると私は考えるのである。そして、この根本的な欠陥がそのまま『地獄の黙示録』に移植されざるを得なかったことが、コッポラの終わることのない懊悩苦難の源泉であり、この映画がベトナム戦争の本質の剔出に成功しなかった理由でもあると私は考える。

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 これで拙著『「闇の奥」の奥』(2006年)の冒頭の一節の引用は終わりです。今の私には、この映画について話したいことが沢山あります。

 まず、映画『地獄の黙示録/ファイナル・カット』を観ながら、頻りに私の中で鳴り止まなかった二つの歌の断片、“This is the end”“You are lost and gone forever“は、私にとって、何を意味しているか。「終わり」が始まったのはこの500年間延々と続いた帝国主義であり、「You」とは、私が今でも愛しているコッポラもマーロン・ブランドも含めた「アメリカ」そのものです。「アメリカ」の終焉です。

 私は2006年8月、ブログに次のように書きました:

“ テリー・イーグルトンは近著『The English Novel』(2005年)の中で、帝国主義なるものが、『闇の奥』では「ただ一種の非合理な白日夢(a kind of irrational fantasy)」であるかのように示唆されていて、その結果、『闇の奥』に見られる帝国主義は「目的のはっきりした、歴史的に明瞭に理解され得る一つのシステムとしてではなく、一種の悪夢のような錯乱(a kind of nightmarish aberration)として見られている」が、実際はそれと正反対で、帝国主義ほど「不気味なまでに合理的なものは他にはありえないだろう(nothing could be more grimly rational)」と書いています(原著242頁)。この“grimly rational”な“システム”を押さえ込んでくれる小説は出来ないものでしょうか。”

https://blog.goo.ne.jp/goo1818sigeru/m/200608

ジョン・ピルジャーが言うように、2005年にノーベル文学賞を受賞して2008年に78歳で亡くなったハロルド・ピンターあたりが、政治的真実の核心を把握して我々に告げてくれていた「おそらく最後の偉大な政治的賢者」なのでしょう。ピンターの衣鉢を継ぐ文学者はアメリカには見当たりません。

 コッポラは今度の「ファイナル・カット」でやっと満足したと言ったようです。しかし、これはコマーシャル的発言でしょう。『地獄の黙示録(完全決定版)』と『地獄の黙示録/ファイナル・カット』を比べてみると、それがよく分かります。フランス人の入植地の場面を大きくカットし、前線を慰問訪問した「プレイボーイ」誌のプレイメートの女性たちの悲しい後日譚をすっかり削除したのは良い決断ですが、マーロン・ブランドが出てくるエンディングの部分は、かなりの場面がカットされたため、観客にとって、より分かりにくく、誤った印象をさえ与えることになっているように、私は思いました。マーロン・ブランドは2004年に亡くなりましたので、撮り直すことは不可能でした。墓石の下でマーロン・ブランドは苦しい寝返りを打っているかもしれません。省略のない(完全決定版)のエンディングの方が良いと思います。 

 上述のように、コッポラは、「特別完全版」を世に出した後に、「あれは嘘のエンディングだ。僕の中には本当の結末がある」と語りましたが、「ファイナル・カット」のエンディングは「特別完全版」のエンディングをかなりカットしただけのものであり、マーロン・ブランドがなくなってしまったのですから、撮り直しはできなかったわけです。私にはこの「ファイナル・カット」のエンディングがコッポラの胸中にある“本当の結末”ではないと信じます。

藤永茂(2022年9月26日)


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1 コメント

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Unknown (中村元)
2022-10-29 17:19:13
はじめてコメント致します。長文失礼致します。

数年前に『地獄の黙示録』をあれこれ調べていた際にこちらのブログを知り、愛読させて頂いております。
藤永先生のおかげで歴史や政治に対する知見が広がりました。有難うございます。
『《闇の奥》の奥』や藤永先生が訳された『闇の奥』も拝読してます。先日『アメリカ・インディアン悲史』も購入致しました。

『地獄の黙示録』は“迷作“だと思いますが、不思議な魅力を感じて今だにあれこれ調べております。
この映画に関して先生のご意見を改めてお伺いしたい事もございましたが、現在の世界情勢の深刻さを思いますと、
この時期に『地獄の黙示録』についてあれこれ質問するのは、何とも脳天気で不謹慎な感じさえして躊躇しておりました。
しかし先日のNORIKOさんのコメントと藤永先生の記事を読んで励まされ、思い切ってコメント致しました次第です。
よろしければ今後にポリオ予防接種のエピソードや“horror“の意味などに関して質問させてください。

これからも記事を読ませてください。お体をご自愛ください。

追伸:大岡昇平が『地獄の黙示録』の感想を書いた『成城だより』をお読みになったことはございますか?

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