glimi

生きること:過去と未来とエスペラントと

今日も新鮮野菜

2020-10-07 13:17:19 | taglibro: 日記
 今朝も農協の朝市に行き新鮮な野菜を手に入れました。大根は青首と首のところがえんじ色のと2種類ありました。味の違いを尋ねたら色が違うだけで味に変わりはないという。それならと葉の柔らかそうな青首大根を選びました。その他に今日買ったものは茄子、カブ、キュウリ、ショウガ。根菜は手持ちが色々あるので、台風が来ても大丈夫。

 先ほどエスペラントの翻訳を1章分仕上げました。13ページ分。前の章を仕上げたのが9月25日だったから今回は頑張れました。でも次の章は20ページもある。今年中には仕上げたい!

 時には辛いが、時には言葉に対する新しい発見があり興奮する。

 命あるうちに最後まで仕上げたい!
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カラスにお小言

2020-10-06 09:12:43 | taglibro: 日記
 昨日は歯科へ。
 帰りは正午近かった。月曜日はごみの回収です。時間は午前8時のはずなのにまだ回収されていなかった、
 最近生ごみは緑色の網のケースに入れる。緑はカラスが見通せないらしいという理由でどこの回収箱も蓋つきの緑のネット製。カラスが1羽ネットの小さい穴(直径3センチほど)から嘴を突っ込んで生ごみの入った袋を破り中身を引き出していました。
 ’駄目よ!やめなさい。’とカラスに言った。
 カラスは飛びもせずよちよちと歩いて少し離れて、立ち止まり去ろうとしない。
 ’ダメ!’と言ってもほとんど動かない。なんとまあ、人擦れしたカラスでしょう!
 やむなくごみ入れの蓋を開け、袋の向きを置き替えました。
 かなり遠くから私と同年齢くらいの白髪のおじさんが、笑いながら自転車でやってきました。
 100㍍ほど歩いて曲がり角で振り向いたらそのおじさん、ごみ入れの横にまだ立っていました。
 このカラス、人間様をなめていて、まだ、その場にいるのでしょう!

 そう言えば、この前、テレビで若い科学者が動物の言葉の研究をしていると言っていました。いわゆる動物、鳥だけでなく爬虫類にも言葉があるらしい!集団行動するのに言葉は必要かもと思ったりする。
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注射

2020-10-05 13:41:14 | rememoro: 思い出
 笑ってしまった!
 夫は土曜日に市で行っている無料検診を受けようと近所の医院に行きました。お医者さんに奥さんに言っておいてください、今年は予防注射するように!と言われたそうな。お互いに夫婦のことを医師に話したことがない。どうしてだろうと夫。

 まあ住所が同じからでしょうが・・・。
 医院に行くようになったのは70歳過ぎてから。インフルエンザの予防注射を勧められるようになった。’もし80歳になって生きていたら、接種します。’と答えたような気がする。いつも混んでいる医院です。まさかそんな私の言葉覚えていたのだろうか!

 極度の注射嫌いです。トラウマというべきかも!
 多分アトピーだったと思うのだけれど、いつも体中が痒かった。戦後、昭和21年(1946年)頃、食糧難でした。栄養不足もあったかもしれません。巷では肺結核が蔓延していました。上の姉の仕事は発電所の事務員兼看護婦。独身寮の賄い婦を除けばたった一人の女性職員でした。町の病院に行き薬を持ち帰り、医師の指示に従い病気の職員に注射するのが彼女の主な仕事でした。

 姉は私の痒みを止めるためにも薬を入手し、ほとんど毎週私に注射しました。小さくて痩せている私の腕にはそれほど注射する場所がなかったのかもしれません、お尻にずぶりと針を刺すようになりました。薬は痒み止めのレスタミン、皮膚に良いと言われるビタミンB6,ビタミンB12などでした。

 小学5年生頃の記憶です。姉は注射し終わると赤チンで注射跡を消毒して言いました。
 ’ハーイ、みんな見て!G子のお尻にへのねのもへじ書いたよ。’すると兄たちがえっ!って覗きます。そんなこんなで注射と言われると逃げ回りましたが、兄弟は多いし、家は狭いし、私はすぐに御用となったのでした。

 昨年だったでしょうか、注射嫌いは姉せいだと私は言いました。へのへのもへじを書かれるのが嫌だったとも。姉はお尻にへのへのもへじを書いたことは無いと言いました。きっと姉特有のブラックジョークだったのです。

 当時は注射が嫌で注射されることが不満でした。この頃思うのです。物のない時代、注射液を手に入れることは大変だったでしょうし、子沢山のわが家に経済的余裕はなかったでしょうから、きっと姉は自分の給料から支払っていたのだろうと!
 
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野菜

2020-10-04 09:21:10 | 家族・友人・私
 昨日、姪が送ってくれた野菜を受け取った。カボチャ2個・茄子数個・里いも数個。段ボールのその他空いた場所にはジャガイモが沢山。これではまるで母の小包のようです。

 昨年までは4月に亡くなった姉が色々と送ってくれました。彼女は家の近くに宅地を買いそこを畑にして数10年無農薬野菜を作っていました。送料が野菜の値段より高いからと私は断ったのですが、一人では食べきれないし、私の野菜は美味しいと自慢でした。息子のところに同居したのは86歳ぐらいでしたが、2~3ヵ月の内数週間は自宅に帰って庭や畑の手入れをしていました。昨秋、水回りを改造しました。コロナ騒ぎで以後帰れなくなりました。一人暮らしを楽しめなかったことが死を早めたような気がします。来週の土曜日は彼女の誕生日、92歳になるところでした。
 我が家のゴーヤも姉が茶目気を出して、私を驚かせようと熟れたのを送ってきたのが始まりでした。

 それ以前は義姉(姪の母)が食べきれないほどの野菜を季節ごとに送ってくれました。今年、彼女の13回忌を済ませたそうです。
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散策:10月2日

2020-10-03 08:50:24 | taglibro: 日記
 昨日は晴天。江の島に行きました。江の島近くに住んでいたのですが神社仏閣には縁遠く、龍口寺へは初めてでした。龍口寺は湘南モノレール、または江ノ電の江ノ島駅から近いです。

 この寺は元刑場跡だそうです。日蓮上人を処刑しようとした時、江ノ島付近から強い光が上り、執行人たちが混乱し、死刑執行ができなかった。そこに寺を建立したそうで、日蓮宗の本山だそうです。その広さと彫り物素晴らしさに圧倒されました。
 
 また階段を上るぞ!


山門を過ぎるとまた長い階段。


また山門?彫り物の素晴らしいこと。お寺の写真は取らなかったけど内覧はしました。


 また階段とは思ったけれど上に。七面天は信者を保護する女神だそうです。

 
階段ではなく横道にそれると素晴らしい、五重塔がありました。
昔、姉が谷中に住んでいました。甥が小さい頃上野まで歩き、谷中の五重塔前で休み、ハトに豆をやったことが思い出しました。60年前の話です。

* * *


 今日のブログは長くなります。龍口寺から江の島奥津神社へ。本殿まで登ると大変な道のりになるので下の道を通りました。帰ってくる釣り人たちと幾度もすれ違いました。上ったら下らなくてはならいこれは大変な道のりと思いつつ上りました。


 
本殿から下ってくる人と合流。


山門天井の酒井芳一の”八方睨み亀”のレプリカ


奥津宮


横に龍宮:わだつみの宮と読むそうな難しい!


岩谷に向かう


長い階段を下りて岩谷に通じる岩場に到着下りたけれど登れますか?
道案内人に曰く:岩谷に行けますか?こんなに遠いとは思わなかった!


岩谷に続く道から海を眺める。釣り人が大勢います。
もう2度と来れない前進あるのみ!


岩谷の中の与謝野晶子の歌碑
沖つ風 吹けば またたく 蝋の灯に しづく散るなり 江の島の洞


しずく滴る岩谷で朽ちたのでしょうか。

仏像群がいくつか


初め江の島神社はここにあったそうな


こちらは第2岩谷、岩谷内の道も結構ありました


雲があって富士山が見えなかったので岩谷にあった浮世絵の一つをパチリ


下りた分の長い階段を上り、上がった分の坂道を下り、江の島の入口へ
人では多い!ここですでに12、000歩越え
限界です。

 休憩を兼ねて食事。
 帰りに魚屋に寄ったけれど美味しそうなものがなく、鯵を買いました。夕食に鯵のたたきを作ったのですが立っているのが辛かったです。
 昨日の散策15,000歩と少々でした。夕べも9時間寝てしまいました。今日はもう元気です。
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真夜中に

2020-10-02 01:34:29 | taglibro: 日記
 昨日は9時間近く寝続けたのに、今夜は3時間半で目が覚めました。夫に頼まれていた国勢調査をたった今インターネットで提出しました。

 思ったより簡単でした。
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二人だけの音読会

2020-10-01 21:12:26 | エスペラント
 前回は2月27日でした。7カ月ぶりの音読でした。
本は:Kvarteto de Mendelsson kaj aliaj rakontoj de Jaroslaw Iwaszkiewicz です。Kvarteto de Mendelsson の最後の部分から読んだのですが、会話の訳し方がうまくて!誰が言った。誰が質問した。誰が答えた。などといちいち言っていたら文学的にはつまらない。そんな陳腐な表現ではなかった。こんな翻訳の仕方ができればいいのにと思わずうなった。訳者についてウキペディアからの引用を下に載せました。

 学習に使うラウンジは数人しかおらず、静まり返っていました。小声で話すのも罪であるかのような視線が向けられました。でも、大声で話さないでくださいとはかかれていますが、会話禁止とはなっていないのです。でもかなり離れた人からの視線が痛かったです。グループでの使用禁止とはなっていますが、二人は一対であってもグループにならないと私は考えるのですが・・・。複数の人との使用禁止と書かれていれば別ですが・・・。
 私たちが学習を終えるころ数人のグループが入ってきておしゃべり、なんだか場が解放されたような感じになりました。


カメラがなかったので携帯で
光っているのテーブルの真ん中に置かれたプラスチックの衝立です



訳者:
Jerzy GRUM (nask. 1933 - mortis la 22-an de januaro 1993 en Varsovio) estis grava pola esperantisto kiu tradukis milojn da paĝojn el la pola prozo, precipe por la Esperanto-programo de Pola Radio, ĉe kiu li laboris kiel ĵurnalisto. Inter 1966 kaj 1968 li estis komitatano de Universala Esperanto-Asocio.

Verkoj
La krucoj de l' espero (1959) - aperinta en 33 Rakontoj (1964) kaj Trezoro (1989).
Tradukoj
Malsupra Silezio hieraŭ kaj hodiaŭ de Romuald Cabaj, Franciszek Ryszka, Ignacy Rutkiewicz (1960).
Kiel esti amata de Kazimerz Brandys (1964)
Mia poŝhorloĝo (trad. Kabe) kaj La fumo (trad. Jerzy Grum) de Maria Konopnicka (1964)[1]
Polaj okcidentaj kaj nordaj teritorioj de Tadeusz Beriatka kaj Józef Lubojanski. [Trad. Jerzy Grum kaj Jerzy Uspienski].
Kvarteto de Mendelsson kaj aliaj rakontoj de Jaroslaw Iwaszkiewicz (1982)
Referencoj
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