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生きること:過去と未来とエスペラントと

'21-10-21: エスペラント博物館

2021-10-22 12:46:55 | エスペラント
 息子に本を持ってもらって友人とエスペラント博物館に行きました。

 コロナのためまだ公式に開館はしていませんが、ホームページからアクセスし申し込むと受け入れてくれるそうです。
1階はまだ。日本大会の時の原爆関連の本が展示されていました。








窓が大きくて部屋が明るい一階です。テーブルと椅子もあり、少人数の会がを開くことができます。


二階には1900年代初めの、つまりエスペラント創成期の貴重な本や、エスペラントと関わりのある本及び、エスペラントにかかわった人と関わった人に関する日本語の本もいろいろありました。正式公開はされていませんが、興味のある方は訪ねたら良いと思います。時は金なり。コロナで右往左往していると時はどんどん過ぎてゆくように思います。

 
二階の明るい部屋で美味しいコーヒーを頂いて帰りました。
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チェコから訃報

2021-10-06 14:46:25 | エスペラント


 今朝、チェコの友人から彼女を通して知り合った友人が亡くなったと知らせを受けた。友人マリエが離婚後モラビアに行ったことはわかったが、その後消息が知れなかった。息子や孫たちのいるヤブロネツに帰り、その地で亡くなったと聞き安堵しました。彼女は1939年生まれ、もう82歳のはずです。最後の挨拶できなかったのは心残りです。友人のHに頼んで行き先を捜してもらったのだけれど、彼女にもモラビアのどこか住所はわからなかったのです。
 エスペランティストの家族の多くはエスペラントを話せない人が多く、文通が最後にと切れてしまうことが多々あります。
 彼女が最後の時を家族と共に過ごし、幸せであったと信じます。
【合掌】


 友人Hからのメール
Saluton, kara G.
Hodiau mi havas por vi tristan informon. 22. 7. mortis Marie Blazkova de Jablonec, norda Cxehxio. Nia komuna amikino ekde hispana kongreso. Tien ni trovis unu la alian persone kaj
Marie, mia amikino konatigxis kun vi. Poste post kongreso en Prago vi vizitis sxin en sxia hejmo en urbo Jablonec kaj travivis tien belajn tagojn. Marie dum tiu tempo divorcis, kaj la domo estis havajxo nur dešč sxia edzo, kiu ne permesis al Marie plu vivi tien. Sxi translokigxis al Moravio/regiono, ki sxi havas siajn familianojn, kaj tien sxi vivis dum jarojn. Antau kelkajn jarojn sxi revenis al Jablonec, kialon mi ne scias, cxu sxi logxis en la sama adreso ankau ne. Ekde praga kongreso mi neniam plu renkontigxis sxin, sxi tute ne partoprenadis esperantajn aranjxojn kaj renkontigxojn.
Salutas vin kore H。.

2020年9月テレビの道という番組に触発された書いたもの
https://blog.goo.ne.jp/glimi/e/f7f9caf37871302c1a41384055e24034

2005年5月から6月楽しかったヤブロネツの思い出を書きました
https://blog.goo.ne.jp/glimi/e/952051ad89c33a0be1d3ea81de79fb77


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日本エスペラント大会(2)

2021-09-21 13:29:30 | エスペラント
 昨日、大会は終わった。家で参加したのにすごく草臥れている。一応参加のメモだけでも残して置きたい。

 19日(日)

 (1)バームクーヘンが日本で最初にに作られたのは広島の似島にあった捕虜収容所。
 カール・ユーハイムは気と言いつ生まれの菓子職人。第一次世界大戦がはじまったころ、中国大陸青島(チンタオ)でカフェを開いていた。エリザ(メモしてなかったので名前が違うかも!)と結婚。ほどんなくしてドイツが負けて終戦。ユーハイムは捕虜として似島に収容された。この島で捕虜たちはかなりの自治が許されていて、ソーセージ・ハム、パン・菓子塔生活に必要なものを作ることができた。ユーハイムは菓子職のマイスターだったのでここで、伝統が詩のバーム・クーヘンも作った。解放魏帰国せず、青島にいた妻を呼び寄せて東京銀座で菓子屋を開いた。関東大震災で壊滅的打撃を受けて本拠地を神戸に移した。但し、銀座の店は今も存続している。

 エスペラントとは全く関係ない話に見えますが、そういうことがエスペラントで語られ、通じ合うことが楽しい。

 (2)エスペラント推進動画コンクール参加作品を鑑賞。

 (3)アジア・オセアニアエスペラント運動の報告を傍聴

 イランからの報告。そのイランからリモートを使って行う会合の指導受けてインドネシアでも講習や会合を子ナットインドネシアからの報告。台湾では大学で講座を設けることができた。日本でも数校にエスペラント講座があるなどなどと普段の会話のような報告が続いた。リモートを隠せる。韓国のE-istoから顔が見えない。顔が見えた方が話しやすいと指摘され、多くの人が顔を曝しました。
 顔を隠すということはすべてが見えなくなるということ。学生時代、机の下内職したように、夕食の準備としてモヤシの根を取ったりしていたのだけれど中止。
 タジキスタンだったろうか、名前があるというので話しかけたが、返事がなかった。電波が悪いのそれとも他の事情かが気になりました。

 韓国から各国の文化の違いを知りあうことが相互理解には大切である。アジア・オセアニア運動に参加している国が順番でイニシアティブを取り、各国の文化紹介など月一ぐらいでおかなったらどうかという提案があった。


20日(月)

 (1)横浜エスペラント博物館から原爆関連の本の紹介
 
 (2)エロシェンコの雑誌に転載されたがどんな作品だったかをどう捜したかという話

 (3)動画コンクールの結果発表とその作品鑑賞。

 閉会式
 海外からの参加は22カ国だったそうです。

 私が参加したのはズーム使用の集まりだけです。おしゃべりの場は3か所あり、夜まで続いたようです。
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日本エスペラント大会(1)

2021-09-19 07:16:52 | エスペラント
 【広島の話は重い】

 
 切明千枝子さんの話

 広島第二女学校の生徒だった時に被爆した切明さんが’19年、90歳の時に高校生に話した録画にエスペラントの字幕がつけられたののでした。
 彼女の話はとつとつと事実を語っているだけでしたが、それだけに戦争とは何かを考えさせられました。

  広島が軍都であったこと(兵器廠などの軍需工場があった)、中国など大陸にに兵隊を送りだす前線基地であった。兵士だけでなく軍馬・軍用犬・軍事通信用の鳩なども多数送り出した。これの生き物は帰ることは無かった。植えた兵隊の食料となったもの見た。
 日本の原爆被害者としての立場だけではなく、日本の加害者としての立場も、明治以降の広島という町の発展と絡めてしっかりと話しておりました。淡々と語る被害状況に丸木夫妻の原爆の図を思い出し涙が流れました。

 彼女は現在は戦前の世相を感じさせる。平和とは意識して守らなければ崩れてゆく、若い人には若い人なり平和を守る方法があるだろうだろうと語りかけていました。

広島散歩

 広島のエスペランティストたちが慰霊塔など原爆とかかわりのある所を訪ねて、エスペラントで説明してくれました。
 今年は本当に暑かったです。大変だったでしょう。現地行きたかったですけれど、これほど歩ける体力が残っているかどうか!
 広島のみなさん、ありがとうございました。

 途中で、ネパールや、ポーランド・アウシュヴィッツのエスペランティストたちなど外国からのチャットもありました。ネットだからできる技なのですね。
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日本エスペラント大会(1)

2021-09-19 07:16:52 | エスペラント
 【広島の話は重い】

 
 切明千枝子さんの話

 広島第二女学校の生徒だった時に被爆した切明さんが’19年、90歳の時に高校生に話した録画にエスペラントの字幕がつけられたののでした。
 彼女の話はとつとつと事実を語っているだけでしたが、それだけに戦争とは何かを考えさせられました。

  広島が軍都であったこと(兵器廠などの軍需工場があった)、中国など大陸にに兵隊を送りだす前線基地であった。兵士だけでなく軍馬・軍用犬・軍事通信用の鳩なども多数送り出した。これの生き物は帰ることは無かった。飢えた兵隊の食料となったものもいた。
 日本の原爆被害者としての立場だけではなく、日本の加害者としての立場も、明治以降の広島という町の発展と絡めてしっかりと話しておりました。淡々と語る被害状況に丸木夫妻の原爆の図を思い出し涙が流れました。

 彼女は現在は戦前の世相を感じさせる。平和とは意識して守らなければ崩れてゆく、若い人には若い人なり平和を守る方法があるだろうだろうと語りかけていました。

広島散歩

 広島のエスペランティストたちが慰霊塔など原爆とかかわりのある所を訪ねて、エスペラントで説明してくれました。
 今年は本当に暑かったです。大変だったでしょう。現地行きたかったですけれど、これほど歩ける体力が残っているかどうか!
 広島のみなさん、ありがとうございました。

 途中で、ネパールや、ポーランド・アウシュヴィッツのエスペランティストたちなど外国からのチャットもありました。ネットだからできる技なのですね。
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今日から日本エスぺラント大会

2021-09-18 07:44:29 | エスペラント
広島で開催される日本エスペラント大会はすべてインターネットいなった。ちょっと気合が入らないけれど、やはり期待はあります。昨年、ディスコードだったか、新しいものを試そうと思ったけれど、そちらからは大会の様子が覗けなかった。結局ズームで参加。また新しい方法とズームのの2方式が行われるらしいが、新しいのを試すは今年はやめにしました。まあ、覗けるところだけ覗くことにします。

 話は変わります。
 ベルリンの孫たちの日本語補習校の文集が読めました。コロナで授業もズームを使ったり、ネットで宿題を提出したりしたのでしょうか。昨年の物なのでHは小学校5年生。感受性はあるけれど論理的展開は苦手のようで、作文もあったけれど、手書きの詩が載っていました。思ったことや感じたことをいっぱい書いてまた読ませてと感想を送りました。
 中二のMはギリシャ旅行と、自分の主張「キャッスレスについて」のかなり長い文を2編書いていました。幼児のころから理屈で自己主張する子でしたが文の展開もなかなか上手でした。他の子の作文も数編読んでみましたが、中学生がこれだけしっかりと持論を展開できるものかと感じました。日本語の学習は週1回だけなのにこれほど文が書けるとは!
 どの子の作品にもその後に父か母かの言葉が添えられていました。
 Mには展開が良くて理解しやすかった、文章というものは書けば書くほど上達するもの、私も翻訳したものを練り直し、書き直ししていることを書きました。

 ネットに感謝です。 
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エスペラントを音で聴く

2021-09-10 12:58:23 | エスペラント
 暑い日が続いた。コロナにも暑さにも負けたくなくて良く調理し良く食べる日が続きました。夏風邪かなと思った日もあったけれど体力の消耗はなかった。ただエス終え欄との翻訳は進まなかった。擬音・擬態語の表現をどうするか悩んだり、簡単な言葉に挫折感を味あったり。例えば、日本語の’悪いね’という言葉、いろんな意味に訳せる。’ごめんなさい・すまない’、’ありがとう’、’逆らい’それをどう使い分けて訳す?あっという間に2カ月近く過ぎてしまった。
 一昨日の朝、気分を転換しようとユーチューブでぼんやりとエスペラントの朗読を聞いていたら、突然、雪の上を歩く擬音が聞こえてきました。長靴で雪を踏む音、つるつると雪の中で滑りそうになる音、突然覚醒して、翻訳にもどり、朝から晩までかかってやりかけの1章を終えた。
 昨日はブログを書こうと思ったけれど、まだやる気があったので次の章に取り掛かった。翻訳を始めたのが’17年の8月、もう4年過ぎました。見直す時間も加えるとあと1年で終わるだろうか。先は考えないようにしようと思う。

[Rakonto]"Feodor Nikolaeviĉ Felŝov" de Julio BAGHY

https://www.youtube.com/watch?v=DYV4AunSvc0&list=PLCNHWu2q9GmuAzNZW3PU7-YsKLx5HnBP8&index=56&t=37s
ユリオ・バギーの作品でした。
物語の初めの方に雪を踏む音がでてきます。


 この作品読んだことはありませんでした。入門書とし読んだバギーの作品 ’Verda koro'は言葉のリズムが好きで幾度も繰り返し読みました。’テオドル・ニコラエヴィッチ・フェルショフ’を聞いているうちに小学校の教科書に載っていた宮沢賢治の’どんぐりとやまねこ’を思い出しました。特に面白い内容ではないと思っていたのですが!それから’セロ弾きのゴーシュ’。子どもたちに繰り返し読ませる魅力はことばをリズミカルに表現しているからでしょうか。

 日本語とエスペラントは全く違う言葉なのに同じようにリズムを持たせて表現できる!多分それぞれの言葉にそれぞれのリズムがあるのでしょう!自分なりにそんな表現が見つけ出せたら素晴らしいでしょうね。

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擬音・擬態語をどう表現する(2)

2021-08-17 23:14:27 | エスペラント
”日本は4500 もあるそうですが、驚いたのは 韓国は5700 もあるそうです!”というコメントを頂き考えてしまいした。日本と韓国だけで10,000を超えるonomatopeoがあるとしたら!世界には少数民族の言葉も数えたらどれほどの数の言葉があるのでしょうか。それぞれの民族語でエスペラントの擬音・擬態語を表現していたらえらいことになるぞと思ったのでした。

 日本語の表現(語感)を私たちは大切にしたいのですが他の民族に属する人も同じく、自分の言葉を大切にしたいでしょうね。

日本語をエスペラント的に使いたいという誘惑は大きいけれど、それはしない方が良いのかもしれません。エスペラントの単語で表現する方法を捜すことにします。
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擬音・擬態語をどう表現する!

2021-08-16 09:34:48 | エスペラント
 雨が続いている。気分もさえない。雨のせいだけではない。400ページの本の4分の3まで終えたけれど納得できないのです。日本語の擬音をどう文章に生かすか!日本のお話は擬音・擬態語によって生き生きと語られる。
 エスペラントの擬音・擬態語は英語と同様に動詞から連想させている。何とか動詞を活用して擬音・擬態語の表現をしようと思って努力してきたのだけれどなんとなく満足できない。日本語の擬音を真似た音をエスペラント風に使ったらどうだろうから試みたら、文章のリズムが良くなったような気がする。
 他の方はどう表現しているのだろうかと気になりだした。

 童話のエスペラント訳は沢山ないと思うし・・・・。手元に宮沢賢治の翻訳が2冊ありました。日本語本があるといいのだけれど、数十年前に子どもたちに読ませたくて学童保育に寄付してしまったので手元にはない。かといって図書館に出かけるのも面倒で翻訳本からこの物語に擬音・擬態語が使われていると思われるものを選んで拾い読みをしました。2冊の本で同じ物語の中の表現を比べられたら面白いと思ったけれど、共通している翻訳は’銀河鉄道の夜’ だけでした。
 
 Nokto de la Galaksia Fervojo: trad. KONISI Gaku( 103 pagxoj) eldonita en la jaro 1994

KenzyuParko-arbaro: trad. Syozi Matuda( 501 pagxoj) eldonita en la jaro 1964


 それぞれに日本語の擬音をエスペラント風に工夫して使っていました。すべて終えたら、擬音を書き換えてみようかと考え初めました。


韓国語も見つけました。韓国語はわかりませんが日本語の仮名があったのでその音から察するに動詞からの変化からではなく日本語に似たもののようです。興味ある方は探してみてください。


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休憩中

2021-07-02 10:37:45 | エスペラント
昨日、今日と雨が降り続いている。雨の日は心も落ち着く。

 休憩中にユーチューブを見ていたら、楽しい動画(エスペラントと英語)見つけました。

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千里の道も

2021-06-23 17:10:43 | エスペラント
 今日、エスペラント訳したいぬいとみこ著”くらやみの谷の小人たち’をまた1章仕上げた。次の章が終わるとちょうど全体の4分の3終わることになる。とりかかったてちょうど4年になる。生きているうちに訳し終えるという保証もない。翻訳に取り掛かって一番身近に感じていた姉と弟が急逝した。ブログには書かなかったけれど、その後家族の病気、長姉の死、長兄の病といろいろなことがあった。前に訳したいぬいとみこ著´木かげ家の小人たち’は幾度も書き直し、手助けしてくれる人があらわれるまで30年近くもかかったしまった。それを思うと4年なんて本当に短い。この本が出版された時、私もこの著者の本が好きで翻訳したいと思っていたという方に出会った。私の命がいつまで続くかわからないけれど、途中で私が急逝しても続けてくれる人がいるかもしれないという可能性を信じて翻訳し続けている。

 著者から翻訳権を頂いたあとで、なんと無茶なお願いしたものと思ったけれど今はただコツコツと翻訳に励む、というより翻訳することを楽しんでいる。

 前述の本の出版日は’17年7月7日。私の年齢77歳。ラッキーセブンが5つも続く。

 次の目標は’23年3月3日。あるいは3月12日私の83歳の誕生日を目指そうと思っている。

 もし、気力体力が持続するなら、神沢利子著’銀のほのお国’を訳させてもらえないか著者にお願いしてみたいですね。本当に欲張りな私です。

 子どもの頃から児童文学と言われるものを沢山読みました。日本人の作品がどれだけ海外の人に読まれているのでしょう。ぜひ外国の人にも日本の作品を知ってほしいと思うのです。子ども向けのお話の中に日本人の心が詰まっているように私は感じるのです。
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エスペラントの日

2021-06-21 06:42:28 | エスペラント
 1906年(明治39年)6月12日は日本にエスペラントの団体としてエスエラント協会が設立された日です。日本エスペラント協会はこの日をエスペラントの日と定めています。そして1年おきですが6月に早稲田にあるエスペラント会館で講演会を開いています。今年はコロナで集まることができないのでユーチューブを使って行われました。
 
 講演者:東北大名誉教授・仙台エスペラント会会長 後藤斎氏

 エスペラントの歴史を通して共同体としての弱点と強味について。未来の展望も聞きたかったけれどそこにはあまり踏み込みませんでした。

 以下は私の感想です。

 エスペラントは人工語と言われるが、エスペラント発表以前に現れた言語はその言語を作った個人のもの(所有物)であった。しかしエスペラントは創始者ザメンホフが言葉の基礎を作ると所有権を放棄し、大衆に委ねた。つまり、エスペラントはザメンホフがひとりで作ったものではなく、彼の考えに賛同する人たちがそれぞれの思いや立場で言葉作りに参加し作り上げたものである。賛同者がそれぞれの思いや立場でエスペラントの発展に尽くしたことでエスペラント界に生まれたのはボランティア精神・自立性・多様性。そして、現在もその営みが継続しているからこそエスペラントは生き続けている。
 弱点は新しい参加者が少ないことや、地域的に見れば散在していること。

 エスペラントを発展させるために一般エスペランティストのできることは何でしょうね。この前関東エスペラント大会で佐々木照央氏も言っていましたが、今自分のできることをして自分のエスペラント力を高めるということでしょうか!

 私はエスペラントに出会えて幸せといつも思っている。外見はどう変化しているかわからないけれど、自分的にはまだまだ若い、まだまだ元気と感じている。肉体的限界が来るまで心は若々しく過ごせるように感じる。まさにエスペラントさまさま!
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関東エスペラント大会はzoomで

2021-06-14 11:14:49 | エスペラント
 昨日(6月13日)は関東エスペラント大会に参加した。午前中の講演、佐々木照央さんの話や、一人で反核署名を11万人以上集めた広島の忍岡妙子さんの話などとても興味深かったです。

 佐々木さんの話は日本のエスペラントの発展に尽くした人たちの話でした。その中に虐殺された大杉栄の話もあった。彼は1905年に東京本郷にエスペラント学校作った.。そこで、後に日本エスペラント会を支える重要な人材・千布利雄などを育成した。
 また中国人留学生にもエスペラントを教えた。その中の一人は後に中国国民党の要人なった。エスペラントで培われた人脈は強い。大杉栄を虐殺することで日本は中国との強いパイプを失ったなどなど。

 ’’1908年(明治41年)1月17日、いわゆる屋上演説事件[17]で治安警察法違反となり逮捕された。同年4月、中国人留学生の劉師培の家で留学生にエスペラントを教えた。―ウキペデアより”

 エスペラントを始めたころ、つまり61年も前のできごとを思い出しました。大杉栄にエスペラントを教わったという人に出会ったことがあります。確か名前は長谷川さん。彼は9歳の時、つまり小学校も卒業していない年齢で、大杉栄が編集者(?)だった平民新聞の植字工として働いていたそうです。植字工は新聞社に寝泊まりしていた。冬は暖房のない部屋は寒く、薄い布団の中で震えていたそうです。大杉栄はいつも優しく、一緒に寝てくれて体を温めてくれた。温めながら布団の中でエスペラントを教えてくれたと!数十年ぶりで、小柄な物静かな老人のことを思い出しました。多分当時は60~70歳。老人に見えたけれど、今の私よりもずっと若かったのですね!

 午後の分科会の後で、息子が自然農法で育てたジャガイモを沢山いただいたので、車で向かいに行きました。その後雨が降ったらしいです。ジャガイモは水に弱いとか。雨に合わずに助かりました。
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手紙:leteroj

2021-05-25 14:33:48 | エスペラント
 子どもの頃からの悪い癖はいつまでたっても治らない。一つのことを始めると余裕がなくなって気が回らなくなるです。 
 このひと月の内にチェコの友人からもドイツの友人からも2通メールを受け取ったの返事が書けなかったのです。数日前新たに一章ほんやくを終え小休止をしているのですが、メールを書く気になれず…。返信しない内は次の章には映らないと心に決めてようやく、さっき二人に返信しました。チェコの友人はネットで開催される世界エスペラント大会に申し込んだとありました。時差を考えると日本から参加するのは体力的に無理でしょう!

 フランスのグレジヨンから、夏の予定表が来ました。コロナ禍でもそれぞれに頑張っているのですね!


Saluton,
Nous petas vin aliĝi al niaj someroj staĝoj en Greziljono (Francujo), ni petas vin dissendi tiun mesaĝon al viaj amikoj

2021-jul-23/aŭg-02 5-a Maratona Esperanto-kurso kun Koutny Ilona, Renée Triolle, Marc Giraud, FEI-ekzameno
2021-jul-25/31 33-a-Konferenco"> Internacia E-Konferenco post OSIEK pri variaj temoj
2021-jul-26/29 75-a AMO pri "Kulturo pere de Esperanto"

2021-aŭg-02/12 11-a Festa Semajno por infanoj kaj familioj kun Nicky, Jean-Luc, Larisa...

2021-aŭg-13/20 FESTetOvenas, mojosa junulara renkontiĝo kun elstara E-muzik-programo

2021-jul-05/09 2-a Verda Naturisma Semajno kun INOE


Ĉiuj eventoj de Greziljono en nia agendo https://gresillon.org/agendo
Inscription dans https://gresillon.org/inscription

Kun nia amikeco

 苦労してすべてをネットで繋げたら、agendoだけ繋げればよかった。骨折り損のくたびれ儲け。
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羽織の紐

2021-05-10 06:41:54 | エスペラント
 先月だったでしょうか、長いこと疎遠にしていたドイツの友人からメールが届いたので、以前泊めてもらったこともあるのし、友人としての証として自分が翻訳した本を送りました。

 素晴らしい本だと喜んでくれました。自分で読み返したとき、数か所誤字を見つけたし、ここは別の表現にししたかったと感じたところもあったけれど、彼女の素晴らしいという表現は決してお世辞ではないと思っています。と言いうのも編集が素晴らしいのです。

 物語は第2次世界大戦をはさんでいます。戦時中・戦後の生活は外国人どころか日本人さえ理解できなくなっています。
  スウェーデンで出版された’ニルスの不思議な旅’のように章ごとに説明を付けた本もあります。しかし、文章での説明はわかったようでわからないことも多いです。。編集者はこの説明に絵を付けることを提案し実行してくれました。本文で、これは?と思って後ろを見ると挿絵があります。まさに、’百聞は一見にしかず’です。

 絵は共通の友人が描いてくれました。彼女は戦争を知らないですが、民族資料館などに行き丹念に描いてくれました。
 というわけで、もし、原作が再出版されることになったら、この絵の説明を付けてもらえたら嬉しいと私が思うほど理解しやすい本になっています。

 さて、羽織の紐ですが。

 丁寧に作られた帯どめとか羽織の紐は古くなっても捨てきれません。私は羽織の紐を本のしおりとして使っています。
 本を包み、封筒を閉じようとした時、48年前に亡くなった義父の羽織の紐があることを思い出しました。彼女が綺麗な細い糸を幾色も使って靴下を編んでいことを思い出しました。手作業で作られたものが好きだろうと思ったので後で説明すればよいかなと考え、封筒の中に紺色の羽織の紐を突っ込んで送りました。

 説明を書かないうちに彼女からメールが来ました。とても綺麗なのでバックの飾りにしたと。
 
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