「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

十王堂

2008-12-02 22:52:40 | 民俗
 ●十王信仰●

 岩手県民間信仰辞典によると、冥府で亡者の罪状の軽重を決める判官である十王に対する信仰。初七日から三周忌まで十人の各々の庁舎で裁判を受け、次の世の生処が定められることから、生前にあらかじめ十王に対して供養を行っておけば、死後の裁きにおいて業報を軽くすることができる。とある。

 

 遠野では、常堅寺や善明寺、青笹のデンデラ野に十王が祀られているとのこと。(青笹の十王堂はまだ確認していない)

 

 最近、区画整理事業で、風景が一変してしまった地域。

 

 遠野物語に紹介されたことで、早くから町中の観光ルートとなっていたが、それほど多くの方々が訪れていたとは思えないところが、個人的には好きだったのだが。

 

 この十王堂のあるところが、字名で「会下」。そのそばに「会下前」という地名もある。また、「伊勢堂」・「作善寺」と、宗教に関係しそうな地名だらけの場所となっている。

 

 この中の「会下(えげ)」について、ウィキペディアで調べると会堂や師匠の常駐する集団修行場を意味する仏教用語とある。
 また、遠野旧事記の「九重山 積善寺(しゃくぜんじ)」の項に、宗旨は不明。古老の話では昔キリシタン弾圧の頃、寺院の由緒を調べ、本寺の不明な寺は廃寺にしたので、ここもその時に廃止になったのではないかとある。東丁のはずれに会下というところがあるが、寺が栄えていた頃に会下の僧侶らが宿泊した寮かもしれない。ここの十王の木像は近年金浜勘次郎という素人が刻んで納めたものだとある。

 

 宝暦10年代(1760年代)あたりに納められたというこれらの仏像。仏像の趣旨から考えると、阿曽沼以前にはあったとされる作善寺=積善寺を廃寺にしたことで、何らかの罪の意識からか、または、怨念によるものか、いずれにしても、他のところでは、常堅寺や善明寺に納めてしまいたいような思いがあったのかもしれない。

 

 かつてお寺があったというこの地域が江戸時代に変わってしまったように、来春には、また、新しい風景になるのだろう。

 

 話は変わるが、先週、駅前の某所から外を見ていると、駅の北側(駅と交番の間)に白いワンボックスカーが停まっていた。見たことがある車だと思って、ポケットからカメラを取り出したのだが、停まっていたのはこのためだと後でわかった。

 それは、取材。だったようだ・笑


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4 コメント

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Unknown (えんで)
2008-12-02 23:40:17
をををーーーーーー。
これは凄い(何が!って、突っ込待いない事)
遭遇する確率・・・・何パーセントだろうね。
で、なんんでそんな高い所に??????(笑)わざとらしい(汗)
いろいろな意味で”チェンジ!”オバマ氏の人選にサプライズ!
党派を超えて国を守るらしい・・・・
この国は????その椅子に長く座りたい変なのが居る・・・・駄目だね!!!

・・・・と、少し本音・・・・どうにかなってしまいそうな国民と温度差の激しいボスではね!
とニュースねたにシフト・・・・その建物の名前も
変わったけど…問題は社員・の為の組織でない事を忘れた感が強い!さてどうなりますか?
遠野一の借金コンクリートと揶揄されていることを忘れずにだ!
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発見 (笛吹童子)
2008-12-03 08:02:38
  えんでさんへ
 似た車だなあ~と思っていたところ、貴ブログを見て、納得したところです。そんなことなら、もう少しズームインしておけば良かったと・・・・。
 某ビルは、市に譲られることが決まったようですが、どのような使い方をするのか見守りたいと思います。どこまで低迷していくのか、底なしの様子の世の中、あまりにも格差が広がりすぎましたね。国が決めることも、めんこちゃんゼリーに代表されるように、どこか、おかしいと感じることが多すぎる・・・・。
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乾いてしまった (yamaneko)
2008-12-03 23:23:04
だれもが行きたいと憧れつつも行き着けない遠野物語の地。。。。

これが売りだったのですが・・・
道路端の乾いた場所になっちまいましたね。

さらに周囲は住宅地になるのすか?

そうすると、鄙びた原風景を見られたことに感謝しなくてはなりませんね。
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変化 (笛吹童子)
2008-12-03 23:50:05
  yamanekoさんへ
 安倍一族から藤原氏が統治していた時代を経て阿曽沼氏の時代に変化を遂げ、阿曽沼氏から南部氏の時代にさらに変わり、明治時代後期には最近までの風景となったものの、変化していくことは歴史上の流れであり、どうしようもありません。
 十王堂に納められている仏像も、享保年間以前のものは江戸時代にはなくなっており、十王堂の当初の様子を知るすべもありませんが、新しい仏像を安置することで、この先も、このお堂は残されていくのでしょう。
 風景やお堂の建物が変わっても、変わらないのはそこにあり続けるということであり、それが遠野物語を永遠のものにする現時点での最善の策なのではと、無理に納得する童子であります。
 「むがし、むがし、あったんだど。でも、今は無ぐなったんだど」となるよりは、良しとしなければ、ネ!
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