遠野なんだり・かんだりと云いつつ看板に偽りありで
いつも、あればり、こればりで申し訳ありません。
今回も、あれです!
下組町の西はずれに愛宕神社例祭の幟
愛宕神社~祭神伊邪那美命 天応元年(781)和気清麻呂が平安京鎮護の神として
愛当護大権現を勧請したのが基となり、後、愛宕大権現として諸国に広まる
日除けの神の他、塞の神・境の神として病疫除けとして、村の入口などに設ける
遠野物語拾遺64話には、この愛宕さんの話がとりあげられてる
24日の例祭の前日・・・・宵宮
下組町の真ん中にある建設会社の敷地に里宮として社が置かれ、
自治会の方々による出店やステージ発表で盛り上がる
残念ながら、郷土芸能の奉納は無いようで、雰囲気だけ味わい退散
例祭の日
宝暦12年(1762)に宇夫方広隆によって記された遠野旧事記には、次のようにある。
横田村(現在の遠野盆地中心部?)の愛宕は
遠野殿(八戸から南部氏が移封する前の統治者阿曽沼氏)時代の勧請
延宝2年(1674)大破していたお堂を修復
坂の石段は、正徳6年(1716)新町の両川覚兵衛の寄進
愛宕神社は、どういう訳か、いずれも急勾配となる山の上にある
息せき切って階段を上ると、次は坂道
この日は、草取りしている方々がいて、不安な思いをせずに登る
平らな境内では例祭の準備
遠野物語拾遺では、日除けとして六日町神明神社の大徳院という山伏が登場するが、
宝暦の頃、大徳院は熊野権現(どこにあったのか不明)と加茂神社(アクティ本店道路向かい)の別当で遠野の修験者の親分格の人物。
当時、その縁者は六日町神明神社とこの愛宕神社の別当として和光坊と名乗っており、遠野物語拾遺に集録される頃には、本家大徳院は遠野を離れており、和光坊系の方が後に大徳院を襲名したものと思う
後の大徳院が別当をしていた頃の元愛宕神社が隣接して祀られている境内
では、この立派な建物は?
明治の神仏分離令・山伏禁止令などにより、神と仏を一緒に祀ってはならぬということで
廃却か分離を迫られた時代
(この時代には神職による神楽禁止令もあったという)
ということで、この拝殿は、綾織町の胡四王権現社殿であったものだと聞く
(その胡四王は現在、同町の駒形神社に一緒に祀られている)
廃藩置県以降の町村制により、横田村から綾織村に編入になったことから、
同じ村のこちらへ移設したのかもしれない
その頃の建物事情を知る方
役員が揃ったところで、予定時間より早いが神事
綾織町出身で宮城の神社にお勤めだとお聞きした宮司さん
神仏分離令により、愛宕神社から新町にある常福寺へ移された延命菩薩像
享保時代、新町通りの常福寺側全てが敷地だったといわれる両川覚兵衛が奉納建立したもの
愛宕神社の境内に行くと、この菩薩様がどこにあったのだろうと思う私だが、
愛宕橋が見える石段中腹にある平らな部分では?と想像たくましくして退散
市内に住んでいるのに、しかもよく下を通っているのにね・・・汗
やっと念願かなって行くことができました。
下組町と新里の方々が一緒に神事に参加されており、とらねこさんの叔父さんは、どの人かと観察しましたが、判別不能でした。笑
今回は関係者から聞きたいことが聴取でき、ラッキーでした。
ただ、下組町の役員の方から「仕事もしねで、まだ、来たのが!」
の一言が、心に刺さりました。笑
確か、月見坂という名前だったと思いますが、とてもじゃないけど、夜は歩けません。
坂も上の境内も今は大きな木がいっぱいで景色は見られません。
あの木々の間から愛宕橋や月が見えた頃は、遠野八景にも詠われた美しい風景が広がっていたのかもしれません。
ところで、坂の木の根っこ、探して歩いているわけではないのですが、私には、どうしても、ビヘーが出そうで・・・一人歩きできません。
おっと、境内には熊出没の痕跡があちこちにみられるようです。