陽だまりの旅路イスキア

あ、slice of life…日向香を感じる日々の暮らし…

震災14年に記すこと

2009年01月17日 | cocoro

震災14年を迎えた今日は
眩いほどの陽光が射す日となった。

あの日は寒い冬の日だった。
最初は、びびっ・びびびっ…
普通の揺れだった。
ガラス窓が振動した。

「あ、地震…?」

経験値から、寝ぼけ頭の遠くで
感じて呼応しただけだった。
しかし揺れはそれで治まらなかった。
まるでコンクリートを破砕する
とてつもなく大きな工事ドリルを
建物底部から突っ込まれたような
激しい突き上げが襲ってきた。

「うわぁ~っ!!!」

思わず声が出ていた。
隣に寝る三歳のわが子を見た。
本棚が倒れ本が部屋に散乱し
眠る子の頭近くにあったテレビは
反対方向の角にころがっていた。
幸い子どもを直撃しなかったようだ。
ただ頬に傷を負い血が滲んでいた。
飛んだテレビがかすめたようだった。
別室のもうひとりの子は
倒れた箪笥群が向かいの
クローゼット側の壁にぶつかり
そのすき間にできた三角空間が
幸いにも寝ていた場所だった。
無傷ですんだようだった。
最後まで地震に気づかぬ
わが子ながら恐ろしい熟睡の主である。
妻はこれも別室の洋室から
叫びながら這い出してきた。
この部屋が一番家具がなかった。
だから彼女も無傷ではあったが
しかし一番動揺していた。
必死で子の名前を叫び安否を確認した。

こうして別々の部屋で寝ていた家族が
無事であるのを確認してから
ぐちゃぐちゃになった家の真っ暗な中
壊れた家具と割れたガラスの破片で
数箇所足裏を切りながら血を出しつつ
かろうじて戸外へ出ることができた。
しばしは呆然と六甲山を眺めていた。
あちこちで燃え上がっていく火を見た。
地震だと理解していたが、それでも
震源地はここら辺りとは思わなかった。
震源地近くは、もっと
悲惨なことになっているのだろうと
このときはまだそう思い込んでいた。

私たちはなんとか
自家用車が無事であるのを確認して
国道2号線を西へ実家に走った。

阪神電車新在家の高架駅が落ちていた。
国道沿いの家々が激しく燃えていた。
車の窓越しに熱風が吹き付けた。
冬だというのにとても熱かった。
目に飛び込んでくる光景は
かつて自分の親が経験した
あの戦争での惨状を彷彿とさせた。
地獄絵とはこういう光景を指すのだろう。
何故かそんなことを考えていた。

有事の時、人間って奴は
不思議と脈絡のないことを
延々と思っているものなんだな。
今にしてそう思うことがある。
そう、ひとごととして認識するのである。
これは人間の脳の危機管理かもしれない。
あえて客観的視点になることで
自己破滅を防御しているのだろうか。

その日以来
すべてのライフラインは消滅した。
夜は真っ暗な闇が覆った。
布引にある義理の叔母の家に
しばらくお世話になることにした。
神戸でもこの辺りから北は
地盤は硬い岩盤だから
叔母の家のような古民家でも
まったく倒壊を免れていたのだ。
川下の家々は堆積層の地盤である。
上流と下流で命が選択された。
私はその時にある意味で
格差社会を感じたのは事実である。
しかし、これは今日的な
暮らしの格差というものではなくて
生命の格差という根源的なものを
私に突きつけたのである。

そういう体験と認知を経て震災以後
確かに私の価値観は変わったと思う。
意識化でそうした訳ではない。
無意識化で変革していったのだと思う。
人生に対して、ある意味な部分で
私はどこか達観的になった。
いや正直に言えば、それは
厭世的になったのかもしれない。
かねてより持っていた諦念の
美意識がより補強されたかもしれない。

一瞬で全てが壊されることがある。
それも局地的にだ。
このことがもたらす不条理は
傷を負った人の心に
さまざまな変化と諦念をもたらす。
何故?という不条理への疑問。
これはいつまでも心の中を回廊する。
人生への敗北感、幸福への嫉妬
そして被災者という憐憫への屈辱…
なにより深いのは贖罪の意識である。
自分だけが助かったという贖罪感は
いつまでも心の中に沈殿、沈着し
決して無意識化で消えることはない。
この極めて人間的な良心の呵責…
これが案外、人の幸福への再生を
阻害するのだから因果である。

時は流れ、星は移り
震災以来十四年が経過した。
私は今広島に居る。
広島と神戸は地形的にとてもよく似ている。
広島には川が六本も流れているから
神戸より堆積層が多いかもしれない。
海と山が近く、山が北で海が南という
コンパス感覚は神戸と同じだ。
だらかわたし的には
とても心安らぐ落ち着く街である。
そして、何よりの共通点は
或る日突然一瞬に
身の回りの人が消えてしまうという
幾世代にも続く消えることのない
深い悲しみを共有していることだ。
そして、その悲しみは永遠に続く。

神戸も広島も
今日的な繁栄があるとすれば
その源泉はまぎれもなく悲しみにある。
悲しみというエネルギーを
生きていくために
プラスへ変化させてきた街
それが広島と神戸なのである。

今、わたしは
改めてその思いを強くしてる。
だから、震災十四年に
わたしが今ここに記すことである。
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