陽だまりの旅路イスキア

あ、slice of life…日向香を感じる日々の暮らし…

八月尽 夏の章に綴ること

2022年08月31日 | tete a tete

俳句の季題では、尽という字を使うことが多い。
二月尽とか言って去る月を惜むのですね。

今日で八月が終わる。八月尽である。
今年の八月は皆さん如何でしたでしょうか?

小生はコロナがぶり返したこともあって
今年も不要不急の外出を控えた夏でしたが
それでも夏の章を綴るトピックスはありました。

一番の思い出はやはり東北を旅したこと。
子どもが伴侶を得て入籍したこと。
次に初盆と十七回忌という大きな忌を無事
修し終えたこと。特に今年の盆の月は(写真)
満月だったので印象深い忌となりました。

三年ぶりに大腸内視鏡検査を受けたこと。
幸いポリープもなく無罪放免でした。
これは今夏、新しく御影にできたクリニックで
新規に受診したのですが、新しい施設と機器で
かつ鎮静剤も静注で打ってもらい、知らない内に
検査が終わっていました。事前のあの液体を
呑むことさえ我慢すれば快適な検査でした。

そんなところでしょうか?それでも
やはりこの暑さに体が適応できなかったのか
夏バテでしょう。胃腸が不調ではありました。
また今の時期はブタクサに悩まされています。
おそらく私の年齢ではそれも平均的なことでしょう。

明日から九月。ちょっと改まりますね。
リスタートという気持ちです。かしこ。
コメント

夏の弔い 向日葵

2022年08月30日 | nonoka

国道沿いのとあるカーディーラーの植込み。
大きな向日葵が夏を謳歌するように咲き誇って
いたのだが、しばらくぶりに見るとあらら!

ご覧の通り。ジラソーレ俯く…かな。
ジラソーレとは伊語でひまわりのこと。
サンフラワーよりもこの名の方が好きです。

咲き様も萎れようも向日葵らしいというか。
もう太陽の方を向かないのだと思うと
何だか寂しいような愛おしいような。
そんな気持ちにさせる向日葵でした。

首垂れし向日葵を見る百日紅我は問いたい生とは何ぞ
(2006年日経新聞歌壇、栗木京子先生入選句)
コメント

新涼の空

2022年08月29日 | slow life

昨日は八月最後の日曜日。
そして唐突に新涼の日和となった。
それは恥ずかしがり屋の秋が、意を決して
はっきりとその姿を現したかのように。

新涼という季題がある。好きな季題だ。
ホトトギス新歳時記によると
「秋はじめて催す涼しさをいう。夏の暑さの
一時的な涼しさと違って、よみがえるような
新鮮な感触である。秋涼し。秋涼。」とある。
涼新た、とも言う。

正に昨日の日曜日が新涼であった。ただここから
秋は一進一退を繰り返す。そしてやっと秋らしく
なったなあと思ったらもう冬がやって来る。
最近とみに秋が短くなっているように感じるのは
私だけではないだろう。

さて、暮れの八月。高校時代の同級生であり
句仲間でもある友のお宅へある用件で訪問。
閑静な山の手にある素敵な一邸である。
庭の芝生も枝ぶりの良い小振りの松も丁寧に
手入れされており、庭の一景を通して眼下に
神戸の街並みを望む。

その庭から眺める空に心を遊ばせた。
それは初秋の美しい空であった。

ただその家にひとりで住んでいると言う。
昭和の時代。家族が揃った団欒があった。
時が流れ子どもは巣立ち、老いた親は黄泉へと
旅立つ。そうなると誰も住まない実家が残る。
そして空家対策という問題が生じる。今の世の
喫緊の課題となっているのは周知の通りだ。
都会ならまだしも、遠く離れた田舎に空家を
抱えているケースはこれが結構厄介である。
私の周りにもそんな人が多い。ある人は定期的に
草の手入れや風を通しに実家に行く。
片道一時間以上かけて。実家に帰ったついでに
その実家のご近所から貰った野菜をお裾分けで
いただくことがある。

年を取ると、こういう片付けなければならない
問題が増える。誰もが通る道である。しかし
そんなこと露ほども何も考えず、生きていた
あの青春時代が、思えば本当に良い時代だったんだ
とつくづく思う。気づいたときにはもうとっくに
遠い過去になっている。それでも遠花火のように
心の中で音が爆ぜると何だか懐かしい。あの頃は
全然無知であったが、無知ゆえに幸せである
ということもあるのだなと思う。

遠花火こころの中で爆ぜし音
コメント

夏の弔い 落蟬

2022年08月28日 | nonoka

まだまだ残暑厳しい毎日だが
夏の弔いはあちこちで始まっている。

落蟬とは蝉の骸(むくろ)である。
道路のコンクリートの上に、大きな樹の下で
またベランダの植木鉢の隅で仰向けになって
息絶えている蟬たち。どうしてだかいつも
仰向けなのである。水の中に見つけた落蟬。
まるでミレーのオフィーリアのようだ。

あんなに暑かった夏もいざ去ろうとすると
どこか一抹の寂しさを感じるものである。
コメント

のうぜんの空

2022年08月27日 | nonoka

凌霄花(のうぜんか)も夏を謳歌する花だ。
菩提寺の庭に深い緋色をたたえていた。

あちこちで太陽のように咲き誇る凌霄花。
散りては咲き、咲いては散ってゆく。
夏の花は百日紅(さるすべり)といい
夾竹桃といい、そんな花が多い。でも
そろそろその繰り返しも終焉を迎えるときが
近づいているようだ。夏は逝く。

のうぜんの花の盛りに忌を修す
コメント

八月の読書 女のいない男たち

2022年08月26日 | slow culture

映画「ドライブ・マイ・カー」を観たこともあって
そしてまだこの短編集を読んでいなかったこともあり
久しぶりに村上春樹さんを読む。春樹さんと親しく
さん付けで呼ぶのは私と同じ学校の同窓だから。
春樹さんにとってはどうでもいいことだろうけれど
私には親しみとちょっとした優越なのである。
(こういうのを下心と世間では言うのだ。)

第一篇は勿論「ドライブ・マイ・カー」。
先ずこの小説ありきの短編集なのだとか。

私は小説にしろ、映画にしろ感銘を受けたものは
必ず両方観たり読んだりしている。それが後先に
なることもあるが。この物語に限って言えば
小説より映画の方が奥行があった。それは小説が
短編だから或る意味仕方がないと思う。かたや
映画はほぼ三時間である。大概の場合はやはり
映画より小説の方が奥行が深いものだ。
情報量が圧倒的に違うからもあるし、それに映画は
小説を忠実になぞって展開するものではない。
あくまで脚本が勝負だ。

それ故、小説に比べてどうのこうのと言わせないほど
この映画は本当に秀逸なのだと、今更ながら強く
思ったのである。あんなに三時間が長いなあと
思わせない映画を私は今まで全然知らない。
小説を読んだので、改めてまたあの映画を観たい。
その時はまた違った発見がきっとあるだろう。

第二篇の「イエスタデイ」。
ノルウェイの森らしいシチュエーションというか
タッチがなんか懐かしくて好きだな。
こういう女学生が実は私は好きなのだと改めで思う。

■女のいない男たち 村上春樹 文春文庫
単行本 初版 2014年4月
コメント

宮城・仙台七夕まつり

2022年08月25日 | slow journey

東北三大夏祭りの掉尾は宮城は仙台七夕まつりへ。

この祭は伊達政宗公の時代から400年の歴史を有する
という。秋田の竿燈まつりや青森のねぶた祭とは
少し趣きが違うが、七夕祭というのは夢があっていい。

毎年飾りつけのコンクールが開催されているようで
金賞などの賞を取る飾り付けはやはり美しい労作だった。
大きな飾り付けのある一番町や中央通などの商店街を
ずっと上を見上げながらゆっくり散策する。
少し首が疲れたかな?

仙台の夢みるやうな星祭

追伸
仙台を訪れたその後、夏の甲子園で
仙台育英学園高校が全国優勝した。
おめでとう!心よりお祝い申し上げます。



コメント

幸せ昼ごはん 前沢牛御膳

2022年08月24日 | slow gourmet

前沢牛のしゃぶしゃぶ御膳ランチを頂く。

前沢牛とは岩手県奥州市前沢で肥育された
黒毛和種の和牛のブランド認定された牛肉のこと。
岩手県ではもともと牛の飼育が盛んであったが
これは昔は農耕のためであったとか。種牛は
やはり但馬牛である。そういう所は
神戸っ子としてはやや誇らしい気分である。

私は中高生の頃、夏休みや年末によく
知り合いの精肉屋さんでアルバイトをしていた。
当時は竹の皮にお肉を包んでいた。
コロッケも作ったし焼き豚も仕込んだ経験がある。
ぱっとお肉を取ってハカリにかけると、ほとんど
重さを間違えないほど熟練していたのだ。

そんなこともあって当時からお肉は良く食べた。
テールシチューやタン、ステーキからすじ肉まで
あまりお肉を食べつけない時代にあって、よく
食べていた方だと思う。それも神戸牛だった。
中学生になって身長がぐっと伸びたのも牛肉の
お蔭かもしれない。そんなこともあってか
大きくなってからよその土地に行ってご馳走の
お肉を食べても、そんなにこんな美味しい物が
あったのかといった感動はあまり覚えがない。
強いて言えば松坂牛ぐらいかな。(嫌なやつ)

今は全国で神戸牛並の美味しい牛肉が食べられる。
この前沢牛も然り。
しゃぶしゃぶに牛の握りにたたきと。〆は釜めし。
ごちそうさまでした。

■平泉温泉元湯平泉ホテル ホテル武蔵坊
岩手県西磐井郡平泉町平泉字大沢15
コメント

平泉にて。義経を偲ぶ

2022年08月23日 | slow journey

平泉と云えばやはり源義経のことが想起される。
義経は頼朝に追われた末、藤原泰衡に攻められ
ここ平泉で自刃した。三十一歳であった。

世界遺産金鶏山入口近くに義経の妻子の墓がある。
という看板にしばし目が停まってしまった。
そして私は義経のことをしばし思ったのである。

歴史家であり作家の加来耕三さんによれば
源頼朝は完全に人間不信の人であったが、義経は
人を信じては裏切られ続けた人物だったという。
しかし裏切られた原因の多くは、義経の思い違い
勘違いだったのだが、本人は裏切られたと強く
恨んでいたらしいのだとか。

絶世の美女であった母、常盤が再婚すると
義経は新しい父親とうまくいかず七歳のとき
鞍馬寺に預けられた。そして十五になった彼は
僧となるよう出家を促されたがこれを拒否して
鞍馬寺を出奔。そして何と一人で元服するのだ。

加来さんは『鎌倉殿の13人』の義経が一番
史実に近い義経像だと言う。彼の取った戦法は
鈴鹿で山賊をやっていた時に学んだやり口だった
のではないかとも。

義経は追捕の網をかいくぐり、各地を転々とする
長い逃避行の末、最後に頼ったのがこの奥州の
藤原秀衡であった。しかし秀衡は頼った同年に病没。
三人の息子に「義経を主君として仕え、兄弟ともに
結束して、頼朝の攻撃に備えよ」と遺言したのだが
秀衡の跡を継いだ泰衡(やすひら)は、頼朝からの
圧力に屈してこの遺言を破り、翌々年の閏(うるう)
四月に義経を襲った。そして義経は正妻の郷御前と
四歳の娘を殺害した後、自刃したのである。

その妻子の墓がこの近くにあるという。
哀れだなあ。

義経の自刃(じじん)の地とや身にぞ入む
コメント

俳枕の地・中尊寺へ

2022年08月22日 | slow journey

五月雨の降り残してや光堂

と芭蕉が詠んだ、平泉・中尊寺へ。
ここもいつかは訪ねてみたい地であった。

中尊寺は天台宗東北大本山、850年開山。
12世紀初め奥州藤原氏初代清衡公が
合戦で亡くなった命を平等に供養し
仏国土を建設するために大伽藍を造営した。
(中尊寺パンフレットより)

中尊寺と云えば、“おくのほそ道”、松尾芭蕉。
そして冒頭の句が超有名な金色堂を詠んだ名句。
正に五月雨(梅雨滂沱)の中でも、まるでそこだけ
別世界のように光り輝いていたのだろうと思う。
そう思わせるだけの荘厳さがあったのだ。

ガイドのおばちゃんが、奥の細道は
芭蕉の隠密行動であったと解説した。
これは確かあの嵐山光三郎が著した
“芭蕉という修羅”でも書いていたが
これはひとつの説ではないのか?
さも史実のように言ったので、少し
驚いてしまった。芭蕉をあまり知らない
一般の人はそう信じるのだろうなあ。
まあ、そういうストーリーの方が面白いが。
長谷川櫂先生は
“おくのほそ道は単なる旅の記録、紀行文ではない。
芭蕉の心の遍歴を旅に託して書いたものである”
と言っている。

樹齢のかなり経った樹木に囲まれた境内は
やはり希代のパワースポットであった。
芭蕉のようにすらすらと句は詠めなかったが
少しはインスパイアされたようである。
しばらく熟成してからアウトプットできるかな。

次はなんとか機会を見つけて
山形は立石寺に行ってみたいと思のである。

光堂の栄華を偲ぶ寺の秋

 

■世界遺産 中尊寺
岩手県平泉町衣関202
コメント