陽だまりの旅路イスキア

あ、slice of life…日向香を感じる日々の暮らし…

晦 二百十日

2020年08月31日 | slow life

八月最後の日というのは何となく感慨深い。
今年はコロナの影響で夏休みが変則に
なってしまったが例年なら夏休みが終わる。

月の最後の日を晦(つごもり)と言う。
そして今年のこの日は二百十日にあたる。
つまり立春から二百十日目で、この日は
気候の変わり目にあたり台風の襲来が多いと
言われている。正に今、台風が近づいている。

二百十日は厄日ともいう。これは台風などで
農作物に被害が出ることが多いので
農家ではそのようには呼ばれているのだ。

何げなく続きのように過ごす毎日であるが
こうして古来から言われてきた暦を知ると
単なる通過の一日でしか過ぎないその日が
また違って見えてくる。季節の移ろいに気づくと
今、ここに、確かに私は生きているという
そんな実感が増すように思う。ちょっぴり
心が今までより豊かになるような気も。
俳句をやっているとそういうことに気づく。

ゆつくりと二百十日の雲うごく
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晩夏の海

2020年08月30日 | slow life

明石・魚住に行く。
とある会社を訪問し終えてより
はつ秋の海を見たくて浜へ出てみる。

秋の雲と夏の雲が描く行合の空が美しい。
ほとんど人の気配のない浜であるが
二三人が望遠レンズで波間を覗いている。
何を撮っているのだろうか?と
最初は解らなかったのだが、ふと目を凝らして
沖を見ると、人がひとりクロールで泳いでいた。
あ、これを撮っているのだなと理解した。
きっと遠泳で海を横断しているそんな方の
ような感じであった。波に浮んでは消えながら
テトラポット沿いを東へと進んで行った。
千鳥だろうか?二羽が波打ち際を行ったり
来たりしていた。

帰りはこの海に流れ込んでいる瀬戸川を覗く。
すると大きな亀が浮遊するように泳いでいた。
そして見事な大きな鯉も。
橋の欄干から覗いていると亀も鯉も真下に来た。
きっと餌付けされているのだろう。

鹿の瀬を望む明石の海。夏の果の海である。

乗り捨てしままの自転車海晩夏
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夏の果なる雲の峰

2020年08月29日 | slow life

大気が不安定である。
夜になって雷が鳴り一頻り降った。
これは「夜立」というのだろうか?
そんな言葉あったっけな?

そう思って「夕立」の語源が気になった。
でネットで調べてみた。
簡単に言うと以下の説があるらしい。

1.夕方に降るから夕立
2.夕方のように暗くなるから夕立
3.激しい雷雨のことを「彌降り立つ(いやふりたつ)雨」
と昔は言った。それが訛って「ゆふだち」に。

電子辞書の広辞苑には「朝立」の項に
朝方に降るにわか雨とあって、対の言葉に
夕立と示されている。
ということは1が正解なのだろうか?
ホトトギス歳時記には語源については書かれていない。
この言葉は万葉集の時代からあると云う。

さて、写真は阪神御影辺りの車内から
六甲山を望んで撮った一枚。
まだまだ衰えを知らない雲の峰である。
きっとこの下の町は夕立になるのだろう。

衰へを知らぬ勢や雲の峰
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首垂れし向日葵を見る百日紅

2020年08月28日 | slow value

あちこちの植込みで向日葵が首を垂れている。
この景を見ると晩夏だなあと感じてしまう。

首垂れし向日葵を見る百日紅我は問いたい生とは何ぞと

この短歌は2006年の日経歌壇に入選し掲載された
我が一首である。このときはまだ俳句を始めていない。

私はもともとは短歌党であった。
中学生の頃に国語の先生が朗々と諳んじた牧水の一首に
衝撃を受けてより短歌に嵌まってしまった。
中二のときに読売歌壇に応募して入選したことがある。
法師蝉で詠んだ一首であった。
今はどんな句だったかはっきり思い出せないが。
父がしばしその新聞の切り抜きを大事そうに
財布にしのばせていたのを覚えている。

その時の賞品として週刊読売半年分だったか?
無料購読券をいただいた。最寄りの読売新聞の
販売店に持って行ってしばしその週刊誌を
宅配してもらった。中学生にとって週刊読売なんて
何も嬉しくなかったのを覚えている。
読んでもさっぱり面白くないのである。
プレイボーイか平凡パンチなら良かったのに…。

さて、掲首の向日葵の一句は栗木京子先生に
採って頂いた。栗木先生は現代の歌人では
最も好きなお方である。俳句なら
向日葵と百日紅で季重なりになるのであるが
短歌では問題ない。

ときどきふと短歌を作りたくなるときがある。
俳句の切れと省略に費やしていると、正直時々
あの、あとの七七が無性に詠みたくなるときが
あるのだ。所謂、ないものねだりという心理
かもしれない。短距離ランナーがときどき
長距離を走りたくなる。そんな心境かな?
それに本業ではない気楽さもあるので
結構息抜きになるのかもしれない。念のため
決して短歌を甘く見ている訳ではないです。

観覧車回れよ回れ想ひ出は
君には一日我には一生(ひとよ)

この句がやはり栗木京子先生の代表歌かな?
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夏の名残り

2020年08月27日 | slow life

処暑も過ぎ、旧の七夕祭も終えた八月も
もう残りあと数日となった。
夏の名残りであるが日射に衰えは感じない。
むしろ今が盛りのよう。さながら
力の限り鳴き切る今生の蟬のようだ。

今年の夏は決算するようなものはない。
ほとんど家籠りの日々であったからだ。
コロナや熱中症に留意したからだろうか
例年に比べて体調をひどく崩すこともなく
この夏をやり過ごすことができた。
室内が多かった分、冷房にあたる時間が多く
ちょっと体がだるかったが。

例年なら秋は俳句の大会があちこちで
開催されるのであるが、今年は悉く中止。
こんな状態がいつまで続くのだろう?
二三年はつづくという人もいる。確かに
新型コロナの特効薬やワクチンが無い限り
症状は押さえることができないのだから
やはり二三年は覚悟しないといけない?
でも二三年という期間は、高齢者にとっては
十分余裕で待てる期間ではない。そのことが
今後の俳句界にどういう影響をもたらすのか?
それが気にかかるところである。
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落蟬

2020年08月26日 | slow life

晩夏のこの時期、ときどき空から蟬が
我が家のヴェランダにやってくる。
壁にぶち当たりながら、コンクリートに落ちる。
しばしばたついているのだが、やがて仰向けに
なったまま動かなくなる。まだ死んではいない。
それでも翌朝になって骸となっている蟬。
蟬の最期は死に場所を探して彷徨うのだろうか?
地上から這い出して来て、力の限りに鳴いて
一週間かそこらで最期を迎える蟬。
夏じゅう咲き続く木槿や百日紅に比べても
蝉は儚いものの象徴だ。
その最期もなんとなく哀愁を誘うのである。
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季題 七夕

2020年08月25日 | slow culture

今日、八月二十五日は旧の七夕です。
つまり陰暦七月七日です。ですから
七夕は秋の季題となっていますね。

五節句のひとつで、牽牛と織女が年一回
この日に逢うという伝説があります。
もともと七夕は夏と秋の交叉(ゆきあい)
の祭だったとか。

季題「七夕」の他に「星祭」と云う季題も。
星迎(ほしむかえ)、星合(ほしあい)
星の別(ほしのわかれ)、星今宵、星の夜
これらはみな七夕の傍題です。とても
ロマンチックな季題ですね。

さて、今宵はたとえ天の川が見えぬとも
夜空を見あげて、悠久の時に思いを馳せながら
一句詠んでみませんか?

星合の空に逝かれし人憶(おも)ふ
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処暑迎ふ

2020年08月23日 | slow life

八月二十三日は処暑。
処暑とは二十四節気の十四番目。
立秋と白露の間にある。夏の暑さが
一段落して落ち着く頃の意とある。
ネットで調べてみたら江戸時代に
暦について書かれた解説書「暦便覧」には
処暑について次のように記されているのだそうだ。
「陽気とどまりて、初めて退きやまむとすれば也」

処暑は台風の特異日でもあるらしい。
昔はこの二十四節気が農暦でもあった。
この日が来ればきっと台風に注意したのだろう。
またこの日は激しい夕立が降ることもあると。
そういえば一昨日も昨日も、空が昏くなり
神戸も結構な夕立に見舞われたのである。

今日は定例の句会が三ノ宮であった。
また夕立に見舞われるかなと思ったが。
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My Screen 「思い、思われ、ふり、ふられ」

2020年08月22日 | slow culture

晩夏の週末。コロナの影響もあり
永らくご無沙汰していたが、久しぶりに
映画を観にミント神戸へ行く。
コロナ禍の映画館は密を避けた席数である。
映画館というのはその構造からもとより
換気には十分な対策がしてあるらしい。だから
扉を開けるという必要はないのだそうだ。

観に行ったのは「思い、思われ、ふり、ふられ」
何でも咲坂伊緒の伝説的人気少女コミックの
青春三部作の最終章がこの映画の原作らしい。
簡単に言うと高校生の恋愛物語である。
同じ高校に通う美しく可愛い女子高生二人と
ハンサムでかっこいい男子高校生のちょっと
複雑な青春ラブストーリーだ。

何故この映画を観に行ったか?というと
この映画の撮影ロケ地が神戸なのである。
中でも主人公たちが通う高校の校舎が、実は
私の母校が撮影場所になっているのである。
(下駄箱のシーンなどは違う神戸の高校が
舞台になっているのだが…)

こうして映画でみる我が母校はレトロで美しい。
バス停から通称、地獄坂を登って門をくぐり
見える校舎のファサード。今でも当時の姿の
ままである。このシーンと校舎とグランドの間の
石の段差やグランドから見える神戸港の景。
思わず四十数年前にタイムスリップしてしまった。
そしてその所為でこの物語にまるで主人公のように
ついつい感情移入してしまったのである。

十代のあの頃、私の青春はどんなだったろうか?
映画の主人公たちは相手にちゃんと告白をした。
当時、私にも思いを寄せる同級生がいたのであるが
私はついに告白はできなかったなあ、なんて
思いながら映画のストーリーを追っていた。

こういう高校生の映画を観るのも、心の
センチメンタルジャーニーでもあるのだが
映画とは言え若い感性にインスパイアされることも
また作家としては大切な機会である。

この映画で出て来る撮影場所は以下の通り。
・トリトンカフェ
・元町ケーキ…女生徒のバイト先
・都賀川公園…冒頭の通学シーン
・北野町東公園
・大丸山公園…メイン舞台
・長田神社…祭の浴衣姿がグッド
・神戸高校…校舎とグランド
・啓明学院…下駄箱シーン
・神戸松陰女子大学…図書館シーン
・名谷駅東
・ココス名谷店
・学園東町西公園
・西神中央公園

◆鑑賞記
「思い、思われ、ふり、ふられ」
原作:咲坂伊緒
監督:三木孝浩
俳優:渡辺美波、北村匠海
このふたり“君の膵臓を食べたい”のコンビ
  :福本莉子、赤楚衛二
  :戸田菜穂(NHK俳句でお馴染み)
主題歌:
「115万キロのフィルム」
Official髭男dism
この主題歌なかなか秀逸です!
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八月の読書 海峡に立つ

2020年08月21日 | slow culture

私にとって読書とはいつも鞄にしのばせておくもの
といった位置づけである。読むジャンルも決めていない。
新聞や雑誌の書評やふと思いついた名作などを
ランダムに読む。しっかり読書タイムを取る
ということはない。基本通勤の行き帰りの車内で
読むことが多い。ときどき引き込まれると
夜を徹して読んでしまうことはたまにあるが…。

読み始めてぐぐっと惹きこまれてゆく本もあれば
もう何とか辛抱して読み進めるものもある。
このときは正直苦行である。結構苦しい。
途中で投げ出したくなるが最後まで読む。
最近ではぐぐっと嵌まったのは西東三鬼の「神戸・続神戸」
苦行だったのは「離人小説集」これはランボーも
出ているので面白そうだと思って読み始めたのだが
結構、文章が私レベルでは難易度が高かった。
それでもなんとか読破した。しかしそういう場合は
あまり内容が頭に残らないことが少し悲しい。

で、次に読んだのが今回取り上げるこの本である。
これはもう時間を忘れて一気に読み了えてしまった。
あのイトマン事件などで世間に知られた許永中氏の
十章からなる言うなれば自叙伝である。もともと
あの一連の経済事件から著者には興味があった。
経済界の大物、政治家、検察に弁護士、そして
右翼ややくざまでどんどん実名が出て来る。
それ故、迫真性があって思わず惹きこまれてしまう。
そこらの経済小説より遥かに面白い。
正に事実は小説より奇なりである。

それにしても人の人生というのは、生い立ちや
自身の性格や気性、そして出会いや環境というものが
複雑に絡み合って、その人の道となってゆくのだなあと
自分自身のことも鑑みてしみじみと思ったのであった。

◆海峡に立つー泥と血の我が人生ー 許 永中
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