平安夢柔話

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平 教経 ~「平家物語」が語り継ぐ勇猛果敢な武将

2011-08-17 20:02:58 | 歴史人物伝
 平家の人物の中で、私の好きな人物は平知盛、平重衡、そして、今から紹介する平教経です。

 ただ、教経について当ブログで紹介するのはこれが始めてではありません。

 2005年、その年に放映された大河ドラマ「義経」の感想を毎週連載していたのですが(もくじはこちら)、ドラマで教経が無視されてしまったことに納得が行かず、32回と35回の感想で特集を組んでいます。

 それで今回、教経について新しくページを作ろうと思った理由は、先日、gooブログのアクセスキャンペーン中に私のブログへの検索キーワードを調べたところ、「平教経」で検索をかけて見に来て下さる方がとても多いことがわかったからです。それに教経は大好きな人物ですから、過去に書いた記事の焼き直しで手抜きになってしまうかもしれないけれど、独立した人物伝のページがあってもいいかな?……とも思いました。

 では、平教経についてまとめてみます。

平 教経 たいらののりつね (1160?~1185)

 通称能登殿。平清盛の異母弟教盛の次男。つまり、清盛の甥に当たります。兄は平通盛(一ノ谷合戦で戦死)。

 彼は、元服したときの名は「国盛」といいました。

 国盛は仁安元年(1166)十月、憲仁親王(後の高倉天皇)の立太子に際し伯耆守に任じられました。この時、若年ながらすでに元服し、従五位下に叙されていたことが考えられます。

 仁安四年(1169)正月、任民部権大輔 止伯耆守。
 治承三年(1178)十一月、清盛のクーデターによる人事移動により、兄通盛が能登守から越前守に転じたことによって、そのあとをついで能登守に任じられています。彼の通称「能登殿」は、官職であるこの「能登守」に由来しています。なお、民部権大輔に任じられた仁安四年から能登守に任じられた治承三年の間に、「国盛」から「教経」と改名したと思われます。なのでここからは、「教経」と記述することにします。

 養和元年(1181)九月、加賀国で敗れた兄通盛の支援のため北陸道へ出陣しています。

 寿永二年(1183)七月、平家一門と共に都落ち、同八月六日、能登守を解任されます。なお同日には、都落ちをした平家の貴族たちは平時忠を除いてすべて解任されています。(なお、平時忠も八月十六日に権大納言を解任されています。)

 その年、教経は水島の合戦に従軍して大活躍をし、平家が再び力を盛り返すのに貢献しています。ただし、翌寿永三年(1184)二月の一ノ谷合戦では、義経の奇襲を真っ先に受けて敗戦し、そのまま船で屋島に逃れています。

 このように、教経は勇猛果敢な武将であり、合戦ではたびたび武功を挙げています。一ノ谷合戦は別ですが、ほとんど平家の負けが決まってしまったような戦においても、教経は最後まで全力で戦っていました。私は彼の魅力はこんな所にあるのだと感じます。

 さて、一ノ谷で大敗した平家は、讃岐の屋島に本拠地を置くのですが、一ノ谷合戦の約1年後、元暦二年(1185)二月に源義経によって奇襲攻撃をされ、敗走することとなります。

 この時の教経の動向について、「平家物語」巻十一「継信最期」に沿って、簡単に書かせていただきますね。

 「源氏の総大将はこの手で討つ!」と決心した教経は、義経に向かって弓矢を射かけました。しかし義経の前には伊勢三郎や佐藤継信・忠信がおり、なかなか命中しません。
けれども、この教経の放った矢の一本が佐藤継信を貫いたのでした。
 それを見ていた教経の童の菊王丸が、継信の首を取ろうとして走り寄ります。菊王丸は元々通盛の童だったのですが、通盛が一ノ谷で戦死した後に、教経が兄の形見だと考えて引き取ったのでした。
 駆け寄った菊王丸は、逆に継信の弟忠信の放った矢に射抜かれて倒れてしまいました。そこで教経は、左手で弓矢を持ち、右手で倒れた菊王丸を抱え込んで船に逃げ込んだのでした。菊王丸はやがて息絶えたといいます。兄の形見だと思って可愛がっていた童の死に気落ちした教経は、戦うことをやめてしまいました。

 このエピソードを読むと、教経という人はただ勇ましい武士と言うだけではなく、童の死に涙して戦いを辞めてしまうといった、情にもろくて人間味のある若者という感じがします。なのできっと郎党達からも慕われていたのではないでしょうか。

 なので、このような愛すべき武将が大河ドラマ「義経」で無視されてしまうなんて、どうしても納得がいかなかったです。

 ところが……、実は教経に関しては「一ノ谷で戦死した」という記録があるのです。「吾妻鏡」によると、教経は甲斐源氏の安田義定(源義家の弟義光の曾孫)に討ち取られたと記載されているのです。

なので大河ドラマ「義経」を好意的に見ると、「教経は一ノ谷で戦死した。」という説を採用して、この後の屋島や壇ノ浦には一切登場させない……というようにしたということなのでしょうか。

 これに関しては、「教経には双子の弟がいた。」。「屋島や壇ノ浦で活躍したのは教経とは別人だが、勇猛な教経の名前を出すことによって源氏側に圧力をかけた。」など様々な説があるようです。しかし最近では、「吾妻鏡」に記載されている教経戦死は誤報であり、彼は壇ノ浦合戦の日まで生きていた。」という説の方が有力になっているようです。

 と言うのは、藤原兼実の日記「玉葉」(1185)二月十九日条に、屋島での平家の動向が記述されているのですが、その文中に「教経者一定現存」という一文があることです。
「現存」という言葉は通常、生きているという意味なのですよね。

  また「醍醐寺雑事記」でも、壇ノ浦で自害した者の中に教経の名前があることから、彼が壇ノ浦合戦の日まで生きていたということは、ほぼ間違いないようです。

 では、「平家物語」巻十一、「能登殿最期」に描かれた、壇ノ浦での教経の活躍について書かせていただきたいと思います。

 壇ノ浦合戦が行われたのは、元暦二年(1185)三月二十四日のことでした。

 最初は平家が優勢でしたが、潮の流れが変わり、形勢はたちまち逆転します。

 そこで、これが最後だと思った教経は、弓矢で源氏の兵を傷つけ、射殺し、弓矢がなくなると太刀を持って敵陣に斬りかかっていきました。
 それを見た平知盛(清盛の子。壇ノ浦合戦にて、平家軍の指揮を取っていた。)は、「雑兵を相手にあまり罪作りなことをしないように。」と使者を通して教経に言ってきたのでした。
 それを聞いた教経は、「さては大将と組めということだな。」と思い込み(そのように思ってしまうところが教経らしくてほほえましくもありますが。)、敵陣の中を義経を捜し回ります。教経が自分を捜していることに気がついた義経も、組み敷かれてはたまらぬと思ったのか逃げ回っていました。
 そのうち教経は義経を見つけ、あわや一騎打ちということになったのですが、義経はさっと他の船に飛び移ったのでした。これが有名な「八艘飛び」です。

 義経を見失った教経はもはやこれまでと思ったのか、弓も太刀も海に投げ捨ててしまいました。そして、「我こそはと思う者は誰でもかかってこい。」と言います。
 すると、土佐の住人で安芸太郎という三十人力の者が、「我こそが…」と郎党一人を引き連れて教経に挑んできたのでした。そして太郎の弟の次郎も加わり、三人は一気に教経に襲いかかります。
 すると教経はまず、郎党を海に突き落としてしまいました。そして、太郎を左腕で、次郎を右腕で抱え込み、「我の死出の共をせよ!」と言って海に飛び込んだのでした。

 この教経最期の部分は、哀れさよりも勇猛な武将を感じさせて、何となくすがすがしい気持ちになります。

 この時教経は、26歳だったとも27歳だったとも言われています。彼の一生は短かったけれども、壮絶で激しく、それ以上に何かさわやかなものを私は感じてしまいます。彼の勇猛さは、「平家物語」によってこれからもずっと伝え続けられていくことでしょう。

☆参考文献
 平家物語を知る事典 日下力ほか 東京堂出版
 平家物語 ー日本古典文庫13 中山義秀訳 河出書房新社

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