平安夢柔話

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第63代 冷泉天皇

2008-04-18 10:32:04 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  950~1011
☆在位期間 967~969

☆両親
 父・村上天皇 母・藤原安子(藤原師輔女)

☆略歴

 名は憲平。天暦四年(950)五月、但馬守藤原遠規第にて、村上天皇の第二皇子として誕生しました。生後二ヶ月で親王宣下、間もなく皇太子に立てられます。外祖父師輔の力によるものと思われます

 実は、村上天皇にはすでに、第一皇子広平親王が誕生していました。そこで、広平親王の生母である更衣祐姫も、外祖父の中納言藤原元方(藤原南家)も、広平親王の立太子に期待していたのですが、憲平親王の立太子によってその望みが絶たれてしまいました。そのため元方は失意のうちに憤死、祐姫も康保四年(967)の村上天皇崩御に殉じて出家をしてしまいます。
 憲平親王は生まれつき身体が弱く、精神的に弱いところがあり、しばしば奇行なども見られたため、元方の怨霊のせいだとまことしやかに噂されました。

応和三年(963)元服。康保四年(967)五月践祚。六月には藤原実頼が関白に任ぜられたことにより、十余年行われてきた天皇親政に終止符が打たれます。十月、紫宸殿において即位します。しかし、安和二年(969)八月、譲位。わずか2年間の在位でした。

 退位した冷泉上皇は冷泉院を後院としますが、翌天禄元年(970)四月、冷泉院の焼亡により朱雀院に遷御。更にいつのころからか鴨院を御所としていましたが、長徳元年(995)正月の焼亡により東三条第に遷御。南院を御所とします。
 しかしここも寛弘三年(1006)十月に焼亡。この時、避難する際の車の中で神楽歌を歌っていたという記述が「大鏡」に載っています。同五年十二月、新造の東三条南院に遷御しますが、同八年十月、当院において崩御。享年六十二歳。何か、家事に明け暮れた不運な生涯ですよね。

陵は桜本陵。歌人としては『詞花』以下の勅撰集に四首入集し、家集『冷泉院御集』があったそうです。病気がちで奇行の多かった冷泉天皇ですが、歌を詠むことによって生き甲斐を見いだしていたのでしょうか。


☆父方の親族

祖父・醍醐天皇 祖母・藤原穏子(藤原基経女)

主なおじ
 朱雀天皇・克明親王・保明親王・重明親王・代明親王・有明親王・盛明親王・兼明親王(源 兼明)・源 高明

主なおば
 勤子内親王・雅子内親王・康子内親王・勧子内親王・英子内親王

主ないとこ
 昌子内親王(父は朱雀天皇)
 源 博雅(父は克明親王)
 慶頼王・熙子女王(父は保明親王)
 徽子女王(父は重明親王)
 源 重光・源 保光・源 延光・荘子女王・厳子女王・敬子女王(父は代明親王)
 源 忠清・源 泰清・藤原公季室(父は有明親王)
 源 伊陟(父は兼明親王)
 源 俊賢・源 経房・為平親王室・源 明子(父は源 高明)
 藤原高光・藤原為光・尋禅・愛宮(母は雅子内親王)
 深覚・藤原公季(母は康子内親王)


☆母方の親族

祖父・藤原師輔 祖母・藤原盛子(藤原経邦女)

主なおじ
 藤原伊尹・藤原兼通・藤原兼家・藤原高光・藤原為光・尋禅・深覚・藤原公季・藤原遠度

主なおば
 藤原登子・三の君(源 高明室)・愛宮

主ないとこ
 藤原挙賢・藤原義孝・藤原義懐・藤原懐子(父は藤原伊尹)
 藤原顕光・藤原朝光・藤原正光・藤原(女皇)子(父は藤原兼通)
 藤原道隆・藤原道兼・藤原道長・藤原道綱・藤原超子・藤原詮子(父は藤原兼家)
 昭平親王室(父は藤原高光)
 藤原誠信・藤原斎信・藤原公信・藤原道信・藤原(女氏)子(父は藤原為光)
 藤原実成・藤原義子(父は藤原公季)
 源 俊賢・為平親王室(母は三の君)
 源 経房・源 明子(母は愛宮)


☆主な兄弟姉妹とおい・めい

主な兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟)
 *広平親王 ○円融天皇 ○為平親王 *具平親王 *昭平親王

主な姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹)
 *規子内親王 *楽子内親王○輔子内親王 *盛子内親王 ○選子内親王

主なおいとめい
 一条天皇(父は円融天皇)
 源師房・隆姫女王・具平親王二女(敦康親王室)・(女専)子女王(以上 父は具平親王)
 源頼定・恭子女王(父は為平親王
 藤原重家・藤原元子(母は盛子内親王
 藤原公任室(父は昭平親王)


☆后妃と皇子・皇女

 昌子内親王(朱雀天皇皇女)

 藤原超子(藤原兼家女) → 居貞親王(三条天皇)・為尊親王・敦道親王・光子内親王

 藤原懐子(藤原伊尹女) → 師貞親王(花山天皇・尊子内親王・宗子内親王

 藤原付子(藤原師輔女) *付は実際は「付)に下心という字


☆末裔たち

 冷泉天皇の退位後は、同母弟の守平親王(円融天皇)が即位、円融退位後は冷泉天皇の第一皇子、師貞親王が花山天皇として即位しました。しかし花山天皇は、自分の孫である懐仁親王(円融天皇皇子)の1日も早い即位を画策する藤原兼家の謀略によってわずか2年で退位させられてしまいます。

 懐仁親王が一条天皇として即位する際、冷泉天皇第二皇子である居貞親王が皇太子に立てられました。しかし、25年待ってようやく三条天皇として即位した居貞親王ですが、自分の孫である敦成親王(一条天皇皇子)の一日も早い即位を熱望する藤原道長の嫌がらせによってわずか5年で退位を余儀なくされます。

 このように、天皇となった冷泉天皇の皇子たちは二人とも、藤原氏の圧迫によって退位させられた不運な天皇でした。

 一方、冷泉天皇の第四皇子、敦道親王は、歌人の和泉式部との間に男児を一人もうけます。彼は後に出家して永角と名乗りました。


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