『雪明り』を語り終えて、北原さんは作品周辺のことを語り始めた。
「『雪明り』はどうしても寒いときに語りたいと思っていまして、それには何処でやったらいいだろうかと悩みました。今日は大寒波襲来の日ですが、やっぱり島薗邸で良かったと思います。
この『雪明り』では“跳ぶこと”に思いを巡らしながら表現した積りです。藤沢周平さんという方は文字通り国民的作家で、私が彼を語るなんて到底出来ないのですが、どういう方か知りたくて、喋っているところを見ました。」(写真:「歴史への招待」に出演した藤沢周平。1978年)
「NHKの番組の「歴史への招待 四十七番目の義士」では寺坂吉右衛門を取り上げ、藤沢さんが出演していた。寺坂は四十七士の唯一の生き残り。彼については諸説あるが、身分は吉田忠左衛門の足軽であって、浅野内匠頭の部下ではない。彼の直接の主は吉田忠左衛門。藤沢さんはこれ以上は無いという慈しみをもって、彼は跳べない男だった、と語っていました。ご本人からこの言葉が語られたということは凄く大きい、と思いました。
この放送は1978年12月21日。『雪明り』が発表されたのは「小説現代4月号」で1976年。藤沢さんは『暗殺の年輪』で1973年に直木賞受賞。その後に会社を辞めて筆一本の作家生活に。その後『雪明り』を出筆。その頃から常識に対して己はどう生きるのか。自分らしく生きるにはどうすれば良いのか。そういった基本的・人間的なテーマが藤沢さんの中にあったのではなかろうかと思います」と語った。
1976年に『雪明り』で、世間の常識に背いてまでも大きな溝を越えて”跳んだ”主人公を描いた。
1978年の放送では、寺坂吉右衛門を”跳べない”男と表現していた。
跳んだ、跳べないは結果であって、大きな溝や高い壁を前に、跳ぼうか跳ぶまいか葛藤・逡巡し、苦悩する人間を、藤沢は描いたのだと私は思う。今手元にある『サライ2月号』では、”平凡でいい。ひたむきに生きよう”の後に「負の人生に注ぐ思いやり。運の悪さを抱えつつ懸命に生きる人々への共感」と書かれている。そこには藤沢自身の人生が、色濃く投影されている。
私の勝手な推測だが、北原さんはそのことも含め、上記「」内の赤文字の様に語ったのだと思う。
彼女の話は続く。
「昨年は藤沢さんの故郷山形県鶴岡市で上演することが出来ました。旧風間家住宅 「丙申堂」は重要文化財で、「蝉しぐれ」のロケ地。もう一本藤沢作品が撮られていて「必死剣鳥刺し」。若いころから無条件に大ファンの豊川悦司さんが主演。旧風間家の座敷をぶち抜いて公演をしましたが、そこで悦司さんがロケをしていた。もうどうしたら良いのかと思いました。
藤沢周平記念館にも行っ来ました。成人式を記念して著名人に共通の質問を投げかけていた。現代の二十歳になったらどう生きますか?に対して、藤沢さんはこう答えていました”又作家になります。変貌する農業を徹底的に書きます”と」(写真:「丙申堂」での北原さん)
追記。北原さんからのメールをヒントにDVD「四十七番目の義士」を借りてきて観た。寺坂は討ち入り前に逃亡したか否かについて二説ある。藤沢は逃亡説には立っていない。その後の、長すぎる人生50年。寺坂は泉岳寺とは別の曹渓寺に眠る。
今日の一葉(ホテルビレッジで見た氷柱)