まずは、前回のブログで書き忘れたことから。
職場での経験から、自前でレーザーポインターを購入し、当日に使用した。パソコン操作位置から移動することなく、やや暗い場所でも説明がスムースに出来た。良かった点に加えておきたい。(写真:右がレーザーポインター)
このブログには書かなかったが、「お話会」で語ったことが幾つかあった。
(1)会の4日前の1月27日(金)、六義園から白鬚橋付近の石浜神社まで“実踏”してきた。1775年9月15日にお殿様信鴻が目指した真崎は、隅田川沿岸の石浜神社より少し上流にあった。この日、お殿様はどのくらいの時間をかけて、どのくらいの距離を歩いたか知りたかった。信鴻の歩いたと思しき道は部分的には何度も歩いていたが、通しで石浜神社までは歩いていなかった。
そこで六義園→諏方神社→三島神社→石浜神社と歩き、万歩計を見ると12405歩。1歩を65Cmとして計算すると約8Km。往復で16Kmと推定した。要した時間は、出発が九半(午後1時)で帰家が五頃(午後8時)と書かれていたから、7時間。意外に遅い出で、暗くなってからの帰宅だった。
(2)真崎は広重の『江戸百景』の34景に「隅田川水神の森真崎」として登場してくる。隅田川に沿って築かれた向島の堤から対岸を見下ろしている。絵の右下に描かれているのが現在の隅田川神社で、左手に見える対岸が真崎。当時はこの辺り一帯は隅田川を見下ろせる景勝地だったらしい。正面が筑波山。この銅板が白鬚橋の袂に設置されている。(右が34景「隅田川水神の森真崎」)
(3)その付近にあったと思われる真崎稲荷神社は1926(大正15)年に石浜神社に併合されてしまった。実踏でまずは石浜神社を目指したのはそのためだ。27日に石浜神社に行ったときに、宮司さんに「真崎稲荷神社はどこにあるのですか」と聞くと「真崎さんは、この建物の端にあります」と指さされた。“さん”に象徴されるように同じ建物内にありながら、いまだに別の神社として存在していることが分かる。その前に立ち撮影した。千木を見ると石浜神社とは別個のものが造られていた。(真崎神社の千木。石浜神社のそれはその左側に別個にあった。下は”真崎稲荷神社”と書かれていた額)
(4)現在の動坂の上にあった赤目不動の地の変遷を時系列に沿って整理すると、次のような“波乱万丈”な歴史を有していた。
元和年間に赤目不堂が建てられた
1628年に南谷寺へ移転し目赤不動となった
赤目堂跡と呼ばれた地に、1793年日限(ひきぎり)地蔵が建てられた
1893年地蔵堂修理中に土器出現
それを記念する碑が建てられた
1985年日限地蔵は徳源院へ移転
記念碑は南谷寺と徳源院へ移転
(5)御行の松の絵が山本松谷によって描かれていた(右図)。芭蕉庵にも彼が描いた神田川の絵が掲げらている(下の図)。
今日の一葉(微かに紅富士)