マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

忍川を求めて(その2・佐竹商店街)

2017年07月27日 | 東京散歩

 721日には妻を誘い、二人で「佐竹商店街」と「おかず横丁」を歩いて来た。この時は都営大江戸線「新御徒町」で待ち合わせ。A2の出入口から地上に出ると直ぐそこが「佐竹商店街」の入口だった。








 この商店街は実にユニークだ。
 ここは、
江戸時代は出羽久保田藩20万石(藩主佐竹氏)の上屋敷だった。明治になって上屋敷や周りの武家屋敷は撤去され、“佐竹ヶ原”と呼ばれるほど荒れ放題だった時期もあった。その後、見世物小屋が集中して賑わうようになり、明治半ばからは民家が立ち並び、商店街も形成されるようになった。大正初期には戸数3813戸、人口12034名にまで膨張、下町佐竹の名は東京中に響きわたり、明治から大正時代にかけての黄金時代を築き上げていったとか。存じませんでした。

     

 江戸時代の地図に現代の地図を重ね合わせると面白い。屋敷の真ん中に商店街の道路が南北に奔っている様になる。(右図)。アーケードになっているのは武蔵小山商店街などと同じだが、アーケードの天井から下がる垂れ幕でいろいろの事実を知った。「佐竹商店街は日本で2番目に古い商店街です」とある。1番古い商店街は金沢の片町商店街で、そこに続いて明治31年に商店街組合を結成したそうだ。
 
「のどの薬龍角散は秋田佐竹家の家伝薬だった」ともある。商店街の名前に“佐竹”を使用したり、佐竹家伝薬を登場させたりで、ここの人々の“佐竹家”への愛着が伝わって来る。
 「夏目漱石は東上野で小学校時代を過ごした」とか「樋口一葉は下谷御徒町に住んだことがある」、「佐竹に明治時代見世物の大仏があった」などの垂れ幕も見える。こちらは御愛嬌か。

 
       (大正時代の商店街)

 昭和レトルト調の雰囲気の漂う店構えが多い。飲み屋さんもちらほら。残念ながら閉店してしまった店も見受けられる。布鞄工房HOSONOには立ち寄ってみた。買いたくなるような商品が多数。
 
  


 私達がそこを歩いたのは16時くらいなので、街が賑わう時間にはやや早すぎた感がある。私的には一杯引っかけたいのだが、お酒が飲めなくなった妻はケーキ屋さんや珈琲店志向。この日は猛暑日だったので喉が渇き、佐竹商店街を出てから“かき氷250円”の張り紙に惹かれて
和菓子屋「東洋庵」に寄った。そこの店主と話し込んだ。昭和13年生まれの店主曰く「ここは忍川が流れていました。その先が三味線堀でね」。昭和13年生まれというから、その頃には忍川も三味線堀も既に無い。親から繁栄の話を聞かされてきたのだろう。
   
        
  (頭が痛くならない、粉雪のようなかき氷)

 そのときに、佐竹商店街と三味線堀が結びついた。鳥越川を堀り広げて三味線堀を造ったのは佐竹商店街へ物資を運ぶ目的ではなかったかと。
(写真:三味線堀の絵。左側が佐竹商店街とのこと)
 
 帰路は大江戸線を1駅歩いて上野御徒町へ。吉池に寄って魚物を購入して帰って来た。次回は夜の佐竹商店街を歩いてみたい。


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