マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

雪国越後の豪雪と水害

2017年08月08日 | 自然

 清津峡では1984年に大規模な雪崩が発生し、5人の方が亡くなった。その時から遡ること49年前には、越後湯沢の大源太川(魚野川)が大氾濫し、田畑の冠水は 600町歩に及び、収穫直前の稲作が大量に全滅した。土砂災害も甚大だった。大源太キャニオン砂防堰堤が建設される端緒となった。今回の山旅で初めてそのことを知った。(写真:東洋のグランドキャニオンと呼ばれている大源太山)
 大源太キャニオンの存在を知る人はそう多くないだろう。谷川岳から巻機山へと、北に伸びる稜線の一端に大源太山がある。そこから流れ出た水流は大源太川と呼ばれ、その後魚野川本流に合流する。1935(昭和10)年9月25日にその大源太川が氾濫し「魚沼大水害」が発生した。文藝春秋に『雪国』が発表された年である。



 その災害からの復興をも目指し、大源太川には3基の砂防堰堤が計画され、第1号砂防堰堤は1939(昭和14)年に竣工。わが国におけるアーチ式砂防堰堤の先駆として、2003(平成15)年には登録有形文化財に指定された。(写真:第1号砂防堰堤)









   
                          (古い写真より)

以下は帰京後ネットで学んだことである。
 『大源太川第1号砂防堰堤付近がリゾート施設として使用されはじめたのは、第二次世界大戦終了後アメリカ軍が湯沢町に進駐し、砂防堰堤の暗渠を閉塞し、水を貯留させてボート遊び場として利用したことに始まるといわれています。(写真:現在の大源太湖の図)
 アメリカ軍が撤収してから暫く後の昭和48年、当砂防堰堤の堆砂地上流端付近の段丘上に青少年旅行村が設置されたことにより、夏場のキャンプ場として多くの人々が訪れるようになり、「大源太キャニオン」として有名になりました』
 私達はその大源太湖の遊歩道を一周し、砂防堰堤が改修中であることを知り、実際に砂防堰堤を見ることも出来た。流麗な線形と美しい石積みの堤だった。湖ではカヌーの訓練をする一団が見られた。

 一方「清津峡」で発生した雪崩の凄さについては、パノラマステーションのガイドさんから話を聞いた。清津館の反対側の斜面から落下して来た雪崩は鞍部でバウンドし、こちら側に乗り上げ、清津館を押し潰した。いわゆる表層雪崩である。その事故で現大女将と息子さんのひとりのみが一命をとり止めた。息子さんは事故発生9時間後に発見されたそうな。清津館第3代当主である。(写真:V字谷であることが良く分かる)
 冬ともなれば清津峡は雪に閉ざされる。積雪は川面から30mはあろうかというステーション入口まで侵入する。トンネル内にラッセル車が置かれていた理由が理解出来た。
 数百年万年前、ここは海底だった。海底火山が噴火し、マグマが流れ出し固まった。その後海底が隆起し、固まったマグマは雨と川により浸食され、V谷が形成され、柱状節理が露出した。清津峡の今の姿への変化を象徴的に示す写真も展示されていた。(下の写真はパノラマステーションの積雪の様子)
 天からは雪と雨。海底からの噴火。越後でも大自然の猛威の痕跡が多々見受けられたのでありました。


  
 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。