マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

第3回中山道行 和田峠を過ぎて

2019年03月01日 | 

 11月4日(日)12時少し前に和田峠を越えると、そこからは急な下りだった。和田村から下諏訪町へと行政主体が変わると道標も変化した。右写真に見る如く下諏訪宿までの距離が11.5Kmと表示され、昇って来る人からは和田峠までの距離が、下る旅人には下諏訪宿までの道のりが分かるようになっている。この道標が400m間隔で設置されていて大変歩き易かった。
  



 峠を下り出して程なく「浪人塚」が現れた。「元治元(1864)年11月20日、水戸浪士の一行千余人勤王の志をとげようと和田峠を越えてきた」と書かれていた。京都への進軍を阻止しようとする諏訪高島藩・松本藩との間で激戦が起こり、ここで討ち死にした水戸藩浪士を葬り、桜を植え墓碑が建てられているともあった。ここにその名は書かれてはいないが、水戸天狗党のことだ。墓はここの塚から少し離れたところにあるが立ち寄りはしなかった。




 かつて、読み始めた『魔群の通過』(著:山田風太郎)は内容が暗すぎて途中で読み進めなくなってしまった。今ページを開くと、この戦いでの水戸浪士側は戦死者10余名、手負い百余人を出したとある。多くの犠牲を払いながらここを突破した。天狗党は望月宿から中山道に入り、北陸方面へと進路変更を余儀なくされた鵜沼まで中山道を進んだ。私達3人の中山道行は、これから先何度か天狗党の痕跡に出合うかも知れない。








 諏訪高島藩・松本藩の両藩が陣を張ったが樋橋村。
 更に下るとその樋橋村に着いた。「樋橋村今と昔」には天狗党との戦いだけでなく皇女和宮降嫁のことも書かれていた。お通り4万人とあるが本当だろうか?ここまでの中山道行で何度となく登場して来た和宮。本陣にはその和歌が残されているとのこと。和宮降嫁から「和田嶺合戦」までは僅か3年、ここ和田峠付近には幕末の歴史が密度濃く残されていた。

 『中山道 浪漫の旅』には和宮が詠まれた歌2首が、詠まれた場所不明ながら紹介されている。
 「住み馴れし都路出でて今日いく日 急ぐも辛き東路の旅」(文久元年。1861年)
 2年後の文久三(1863)年、将軍家茂の誠実さに引かれ「惜しまじな君と民とのためならば 身は武蔵野の露の消ゆとも」と心境は著しく変化していった。
 


 街道は国道142号線と交差し始め、国道と国道から逸れた旧道を交互に歩くことが続き、唐突に、御柱で名高い「木落し坂」が現れた。そこにはガイドさんがいて、木落しの様子が説明され木遣が披露された。木落し坂の上から下を覗くと真っ逆さまに落ちて行くよう感覚で、テレビで何度か見た木落し坂がこんなにも急となものとは知らなかった。
  

    
 日没前の16時には下諏訪本陣着。諏訪大社お参りは来年に回して下諏訪駅へ急いだ。上諏訪駅脇の飲み屋でお疲れ様会。高速バスでバスタ新宿に着いたのが21時を過ぎていた。かかくして第3回中山道行は終了した。

 
 



 
 


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