マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

遠山郷で埋没林に出会う

2014年11月06日 | 

 10月20日(月)から21日(火)にかけて、私たちが遠山郷和田宿に滞在していた時の話である。
 8月にこの地に一泊した私は、その時の散策で、和田宿の大凡の地理を学習していた。初めてここを訪れた妻を、遠山城や観音銘水に案内しようと散策開始してすぐ「南信濃自治振興センター」という建物の前に差しかかった。建物前には、幹周りこそ太いが、朽ち果てた様な丸太が展示され”埋没林”と表示されていた。
 これは何んだろうと、やや野次馬気分で入館した私たちは、地下階に展示されている内容と埋没大木を見て驚いた。そこには、西暦714年の「遠山大地変」によって発生した災害内容と、その際に
埋もれた大木が展示されていたのだ。(写真:展示されていた埋没大木)




 実は、構造線上の破砕帯にあるゆえ、遠山郷は過去に幾たびか、地震や大洪水によって山が崩れ落ち、土石流に見舞われ、村や里は大きな災害を被ってきたそうな。分けても714年に起きた「遠江地震」の影響は甚大だった。2003(平成15)年の土木工事の際発見された”埋没林”を詳しく調べ、年代測定をすると、これらが埋没したのは714年と推定された。(写真:埋没林)

 以下展示内容とネット記述を統合すると、
 ①『続日本紀』には、霊亀元年(西暦715)年に、 「山崩れ天竜川を塞ぐ、数十日を経て決壊し、敷智、長下、石田の三郡、民家170余区を没し、あわせて苗を損ず」 とある。
 ②
『日本略記』にも同じ年に 「遠江の国で地震が起き、土砂が崩れて麁玉河(天竜川の古名)の水が堰き止められ流れなくなった」 と書かれている。
 ③『扶桑略記』はこの災害を和銅7年(西暦714年)の出来事とし、記されている内容は他の史料と一致している。
 文献上は地震の起こった年に1年の差異はあるが、年代測定を踏まえるならば③説714年が正しく、塞がれた川も天竜川ではなく遠山川と考えるべき、と結論されていた。

 2003年の埋没林の調査にあたった伊那谷埋没木研究所の寺岡義治氏は、当時の遠山川災害の様子を次のように想像している。
 『地震か
ら数十日が経った頃、大堰堤の決壊が始まり、現在の漆平島から大島にかけて巨石を交えた土石流が押し出し、下流域の遠江では突然の大洪水となり、田畑や民家の流失被害は都にも報じられました。
 池口から遠山川に押し出す土砂は冬まで続き、堰き止められた川沿いの森林は水没しました。秋の台風には洪水によって上流から地震のときに崩れていたヒノキやケヤキ等の巨木が大量に流され、水没した森林の立木の至るところに堰をつくり、漆平島から大島にかけては押し出された土砂が徐々に嵩上げされて、広い扇状地を残しました』と。

 714年に発生した土石流により、1300年弱もの間埋もれたままだった大木が、ここ「自治振興センター」の地下に展示されていたのだ。過去の大惨事を忘れまいとして残された埋没林等々のモニュメント、私たちは忘れてしまいがちだが、私は忘れないようにしたい。案内をしてくれた方の名前は遠山さん。こちらの名前も忘れはしないだろう。
 建物の外に出ると、多くを象徴するかの様に、大木が建物を支えていた。(写真:自治振興センター)
 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。